天皇陛下の傘寿を記念して行われている、秋季皇居乾通り一般公開へ行ってきた。
(入門)坂下門 →宮内庁庁舎前 →乾通り →西桔橋 →東御苑 →大手門(退出)
12月3~7日までの5日間開催されるが、3~5日までの3日間で約万人が訪れ、
6日(土)は約.万人の人出確かに、・・で埋め尽くされていた。
:"kitte”
9:45 東京駅前kitte(丸の内南口)ここから徒歩スタートです。
日比谷通りから和田倉門を直進すれば坂下門はすぐですが、今日はぐるっと回されます。
:馬場先門
馬場先門で日比谷通り~内堀通りへ
:坂下門
坂下門を前に待ちます(このさきで荷物チェックとボデーチェックがある)
:二重橋
やっとチェックヶ所に向かって進み始めます。
:坂下門
10:40 坂下門から入場です。(約60分かかった)
警視庁、皇宮警察、宮内庁職員の方々も休日出勤でしょうか?ご苦労様です。
入場しました、中はゆったりしています。
:宮内庁庁舎
「天皇陛下も中から庭を眺めていた」との報道がありました。
:トウカエデ
トウカエデ:多かった木の一つです、「黄葉」真っ盛りといったところでしょうか。
:桜の紅葉(2枚)
紅葉です (クリックしてご覧ください)
桜・モミジ・トウカエデ・マツの奏でるコラボレーションです。
「局門」と黄葉です。
これだけ落葉を溜めちゃうと掃除も不可能だ。
「乾通り」道幅も狭くなるので、この通り・・・・・。
:蓮池濠
「乾通り」を離れ、蓮池濠を西桔(にしはね)橋で渡り東御苑へ向かいます。
人の列が続きます。(左側が坂下門方面)
:乾濠
乾門へ向かう人の列(乾濠です)
:石垣と紅葉
:ヤブツバキ
:天守台
江戸城天守閣は、三度建て替えられたが、1657年(明暦3年=四代将軍綱吉の時代)の
大火で焼失した後は、天守閣石垣が築き直されただけで、再建されずに現在にいたっている。
その大火によって焼け野原となった江戸の復興を優先した幕府は天守閣の復元を断念。
その後も財政不足などで復元に至らないまま明治を迎えた。
明暦の大火後は本丸南端の「富士見櫓」を天守閣の代用としていた。
(東御苑パンフより、加筆した)
東御苑(一般公開されている)桜も楽しめそうだ。
:冬の芙蓉
紅葉も楽しめます。
ツワブキがわがもの顔で咲き誇っていました。
図鑑でしか見たことがない木や花が見られました。(野草の島にて)
:ミヤマウグイスカズラ :ムラサキシキブ :ネジキ
:ミツマタ :コマユミ :ゴンズイ
:中雀門跡
:大番所
専門家の貼った障子はさすがだった。
↓ ↓ ↓ (の電池消耗で記録なし、少し飛びます)
大手門を出て東京駅へ戻る、銀杏が快晴の空に映えていた。
後片付けも大変だ(もちろんセッテングも)
東京駅へ戻ってきました。
人も多かったし、紅葉も時期的には過ぎていたが、限られた時期にしか入れない
場所を見たことはやはり貴重な時間だった。
春にもあったが、桜の木も数多くあるので惜しいことをした。
*
「こんなに人が来るんだから、もっと期間も回数も増やしたらいいのに」
という会話をいくつか聞いた。
そうも簡単にいかないんだろう、警備の体制一つみても、容易でないことはわかる。
次は何時になるんだろうか・・・・・?
「乾通り」通り抜けがなくても、東御苑へ行けば同じようなものが見れることがわかったのも
今回の収穫だった。
警視庁・皇宮警察・宮内庁職員の皆さま、ご苦労様でした。
江 戸 城
江戸城(えどじょう)は、現在の千代田区にあった城。
麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣・太田道灌が築いた平山城。
近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、
日本最大の面積の城郭になった。
徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。
明治維新後は宮城となった。
以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。
その東側にある旧江戸城の中心部、本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。
南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる
土地になっており、国の特別史跡に指定されている。 (ウィキペディアより編集)
太田道灌(1432年~1486年)の前から江戸城は存在したようです。
その江戸城の地政的利点に注目したのが、太田道灌でした。
彼は江戸城を拠点化するために、大規模に改築します。
この事で、江戸城の築城は、太田道灌となったようです。
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