西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

合掌

2011-09-30 | プライベート
また一人、
大切な大切な人を亡くしてしまいました。

自分がそんな年になったとはいえ、
次々と私の周りから、大事な人がいなくなってしまいます。

これが人間というものでしょうが、
切ないですね。

ご病気でしばらく入院なさっていたのですが、
お見舞いに伺うといつもにこにこと穏やかで、
順調に回復なさっているという感じでしたのに…

なんの虫の知らせもなく、
逝ってしまわれました。






田中正平 その4

2011-09-29 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
田中正平 その4


東京音楽学校校長就任を依頼された田中は、
邦楽科設置にあたっては雅楽から清元、新内まで
広く邦楽全般の科を理想とした。

しかし、これは予算的に不可能ということで、拒否された。
田中は校長就任を断り、とりあえず
謡曲・箏曲・長唄の調査研究を進めることにした。

やはりいきなり邦楽全般、というのは時代的に無理があったか。

この年、田中の邦楽研究所に入って来たのが、
帝国大学大学院の学生、田辺尚雄だ。

田辺は物理学、音響学を専攻している。
そして田中の研究所で長唄、日本舞踊などを学ぶのだ。


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tea break・海中百景
photo by 和尚

田中正平 その3

2011-09-28 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
田中正平 その3


田中は1907年(明治40年)7月、「美音倶楽部」を設立した。

月例の邦楽・邦舞鑑賞会で、
資金は大倉財閥総帥の大倉喜八郎や
演劇評論家の幸堂得知らが出す。
「美音倶楽部」は、田中の研究も兼ねるのだ。

同じ年の秋、東京音楽学校に「邦楽調査掛」が設置された。

「西洋音楽ばかりやっていていいのか」、
と明治天皇に直訴した平曲家、館山漸之進に押され、
文部省が動いた形だ。

その長に任命されたのが、田中。

まさに適材適所。
田中は「邦楽研究所」での仕事の延長で、
五線譜採譜、録音に取りかかった。

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tea break・海中百景
photo by 和尚

田中正平 その2

2011-09-27 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
田中正平 その2


東京音楽学校の現状を知った田中は、
「国がやらないのなら俺がやる!」
と、自宅に「邦楽研究所」を開き(1905・明治38年)、
淡路島から上京したばかりの書生、山田舜平らを助手にして、
河東節や長唄の五線譜採譜を開始した。

田中は15年もドイツで暮らしたのに、少しも西洋かぶれせず、
むしろ逆に、日本音楽を渇望し続けていたのかもしれない、
当時としてはまことに奇特なインテリだ。

このころ蓄音機はあるにはあったが、まだまだ普及しておらず、
生音を聴いて採譜する以外に方法はない。

山田は、直ちに研精会の吉住小三郎に入門。
稽古場に詰め、稽古をつける師の節を五線譜に採り始めた。

これが後に“研譜”といわれる数字譜に発展するのだが、
山田はよほど几帳面な性格だったとみえる。
小三郎の節が微に入り細に入り記録されている。


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tea break・海中百景
photo by 和尚



田中正平 その1

2011-09-26 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
田中正平 その1


1899年(明治32)、東京音楽学校が,
東京高等師範学校から分離独立。

だが、発足当初伊沢の掲げた「和洋折衷の国楽」の志はどこかへ霧散し、
今やドイツ音楽一辺倒の学校となってしまった。
邦楽の調査研究などは、完全に忘れ去られた形だ。

それを憂いたのが、
15年間のドイツ留学から帰ったばかりの音響学者田中正平。

田中は淡路島に生まれ、東京帝国大学理学部を主席で卒業。
23才で、文部省代表としてドイツに留学。
ヘルムホルツのもとで音響学を研究し、
世界で初めて純正調オルガンを完成させた人物(1890・明治23年)。


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tea break・海中百景
photo by 和尚