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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

サキ「おせっかい」サキ短編集所収

2020-01-19 18:18:32 | 作品論
 領地の境界線争いのために長年の宿敵だった二人の領主が、偶然のいたずらで、山の中で倒れてきた大木の下敷きになって身動きがとれなくなります。
 なかなか来ないそれぞれの部下たちを待つ間に、二人は争い事の馬鹿馬鹿しさを悟って和解します。
 大勢の足音が近づいてきます。
 しかし、それはどちらの部下でもなく、狼の群れでした。
 この思わずゾッとさせられるオチの鋭さが、サキの真骨頂でしょう。

サキ短編集 (新潮文庫)
中村 能三
新潮社
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サキ「セルノグラツの狼」サキ短編集所収

2020-01-18 09:36:58 | 作品論
 今は没落した古い家柄のセルノグラツ家の最後の末裔である老女が死ぬときに、伝説どおりに城の周囲に狼が集まって遠吠えをします。
 サキの作品の中では、ラストの切れ味はもうひとつですが、ホラー的な味わいのある小品です。

サキ短編集 (新潮文庫)
中村 能三
新潮社
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サキ「家庭」サキ短編集所収

2020-01-07 09:50:15 | 作品論
サキ短編集 (新潮文庫)
中村 能三
新潮社


 裕福な独身男性が、周囲の期待する家庭的な女性ではなく、職業婦人(死語ですね。何しろ百年以上も前に書かれた作品ですので。彼女の仕事は今の言葉で言えば、帽子デザイナーです)と結婚します。
 しかし、結婚すると、彼女はさっさと仕事を辞めてしまい、彼の嫌いな世話焼き女房になってしまいます。
 もちろんこの作品は古いジェンダー観に基づいて書かれているのですが、日本においても女性の(あるいは社会が要求する)職業観は二転三転しています。
 高度成長時代は、男性が会社で働いて女性が家庭を支える方が効率が良かったので、それが一般化しました(それ以前は、庶民では男女の区別なく働いていました)。
 その後、家庭の電化と社会の労働力不足で、女性の社会進出が求められるようになりました。
 それが、低成長時代になると労働力が余って就職氷河期をむかえ、特に女性の就職は困難になり、それに疲れた若い女性の専業主婦志向が高まります。
 しかし、高度成長時代と違って、豊かな生活に慣れていたために、結婚相手への経済的条件が高過ぎて(年収六百万円以上で、これをクリアできる若い男性は当時4パーセントしかいませんでした)、非婚化と少子化に拍車をかけました。
 その後、世界景気が持ち直したのと団塊の世代が退職したために人手不足になって、また女性の社会進出が声だかに叫ばれているのは、ご存じのとおりです。
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梶井基次郎「檸檬」

2020-01-05 11:22:09 | 作品論
檸檬
梶井基次郎
新潮社


 僅か数十編の小品を書いただけで、三十一歳の若さで亡くなった作者の、1925年に発表された代表作です。
 当時は死病だった肺結核を患い、金も仕事もなく、頼れる身寄りもなく、友人の下宿を転々としながら、残された短い命をどのように燃焼させたらいいかも分からずに、ただ焦燥感だけにとらわれている青年の心情を僅かな紙数で描ききっています。
 しかも、そのどうにもやるせない状況を、決して暗くなることなく、レモンイエローに象徴される鮮やかな色調と躍動感溢れる文章で描ききっています。
 こうした作品をあらためて読むと、文学というジャンルは、少なくとも日本では、百年以上前に、漱石や鴎外をピークにして、明らかに衰退していることがよく分かります。
 それは、文学に限ったことではなく、映画は1950年代、マンガは1960年代、テレビは1970年代をピークとして、日本では衰退しています。
 これは、商業的なピークではなく、表現方法あるいは芸術としてのピークを意味しています。
 もしかすると、現在商業的に成功しているアニメやゲームも、表現方法としては、すでにピークを過ぎているのかもしれません。
 もっとも、表現方法としての先輩である、音楽は18世紀に、絵画は19世紀にピークを迎えているのですから、こうした分野の宿命なのかもしれませんが。
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山中恒「ぼくがぼくであること」

2020-01-04 09:35:06 | 作品論
 教育ママにあまりにしぼられたために、衝動的に家出をした小学六年生の主人公の男の子が、偶然訪れた山村でのひと夏の体験を通して、「ぼくはぼくなんだ」と一人の人間として生きていくことを自覚する作品です。
 このよくありそうなテーマを単なる成長物語ではなく、一級のエンターテインメントにしてしまうのが、天性のストーリーテラー、山中恒の作家としての腕前でしょう。
 なにしろ、主人公の淡い初恋、ひき逃げ事件、替え玉母親、さらには、武田信玄の埋蔵金まで、エンタメ要素満載です。
 しかも、そこへ、受験競争、学園闘争、家庭崩壊、戦争体験などの、出版された1969年当時の社会問題までも、巧みに盛り込んでいます
 作者の文才は、早大童話会時代からつとに有名で、「山中恒がいたから創作はあきらめた。敵わないですよ、彼には」(「『早稲田の児童文学サークル』と現代日本児童文学」日本児童文学2011年7・8月号所収)と、児童文学研究者で翻訳家の神宮輝夫に言わしめたほどです。
 児童文学研究者の鳥越信も、同様の理由で(彼は強がりなので、公式にはケストナーのように幼少時代を鮮明に覚えていないから創作をあきらめたんだと言っていましたが)作家をあきらめて研究者になったといわれています。
 19歳だった私自身の1973年のレポート(早稲田大学児童文学研究会「ビードロ」所収)でも、古田足日や後藤竜二のテーマ主義が目立つ当時の作品に比べて、作者の優れたストーリー性と社会性のバランスを高く評価していました。
 その後1970年代に入ると、「おれは児童文学者ではなく児童読み物作家なんだ」と、作者自身が完全に開き直ってしまい、作品からは社会性が失われてしまいました。
 1974年に聞いた作者の講演の記憶では、自分の本が課題図書に選ばれないことをかなりひがんでいた面もあると思われます。
 なお、児童文学者協会の協会賞は1969年に「天文子守歌」で選ばれているのですが、作者は辞退しています。
 講演でも、「協会賞はいらないから課題図書に選んでくれ」と言っていました(今はそれほどではありませんが、当時は課題図書になれば家が建つと言われていました)。

ぼくがぼくであること (岩波少年文庫 86)
クリエーター情報なし
岩波書店
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最上一平「山のちょうじょうの木のてっぺん」

2019-11-10 09:58:07 | 作品論
 小学校低学年ぐらいの、おっちょこちょいで元気ないがらしくんを主人公にしたシリーズの第一作です。
 いがらしくんと仲良しのにしやんは、対照的に運動が苦手で泣き虫なおとなしい子です。
 いがらしくんは、そんなにしやんをついかまいたくなって、くすぐったり、プロレス技をかけたりします。
 ある日、にしやんが、いつもと違った様子で登校してきます。
 愛犬のごんすけが、年をとったのと病気のために死にそうなのです。
 ごんすけは、にしやん(いがらしくんも)が生まれる前に、亡くなったおじいちゃんの家からもらわれてきた人間だと100才ぐらいの老犬で、にしやんは何をするのにもずっと一緒だったのです。
 学校が終わって、いつもとまるで違って全速力で家へ走って帰るにしやんを、いがらしくんは追いかけます。
 静かに死んでいくごんすけを、優しく見守るにしやんといがらしくん。
 おかあさんにごんすけが生まれた雪深い故郷の様子(にしやんも行ったことがあります)を聞きながら、二人はごんすけが死んだら、故郷の山の頂上の木のてっぺんに吹く風になることを想像します。
 幼い子どもにとっての、死ぬこと、年をとること、そして、そうした前提で生きていくために大事なことを考えさせてくれる作品です。

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井上ひさし「聖ピーター銀行の破産」モッキンポット師の後始末所収

2019-11-07 16:17:11 | 作品論
 モッキンポット師シリーズの第3作です。
 主人公たち貧乏学生は、今までは主にカソリックの信者たちの好意に甘えて脱線を繰り返していたのですが、ついに禁断を犯してしまいます。
 修道士たちに、直接迷惑をかけてしまうのです。
 しかも、ご法度のギャンブル(私製のパチンコ遊びです)なので、カソリックの人たちからの反発もあったのではないかと思われます。
 作者としては、聖職者も煩悩からは逃れられないことを描きたかったのだと思いますが、最近のカソリックの聖職者たちのスキャンダルから比べると、かわいい内容です。
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井上ひさし「モッキンポット師の後始末」モッキンポット師の後始末所収

2019-10-21 14:11:30 | 作品論
 作者の、上智大学時代の貧乏生活をもとに、仙台のカソリック系の養護施設にいた時のカナダ人修道士の恩師たちをモデルにしたと言われているユーモア小説です。
 戦後の苦学生たちの食べるための奮闘ぶりと、彼らが仕出かした失敗を文句言いつつ、いつも尻拭いしてくれる修道士の慈愛に満ちた姿を、作者独特のユーモアたっぷりに描いています。
 あやしい関西弁を操るモッキンポット師は、一見「変な外人」風ですが、その裏に並々ならぬ教養と異国の若者たちへの深い愛情が感じられて、非常に魅力的です。
 また、作者の作家としての見習い時代の様子も垣間見れて、興味深い内容になっています。
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井上ひさし「モッキンポット師の三度笠」モッキンポット師の後始末所収

2019-10-21 14:09:32 | 作品論
 モッキンポット師シリーズの最終作です。
 この作品で、モッキンポット師は、主人公たちの後始末の末に、ついに教団から強制帰国させられます。
 モッキンポット師は実在の人物ではなく、作者が仙台の養護施設にいた時に、子どもたちに限りない愛情を注いでくれたカナダ人の修道士たちをイメージして作られた作者にとっての「神」そのものようです。
 それゆえ、最終回で、作者の分身である主人公と、彼のライフワークである演劇を結びつける役を演じさせたのも、作者にとっては必然だったのでしょう。
 比較演劇論を専攻している設定のモッキンポット師に、ラストで日本の大衆演劇をテーマにし多論文でソルボンヌ大学の文学博士号を献じたのは、作者の恩師であるカナダ人修道士たちへのお礼だったのでしょう。
 なお、この作品に出てくる北千住劇場のモデルと思われる大衆演劇の劇場は、私が中学生のころ(1960年代後半)まではまだ健在でした。
 ただし、すでにテレビが各家庭に入っていた時代なので、かなりさびれてはいました。
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井上ひさし「逢初一号館の奇跡」モッキンポット師の後始末所収

2019-10-20 09:54:07 | 作品論
 モッキンポット師シリーズの第4作です。
 ここでも、主人公たち貧乏学生が、調子にのり過ぎて失敗し、モッキンポット師が後始末をするパターンは変わりません。
 しかし、前作からは、主人公の小松(作者の分身で上智大学文学部生)と、学生寮の寮長だった土田(東大医学部)と服寮長だった日野(教育大(筑波大)理学部)にだけになってきて、当時の学生というエリート層(特に土田と日野は超エリートでしょう)の社会への甘えのようなものが鼻についてきました。
 この作品が書かれた1971年は、すでに大学の大衆化が進んで、大学生が特別視される時代は終了していましたが、読者の方ではそうした雰囲気を理解できるころでした。
 しかし、今では、そういった大学生の存在は全く理解できない時代なので、彼らが起こしたトラブルのいくつかは、犯罪と見なされても仕方がないかもしれません。
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井上ひさし「聖パウロ学生寮の没落」モッキンポット師の後始末所収

2019-10-17 16:25:56 | 作品論
 モッキンポット師シリーズの第二弾です。
 主人公たち、貧乏寮生の脱線ぶりはエスカレートして、とうとう彼らの住む学生寮は取り壊しになってしまいます。
 しかし、そんな彼らにも、指導教官であるモッキンポット師は、救いの手を差し伸べてくれて、新しい行き先を世話してくれます。
 「モッキンポット師の後始末」(その記事を参照してください)が好評(後にテレビドラマ化されています)だったので、シリーズ化が決まったらしく、この作品では第三弾への伏線も張ってあります。
 こうしたシリーズ作品はでは、エスカレート化とマンネリ化は避けられないのですが、このシリーズでもその傾向は見られます。
 
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サキ「十三人目」サキ短編集所収

2019-10-09 18:48:09 | 作品論
 それぞれ大勢の子どもがいる男女が、再婚しようとします。
 しかし、子どもの合計人数が13人だったので、不吉だという理由で居合わせた一人しか子どもがいない女性に、無理矢理一人押し付けようとします。
 当然拒否した女性が怒って立ち去った後で、もう一度きちんと子どもを数え直したら、本当は合計12人だということが分かって、めでたくゴールインというオチですが、その過程で子どもたちをまるで物か何かのようにしか考えていない二人(ある意味ではお似合いなのですが)を痛烈に風刺しています。
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サキ「親米家」サキ短編集所収

2019-10-08 18:43:39 | 作品論
 ボヘミアンやボヘミアン気取りの連中が集まるレストランで、画家になる夢を諦めて故郷へ帰ることを決めた若者が、最後に芸術がわかるふりをしている連中に一杯食わせて、売れなかった絵をまとめて売り付けます。
 というよりは、連中が勝手に彼が売れっ子になったと誤解して自爆しただけなのですが、当時世界中にいたお金持ちのアメリカ人らしいエピソードをからめて、ストンと落ちを付けています。
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サキ「休養」サキ短編集所収

2019-10-01 09:27:48 | 作品論
 選挙活動中で疲れている代議士候補を、休養させて一晩でも政治のことを忘れさせるために、支持者の有力者夫人が屋敷に招きます。
 しかし、ここでも彼は政治のことを忘れられません。
 その晩、いたずら好きの夫人の十六歳の姪の大嘘に騙されて、子ブタと軍鶏を寝室に預かるはめになってしまいます。
 彼らの巻き起こす大騒動のために、彼は一睡もできませんでした。
 でも、姪は、彼に一晩政治を忘れさせることに成功したのです。
 この作品でも、鮮やかな切れ味とブラックな味わいを堪能させてくれます。
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サキ「ピザンチン風オムレツ」サキ短編集所収

2019-09-21 09:58:19 | 作品論
 自称社会主義者(かつての日本では、「心情左派」と呼ばれていました)のブルジョアの女主人(そのため、召使いや料理人は組合員だけを雇っています)が、賓客(シリアの大公)を迎えるパーティで、召使たちの組合によるストライキに翻弄されて、おそらく精神疾患に罹ってしまいます。
 まず、スト破りの料理人を大公の好物のピザンチン風オムレツのために雇ったために、反発した召使たちの組合のストライキのために身支度ができなくなります。
 やむなくその料理人を解雇したら、今度はその男が属する料理人の組合が反発してストライキをして、晩餐を用意できなくなります。
 口先だけで行動の伴わない金持ちの社会主義者を両断し、本当は保守主義者のくせに生活のためだけのご都合主義的な組合員たちの滑稽さも、返す刀で鮮やかに切り捨てています。
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