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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ばんひろこ「すみれちゃん、おはよう!」

2020-04-12 15:33:48 | 作品論
 もうすぐ小学生になる姉とその弟が主人公の幼年童話です。
 二人は、団地の五階へ引っ越してきましたが、学校が始まる前なのでまだ友だちがいません。
 ある日、二人はコンクリートの割れ目にスミレの花が咲いているのを見つけ、「スミレちゃん」と名付けました。
 みんなに踏まれないように、スミレちゃんのまわりをマルで囲うと、そのそばに注意書きをつけました。

 すみれちゃんお ふまないで

 翌日、思いがけずその後に続けて返事が書いてあるのを見つけました。

 はい

 こうして、二人と未知の人物との風変わりな文通が始まりました。

 なにがすきですか

 さかな

 はむさんど

 まめ

 あそほいはい (遊ぼういっぱい)
 
 はい

 最期には、二人は、同じ年頃の女の子と友だちになります。
 そして、それを祝福するように、スミレちゃんも二輪目の花を咲かせます。

 作者の、子どもたちへの優しい視線ときめ細かな観察が生きた作品になっています。
 三人が友だちになるまでも、小さな事件(誤ってスミレちゃんを踏んでしまったり、生き返らせるために奮闘したり、不思議な猫や夢も登場します)を続けて、幼い読者が飽きないような工夫もなされています。





 
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小川未明「港についた黒んぼ」講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集所収

2020-04-11 18:37:35 | 作品論
 1000作以上あると言われる作者の代表作の一つです。
 題名からしてすでにそうなのですが、「黒んぼ」「めくら」「こじき」などが、使われていますが、100年近く前の1921年(大正10年)に書かれた作品なので、割り引いて考える必要があります。
 港で芸を見せて生活している10才(数え年です)くらいのよわよわしい弟と、十六、七才くらいの美しい姉が、わずかな行き違いから、一生離れ離れになる様子を、非常に叙情的に美しく描いています。
 未明自身は、大人たちから搾取されているこうした子どもたちに、非常に同情的な立場で創作していますが、その表現法が象徴的で、将来への具体性を持たなかったことが、このブログの表題でもある「現代児童文学」者たちから、激しく批判されました(関連する記事を参照してください)。
 こうした近代童話批判の議論は1950年代に行われ、その成果が佐藤さとる「だれも知らない小さな国」やいぬいとみこ「木かげの家の小人たち」といった長編ファンタジーに結実した1959年を現代児童文学の出発点とするのが一般的です(私自身は、それより早い1953年とする立場ですが、詳しくは関連する記事を参照してください)。
 この本(講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集)は1962年の発行され、未明はその前年にお亡くなりになっているのですが、当時の未明作品の日本の児童文学界におけるポジションはまだ大きかったようです。
 この本に作品が二編収録されているのは、宮沢賢治、浜田廣介、坪田譲治、酒井朝彦の四名だけです。
 勉強不足で酒井朝彦についてはあまり知らないのですが、ご存知のように、他の三人のうち賢治については言うまでもありませんが、他の二人も未明と並んで「三種の神器」と呼ばれていた大家です。
 そして、三編収録されているのは、未明ただ一人です。
 あの「子どもと文学」(関連する記事を参照してください)で、「三種の神器」よりも高く評価された千葉省三も、新美南吉も、収録されたのは一編だけなのです。
 しかし、収録された作品は、より象徴性の高い作品である「赤いろうそくと人魚」や「牛女」や金の輪」などと比べると、まだ現代児童文学に近い作品なので、そのあたりにはある種の妥協があったのかもしれません。
 さて、この作品は、その叙情性ばかりではなく、作品の舞台や登場人物が無国籍風であることや、表現が形容詞を多用した美しいがオリジナリティには乏しい点など、一見、児童文学創作の初心者(私自身も学生時代に同様の作品を書いたことがあります)が書いた作品のようです。
 しかし、じっくり読み直してみると、その一見没個性に見える平易な文章で紡ぎあげられた作品全体の美しさや格調の高さは、やはり凡人には真似のできないものです。
 それらは、他の記事にも繰り返し書いた「童話的資質」に、未明は非常に恵まれていたとしか言いようがありません。
 こうした作品を、六十年近く前に小学校低学年だった私が読み取れるはずもなく、ほとんど印象に残らなかったことを告白せざるを得ません。
 しかし、弁明させてもらえば、それは私だけではなかったのです。
 この本には、巻末に読書指導のページがあるのですが、そこでの人気投票(小学校六年生による)でも、未明の作品はベスト10に一編も入っていません。
 第一位は宮沢賢治の「注文の多い料理店」(その記事を参照してください)で、巌谷小波も新美南吉も千葉省三もベスト10に入っているのに、未明だけでなく浜田廣介も坪田譲治も一編も入っていないのが象徴的です。
 やはり、未明の象徴童話は、子ども読者には難しすぎるのかもしれません。
 このブログで繰り返し述べているように、現在の児童文学は大人も含めた女性向けの文学(いわゆるL文学)に変貌しているので、センスのいい女性編集者が優れた女性イラストレーターと組んでプロデュースすれば、未明童話は復権するかもしれません。



 

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小川未明「赤い船」赤い船所収

2020-04-11 16:52:36 | 作品論
 「赤い船」は、明治43年(1910年)12月15日に刊行された小川未明のお伽噺集です。
 同名の短編は、児童文学研究者の猪熊葉子(その記事を参照してください)によると、日本のお伽噺の第一人者であった巌谷小波が、将来の少年文学(児童文学と同義と考えていただいて結構です)が目指すべきであるとした「詩的お伽噺」または「情的お伽噺」を、初めて実現したとされる作品集の表題作にして巻頭作です。
 現在の児童文学を読みなれた目で眺めてみると、ストーリーらしいものはいっさいなく、主人公の少女の、外国や音楽を憧れる気持ちを、平易な美しい文章(今の感覚ではバカテイネイすぎるように感じられますが)で綴った小品です。
 しかし、昔話や講談のようなものしかなかった当時のお伽噺の中では、その時代の日本の子どもの気持ち(未明は本のまえがきで、「私が子供の時分描いた空想」「子どもの胸に宿れる自然の真情」と書いています)を描いた画期的なものだったようです。
 未明がここに描いたような子ども像は、1950年代に当時新しい児童文学(狭義の「現代児童文学」(定義は他の記事を参照してください))を主張していた人たち(主なグループだった、古田足日たち「少年文学宣言」(その記事を参照してください)派と石井桃子たち「子どもと文学」(その記事を参照してください)派の両方)から、たんなる観念に過ぎず「現実の子どもではない」と、激しく批判されました(詳しくは関連する他の記事を参照してください)。
 しかし、彼らが言う「現実の子ども」もまた一つの概念に過ぎないことが、1980年に柄谷行人の「児童の発見」(その記事を参照してください)で批判されて、現在ではどちらの子ども像も、よって立つところが違うだけで等しく観念であると考えるのが一般的です。

赤い船 おとぎばなし集
クリエーター情報なし
Kindleアーカイブ
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ウイリアム・サローヤン「ヒューマン・コメディ」

2020-04-10 15:53:37 | 作品論
 1943年に書かれた作品ですが、その前年に公開され、アカデミー賞を受賞した映画の、作者自身の脚本を小説化したものです。
 そのため、非常に映画的な作品で、短い断章ごとに舞台や登場人物や視点が代わり、読者は立体的に作品世界を捉えることができます。
 主人公の十四歳の電報配達少年を中心に、彼の家族、学校や職場や町の周辺の人々が多数登場する群像劇です。
 タイトルがコメディ(かつてはこの作品の邦題は「人間喜劇」でした)となっていますが、戦争中のアメリカのカリフォルニア州の小さな町で起こる悲喜劇を描いています。
 なにしろ、主人公が配達する電報の大半が、出征した若い男性たちが戦死したことを知らせるものなのです。
 最後には、主人公の最愛の兄の戦死を知らせる電報までが送られてきます。
 しかし、全体としては決して暗くない、言ってみれば人間讃歌のようなものになっているのは、この作品を通して、人間や社会を肯定しようとする作者の視線が感じられるからでしょう。
 また、それを支えるものとして、宗教心、家族愛、郷土愛が、主人公やその他の主要な登場人物の背後にあります。
 第二次世界大戦中という時節柄、やや愛国心が鼻につく部分もありますが、それも含めて古き良き時代のアメリカ社会が描かれています。
 なお、この作品はもちろん一般文学として書かれたのですが、主人公のクラスメイトやもっと年少の子どもたち(主人公の弟は四歳です)がたくさん登場するので、良質な児童文学と言っても差し支えないでしょう。


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末吉暁子「星に帰った少女」

2020-04-10 09:01:08 | 作品論
 1976年に出版されて、日本児童文学者協会と日本児童文芸家協会の新人賞をダブル受賞した作品です。
 1949年へタイムスリップして、主人公と同じ六年生の時の母と出会い、母もまた実母と別れた過去を持つことを知ることにより、抵抗を感じていた母の再婚を主人公が受け入れるストーリーです。
「確固としたファンタジー世界を構築し、母の再婚という今日的な題材を描いている」と、当時は高く評価されました。
 しかし、この過去へタイムスリップする手法は、1958年に書かれ1967年に日本語に翻訳されたフィリッパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」の影響を強く受けていて、特に目新しさはないように感じました。
 解説のさとうさとるによると、当時の日本では、「トムは真夜中の庭で」に影響を受け、手法を模倣した作品が、特に女性作家によってたくさん書かれていたそうです。
 この作品で再現された1949年の三島(作中では三浜という架空の町になっています)の描写は、ピアスが「トムは真夜中の庭で」で鮮やかに再現したヴィクトリア朝のイギリス低地地方の描写に遠く及びません。
 また、母の再婚を受け入れる子どもの心理描写も、男の子と女の子の違いはありますが、1934年に書かれたケストナーの「エーミールと三人のふたご」(その記事を参照してください)よりもかなり劣る感じです。

星に帰った少女
クリエーター情報なし
偕成社
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安藤美紀夫「風の十字路」

2020-04-06 09:45:05 | 作品論
 冒頭で、いきなり中学二年生で十三歳の耕造が、マンションから落ちて死んだところからこの作品は始まります。
 少年の自殺、少女の家出、初潮、非行化、難病など、子どもたちを取り巻くさまざまな問題を扱った作品として、1982年の出版時に話題になった作品です。
 1978年ごろから、こうした従来日本の児童文学では取り上げられなかった題材を描いた作品が、「タブーの崩壊」(関連する記事を参照してください)と呼ばれて、研究者や評論家の間で注目されていたので、その一人である作者の、実作における表現だったのでしょう。
 耕造の幼馴染の亮、小枝子、貴子、千春のそれぞれのその後の姿を通して、子どもたちが現代を生きていく苦しさを描こうとしています。
 父の突然の死、それによって始めた水商売に染まっていく母親に反発して、非行化した元優等生でスポーツマンの亮。
 非行の描き方が型にはまっていて、当時よりさらに一昔前の日活映画でも見るような感じがしました。
 裕福な家庭で育ち、「いい子」でいることに息苦しさにプチ家出(京都に新幹線で行って駅前の京都ホテルに一泊しただけで、しかもそのことを伯父には知らせています)をした小枝子。
 彼女を描く小道具にヘルマン・ヘッセの「車輪の下」の文庫本(執筆当時に安藤の周辺にいたポンジョ(日本女子大学)の文学少女のお嬢さんたちならいざ知らす、一般の読者にはこれがエリートの重圧の比喩だということは当時でもわからなかったでしょう)やグレン・ミラー楽団の「真珠の首飾り」を使うのは古めかしすぎます。
 複雑な家庭に育ち、耕造から遺書をあずかる貴子。
 遺書を預かって耕造の飛び降りるのを体験してからの彼女の行動は、妙に思わせぶりで不可解です。
 筋ジストロフィーにおかされて入院している千春。
 生きたくても長く生きられないと描かれている千春の存在によって、簡単に選んだ耕造の死の軽さを際立たせようとしているのでしょうが、かなりわざとらしい印象を受けます。
 遺書から、耕造は不良グループに暴力をふるわれたり、たかられたりし、逆に他の子からは自分がカツアゲをしていたことから、生きていくことが嫌になったのだということがわかります。
 ラストでは、耕造の死を乗り越えてこれからも生きていこうとする子どもたちの姿が、妙に明るく暗示されています。
 作品には、子どもたちとの同時代性をあらわすために当時の風俗も出てくるのですが、どうもちぐはぐです。
 例えば、キックボクシングのテレビ中継をまねするシーンがありますが、キックボクシングがテレビ中継されていたのは1970年代前半までです。
 また、「がんばれ、タブチくん」にちなんだあだ名を持つ図書館司書が出できますが、これは時代的にはだいたい合ってはいるもののテレビ・アニメ(実際は四コマ漫画とアニメ映画だけでテレビ・アニメではない)と書かれていたりします。
 どうも作者がよく知らない子どもたちの風俗を、無理して作品に取り込んでいる感じがします。
 このあたりから、それまでの現代児童文学の主な書き手(安東美紀夫、古田足日、山中恒、大石真など)が子どもたちの親の年齢あるいはそれ以上に達して、子どもたちの実像をつかめなくなってきていたのかもしれません。
 それにつれて、「現代児童文学」は1980年代に入ってから、行き詰まりを見せ始めます。
 そのため、「現代児童文学」の担い手だった上記のある者は「エンターテインメント」に向かい、またある者は研究者や翻訳家に向かうようになります。
 「現代児童文学」の終焉は、もうすぐそこまで来ていたのかもしれません。

風の十字路 (旺文社創作児童文学)
クリエーター情報なし
旺文社



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巌谷小波「こがね丸]講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集所収

2020-04-05 17:22:03 | 作品論
 1891年(明治24年)に書かれた、日本の近代童話の嚆矢と言われている作品です。
 作者は、童話(そのころはお伽噺と呼ばれていました)の創作や全国を回っての口演(読み聞かせの大掛かりなもの)で日本中の子どもたちに慕われ、日本おとぎばなしの父と呼ばれています。
 解説の鳥越信によると、この作品はゲーテの「きつねの裁判」と滝沢馬琴の「里見八犬伝」をヒントにして書いた言われているそうですが、今回読み直してみると、もっと広範な昔話、御伽草子、講談などを巧みに取り入れて書いた作品のように思えます。
 ざっと見ただけで、桃太郎、カチカチ山、講談の仇討ち物、フランス寓話の狐物語(その記事を参照してください。ゲーテの作品はこれの流れをくむものです)、水滸伝(その記事を参照してください。「南総里見八犬伝」はこの影響を受けています)などの要素が見受けられます。
 現在の観点で言えば、封建的だったり、帝国主義的だったり、男尊女卑だったり、残酷すぎたり、差別的だったり、子どもに適さない表現だったりする点が多く見られますが、面白いストーリー(現在ならばエンターテインメント作品)の中に、教育的な要素(ここでは、明治時代らしく教育勅語の影響が見られ、孝(ここでは親の敵をうつ)や忠(国や支配者(ここでは庄屋)に従う)や礼(目上の者に礼儀を尽くす))を加味する、日本的な児童文学の形を作り出したと言えるでしょう。
 作者がこの作品を書いたのは弱冠21歳の時ですから、その知識と才能には素晴らしいものがあります。
 なお、この作品は発表当時文語体で書かれていたのですが、「三十年目書き直しこがね丸」(その記事を参照してください)として自ら口語体に書き直して、1921年(大正10年)に出版されました。
 私が読んだこの本は、もちろんこの口語体の方です。
 私が初めてこの作品を読んだのは、小学校ニ年の1962年(昭和37年)でした(他の記事にも書きましたが、特殊な幼少時代を過ごしたので読書に関しては異様に早熟でした)が、ここに書かれている内容にはさほど違和感は感じませんでした。
 そのころは、少年サンデーなどの漫画週刊誌にも、時代物(「伊賀の影丸」、「カムイ伝](その記事を参照してください。実際に私が読んだのは「カムイ外伝」の方です)、「弓道士魂」(この影響を受けて、高校の時に弓道部に入りました))や戦記物(「紫電改の鷹」や[ゼロ戦ハヤト]など)が連載されていましたし、テレビでも時代劇(大河ドラマの「赤穂浪士]は、小学校でも大人気でした)はたくさん放送されていました。
 また、この作品は、1963年に公開された東映動画のアニメーション映画「わんわん忠臣蔵」に、大きな影響を与えています。
 東映動画ではオリジナルと称していますが、手塚治虫による原案の「森の忠臣蔵」とは大きく変わっていて、誰が見ても(私は、すでに「こがね丸]を読んでいましたので、すぐに分かりました)「こがね丸」の翻案(忠臣蔵の要素を入れて、時代を現代にしています)だということは分かります。
 誤解をまねかないように書き添えれば、子どもの時(実は今でもそうなのですが)は、「こがね丸」より「わんわん忠臣蔵」の方が好きでした。
 特に、ラストで主人公のロック(大石内蔵助の石のストーンではかっこ悪いので岩にしたのでしょう)が敵役の虎のキラー(吉良上野介と殺し屋をかけたのでしょう)が、ローラーコースターで対決するシーンはハラハラしたことを覚えていますし、恥ずかしながら「すすーめ、すすーめや、しっぽを上げて]で始まるテーマ曲の「わんわんマーチ」は今でも歌うことができます。
 ここで言いたいのは、当時の日本の大人たち(特に男性)の心の中に、いかに「こがね丸」が深く根ざしていたかということと、それだからこそオリジナルに敬意を払って欲しかったということです。



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鈴木三重吉「少年駅伝夫」講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集所収

2020-04-04 08:26:01 | 作品論
 大正時代の童話雑誌「赤い鳥」(この作品の作者が、主催していました)に掲載された作品です。
 スウェーデンの田舎町を旅行した時の駅伝夫(駅馬車の橇バージョンの御者だと思ってください)の十二歳ぐらいの少年の思い出を、主人公が回想する形で描かれています。
 といっても、当時の日本人には、そう簡単にヨーロッパ、しかもこの作品の舞台になったような北欧の田舎へ旅行はできません。
 鳥越信による解説によると、外国作品の再話のようです。
 しかし、鳥越も述べているように、作者の作品を選ぶ目の確かさと、再話にあたっての筆のたくみさは、作品が発表されてから約百年がたった今でも少しも色褪せるものではありません。
 児童文学に限らず、かつての文学には、当時は日本人がその地を訪れることなど想像もできなかった文字通り遠い外国の風物や人々の暮らしを伝える役目がありました。
 私自身も、柏原兵三の「ベルリン漂白」(1963年から1965年にかけて政府派遣の留学生としてベルリンの滞在していた大学教師(後に芥川賞を受賞した作家)が、妻と幼い子どもを呼び寄せるために、まだ住宅事情の良くなかったベルリンのあちこちを、連日貸し部屋を探して彷徨い訪ねた日々を描いています)や、庄野潤三の「ガンビア滞在記」(ロックフェラー財団によって、1957年から1958年にかけてアメリカの田舎町ガンビアにあるケニオン大学に夫婦(三人の子どもたちを日本に残して!)で滞在した芥川賞作家が、田舎の大学町の人々と日常を描いています)を読んで、ベルリン(ケストナーの「エーミールと探偵たち]の舞台でもあります!)やアメリカの田舎町にあこがれましたが、まさか自分がそういった場所を訪れる機会があるとは想像していませんでした。
 現在では、誰でも出張や旅行で簡単に海外を訪れることができるのですが、そうして自分でもドイツやアメリカへ行ってみると、残念ながら外国の風物や暮らしの皮相的な面しか味わうことができず、今さらながら優れた作家たちの観察眼の確かさを再確認することになります。
 この作品でも、吹雪の北欧の原野で立ち往生して、金髪碧眼のほっぺたの赤い少年の落ち着いた行動によって、毛皮と藁で隙間風を防いだ橇の中で、思いがけず暖かい一夜を過ごせた訪問者の感動を、日本の子どもたちに鮮やかに伝えてくれます。



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長 新太「キャベツくん」

2020-02-28 08:44:14 | 作品論
1981年発行の絵本にっぽん大賞を受賞した作品です。
 私が読んだ本は1990年12月の18刷ですが、その後も増刷を重ねてロングセラーになっていることでしょう。
 この絵本も、児童文学研究者の石井直人が「現代児童文学の条件」(「研究 日本の児童文学 4 現代児童文学の可能性」所収、詳しくはその記事を参照してください)において、赤羽末吉の「おおきなおおきなおいも」や田島征三の「しばてん」などと並べて、「これらの絵本の画面には、およそ(読者の)「内面」に回収できない、とんでもない力が充溢している。」と、評しています。
 しかし、長の絵はのんびりとしたタッチなので、この作品に対しては石井の評はあまりあたっていない感じです。
 お話は、キャベツくんを食べた動物たちがどこかにキャベツがついた形に変身してしまうシーンが延々と続くだけなので、長が得意とするナンセンステールでしょう。
 長には、「おしゃべりなたまごやき(文:寺村輝夫)」や「のんびりこぶたとせかせかうさぎ(文:小沢正)」のような傑作絵本がたくさんありますが、どちらかというと絵だけを担当した作品の方が優れているものが多いようです。

キャベツくん (ぽっぽライブラリ―みるみる絵本)
クリエーター情報なし
文研出版
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中野みち子「海辺のマーチ」

2020-02-26 08:35:09 | 作品論
 この作品は、労働組合のことを取り上げた児童文学の代表作の一つです。
 1971年初版なので、70年安保の挫折感がどのように出てくるのかと思ったのですが、時代設定が1966、67年ごろで、執筆されたのも1960年代末と思われますので、まだ社会主義リアリズムは破綻していなくて、組合運動の未来に作者は希望を持って書いています。
 主人公に作者の意見を代弁される部分があってかなりテーマ主義なにおいがするのですが、主人公を組合側でなく管理者側の娘にしたことが、一方的な組合賛美にならなくてすむことに成功しています。
 営林署や労働組合への取材もかなりきちんとされていますし、登場人物や風景もしっかりと書き込まれています。
 私の読んだ本は1980年8月で10刷なので、少なくとも1970年代にはかなり読まれたのだと思います。

海辺のマーチ (ジュニア・ライブラリー)
クリエーター情報なし
理論社
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最上一平「へんてこテーマソング」

2020-02-16 10:56:23 | 作品論
 小学校一年生の、おっちょこちょいで元気ないがらしくんを主人公にしたシリーズの第二作です。
 この作品でも、いがらしくんの一見ノーテンキな行動が、周囲の友だちを元気づけます。
 今回のお相手は、学校に来られなくなった花山しずくちゃんです。
 力持ちのいがらしくんが、五キロのお米を運ぶためにおかあさんとスーパーに来たときに、
しずくちゃんと出会います。
 いがらしくんが歌っていたデタラメなへんてこテーマソングを、しずくちゃんが気に入ったのをきっかけに二人は仲よくなり、手紙のやりとりが始まります。
 そのやりとりの中で、いがらしくんはしずくちゃんが学校に来られなくなった訳を知りますし、しずくちゃんはへんてこないがらしくんのことを気に入ります。
 やがて、しずくちゃんは新しい方向へ一歩を踏み出すのですが、いがらしくんとの出会いが、そのきっかけになったかもしれません。
 楽しいいたずらや言葉遊びなどを通して、幼い子どもにとっての、他者を知ること、他者を理解すること、他者を応援することなどを考えさせくれる作品です。


へんてこテーマソング
有田 奈央
新日本出版社
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サキ「盲点」サキ短編集所収

2020-01-23 17:40:54 | 作品論
 ありふれた料理人ではないという理由で、大伯母の遺産相続人になった甥が持ってきた彼女の兄を殺害した犯人の決定的な証拠の手紙を、あっさりと暖炉にの火にくべて隠滅してしまった狂的な食通の貴族が描かれています。
 サキの作品の特徴として、こうした極端にデフォルメされた人物がよく登場しますが、それゆえに現在でも古びない人間の本質(良くない方の)がとらえられているのかもしれません。

サキ短編集 (新潮文庫)
中村 能三
新潮社
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サキ「ラプロシュカの霊魂」サキ短編集所収

2020-01-21 15:46:51 | 作品論
 非常にケチな友人が、わずか2フランの主人公への貸し金(主人公が巧妙に仕組んで、絶対にお金を貸さない友人に貸せさせたので、それをうらんで死んだとも読めます)を残して急死します。
 それ以来、彼の霊魂は、主人公がその2フランを金持ちに寄付する(つまり意味のない使い方をさせる)まで、まとわりつくという、かなり滑稽な設定の掌編です。
 アイデアは面白いのですが、2フランを寄付する適当な相手を見つけるプロセスが、現在の読者にはなかなか理解が困難なので、作品としての賞味期限が過ぎてしまっているのかもしれません。

サキ短編集 (新潮文庫)
中村 能三
新潮社


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斉藤栄美 作、岡本 順 絵「ふしぎなおるすばん」

2020-01-21 08:33:21 | 作品論
 主人公の男の子が、一人でおるすばんをする絵本です。
 全体が「しりとり」になっていて、ページを開くたびに何が現れるか楽しみになる工夫が凝らされています。
 作中の「しりとり」は「しりとり→りんご→ごりら→らくだ→だちょう→うし→しろくま→まんとひひ→ひでお(主人公)→」と続き、最後に素敵なオチがついています(それは、読んでのお楽しみ)。
 作者は、シリアスなリアリズム作品、ラブコメなどのエンターテインメント作品、この作品のような絵本など、多彩な作品群を書き分ける豊かな才能に恵まれています。

ふしぎなおるすばん (えほんはともだち)
クリエーター情報なし
ポプラ社
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サキ「ある殺人犯の告白」サキ短編集所収

2020-01-20 09:07:01 | 作品論
 人妻に不倫を拒否されて自暴自棄になった男が、偶然出くわした顔がめちゃめちゃになった死体の男(交通事故によるものと思い込んでいました)になりすまして、出奔します。
 しかし、その死体が殺人事件によるものと判明して、皮肉にも自分自身を殺した罪で捕まり死刑になります。
 題名どおりに大半がモノローグなのでサスペンスに欠けますし、ラストのオチもサキとしてはいまいちです。

サキ短編集 (新潮文庫)
中村 能三
新潮社
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