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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

椎名誠「きんもくせい」岳物語所収

2020-12-08 18:27:22 | 作品論

 自分の息子を素材にした連作短編集の第一編です。
 視点は作者自身にあり、子どもとその周辺は出てきてきますが、あくまでも私小説的なタッチで描かれています。
 この短編でも、息子と、保育園での友達とその兄の巻き起こす事件(子どもらしいいたずらです)は描かれていますが、実際にはその兄弟の母親(離婚したシングルマザーで、きんもくせいの香りのする、小柄で細おもての、眼鼻だちのはっきりした美人)への淡い想い(本人よりも妻の方が、はっきりとその気持ちに気づいています)が描かれています。
 家庭生活や父親であることにまだ足が地につかない頃の若い父親の様子が飾らすに書かれているので、そうした時期を過ごした経験のある男性読者(私にも身に覚えがあります)には好感をもって読まれることでしょう。
 女性読者、特に若い母親たちには許しがたいかもしれませんが、作者は若い頃からけっこうもてていたようなので、彼の妻はこの作品でもこうした問題をうまくさばいています。

 

 

 

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J.K.ローリング「ハリー・ポッターと賢者の石」

2020-09-23 08:53:36 | 作品論

 言わずと知れた世界的ベストセラーの第一作です。

 イギリスのファンタジーの伝統の上に、現代的なアイデアを盛り込んで「現代の魔法物語」という新しいジャンルを創出し、多くの追随者を生み出しました。

 魔法使い、空飛ぶ箒、魔法学校、寮生活、闇の魔法使いとの戦い、マグル(通常の人間)との共存、フクロウの郵便、クイデッチ(空中で行う団体球技)、幽霊、謎解きなど、普通の作品だったら10冊は書けそうなアイデアを、これでもかとてんこ盛りにして、読者を飽きさせません。

 ハードカバーで500ページもある長編も、本離れしているはずの子どもたちが嬉々として読んでいる姿を見ると、本離れの原因が読み手ではなく書き手側にあることがわかります。

 それも、日本だけでなく世界中の子ども達に受け入れられたことを考えると、面白い本は、古今東西の垣根を超えて普遍的であることもわかります。

 まだ日本で翻訳本が出版されないころ、シリーズのたぶん3冊目の発売日にたまたまアメリカに出張していて、空港や街のあちこちで分厚い本を抱えた子ども達や山積みになった本に出くわしたものでした。

 もちろん典型的なエンターテインメント作品なのですが、その一方で、主人公やその男女の友人との友情を描いた児童文学伝統の成長物語でもあります。

 また、作品の主な舞台が全寮制の学校であることも、児童文学の伝統(ケストナーの「飛ぶ教室」など)を踏襲していますが、男女共学にしている点が現代的で読者の幅を広げることに貢献しています。

 

 

 

 

 

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宮沢賢治「序」注文の多い料理店所収

2020-09-20 09:04:12 | 作品論

 大正十二年十二月二十日に書かれた、賢治が生前に発行した唯一の童話集の序文です。
 ここに書かれているのは、賢治がどのように作品の発想を得て、それを作品に仕上げて、それらの作品を読者に読んでもらった時に何を願っているかが、非常に素直に書かれています。
 作品の発想は自分の周辺に広がっている自然や社会から得て、それらをできるだけそのままに素直に作品に仕上げ(あるいは書かざるを得なくなり)、読者にとってそれらが何らかの役に立つことを心から願っています。
 本来の児童文学者ならば、誰もがこのような姿勢で、創作に取り組むべきでしょう。
 しかし、現実の児童文学の世界を眺めてみると
「本を出したい」
「本を売りたい」
 そういった、本来ならば二次的な創作の動機を前面に出して執筆している児童文学の書き手がなんと多いことか。
 その一方で、この序文を読んでみると、これ自体が一篇の非常に優れた作品であることにも気づかざるを得ません。
 そして、「詩心」とか、「童話的資質」といった、努力だけではどうにもならない事にも、同時に気づかされてしまいます。
 それは、以下に引用する末尾の文章だけでも明らかなことでしょう。
「けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。」
 

注文の多い料理店 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社
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ワジム・フロロフ「愛について」

2020-09-14 18:16:23 | 作品論

 1966年にソ連で書かれた作品ですが、日本語には1973年に翻訳されたので、1978年ごろに児童文学のタブー(性、離婚、家出、自殺など)の崩壊が議論された時に、盛んに引き合いに出されました。
 性への目覚め、最愛の美しい母の駆け落ち、それに対する尊敬していた父の無力化、母のことを同級生に侮辱されて爆発した暴力事件による退学などを、主人公の14歳の少年は短期間に体験します。
 飲酒による父とのいさかい、家出において恋人とキスする母親の目撃などを通して、精神的な「親殺し」を経て、一人の人間として生きていくことを決意する少年の姿が描かれています。
 翻訳があまりうまくないので読んでいてかなりいらいらしますが、私の読んだ本は1996年で18刷なので、少なくとも90年代まではかなり読まれていたのではないでしょうか。

愛について
クリエーター情報なし
岩波書店
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宮沢賢治「めくらぶだうと虹」校本宮澤賢治全集第七巻所収

2020-07-30 06:04:04 | 作品論
 1918年(大正7年)の作だとされている初期作品時代(「注文の多い料理店」出版以前)の作品です。
 賢治の宗教的な作品系列に属し、地にあるめくらぶどうと天にある虹の対比により、生きていくことの意味を考えさせてくれます。
 ややセンチメンタルな感じも受ける、若者らしい清新な情感のこもった美しい作品です。
 自然描写と共に、賢治の心の内部を写し出しています(いわゆる心象スケッチですね)。
 真理の追求、自己犠牲、真理を美に見いだす、など、賢治の創作理念が、かなり生な形で現れています。


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最上一平「おばけえん」

2020-07-17 09:42:29 | 作品論
 引っ越しで転園してきたあゆむくん(お猿の子?)が、新しい幼稚園(?)になじむまでの気持ちの動きを、おばけの世界を利用して、巧みに描いています。
 あゆむくんにはみんながおばけに見えて、恐ろしくてなかなか一緒に遊べません。
 みんなが誘ってくれた電車遊びに、思い切って参加したことで、ようやくみんなの仲間になれます。
 そうすると、いままでおばけに見えていたお友だちが、みんなあゆむくんと同じ動物の子だったことが分かります。
 誰(子どもだけでなく大人も)にでもある新しい環境への不安。
 その壁を打ち破る姿を、楽しい遊びを通して描いています。
 おばけえんにも、おはなばたけえん(その謎は秘密)にも、楽しそうなキャラがたくさんいるので、それらを活かした続編が楽しみです。



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宮沢賢治「かしわばやしの夜」注文の多い料理店所収

2020-07-07 15:30:49 | 作品論
 清作(きこり?)と赤いしゃっぽをかぶった画かきが、かしわの木大王を初めとするかしわの木たちや、ふくろうの大将を初めとするふくろうたちと、歌と踊りによるめくるめく不思議な夜をすごします。
 賢治特有の優れたオノマトペがふんだんに使われ、楽しい宴になっています。
 それを次々に色を変えていくお月様や霧が取り巻いて、幻想的な世界が繰り広げられます。
 このようなこれといったストーリーがないのに読者を魅了してやまない短編を読むと、書き手の端くれとしては、努力ではどうしようもない持って生まれた詩心や童話的資質について考えざるを得ません。

注文の多い料理店 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社
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神沢利子「流れのほとり」

2020-07-07 13:52:07 | 作品論
 児童文学者協会賞を受賞した「いないいないばあや」(その記事を参照してください)の続編にあたる作品ですが、今回は連作短編ではなく長編として書かれています。
 前作では、かわいがってくれたばあやの手を離れて、北海道から樺太へ渡るところで終わっていましたが、今作は、二年生の時に、南樺太南部の川上炭鉱から北部ロシア領近くの内川に向かう長旅で始まります。
 小学校二年生だった主人公が、小学校六年の少女になって、女学校を受験するために再び南部へ向かうまでを、題名通りに川の流れのようなゆったりした筆致で描いています。
 この題名は、主人公が住んでいた内川を流れていた幌内川の支流を意味するとともに、ある時はゆったりと、また別の時は性急に流れていく人生そのものを意味するのだと思われます。
 詩人の鋭い観察眼と優れた描写力が、長編の随所に発揮されています。
 樺太の豊かな自然や子どもらしい遊びに交じって、生きていくこと、死、女として生きること、男、性、差別、貧富差、別れ、病気など、子どもだけでなく大人にとっても大事な問題に対する、主人公の問いかけが繰り返されます。
 もちろんこの作品はフィクションであって、作者の分身とも言える主人公の思いは、執筆当時の大人である作者の考えによって補われています。
 しかし、それだからこそ、現在の児童文学とは違った意味で、子どもだけでなく大人にとっても意味のある作品になっています。
 現在の児童文学は、子どもだけではなく大人にならない(あるいはなりたくない)読者たちのためには書かれていますが、大人あるいは人間として生きていくために重要な物は提示してくれません。
 それに対して、この作品(後述しますが当時の他の多くの作品も同様です)は、子どもや大人といった垣根を越えて、人間としてどう生きるべきかを考えさせてくれる作品がたくさんありました。
 この作品は、狭義の「現代児童文学」(定義は他の記事を参照してください)が始まった1950年代(詳しくは他の記事を参照してください)から20年ほどたった1976年に出版されました。
 他の記事に書きましたが、私は1990年代に「現代児童文学」は終焉したと考えているので、1976年はちょうど中間ごろに当たります。
 そして、そのころに「現代児童文学」は文学的なピークを迎えたと思われます。
 翌1977年に、私は児童文学とは無縁な外資系の計測器メーカーに就職しました。
 エレクトロニクスのエンジニアとして忙しく働くことになり、学生時代のように好きな本を読む時間が圧倒的に少なくなることが予想されていました。
 そんな環境でもなんとか児童文学の勉強を続けていくための自戒として、前年である1976年出版の重要と思われる本を何冊か買いました。
 「流れのほとり」以外の手元に残っている作品は、後藤竜二「白赤だすき小○の旗風」(1977年の児童文学者協会賞受賞)、河合雅雄「少年動物誌」(その記事を参照してください)、いぬいとみこ「山んばと空とぶ白い馬」、なだいなだ「TN君の伝記」などです(このうちの三冊は、当時スタートしたばかりの福音館書店の日曜日文庫シリーズ(誤解を招かないように説明しておきますがいわゆる文庫本ではありません)の初回及び二回目に刊行されたものです)。
 個々の作品の児童文学史における価値については、いろいろな見解があることでしょう。
 ただ、これらの本に共通しているのは、どれも外函があって、そのおかげで四十年以上たった今でも、本自体はほとんど痛んでいない(外函は虫に食われたりしてかなり傷んでいる本もあります)ことです。
 このことは、当時の児童書(少なくとも文学的な作品は)が、現在のような消費財ではなく、繰り返し読まれ、さらには親から子どもへと読み継がれることも想定した恒久財と考えられていたことの証拠のように思われます。

流れのほとり (福音館文庫 ノンフィクション)
クリエーター情報なし
福音館書店
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村中季衣「チャーシューの月」

2020-06-22 12:57:50 | 作品論
 2012年度の日本児童文学者協会賞を受賞した作品です。
 作者は、1984年に「かむさはむにだ」で新人賞を受賞しています。
 両方を受賞している作家はたくさんいるのですが、28年もの間をあけて受賞したのは作者が初めての事でしょう。
 作者の息の長い児童文学の活動(創作だけでなく、研究や絵本などの読書活動の実践など)に敬意を表したいと思います。
 この作品は、絵本の読み聞かせなどの実践を通して知り合った児童養護施設の子どもたちや職員の姿を、中一の少女の目を通して描いています。
 特にこの作品が成功したのは、就学前にこの施設に連れてこられた記憶の仕方に特殊性を持つ幼女が、小学校一年になり施設の内外でいろいろな体験をする中で、少しずつ成長して心を開いていく様子を、同室の主人公の視点で過剰な情緒を廃した描き方で描いている点だと思われます。
 登場している施設の子どもたちは天使ではありませんし、施設の職員たちも誠実に子どもたちに接していますが限界はあります。
 また、外部(特に通っている学校の先生たちや子どもたち)との間に軋轢もあります。
 育児放棄や家庭崩壊や親の死や病気など、様々な事情で施設に暮らす子どもたちの姿を、過度に子どもたちに肩入れせずに、淡々と描いている点が優れていると思われます。
 その分、テレビなどで描かれるこういった施設の話に比べてドラマチックさには欠けていて、子どもの読者には読まれにくい点はあるかもしれません。
 ただ、この本は青少年読書感想文コンクールの課題図書に選ばれたので、中高校生の読者の手に取られる機会は多かったかもしれません。
 家庭崩壊や格差社会のひずみなどの犠牲になっている子どもたちといった極めて今日的なテーマを取り上げた点は大いに評価できるのですが、作品の書き方がかなり古くてターゲットの読者である中高校生には受け入れにくかったと思います。
 その点は作者自身もあとがきで、あまりおもしろくなかったのではないかと気にしています。
 誤解を恐れずに言えば、この作品は作者がデビューした八十年代の「現代児童文学」の手法のままで書かれてしまった気がします。
 「現代児童文学」の特徴(特に「少年文学宣言」(その記事を参照してください)派において)としては、「散文性を獲得して(長編志向)」、「現実に生きる子どもたちを捉えて」、「変革の意志(社会の変革、個人の成長)」を持った作品ということになります。
 この作品は、見事にこれらの特徴を備えていますが、すでに読者である子どもたちはこういった作品世界を読書という行為に求めなくなっています。
 「現代児童文学」のもう一つの特徴(特に「子どもと文学」(その記事を参照してください)派において)である「おもしろく、はっきりわかりやすく」は、かなり誇張された形で、現在の児童文学界を席巻しています。
 こういった「良質だけどおもしろさに欠けた」作品を、中高校生が積極的に手にすることはあまりないでしょう。
 また、作品の舞台や人間関係がほぼ養護施設に限定されていることも、読者が作品世界に入るためにはマイナスになっているかもしれません。
 例えば、この施設の子どもたちは、たとえ中学生でも携帯は与えられていません。
 それは事実なのでしょうが、ほとんど全員が携帯(すでにスマホが大半を占めています)を持っている現代の中高校生の読者たちには、携帯なしの世界が想像しにくい(あるいは古く感じられる)のではないでしょうか。
 施設の中学生の女の子が夜帰ってこなくて、大勢で探しに行くシーンがありますが、常に携帯と一緒の現代の中高校生にとっては、この大騒ぎはピンとこないでしょう。
 作品世界を養護施設の世界だけに限定せずに、もっと一般の子どもたちとの関わりを描くべきだったと思います(その場合の舞台はおそらく学校になると思われます)。
 養護施設の中の様子を自然主義的に「写生」するだけでは、ポストモダンの時代を生きる(施設の内外の)現代の子どもたちの実相を捉えるのは不可能です。
 いくら克明に施設の子どもたちを描いても、「ああ、私はこういう家庭に生まれなくてよかった」と読者が思うだけに終わる恐れがあります。
 こういった施設の子どもたちに、読者が共感を持って読み終えられる工夫がもっと必要だと思います。
 また、登場人物が多すぎて、それを名前だけで区別させる書き方も、もっとキャラのたった現代のキャラクター小説(一面的な特徴を強調した平面的なキャラクターを使った、書き手と読者の約束事の上に成り立った小説)を読みなれた現代の中高校生の読者たちは、登場人物の区別がつかずに混乱して読みにくかったかもしれません。
 また、主人公の中一の少女のつっぱったキャラクターもやや古く、八十年代や九十年代に長崎夏海などが描いた主人公たちを想起させました(挿絵が佐藤真紀子だったせいもありますが)。
 これは、作者の作品の特徴でもあるのですが、彼女の「たまごやきとウインナと」(その記事を参照してください)や映画の「だれも知らない」(その記事を参照してください)のような淡々と事実を描いていくホームビデオ的視線も感じられます。
 また、過剰な修飾を省いた文体は事実を描写するのには適しているのですが、読者の想像力を喚起しない「やせている文章」だと言えなくもないと思われます。
 そのため、この作品はあえて物語化を拒否しているような印象を受けるかもしれません。
 以上のように、この作品が描いた世界は優れて今日的なのですが、それを作中人物と同世代の読者に受け入れてもらう工夫が足りなかった気がします。
 この作品の場合、有力な媒介者である「課題図書」や児童文学者協会賞の選者たち(彼らの多くは「現代児童文学」を支えてきた人々です)が、この本を読者たちに手渡す形になりました。
 「読書感想文」などのために、中高校生の読者がいやいやこの本を読むのでなければいいのですが。
 ただ、この作品の主要な登場人物はいずれも女の子ですし、女性の作者のきめの細やかな観察が作品に行き届いていますので、一種のL文学(女性の作者による女性を主人公とした女性の読者のための文学)として、より広範な年代(30年前ぐらいに作者の「かむさはむにだ」を読んだ人たちもいるでしょう)の女性たち(それには母親や教師たちも含まれます)に読まれて、そこを経由してもっと積極的な形で(媒介者たちと世代を超えて作品世界を共有する)女子中高校生たちに読まれたら素晴らしいかもしれません。

チャーシューの月 (Green Books)
クリエーター情報なし
小峰書店

 
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最上一平「夏の写真」銀のうさぎ所収

2020-06-11 16:33:58 | 作品論
 1985年の日本児童文学者協会新人賞を受賞した短編集「銀のうさぎ」に収録されています。
 農家の人たちが、出かせぎで都会の工事現場で働き、日本の高度経済成長期を支えていたころの話です。
 主人公の小学三年生の男の子の両親も、三才の妹を連れて出かせぎに行っています。
 雪に閉ざされた留守宅を守るのは、じいちゃんとばあちゃんです。
 主人公も五才の弟の面倒をよく見ています。
 正月が近づき、両親(少なくともかあちゃんと妹)が一時帰省してくるのを、主人公と弟は文字通り指折り数えて待っています。
 そこに、主人公あてにかあちゃんから手紙が届きます。
 いつ帰ってくるのかが書かれていると思って、喜び勇んで読み始めた主人公に、手紙は意外な知らせを伝えます。
 仕事の都合で、とうちゃんだけでなく、かあちゃんも帰れなくなったのいうです。
 ショックを受けて家を飛び出した主人公を、ばあちゃんがやさしくむかえてくれます。
 その晩、並んだふとんの中で泣き出した弟を慰めようとして、主人公は一枚の写真を取り出します。
 それは、家族全員(とうちゃん、かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん、主人公、弟、妹の七人)が写った「夏の写真」でした。
 そして、主人公は弟を喜ばせようとして、いろいろな楽しそうなこと(そり遊び、かまくらなど)を語ります。
 ようやく泣き止んで寝入った弟の横で、自分も泣き出しそうになるのをしかりつけながら、今度こそ両親が帰ってくる春までの四か月を指折り数え始めます。
 当時(それよりも少し前かもしれません)の農村の子どもたちの置かれている状況を、作者持ち前の詩情(特に雪やそり遊びのシーン)を込めて鮮やかに描いています。
 かあちゃんからの手紙を読むシーンは、ケストナーの名作「飛ぶ教室」で主人公のマルチン・ターラーが母からの手紙(クリスマスに帰省するためのお金が工面できなかったので、そのまま寄宿舎ですごしてほしいと書いてありました)を読むシーンを彷彿とさせます。
 このような社会性を持った作品を含む無名の新人のデビュー作を短編集で出版できる当時の児童文学の出版状況は、本当に豊かだったんだなあと改めて思わせられます。
 この本を作者にもらったのは、表紙の裏の署名を見ると1984年12月23日だったので、当時一緒に参加していた同人誌の忘年会の席だったでしょう。
 帰りの電車の中でこの短編を読んで、あたりをはばからずに泣きだしてしまった(特に弟が「夏の写真」をぺろぺろなめるシーンでは声をあげて泣いてしまったかもしれません)ことを今でもはっきりと覚えています。
 今回、久しぶりに読んでみても、やっぱり涙を抑えることができませんでした。

銀のうさぎ (新日本少年少女の文学 23)
クリエーター情報なし
新日本出版社
 
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槇本楠郎「花電車」講談社版少年少女世界文学全集49巻現代日本童話集所収

2020-06-11 15:11:06 | 作品論
 作者は、戦前のプロレタリア児童文学運動で、理論的にも実作的にも中心的な役割をはたした人です。
 プロレタリア児童文学は、階級闘争の一環として進められたものでであり、教化的な面があって文章芸術としての価値は相対的に重要視されていませんでした。
 しかし、それまで中産階級以上の子供たちだけを読者対象としていた児童文学を、労働者階級の子供たちにも解放した功績は、日本の児童文学史においてもっと評価されてもいいものと思っています。
この作品は、戦後に発表されたもので、教化的な面や階級闘争的なところはほとんどなく、戦前の貧しい長屋暮らしの子供たちの姿を、表通りや祝賀の花電車の華やかな様子と対比させつつも、生き生きと描き出しています。
 私は、1960年頃に足立区の千住(当時は下町というよりは、場末という言葉がぴったりの土地柄でした)で育ちましたので、当時の他の児童文学作品に出てくる子供たちよりも、この作品に出てくる子供たちの方に親近感がありました。
 当時の近所の友達の親の職業は、左官屋、大工、靴の町工場、酒屋、下駄屋などでした。
 彼らはまだ恵まれていた方で、古いアパートにすんでいた子供たちは入れ代わりが激しくてあまり親しくなれませんでした。
 私の父は教員でしたが、母方の祖父は町工場をやっていてそこで母も働いていました。
 祖父の両手は、傷だらけで機械油が黒く染み込んでいる「働き者の手」でした。
 成人しても、少しも「働き者」にならなかった自分の手を、祖父を思い出す度に恥ずかしく思っています。
 この作品で特筆すべきは、ガキ大将を中心にした数十人の子供たちが、弱い子や障害のある子や女の子たちも含めて、助け合い団結している姿が等身大で描かれていることです。
 こうした子供たちの集団は、私が幼かった1960年頃までは、少なくとも千住には存在していました。
 しかし、ちょうど私が高学年になるころに、残念ながら消滅してしまいました。
 それは、団塊の世代の時代を過ぎて子供集団が小さくなってしまったことと、教育熱が高まって学習塾が出現したことによって子供集団のリーダーになるべき世代が分断されたことが大きな理由だと思われます(私自身も小学五年生から塾へ通わせられました)。

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ビリー・レッツ「ハートブレイク・カフェ」

2020-06-05 08:58:45 | 作品論
ハートブレイク・カフェ (文春文庫)
Billie Letts,松本 剛史
文藝春秋


 1998年に出版されたアメリカの作品です。
 オクラホマ州の片田舎のロードサイドにあるさびれたカフェ。
 名前は、本当は「ホンク&ホラー」なのですが、手違いで、ネオンサインにはその後に「近日開店」までくっついています。
 時代は、まだアメリカがヴェトナム戦争の傷を引きづっていた1985年。
 このカフェを舞台に、ヴェトナムでヘリコプターから落ちて下半身付随になったカフェのオーナー兼コック、家出娘に手を焼く独り暮らしでオーナーの母親代わりのウェイトレス、流れ者のネイティブ・アメリカンのカーホップ(映画「アメリカン・グラフィティ」に出てくるような、駐車場で車に乗ったまま食事をする人たちの注文を取ったり食事を運んだりする若い女性のことです)、違法移民のヴェトナム人のコック見習いといった、アメリカの抱える様々な問題に翻弄されている登場人物が、傷をなめあうようにして立ち直っていく姿を描いています。
 文字通りのハッピーエンドで、児童文学者が軽々しく使ってはいけない言葉ですが、大人のお伽噺です。
 しかし、作者のこうした暮らしの人々への愛情に満ちた眼差しと、それと表裏一体になっている社会問題への鋭い観察眼が行き届いていて、読み心地のいい作品になっています。
 作者は、「ビート・オブ・ハート」(その記事を参照してください)という56才の時に書いた作品がベストセラーになった遅咲きの書き手ですが、そのせいもあって浮わついたところがなく、じっくりと時間をかけて作品を書いているようです。
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坪田譲治「ペルーの話」講談社版少年少女世界文学全集第49巻現代日本童話集所収

2020-05-24 10:10:24 | 作品論
 1935年(昭和10年)に、雑誌「赤い鳥」に発表された短編です。
 ペルーに日本移民を使ってできたインカ・ゴム会社で、林業監督をしていた山梨県出身の堀内伝重という人からの聞き語りです。
 第一次大戦後に、会社がゴム園を閉鎖した後で、初めてゴム園の見回りに行った時の話です。
 アマゾン上流の未開地域を、カノアという丸木舟で急流や段差を遡ったり、インディアン(文明化された先住民のことのようです)やケチュア土人(未開の先住民のことでしょう)やボリビア人(スペイン人や先住民との混血の子孫のことでしょう)と交流したり、チョンチョ蛮人(未開の先住民でしょう)に出会ったり、トラ(ジャガーのことでしょう)、のぶた(ペッカリーのことでしょう)、テナガザル、青シカなどを鉄砲で撃ったり、ピューマ、ワニ、ワシに遭遇したり、毒虫に刺されたりと、大冒険の連続です。
 現代と違って、戦前の子どもたちにとっては、外国(特に南米)は遠い遠い世界だったことでしょう。
 テレビやグラビア雑誌等のない時代に、「少年駅伝夫」の記事にも書きましたが、こうした世界のことを知る手段として、児童文学は貴重な働きをしていました。
 坪田譲治の語り口は、現代においても全然古びていませんし、非常に視覚的で、子どもたちの知的好奇心を満足させるしっかりとした文体を持っています。
 ただし、語り手の内容には、現在では差別的な内容も含まれていますし、不正確(やや誇張した部分もあるのではないでしょうか)な点もあります。
 特に、ピューマとトラ(ジャガー)の戦争の部分は、小原英雄「猛獣もし戦わば」(その記事を参照してください)によれば、生息地が異なるために両者の戦いの目撃例は非常に少ないとのことなので、語り手の創作(あるいは想像の産物)だと思われます。

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坪田譲治「お化けの世界」坪田譲治作品集1風の中の子供所収

2020-05-24 09:16:17 | 作品論
 1935年(昭和10年)の改造三月号に、山本有三の紹介で掲載されて好評を得て、作者が作家としての生活を軌道に載せた記念すべき作品です。
 作者は、請われて取締役に就任していた、父が作り兄が継いだ郷里の会社を1933年に追われて、ほぼ無一文で東京での生活(すでに四十代で、妻と三人の息子がいます)を再スタートしています。
 この作品では、実生活での会社とのトラブルを題材にして、父のトラブルの整理がなかなか終わらずに(刑事罰に問われたり、莫大な借金を背負ったりしそうでした)、東京に戻るに戻れない中途半端な状況(母は妹を連れて、先に東京へ戻っていました)に置かれた兄弟(小学六年生の善太と小学三年生の三平)の姿(特に弟の三平の視点を中心にして)を描いています。
 苦闘して自殺も考えていた父親の心境を反映して、三平の気持ちも次第に不安定になっていきます。
 特に、三平の死への関心と奇妙な憧れ(死んだほうが楽になる)をたくみな筆致で描いています。
 ラストで、三平の目には、教室の先生や生徒たちがお化けに見えてくる終わり方は、醜い大人の世界(いや大人だけではなく子どもの世界も)を鋭く捉えてていて秀逸です。
 発表誌からもわかるように、この作品は児童文学(当時の言葉で言えば童話)ではなく、一般文学として大人の読者に読まれたものです。
 そのため、善太と三平の視点だけでなく、父親の視点で書かれている部分もあります。
 読者にとっては、その方がトラブルの内容が具体的にわかって、作品を理解しやすくなっています。
 しかし、主人公の善太と三平は、作者の童話作品(例えば「魔法」(その記事を参照してください))にも登場するので、作者は大人と子どもの両方に向けて書いていたのだと思われます。 
 特に、父親と三平(大人と子どもの代表)だけでなく、その両方の気持ちを理解する善太の中間的な視点は、作品のバランス(大人と子ども)を取る上でうまく機能しています。
 こうした人生の負の部分を描いた作者の作品は、1950年代の現代児童文学出発時に、強く否定されました(関連する記事を参照してください)。
 しかし、1980年前後になって、そうした人生の負の部分を描いた作品(例えば、国松俊英「おかしな金曜日」、大石真「教室205号」、那須正幹「ぼくらは海へ」など(それらの記事を参照してください))が評価されるようになり、こうした奇妙な現代児童文学のタブーはなくなりました。
 そう考えてみると、児童文学が完全な形(人生の正の面も負の面も描く)であるためには、作者が描いたこうした作品にもっと着目する必要があるのではないでしょうか。
 特に、社会での様々な(経済的、世代間、教育機会など)格差が広がり、いろいろな大災害(地震、台風、感染症など)に襲われている現代では、大人だけでなく子どもも、人生の負の部分に真摯に向き合い、それを乗り越えていくような文学が求められています。



 
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浜田廣介「五ひきのやもり」講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集所収

2020-05-15 09:49:16 | 作品論
 1928年(昭和3年)に発表された短編です。
 家の壁と外板の間に暮らすやもりの一家の家族愛を描いています。
 動物ファンタジーの一種ですが、肉体は完全にやもり、精神は人間そのものといったタイプで、作者の他の作品と共通しています。
 夫婦で暮らしていたおすのやもりが、ある日人間が板に打ち付けた釘によって腰のあたりを貫通されて、壁と板の間に文字通り釘付けになってしまします。
 しかし、おすのやもりは出血したものの死にませんでした。
 めすのやもりは、逃げずにおすのやもりに餌を運び続けます。
 その後、二匹には、おすの子どもが二匹とめすの子どもが一匹生まれます。
 兄弟やもりは、父親を救うための方法を探しに旅に出ます。
 妹やもりは家を守ります(両親は婿をとらせるつもりです)。
 そして、兄弟たちが苦労したにもかかわらずに、父親を救い出す方法を発見できずに戻ります。
 最後に、人間が板を剥がしてやもりたちは発見されてしまいますが、父親だけでなく他の四匹のやもりも逃げずにそこにとどまります。
 今、読み直してみると、かなりシュールな内容ですが、ユーモアを狙っったとかそういうのではなく、作者は大真面目に書いているようです。
 作者が家族愛を書きたかったのであろうことは容易に読み取れ、ここでも人間に発見されてからやもりの家族がどうなったかは描かれずに、結末は読者に委ねられています。
 しかし、ここに描かれた家族観やジェンダー観は古いだけでなく個性的でもないので、この作品は他の作者の代表作とは違って賞味期限が来ているのかも知れません。


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