142ー「寒山拾得」(1907・明治40年)
寒山・拾得とは中国の伝説上の仙人。
天台山国清寺の禅師は山中で捨て子を拾い、
拾得と名付けて寺小僧として使っていた。
その頃、近くの寒巌という洞穴に、
寒山という乞食が住んでおり、国清寺に来ては
拾得から残飯を貰い、仲良く遊んでいた。
ある時、台州の国守がこの二人を見て、文殊・普賢菩薩の化身と悟り、
二人を崇めたという。
作詞は坪内逍遥。
『ここに寒巌に居して
既に経たる幾何年
棲遅して観自在なり
時に歌曲を口ずさんで
世の憂きふしは白雪の
寂々たるたたずまい
石を枕に芝草を
いつも敷き寝のつれづれは
古き仏の書を友』
●ここ、寒巌に住んでもう何年が経っただろうか。
浮き世を離れた暮らしは自在気まま、
時に歌を詠み、世渡りのつらさ悲しさとは無縁の住まい。
石の枕に草のふとん、退屈な時には
昔の聖の書いた書を読むのさ。
大隅半島、志布志市の大慈寺にある「寒山拾得」の軸絵。
寒山・拾得とは中国の伝説上の仙人。
天台山国清寺の禅師は山中で捨て子を拾い、
拾得と名付けて寺小僧として使っていた。
その頃、近くの寒巌という洞穴に、
寒山という乞食が住んでおり、国清寺に来ては
拾得から残飯を貰い、仲良く遊んでいた。
ある時、台州の国守がこの二人を見て、文殊・普賢菩薩の化身と悟り、
二人を崇めたという。
作詞は坪内逍遥。
『ここに寒巌に居して
既に経たる幾何年
棲遅して観自在なり
時に歌曲を口ずさんで
世の憂きふしは白雪の
寂々たるたたずまい
石を枕に芝草を
いつも敷き寝のつれづれは
古き仏の書を友』
●ここ、寒巌に住んでもう何年が経っただろうか。
浮き世を離れた暮らしは自在気まま、
時に歌を詠み、世渡りのつらさ悲しさとは無縁の住まい。
石の枕に草のふとん、退屈な時には
昔の聖の書いた書を読むのさ。
大隅半島、志布志市の大慈寺にある「寒山拾得」の軸絵。
140ー「虎狩」(1878・明治11年)
近松門左衛門作の『国性爺合戦』の二段目切、
「千里ヶ竹」を長唄に写したのが、この曲。
日本人の母と中国人の父の間に生まれた、
和唐内(わとうない・和でも唐でもないという洒落)
が、明国再興のために中国に渡り敵を倒す、という話。
虎狩りで唐人をこてんぱんにやっつけた和唐内は、
「子分にしてやるから名を日本風に改めろ」と迫る。
『名も日本に改めて
何右衛門 何兵衛と
めんめんが国処を頭字に名乗り
二列に揃えてぼったてろ
チャック忠左衛門 カボチャ衛門
ルスン兵衛 トンキン兵衛
ホルナン四郎 ホルナン五郎
スンキチ九郎 ジャガタラ兵衛
サントメ八郎 イギリス平』
ここまでふざけ倒すと気持ちがいい。
〓 〓 〓
tea breaku・海中百景
photo by 和尚
近松門左衛門作の『国性爺合戦』の二段目切、
「千里ヶ竹」を長唄に写したのが、この曲。
日本人の母と中国人の父の間に生まれた、
和唐内(わとうない・和でも唐でもないという洒落)
が、明国再興のために中国に渡り敵を倒す、という話。
虎狩りで唐人をこてんぱんにやっつけた和唐内は、
「子分にしてやるから名を日本風に改めろ」と迫る。
『名も日本に改めて
何右衛門 何兵衛と
めんめんが国処を頭字に名乗り
二列に揃えてぼったてろ
チャック忠左衛門 カボチャ衛門
ルスン兵衛 トンキン兵衛
ホルナン四郎 ホルナン五郎
スンキチ九郎 ジャガタラ兵衛
サントメ八郎 イギリス平』
ここまでふざけ倒すと気持ちがいい。
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tea breaku・海中百景
photo by 和尚
139ー「松の翁」(1877・明治10年)
駿河の国富士駅に、本陣を張る松永家の豪邸があった。
本来、本陣は大名や旗本、勅使などをお泊めする家で、
一般の者には縁のない場所だった。
ところが、明治維新で参勤交代が無くなると、本陣としての機能は消滅した。
その後は一般の人にも開放したのだろうか、
富士を借景とする、松永家の見事な庭園は旅人の間でもつとに有名で、
見物に立ち寄る者も多かったとみえる。
『四季の眺めも時知らぬ
雪は芙蓉の峰続き
行き交う旅の人毎に
聞き伝え来つ 名に愛でて
見れば珍花に家路を忘れ
筆も尽きせじ 庭の絶景』
●富士の山と峰続きの、このすばらしい庭には、
四季折々に珍しい草花が咲き乱れる。
行き交う旅人がみな絶賛するこの庭に来てみれば、
あまりにも手入れの行き届いた、見事な絶景に思わず時を忘れてしまう。
西南戦争と新富座の工事で、仕事のできない杵屋正次郎(3世)は、
旅の途中、この屋敷に立ち寄った。
長唄好きの主に、一宿一飯のお礼にと作ったのがこの曲。
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tea breaku・海中百景
photo by 和尚
駿河の国富士駅に、本陣を張る松永家の豪邸があった。
本来、本陣は大名や旗本、勅使などをお泊めする家で、
一般の者には縁のない場所だった。
ところが、明治維新で参勤交代が無くなると、本陣としての機能は消滅した。
その後は一般の人にも開放したのだろうか、
富士を借景とする、松永家の見事な庭園は旅人の間でもつとに有名で、
見物に立ち寄る者も多かったとみえる。
『四季の眺めも時知らぬ
雪は芙蓉の峰続き
行き交う旅の人毎に
聞き伝え来つ 名に愛でて
見れば珍花に家路を忘れ
筆も尽きせじ 庭の絶景』
●富士の山と峰続きの、このすばらしい庭には、
四季折々に珍しい草花が咲き乱れる。
行き交う旅人がみな絶賛するこの庭に来てみれば、
あまりにも手入れの行き届いた、見事な絶景に思わず時を忘れてしまう。
西南戦争と新富座の工事で、仕事のできない杵屋正次郎(3世)は、
旅の途中、この屋敷に立ち寄った。
長唄好きの主に、一宿一飯のお礼にと作ったのがこの曲。
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tea breaku・海中百景
photo by 和尚