「よっちゃん、いくぞ」
隣のレーンから、兄の正貴が声をかけてきた。芳樹は、緊張しながらコクンとうなずいてみせた。高い所が苦手なので、スライダープールは滑り出すまでの方が怖い。
ピッ。
監視員のホイッスルを合図にして、二人は同時にスタートした。
いったん滑り出してしまえば、もう平気だ。スピードを上げるために、両腕で懸命に手すりをこいでいく。
中間にある段に着くまでは、だいたい二人は一緒だった。
でも、そこからは、芳樹の方がスルスルとリードをひろげていく。
バシャーン!
下のプールで大きな水しぶきをあげたときには、1メートルぐらい差をつけていた。
「やりーっ!」
芳樹がプールの中でガッツポーズをしていると、
「はい、そこの子。早く水から上がって!」
監視員のおねえさんに、叱られてしまった。芳樹は、しぶしぶ水の中を端まで歩いていってプールから上がった。
「ちぇっ、よっちゃん、フライングしただろう」
プールサイドに上がってから、正貴はそんな負け惜しみを言っている。
「してないよ。そんなら、もう一回やってやろうか」
芳樹もプールサイドに上ると、すぐに言い返した。
「いいよ、もう。だって、あんなに並んでるんだぜ」
正貴が、階段の方を指差した。確かにスライダープールには、いつのまにか階段の下まで行列ができている。それに、ノロノロとしか、前へ進まないようだ。
「けつがこすれて熱くなったから、冷やしてくるよ。おまえは、チビでヤセッポチだから、いいよなあ」
そんな捨てゼリフを残して、正貴は走っていってしまった。五十メートルプールの方だ。芳樹も、ピョンピョン跳ねながら、その後を追っていった。プールサイドは、もう焼けつくように熱くなっている。足の裏がやけどしそうだ。いつもの年より一週間も早く梅雨が明けて、猛烈な暑さがやってきていた。
「アチチチーッ」
五十メートルプールに、あわてて足から飛び込んだ。
「ほら、ぼく。飛び込みは禁止だよ」
今度は、監視員のおにいさんに、怒られてしまった。
芳樹はそれを無視して、構わずにどんどん泳いでいった。
五十メートルプールの方も、すごく混み合っていた。まるで、学校の水泳の授業の時みたいだ。
(あっ!)
スイミングで習ったクロールで泳いでいたら、すぐに人にぶつかっちゃった。これじゃ、五メートルと、まっすぐに泳げやしない。
みんなを避けるようにして、ゴーグルをつけて水の中にもぐった。
朝のうちは、陽の光がキラキラと差し込んでいて、水はとてもきれいだった。
でも、人が増えてきたので、もう水の中は濁り始めている。
それでも、水面を見上げると、太陽の光りがさざめいていて、なんだか別の世界に入ったみたいだ。
芳樹は、立っているみんなの足をぬうようにして、あちこちと泳ぎ回った。
プハーッ。
息が苦しくなって、ようやく水面に顔を出した。あたりをキョロキョロしていると、プールの真ん中あたりに正貴が見えた。芳樹たちの少年野球チーム、ヤングリーブスのメンバーたちと、ビーチボールで遊んでいる。芳樹はクロールで泳ぎながら、正貴たちの方へ向かった。
「よお、よっちゃん」
声をかけてくれたのは、四年生のトールちゃんだ。
「よっす」
芳樹は、その場でジャンプしながら答えた。
プールの真ん中の深さは、一メートルニ十センチ。つま先で背伸びをしたり、小さくジャンプしたりしていないと、芳樹の口や鼻は水の上に出ない。
「背の立たない人は、端の方で泳いでくださーい!」
監視員のおねえさんが、メガホンで怒鳴っている。きっと芳樹のことだ
でも、芳樹はその警告も無視して、そのまま正貴たちのそばにいた。
休憩時間になると、建物の横にある自動販売機コーナーは、急にごったがえしてくる。列が長くなって建物の影からはみ出すと、足の裏が熱くて立っていられない。
芳樹は、正貴と交代で、床がぬれている所まで行って足を冷やしてきた。そこでは、プールサイドを冷やすために、ホースの水がチロチロと出しっぱなしになっている。
「よっちゃん、氷なしのボタン、忘れるなよ」
メロンソーダのボタンを押そうとした時、後ろから正貴が言ってくれた。氷を入れると、その分ソーダやコーラが出る量が少なくなってしまう気がする。
「よっちゃーん!」
後ろから、誰かが呼んでいる。聞き覚えのある声だ。
でも、すぐには振り向けなかった。メロンソーダをこぼさないように、しかも足が熱いから素早くなんて、難しい歩き方をしていたからだ。
ようやくビーチパラソルの下に飛び込むと、続いて女の子が駆け込んできた。同じ三年ニ組の裕香だった。トレードマークのポニーテールを、ピンクのスイミングキャップに押し込んでいたから、すぐには分からなかった。ヒラヒラ飾りのついた赤いチェックの水着が大人っぽくって、芳樹はドギマギしてしまった。
「来てたんだあ」
芳樹は、まぶしそうに目を細めながら言った。
「うん、おとうさんと」
裕香が指差す方を見ると、でっぷり太った男の人が日かげのベンチで雑誌を読んでいた。
芳樹が裕香にまた話しかけようとした時、急に後ろから声がした。
「あっ、裕香ちゃんだーっ」
振り向くと、高橋くんやしゅうちゃんたち、同じクラスの男の子が四、五人いた。
「ちょっと、ちょっと、裕香ちゃん」
高橋くんは、いつものようにニコニコしながら近づいてきた。
「なあに?」
裕香は、高橋くんの方を向いた。
「うん、しゅうちゃんがね、 ……」
高橋くんは、ニコニコしたまま話し続けている。
裕香は、そのまま高橋くんたちに囲まれるようにして、話しながら向こうへ連れて行かれてしまった。
高橋くんは、芳樹の事なんかまったく無視しているようだった。
芳樹は、ぼうぜんとしてみんなを見送った。
「なに、ぼんやりしてんだ」
正貴が、コーラを飲みながらやってきた。
「ううん、なんでもない」
裕香の後ろ姿をもう一度見送りながら、芳樹はメロンソーダを一気に飲み干した。
休憩時間のプールサイドは、こんなにいたかと思うほどの人たちであふれていた。
ビーチパラソルの下や日陰にレジャーシートを広げて、早くもお弁当をぱくついている家族連れ。大人たちは、泳ごうともせずに一日のんびりするつもりらしい。
ビーチデッキにズラリと並んで、日光浴をしている男子高校生たち。横目で、水着姿の女子高校生たちを品定めしているらしい。
それに、あちこち駆け回っている圧倒的多数の子どもたち。
プールにきていたのは、芳樹のクラスの子たちだけではない。他の学年や別の小学校の子たち。それに、中学生たちもたくさんきていた。ここに来れば、誰かしら知っている子に会える。
そう、やまびこプールは、小中学生のちょっとした夏の社交場になっていたのだ。
なにしろ、大人は三百円だけど、小中学生は百五十円で一日遊べる。しかも、今日のような日曜日には、学校のそばから無料の送迎バスまでが出ていた。こんな素敵な場所なんて、他には絶対にない。
芳樹たちは、プールのはずれに敷いておいたビーチタオルの所まで戻った。
そこからは、鉄柵越しに外が見える。すぐ下には、相模川がゆったりと流れている。まわりは緑の木々におおわれなかなかいい眺めだ。
芳樹たちは、ビーチタオルの上に横たわって、休憩時間をのんびりと過ごしていた。眼の上には、真夏の青空が広がっている。所々、むくむくとした白い雲がわき起こっていた。
休憩時間の終わりが近づいてきた。芳樹と正貴はビーチタオルから起き上がると、プールサイドへ歩いていった。
開始時間を待ち切れずに、いつのまにか子どもたちはプールのそばまで集まってきている。もちろん、芳樹も正貴と一緒に並んでいた。
でも、監視員のホイッスルが鳴るまでは、水の中には入れない。
「白い部分には、まだ乗らないでくださーい!」
監視員のおにいさんが、大声で怒鳴った。みんなは、少しだけ足を引いた。なんだか監視員にわざとじらされているような気分だ。
プールサイドを、グルリと取り囲んで白く塗られた排水口がある。そこのギリギリに、みんなは足を並べている。
ピーッ。
「ワーッ!」
歓声をあげながら、みんなは派手にしぶきをあげながらプールになだれ込んでいった。
「急げ!」
正貴が、芳樹に声をかけながらプールの中ほどに泳いでいく。
「待ってよお」
芳樹もあわてて追いかけていった。
プールが終わる四時半を過ぎると、更衣室は大混雑になっていた。
出口の所で、芳樹はようやく正貴に追い付く事ができた。自動販売機で、コーラを買っている。コインロッカーから戻ってきた百円での、最後のお楽しみだった。
正貴の顔や腕は、今日一日ですっかり日に焼けていた。芳樹の腕だって、負けずに同じように黒くなっている。コインロッカーのキーのゴムバンドの所だけが、白いままだ。
(あれ?)
芳樹は、それを見てハッとした。コインロッカーの百円玉を、取り忘れていたのだ。
(106、106、……)
あわてて、更衣室に駆け戻った。
でも、百円玉は返却口にはなかった。
まわりに落ちてないかと、床やスノコの下まで捜してみた。
でも、やっぱり見あたらない。
(誰か、拾ってくれたのかなあ)
芳樹は、あわてて受付へ駆けていった。
「すみませーん」
「なあに?」
親切そうなおばさんだったので、少しホッとした。
「ロッカーの鍵のとこに、百円玉を忘れちゃったんですけど」
「えーっと、……、届いてないわねえ」
落し物入れをチェックしてくれたおばさんは、なんだかすまなそうな顔をして言った。
またロッカーに引き返そうとした時、壁の時計が目に入ってきた。
四時四十八分。最終のバスは五十分に出てしまう。残念だけど、百円はあきらめなければならなくなった。
芳樹は急いでビーチサンダルをはいて、バスに向かって駆け出していった。
「おーい、おそいぞお」
バスの後ろの方から、正貴が手を振っていた。
「百円、なくしちゃったあ」
一番後ろの席に腰を下ろしてから、芳樹がポツリと言うと、
「どうしんだよ?」
正貴が、ひとつ前の席から振り返った。
「コインロッカーのやつ、取り忘れちゃったんだ」
「なんだあ。それじゃ、きっと誰かにネコババされちゃったんだよ」
正貴は、コーラをチビチビ飲みながらそう言った。いつもわざと少しずつ飲んで、先に飲み終わってしまう芳樹に見せびらかすんだ。
「そんなあ、ぼくのお金なんだよ」
そう言いながら、ひと口でもいいから飲ませてくれないかと、正貴のコーラをじーっと見ていた。
「まったく、どじだなあ」
正貴はうまそうな顔をして、とうとうコーラを飲み干してしまった。
(あーあ、ひと口ぐらい飲ませてくれたっていいのに)
そう思ったら、こらえていた涙がポロリとこぼれてきた。
「すみませーん!」
その時、運転手さんにペコリと頭を下げながら、裕香がバスに乗り込んできた。
「あった、あった! やっぱり洗面所だった」
右手のミニーのハンカチを、隣の女の子に見せている。
裕香に涙を見られないようにと、芳樹はあわてて窓の方を向いた。
バスが走り出してすぐに、前方に小倉橋が見えてきた。コンクリートの古い橋で、下を流れる相模川からは、三十メートル以上の高さの所にかかっている。
去年の夏休み、河原で行われた花火大会に、おとうさんに連れてきてもらったことがあった。夜になると、四つ連なったアーチ型の橋脚が、ライトに照らし出されてとてもきれいだった。
今日はその河原で、大勢の人たちがバーベキューでもやっているようだ。車やテントがまるでLEGOでできているかのように小さく並び、その周りにはたくさんの人たちが群がっている
でも、誰一人として水の中には入っていない。
向こう岸には、「遊泳禁止」と書いた大きな看板が見える。すぐそばにダムの放出口があるので、ここでは泳げないのだ。
バスは左に大きくカーブして、橋の上に差し掛かった。
橋の横幅はすごく狭い。ミラーをこすりそうにして、車二台がぎりぎりにすれ違えるぐらいだ。バスなんか一台でいっぱいだ。
もちろん歩道なんかないから、歩行者も車道を歩かなければならない。前や後ろから車が来ると、欄干にへばりつくようにしてやり過ごしている。
反対側からの車が、橋の途中の両側がややふくらんだ場所に停まって、バスを待っていた。そこだけは、バスやダンプカーなどとでも、なんとかすれ違える。
バスは左側ぎりぎりに車体を寄せて、ゆっくりゆっくりと進んでいく。
なるべく窓の方を向かないようにしていたけれど、ついつい横目で外を見てしまった。こうしてみると、やっぱり川までは目もくらむような高さだ。河原の人たちが、まるでアリみたいに見える。
芳樹は思わず腰を浮かせて、シートの真ん中よりに座り直した。
「まったく弱虫だなあ」
正貴が、振り返って笑っていた。
(裕香ちゃんにも、恐がってるのがばれちゃったかな)
と、前の方をそっとうかがってみた。
でも、裕香は隣の子と夢中で話していて、芳樹がいることにすら気づいていないようだ。
なんだかほっとしたような、少しがっかりしたような妙な気分だった。
芳樹の「高所恐怖症」は、小さいころからずっとだった。山の展望台、ビルの屋上、とにかく高い所はどこでも苦手なのだ。そんな場所がテレビに映っただけでも、足が震えて下腹がキューンとしてしまう。まるでおしっこをちびってしまいそうな気分だ。
中でも、苦手なのが観覧車。
それに比べれば、ジェットコースターなんかの方がむしろましなくらいだ。タンタンタンと音を立てて上っていく時は、さすがにいやな気分がする。
でも、その間は安全バーにしっかりつかまって足元をじっと見てやり過ごせばいい。頂上につくと、一瞬あたりは静かになる。と、次の瞬間、ゴーッと猛スピードで上下したり、左右に振り回されたりしてしまう。そんな時は、懸命にバーにしがみついているだけで、高さをしみじみと恐がっている暇なんかない。
それに引き換え、観覧車の方はじっくりじっくりと高くなっていく。地上からだんだん遠ざかっていく時のあの心細さ。それに連れて、下っ腹はだんだん重苦しくなってしまう。頂上付近に着くと、なんだか動いているんだか停まっているんだかわからないぐらいに、動きがゆっくりになる。高い所が大好きな正貴は、やれ富士山が見えるだの、新宿の高層ビルはあっちだのと大はしゃぎしている。
でも、芳樹はその間じーっと下を向いたままで我慢しなければならない。
運の悪い時には、上空で風が吹いてきてゴンドラが大きく揺れたりした。そんな時などは、まるで生きた心地がしない。面白がってあちこち移動してわざと揺れを大きくしたりする正貴を、ぶんなぐってやりたいくらいだ。ようやく地上に戻ってきて地面に足を降ろした時には、本当にホッとしていた。
やまびこプールのスライダープールも、上まで登る時が苦手だった。鉄製の階段はまわりがむき出しで下が丸見えなので、足が震えてきてしまう。
でも、去年、正貴が特訓してくれたおかげで、なんとか大丈夫になった
そんな芳樹にとって、小倉橋は大好きなやまびこプールの前に立ちふさがる恐怖のゴールキーパーのような物だった。
次の日も、朝からカンカン照りだった。
夏休みまであと三日、先週で給食はおしまいで、学校は午前中だけになっている。
(あーあ、今日もプールに行きたいなあ)
むくむくした白い雲が、びっくりするほど青く澄んだ空に浮かんでいる。
夏休みになれば学校のプール開放が始まるけれど、このあたりで今泳げる所はやまびこプールしかない。
でも、無料送迎バスは日曜日しかなかった。自転車で行くことは、例の小倉橋が危険なので学校で禁止されている。歩いて行ったら、たっぷり三十分はかかってしまうだろう。
「よっちゃん」
振り向くと、いつのまにか裕香がそばに来ていた。
「今日も、やまびこプールに行くの?」
「うーん、どうかな。まだ分かんないけど」
「あたしは、あやちゃんのママが、車で一緒に連れてってくれるって」
「ふーん、いいなあ」
芳樹のうちでは、おとうさんもおかあさんも平日は仕事なので、車での送り迎えはとても無理だ。
その時、教室の後ろの方で、しゅうちゃんがまわりの子に話しているのが聞こえてきた。
「おかあさんが、今日も送ってくれるって。一緒に乗ってく?」
「はい」
「はい、はーい」
「はい」
まるで、一年生が先生の質問に答える時みたいに、みんなの手がいっせいに上がった。
「はい、はい、はい」
芳樹もあわてて飛んで行って、その仲間に入った。
「うーん、昨日の五人に、よっちゃんも入れると、六人か。そんなに、乗れるかな」
高橋くんが、しゅうちゃんに代わって人数を数えながら言った。やっぱり、いつものようにニコニコしている。
「大丈夫だよ、あと一人ぐらい。でも、一応おかあさんに聞いてみるから、後で電話くれる?」
そう言ってくれたしゅうちゃんの手を、芳樹は思わず握りしめていた。
「よっちゃん、俺、今日もプールに行くけど、おまえも連れてってやろうか?」
おかあさんが作って置いてくれたお昼のサンドイッチを食べていたときに、正貴が言った。
「うん。でも、しゅうちゃんが、車に乗せてってくれるって」
「ふーん、いいなあ」
正貴は、うらやましそうな声を出していた。
「でも、その方がいいかもな。おまえじゃ、小倉橋を歩いて渡れないかもしれないからなあ」
「そんなに、怖い?」
「ああ。俺だって、最初の時はしょんべんちびりそうになったもの」
芳樹とは違って、正貴は高い所でも平気だ。得意のフィールドアスレチックなんかでは、まるでサルのようにスルスルとロープや丸太をよじ登ってしまう。おとうさんに、「アスレの王者」なんて呼ばれているくらいだ。
そんな正貴でさえ恐いのだったら、芳樹にはとても無理だ。昨日の橋からの眺めを思い出しただけでも、ブルブルって体が震えてきちゃう。芳樹は頭の中で、もう一度しゅうちゃんに感謝した。
「じゃあ、先に行ってるから。鍵かけるの、忘れるなよ」
正貴が、玄関の鍵を放ってよこした。
「待ってよ。ぼくも電話したら、一緒に出るから」
芳樹は、あわてて電話をかけながら正貴に言った。
ルルル、……、ルル。
「はい」
(あれ、変だ。しゅうちゃんでなくて、高橋くんの声がする)
一瞬、芳樹は電話番号を間違えたのかと思った。
「えーっと、……」
「あっ、よっちゃん? しゅうちゃんに代わるね」
(なーんだ、やっぱり間違えてなかった)
「もしもし」
しゅうちゃんの声が聞こえてきた。
「しゅうちゃん、乗せてってもらえるって?」
「うーん、それがあ、だめになったんだ」
「えっ! おかあさんが、だめだって?」
「うーん、そうじゃないんだけどお、……」
しゅうちゃんは、なんだか言いにくそうにしている。
「じゃあ、どうしてなんだよ」
「高橋くんが、……」
「高橋くんが、どうしたの?」
「高橋くんが、よっちゃんはだめだっていうんだ」
とうとう思い切ったように、しゅうちゃんが言った。
「……」
芳樹は、びっくりしてしばらく何も言えなかった。しゅうちゃんも黙っている。
「高橋くんに、代わってくれる?」
芳樹は、ようやくそれだけ言えた。
でも、向こう側でなんだかガヤガヤしていたかと思うと、いきなり電話が切れてしまった。
「もしもし、もしもし、……」
芳樹が何度呼びかけても、受話器からはツーーという音しか聞こえてこない。芳樹は、とうとうあきらめて受話器を下ろした。
(どうしてなんだろう?)
芳樹は、いつもニコニコしている高橋くんの顔を、改めて思い浮かべてみた。
でも、どうしてもいじわるされる理由は分からなかった。
(そうだ、にいちゃんに、……)
芳樹はあわてて玄関を飛び出して、正貴を追いかけた。
でも、もうどこにも姿が見えなくなっている。
(いやに素早いなあ)
その時、門の横に芳樹のと並んでいるはずの、正貴の自転車がないことに気がついた。プールの途中にある友だちの家まで、自転車で行ったのかもしれない。それでは、もうとても追いつけそうもなかった。
芳樹は家の中に戻ると、部屋中をぐるぐると歩きまわりながら考えていた。
(もう一度、しゅうちゃんに頼んでみようか?)
でも、最近は高橋くんを中心にして、あの五人はグループのようになっていた。もしかすると、それで芳樹だけを仲間はずれにしたのかもしれない。
といって、いまさら高橋くんにペコペコして、仲間になんか入れてもらいたくない。
こうなったら、プールへは一人で歩いて行くしかなかった。プールにはしょっちゅう行っているから、道だったらなんとか分かる。
(よーし、行こう)
そう思って、青いスイミングのバッグを手にした時、急に小倉橋の事を思い出した。
(だめだ、とても一人では橋を渡れやしない)
自分だけで行こうとしていた元気が、ヘナヘナと消えてなくなっていく。
(どうしよう?)
プールに行けば、裕香たちにだって会える。そうすれば、帰りはあやちゃんのおかあさんの車に、乗せてもらえるかもしれない。もし、それがだめでも、少なくとも正貴たちとは一緒には帰れるはずだ。
(でも、往きの小倉橋が、……)
窓を締め切っていたので、部屋の中はだんだん暑くなってきていた。なかなか決心がつかずに、芳樹は汗をだらだら流しながら歩きまわった。
とうとう我慢できずに、芳樹は洗面所で勢いよく顔を洗った。すると、スライダープールで大きな水しぶきをあげた時の気持ち良さがよみがえってきた。
ついに芳樹は、机の上のカエルの貯金箱を持ってきた。中から五百円玉をひとつ取り出すと、イルカの絵のついた丸い財布に入れた。
(とにかく、一人で行ける所まで行ってみよう)
小倉橋を渡れるかどうかは、その場に着いてから考えようと、芳樹は決めていた。
暑い。とにかく暑い。五分も歩かないうちに、芳樹は汗びっしょりになってしまった。
家の外には、人っ子一人いなかった。この暑さのせいで、家の中に閉じこもっているのだろう。
でも、なんだかみんなが、やまびこプールへ行っているような気もしてくる。
ミーン、ミンミンミン。
ミンミンゼミだけは、あちこちでうるさいくらいに鳴いている。そんな中を、芳樹一人だけが、黙々と歩いていた。
丘の上にあるこの住宅地は、何ヶ所かのつづれおりの坂道で、ふもとの地区とつながっている。そのひとつ「都井沢ジグザグ」まで来たとき、ようやく自転車を押しながら登ってくる中学生たちと出合った。部活の帰りなのだろうか、トレーニングウェアを着てだらだらと汗を流している。
芳樹はそれを横目にしながら、一気に「都井沢ジグザグ」を駆け下りた。一刻も早くプールに入りたくてたまらなかった。
「都井沢ジグザグ」を下り切ってからしばらく行くと、広いバス道路にぶつかる。そこでは、今日も車がビュンビュン飛ばしていた。
本当は、
(バス道路の向こうへは一人で行ってはいけない)
と、おかあさんに言われている。
でも、今日はそんな事には構っていられない。信号が青になってからも何度も左右を見て、一気に横断歩道を突っ走った。
広々した浄水場の先を右に曲がると、ようやく相模川へと続く坂道に出た。S字のカーブを何度も曲がりながら、小倉橋まで下りていく。
芳樹は道路の左側にある歩道を、どんどん歩いていった。その横を乗用車やライトバンやトラックが、ブレーキをかけてスピードを落としながら下っていく。
初めのカーブに差し掛かった時、はるか下の方に相模川が大きく曲がりながら流れているのが見えた。両岸の河原の石が白く光っている。
視線をずーっと右手に移していくと、小倉橋も見えた。
(高い!)
気のせいか、今日は一段と高く感じられる。まるで、川をまたいでそびえる灰色の巨人のようだ。とても、向こう側まで渡れそうもない。
芳樹はがけの方へ寄り過ぎないようによく注意しながら、じーっと小倉橋を見つめていた。
(やっぱり引き返そうか?)
でも、せっかくここまで来たのに、それも残念に思えてくる。
芳樹のそばを車がどんどん通っていくけれど、歩いている人は一人もいない。
と、その時、少し先の方にオレンジ色のポールが立っているのに気がついた。
バス停だ。
(なーんだ、路線バスも通ってるのか)
急にホッとして、なんだか笑い出したいような気さえしてきた。路線バスはやまびこプールには行かないだろうけれど、橋さえ渡ってくれればOKだ。向こう岸の停留所から、プールまで歩けばいい。
芳樹はまるでスキップでもするような感じで、バス停に近づいていった。
『小倉橋北』
丸い表示板に、バス停の名前が大きく書いてあった。次の停留所は、期待どおりに橋のむこう側の『小倉橋南』だ。
( あーっ!)
バス停の時刻表を見て、芳樹はがっかりしてしまった。一時間に一本、朝や夕方でもたった二本ずつしかない。しかも、かんじんの午後一時台には、一本もなかったのだ。十二時十五分のはとっくに行っちゃったし、次は二時三十分まで来ない。
芳樹は、バス停のポールの丸いコンクリート製の重石に腰を下ろしていた。
(もうあきらめて、家に帰るしかないかなあ)
梅雨明けの太陽は、容赦なくギラギラと照らしている。気のせいか、ますます暑くなってきたようだ。
頭の上を、トンビがゆっくりと風を受けながら飛んでいる。
(あんなに高い所を飛んでいて、ちっとも怖くないんだろうか)
そんな事をぼんやりと考えていると、トンビは大きな円を描きながら、だんだん小倉橋の方へ近づいていった。
その時、橋のこちら側のたもとに、誰かがいるのに気がついた。
女の子だ。芳樹と同い年ぐらいだろうか。
その子がポニーテールの頭をピョンと振って、こちらに振り返った。
裕香だった。
(どうして、こんな所に?)
そう思いながらも、芳樹は立ち上がった。とにかく、たもとまで行ってみることにして、裕香を目指して懸命に走り出した。
裕香はこちらから向こう側をのぞき込むようにして、橋の上の様子をうかがっている。そのそばを、乗用車やトラックが次々と追い越していった。
「おーい、裕香ちゃーん」
大声で呼ぶと、裕香はもう一度こちらを振り返った。
初めはびっくりしたような顔をしていたけれど、すぐに芳樹だと気づいてニッコリした。
芳樹は、大急ぎで裕香に駆け寄っていった。
「助かったあ!」
そばまで行くと、なぜだかホッとしたように裕香が言った。
「あやちゃんのママの車で、来たんじゃないの?」
芳樹がたずねると、
「ううん」
裕香が首を振ると、頭の後ろのポニーテールがピョコピョコ跳ねる。
話によると、あやちゃんが急にプールへ行かれなくなっちゃったんだそうだ。
でも、我慢できなくなって、とうとう芳樹と同じ様に一人で来てしまったのだ。
「よっちゃんに会えて良かったあ。やっぱり小倉橋は怖いんだもん。あたし、高いとこ、苦手なんだあ。でも、よっちゃんと一緒なら、大丈夫よね」
裕香は、ニコニコしながら話している。
先にそう言われると、自分も高い所が怖いんだとは言えなくなってしまった。
(うーん!)
小倉橋のたもとから改めて下を眺めて、思わずため息をついてしまった。
高い。とにかく高い。はるか下を、相模川がキラキラ光りながら流れていた。その流れる音さえ、遠すぎてここからはまったく聞こえない。とても、こんな高い所を渡っていけそうになかった。
でも、裕香にこんなに頼りにされているのに、いまさら「ぼくもこわいんだ」なんて、とても言えやしない。
芳樹は、おそるおそる足を橋の上に踏み出した。
(あっ!)
いきなり後ろから、裕香が右手をギュッと握ってきた。
芳樹は左手で欄干につかまりながら、そろそろと歩き続けた。裕香は、芳樹の手に引きずられるようにしてついてくる。右手にギュッと力を込めて、裕香を放さないように気をつけた。
五メートルほど進んだ時、つい横目で橋の下を見てしまった。
欄干の下半分はコンクリート製だけど、上半分は錆びた鉄製の格子状の手すりだ。隙間だらけなので、川の流れが丸見えだった。
一瞬、そのまま下に吸い込まれるような気がして、思わず目をつぶった。そのはずみに、裕香の手を放しそうになる。
あわてて手をギュッと握り直すと、今度は目が開いてはるか下の川が見えてしまう。
芳樹たちは、そこからもう一歩も動けなくなってしまった。
「大丈夫かい?」
気がつくと、そばに一台の小型トラックが停まっていた。ウインドーから、タオルでハチマキをしたおにいさんが心配そうな顔をしてのぞいていた。
(助かったあ!)
と、芳樹は思った。もしかすると、向こう側まで乗せていってもらえるかもしれない。
でも、裕香がすぐにきっぱりと言ってしまった。
「大丈夫です。よっちゃんと一緒だから」
そう言われると、とても、「乗せてください」なんて、言えやしない。
おにいさんはまだ少し心配そうだったけれど、ウインドーを上げてそのまま行ってしまった。
「知らない人の車に乗ったらいけないって、言われてるでしょ」
車が見えなくなってから、裕香が芳樹にささやいた。
(そりゃ、確かにそうだけど)
今はそんな事を言っている場合じゃない。裕香は気づいてないかもしれないけれど、芳樹たちは前にも後ろにも進めなくなっているんだから。
その時、十メートルぐらい前に、昨日、バスやダンプカーが車とすれ違う両側にふくらんでいる場所が見えた。そこまで行けば、なんとかひと息つけそうだ。
(よーし)
芳樹は大きく息を吸うと、「ふくらみ」を指さしながら裕香に言った。
「あそこまで、ダッシュするよ」
裕香も、コクンとうなずいた。
芳樹は、振り返って車の流れをチェックした。
ちょうど、前からも後ろからも車は来ない。
「ゴー!」
裕香の手をギュッと握りしめて、全速力で走り出した。裕香も、懸命についてくる。横を見ると怖いから、まっすぐ正面だけを見つめて走った。
なんとか「ふくらみ」までたどり着くと、芳樹たちはそこに座り込んだ。しゃがんでしまえば、欄干の手すりより顔が下になるので、外が見えなくてあまり怖くない。
芳樹たちの横を、うしろで待っていてくれていたらしい車が、四、五台続けて通り過ぎていった。芳樹は、裕香と手をつないだままその場にしゃがみ込んでいた。
(あれ、どうしたんだろう?)
ホッとしたのもつかの間、芳樹は橋がかすかに揺れていることに気づいてしまった。
振り向くと、後ろからダンプカーがやってくる。
グラ、グラグラ、グラグラグラ。
橋の揺れが、だんだん大きくなる。
ダンプカーは、芳樹たちのいるふくらみの反対側で待っていた車と、すれ違おうとしている。汚れた大きなタイヤが、どんどん二人に近づいてくる。
「キャー!」
裕香が芳樹に懸命にしがみついた。二人は欄干にへばりつくようにして、やっとダンプカーをやり過ごした。
でも、橋はまだ大きく揺れている。とても、ここでのんびりとはしていられない。
橋の上には、「ふくらみ」がもう一ヶ所あった。
芳樹たちは、抱き合ったまま車の列が途切れるのを待った。
「よし、今だ!」
芳樹は、裕香を引っ張るようにして立ち上がらせた。そして、手を引きながら懸命に次の「ふくらみ」を目指して走り出した。
「よっちゃん、今日はほんとにありがと」
ようやく『小倉橋』の向こう側にたどり着いた時に、裕香がニッコリしながら言ってくれた。いつもは色白の裕香も、すっかり日焼けして歯の白さだけが目立っている。
「明日も、一緒にプールに行こうね」
裕香がそう言った時、芳樹は思わずコクンとうなずいていた。
橋のたもとで右に曲がると、後はやまびこプールやテニスコートまで続いている上りの一本道だ。河原には、昨日とは違って、釣りをしている人たちが何人かいるだけだった。
しばらく歩いていくと、左手に工事現場が見えてきた。 『新小倉橋』を作っているのだ。交通量が増えて今の橋では不便になったので、去年から工事が始まっている。来年の夏までには、新しい橋ができあがるはずだ。
『新小倉橋』は、今の橋よりもさらに高い所にかけられる。
でも、前に町役場で模型を見たことがあるけれど、広い歩道がちゃんとついていた。だから、芳樹たちでも安心して渡ることができる。それに川の両側でわざわざ坂道を下らなくてもすむから、やまびこプールまでずっと近道だ。
「早く新しい橋ができればいいのにね」
道の上に張り出した『新小倉橋』をくぐった時、裕香が上を見上げながら言った。
確かに新しい橋ができれば、やまびこプールへ行くのはずっと便利になるだろう。自転車で行くのだって、OKになるかもしれない。もう裕香と一緒に、車の流れをぬって懸命に駆け出して渡る必要なんかない。
でも、なんだかそれは少し残念なような気もしていた。
前の方に、スライダープールのてっぺんあたりが見えてきた。芳樹は、まだ裕香と手をつないだままだったことにようやく気がついた。