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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

花魁

2025-02-03 | よもやま話 (c)yuri saionji
散茶店が評判になるにつれ、揚屋で遊ぶ客は減っていく。
追い打ちをかけたのが奢侈禁止令で、
ついに大名・旗本の遊里遊びに禁制が出た(1693・元禄6年)。
こうなると自然淘汰で太夫・格子・揚屋が絶滅し(1758・宝暦8年)、
引手茶屋全盛の時代に突入する。
蔦重の時代には、吉原中之町の両サイドに百件以上の茶屋が立ち並んだ。

太夫・格子が消えたので散茶が最上級の遊女に繰り上がり、
呼出し・昼三(ちゅうさん)・付廻しの3ランクに細分化した。
もちろん付廻し以下も、最下級の局女郎まで細かくランクは分かれているが
(値段によって遊べる女郎が選べるという采配でもある)、
上位3ランクあたりを花魁(おいらん)といった。
「べらぼう」の花の井は大見世、松葉屋の売れっ子花魁という設定だ。

   右が大門、真ん中の道が仲之町。
   仲之町沿いに縦書きの文字で書かれているのが引手茶屋。
   その下にある家紋付きの屋号が遊女屋だ。
   花魁は店には出ず、禿や新蔵を連れて茶屋まで予約客を迎えに行く。
   その行き帰りを道中という。
   
   
   
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べらぼう 散茶

2025-01-31 | よもやま話 (c)yuri saionji
市中の湯女風呂は収まったかに見えたのだが、またぞろ復活。
お上は警動(不意打ち)により、抱え主ともども湯女500人以上を吉原に送った(1665・寛文5年)。
あまりの人数のため、伏見町と堺町が新設され、
彼女たちは太夫・格子に次ぐランクに置かれ、散茶(散茶)と呼ばれた。

湯女と一蓮托生で吉原送りとなった湯女風呂屋の主人たちは
そこに風呂屋風の店を構え、
外から遊女がよく見えるように、隙間の広い大格子をはめた。
そして入り口の奥に番台のようなものを造り、
妓夫(ぎふ)という客引きの男を座らせた。
客は妓夫と直接交渉してそのまま二階に上がり、遊ぶことができる。
茶屋を通さなくてもいいのだから、その分安い。
散茶店のやり方は吉原ではひんしゅくものだったに違いないが、
客層が武士や大名から経済力を持つ町人階級に移っていく時代においては
客の心理を読んだ巧いやり方だったのだろう。


  右奥に妓夫の座った番台が見える。
  品定めをする客がふたり、奴が後に控えている。
  格子の中にいるのは散茶女郎だ。
  通りを歩くのは奴を連れた武士に、禿・遣り手を連れた遊女。
   


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べらぼう 新吉原

2025-01-29 | よもやま話 (c)yuri saionji
勝山らが吉原に移ると、彼女たち目当ての客も皆
神田から葺屋町(人形町)に河岸を変えた。
今や江戸の中心地となった葺屋町に
侠客や町奴どもがうようよ集まるようでは風紀上よくない、という理由で、
お上は吉原に江戸の外れ浅草千束村への強制移転を命じた。
 
ここは田んぼの中で湿地帯だ。
土地を埋め立て整地して新規開業したのが1657(明暦3)年の夏。
以来ここを新吉原といい、以前の吉原を元吉原というようになった。
べらぼうの舞台は当然新吉原で、しかも開基100年後ということになる。

   新吉原の図。
   日本堤を左に折れ、カーブした五十間道を進むと大門に突き当たる。
   蔦重の茶屋は大門手前にあった。
   



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べらぼう 勝山

2025-01-28 | よもやま話 (c)yuri saionji
一世を風靡する湯女風呂からスーパースターが誕生する。
神田紀伊國屋風呂の勝山だ。
ある日、勝山を取り合って旗本奴・町奴などが入り混じって大乱闘が起きた。
この一件で紀伊國屋風呂はお取り潰し、
夜間営業が禁止され夕方6時で終業。
さらに一軒の湯屋に湯女は3人までという厳しいお裁きとなった。
それでもこの頃江戸には200軒もの湯女風呂があったのだから、
取り締まるにも限度がある。

捕えられた女、つまり私娼は公認の吉原に送られる。
そして妓楼の主人によって落札され、刑罰として3年間の無給労働が課せられる。
落札金は幕府に入り、当人には一切入らない。

勝山も吉原に送られたが、いきなりの太夫職で遊女たちに色々な影響を与えた。
奴気質の勝山は道中の足運びも、従来の内八文字とは真逆の外八文字を踏み、
ついにはそれが吉原中を席巻、内八文字が消滅した。
また勝山髷という、髷を大きく輪にした独特の髪型は吉原だけではなく、
一般庶民の間にも流行する。

京風を旨とした吉原の遊女気質は、
勝山によって「張りと意気地」へと転換するのだ。

  勝山髷
  

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べらぼう・湯女風呂

2025-01-27 | よもやま話 (c)yuri saionji
NHKの「べらぼう」では吉原に来る客が少ないから何とかせねば、
ということで蔦重が吉原細見の刷新に奔走するという筋書きになっている。

なぜ吉原に客が来なくなったか。
これはそれまでの吉原の顧客だった大名や武士などが経済力を失い、
金と手間ののかかる吉原にはおいそれと行けなくなったからだ。
追い打ちをかけたのが、吉原の夜間営業禁止だ(1640・寛永17年)。
変わって俄かに活気付いてきたのが湯女風呂だ。
町中に溢れたが、中でも麹町・神田・湯島・下谷などの武家屋敷町に多くあった。
なぜなら武士には門限(夕方6時)があり、外泊も禁じられていたから、
屋敷の近くに店があるのはありがたい。

湯女風呂は朝から夕方までは通常の風呂屋営業で、
夕方からは湯女が湯女遊女となり、吉原もどきの営業になる。
酒や料理を出し、三味線を弾いて唄ったり踊ったりする。
それで6000円くらいから遊べるのだから、
流行らないわけがない。
吉原はさびれ、仲の町に草が生え、軒に蔦が下がったという。
暇を持て余した遊女が湯女風呂にバイトに行ったという嘘のような話もある。

   風呂上がりの男の髪を結う湯女遊女。
   奥の座敷では宴席で三味線を弾く湯女遊女が見える。
   



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