ヒロシが、蟹沢先生に国語を教わったのは、中学一年と二年の二年間だった。その年の終わりに、先生は、学校を定年退職されたのだった。
ヒロシが先生の退職のことを知ったのは、学年末試験の最中だった。昼休みにクラスの連中とだべっているときに、クラス委員の星野から聞いたのだ。
「そういえば、カニ先が学校を辞めるんだってさ」
星野が、それほど関心なさそうにみんなにいった。
「えーっ、どうして?」
ヒロシは驚いて星野に聞き返した。
「うん、定年なんだって。職員室で先生たちが話してたぜ」
星野は、いつものようにヒロシの机に腰をおろして、足をブラブラさせながら答えた。
「へーっ、カニ先って、そんな年だったんだ」
隣りにいた吉村も、びっくりしたような声を出していた。ヒロシも、それに同感だった。
自分の父親よりは年上だろうとは思っていたけれど、定年退職になるほどの年だとは思ってもみなかった。
定年を迎えた人というと、どうしても母方の祖父の顔が浮かんでくる。蟹沢先生よりも、もっとずっと年取った人のイメージがあった。もっとも、祖父はとうに七十を超えているはずだったから、それも無理はないことだったけれど。
「そういえば、蟹沢先生が退職するってよ」
試験が終わった日の夕食の時に、ヒロシは五つ年上の大学生の姉貴に話した。姉貴も蟹沢先生に教わったと、聞いていたからだ。
「そう。蟹沢先生も、もう定年かあ。わたしの知っている先生たちは、学校にほとんどいなくなっちゃったんしゃない?」
姉貴は、少しさびしそうな顔をした。
「そうかもしれないなあ。なにしろ、毎年十人ぐらいは、退職や転勤でいなくなってるからね」
ヒロシは、おかずのハンバーグをほおばりながら答えた。
「あら、蟹沢先生、お辞めになるの?」
台所でおつゆをよそっていたおかあさんが、口をはさんだ。
「そうなんだよ。今度の終業式でおしまいだって」
「はい、おつゆ」
おかあさんが、おわんを二人に渡した。今日のおつゆはけんちん汁だった。おいしそうなゆげをたてている。
「あの先生は、ほんとにユニークだったわね。私たちの中学では国語を教えているけど、英語の先生の資格も持っているし、大学ではフランス文学を専攻していたんだって」
姉貴は、なつかしそうに話していた。
「へえ、ほんと。そりゃ、初耳だな」
ヒロシは、たんなる国語の先生としての姿しか知らなかった。
「そうだっ。あの先生、酔っ払うとフランス国歌を歌うんだってさ。たしか『ラ・マルセイエーズ』って、いったよね。それも、すごい音痴でさ。聞いた人に必ず笑われちゃうんだけど、こりずにいつも歌うんだって」
姉貴は笑いながらいった
「姉貴も聞いたことあるのか?」
ヒロシは、興味をひかれて聞き返した
「ううん、聞いたことない。だけど、あの先生のクラスだった子が、この前、クラス会で聞いたって言ってたよ」
「ふーん」
「『ラ・マルセイエーズ』って、どんなメロディだっけ?」
おかあさんが、また口をはさんだ。
「えっ?」
姉貴もしばらく考えているようだったけれど、思い出せないみたいだ。
(どんなだったろう?)
アメリカの国歌だったら、覚えている。「星条旗よ、永遠に」だ。メジャーリーグの中継を見たりするときに、唄われるのを聞いたことがある。
でも、フランス国歌は、あまり聞いたことがない。けっきょく、家族三人、だれもそのメロディを思い出せなかった。
ヒロシにとって、蟹沢先生は大の苦手だった。
色黒でひげがすごく濃い。黒ぶちのめがねをかけていて、背はヒロシよりも低いくらいだ。いつも皮肉っぽい笑いを口の端に浮かべている。
生徒たちを、自分でつけたあだ名で呼ぶ。しかも、そのあだ名が特徴をすごくうまくつかまえているのだ。だから、友だちや他の先生までが使うようになってしまう。
ヒロシは、姉貴が二人も同じ中学を卒業している。それで、入学したとき、真っ先にあだ名をつけられてしまった。
「おい、山村。おまえのねえさんたちは、できが良くて美人だったけど、おまえはチョコマカ落ち着きがないなあ。コロコロ太っていて、ぜんぜんねえさんたちに似てないなあ。似てるといやあ、タヌキだな。そうだ。おまえ、タヌキってあだ名がいいかもな。いやゴロが悪いから、ポンポコにしよう」
以来、学校では、ヒロシのことを本名で呼ぶものはいない。女の子たちまでが、「ポンポコ君」なんていう。男子は、「ポンポコ」とか、「山ポン」と呼びすてだ。
翌日の昼休みも、ヒロシはいつものようにクラスの連中とだべっていた。蟹沢先生の話を持ち出したのは、星野だった。
「カニ先の授業も、あと二、三回で終わりだなあ」
「うん、あいつも変わったやつだったよな」
ヒロシは、カッターで消しゴムをきざみながらいった。
「カニ先には、いつもやられっぱなしだったな」
ヒロシの前の席で、いすに横向きに座っていた吉村が言った。蟹沢先生のあだ名や皮肉の餌食になったのは、ヒロシだけではなかったのだ。
「でも、あれでけっこう憎めない所もあるんだよなあ」
星野が、意外にもしみじみとした声を出した。
「でも、一度でいいから、カニ先にひと泡ふかしてやりたかったな」
吉村が残念そうに言った。
「カニだからか?」
吉村は、あげ足を取った星野のボディーに、軽くパンチを入れた。
ヒロシが、「ラ・マルセイエーズ」の件を思い出したのはその時だ。
「えっ。あいつ、『ラ・マルセイエーズ』なんか歌うのか」
ヒロシの話が終わると、星野がおもしろそうに言った。
「クラスで、歌わしてやりたいなあ」
吉村がそう言うと、他の連中も乗り気になってきた。
「ただ歌わすだけじゃ、おもしろくないよ。なんか、趣向をこらしてさ、カニ先をギャフンと言わしてやりたいな」
ヒロシがそう言ってみんなの賛同を得た時、昼休み終了のチャイムが鳴った。
ヒロシは、授業中もこのことを考え続けていた。こういうことにかけるヒロシの情熱は、本当にたいしたものだ。
その日の放課後に、もう一度、みんなを集めて相談した結果、つぎのような手はずになった。
①授業の最後に、ヒロシが「ラ・マルセイエーズ」を歌ってくれるように先生に頼む。
②先生が断ったら、クラス全員で「ラ・マルセイエーズ」を連呼して要求する。
③先生が引き受けて、最初の一小節を歌ったら、一列目が笑う。次の小節では二列目が、以下順番に各列が笑い、最後にみんなで大笑いする。
どうしても先生が引き受けなかったり、途中で怒り出したりしたら、みんなで「ラ・マルセイエーズ」を合唱する。そうすれば、悪意からではないことが、わかってもらえるはずだ。
ヒロシたち二年三組での蟹沢先生の最終授業は、三月二十二日。あと一週間しかない。クラスのみんなへの根回しもいるし、当日の用意も必要だ。大急ぎで準備しなければならない。
その日の放課後、ヒロシは、星野と一緒に、区立図書館の視聴覚ライブラリーへ出かけて行った。もちろん、「ラ・マルセイエーズ」のCDを借りるためだ。
そこのライブラリーは充実しているので、ヒロシは、時々、好きなJポップのCDや外国映画のDVDを借りている。
でも、今日はそんなひまはない。
「どこを探せばいいかなあ?」
ヒロシは、あたりをキョロキョロながめながら、星野に聞いた。
「国歌のコーナーってないか?」
星野も、あたりを見回している。
「そんなのあるはずないよ」
ヒロシは、あきれたように星野の顔を見た。
「じゃあ、クラシックだな」
星野が自信ありげに言った。
「ラ・マルセイエーズ」のCDは、予想どおりにクラシックのコーナーで見つかった。
しかし、残念ながら歌詞がついていない。インストルメンタルなのだ。
「クソーッ。これじゃだめだ」
ヒロシがそのCDを棚に戻そうとした時、星野があわてておしとどめた。
「待てよ。カニ先が歌ったりさ、おれたちが歌ったりする時に、バックに使えるじゃないか」
「あっ、そうか」
結局、「ラ・マルセイエーズ」が入っているフランスの合唱団のCDを見つけるのには、それから三十分近くもかかってしまった。
図書館の帰りに、ヒロシは、駅の前で星野と別れた。ヒロシは、となりの区から電車通学をしているのだ。
ホームで電車を待っていると、まるで待ち合わせでもしていたかのように、蟹沢先生がやってきた。
「おい、ポンポコ。なにやってんだ、こんな遅くに」
先生は、めざとくヒロシを見つけると、いつものように大声で言った。
「こんちは。ちょっと図書館に行ってたもんで」
ヒロシはそう言うと、手にさげていたCDの入ったビニール袋を、持ち上げてみせた。
(まさか、この中身が『ラ・マルセイエーズ』だとは思うまい)
「そうか」
先生は、納得したようすでうなずいた。
さいわい、すぐに電車がホームに入ってきたので、先生は、それ以上話しかけてこなかった。
ヒロシは、電車に乗るとドアのそばに立って、反対側の席に腰をおろしている先生を横目で見ていた。
古ぼけた三つ揃いの背広に、大きな黒カバン。おまけに、灰色のソフト帽までかぶっている。
今どき、こんなかっこうをしている中学教師なんて、東京広しといえども他にはいまい。
しかも、先生は一年中同じ格好をしていた。くそ暑い夏の日にも、きちんと背広を着て、汗だくで歩いている。それを生徒たち、それに若い先生たちまでが、笑いの種にしていた。学校新聞に、「U中学の七不思議」のひとつとして、「蟹沢先生のスリーピースとソフト帽」は、取り上げられたくらいなのだ。
でも、ヒロシだけは、なぜいつも先生がそんな格好をしているかを知っていた。
一年生の二学期のことだった。
ある日、ヒロシは、駅員に不正乗車の疑いをかけられたことがあった。
ピンポーン。
自動改札機のチャイムが鳴って、ヒロシの目の前で扉が閉まった。
(チッ)
仕方がないので、端にある駅員のいるレーンへ行って、定期券を見せて出ようとした。
めがねをかけた若い駅員は、定期を持ったヒロシの腕をつかんで言った。
「おい、期限が一週間も過ぎてるぞ」
「えっ」
ヒロシがあわてて定期を見ると、期日は十月五日までだった。今日はもう十二日だ。
「うっかり……。」
ヒロシが言いかけると、
「ちょっと、そこで待ってろ」
駅員はそう言って、続いてやってきた他の乗客をさばき始めた。
その後で、ヒロシは駅員と押し問答を繰り返した。昨日まで、どのように改札を通過したのだというのだ。そんなこと言ってもヒロシにもなぜ期限切れの定期で追加できたのかはわからない。ヒロシがいくら弁解しても、駅員は聞き入れてくれない。何か不正な方法で通過したのだろうというのだ。そして、ペナルティーとして、超過した期間の通常料金の三倍を払えとの、一点張りなのだ。ヒロシがその時持っていたお金では、とても足りなかった。
「山村、どうした?」
振り向くと、改札口に蟹沢先生が立っていた。いつのまにか、次の電車が到着していたのだ。
「失礼ですが、わたしは、この子の学校の教師ですが」
先生は、ていねいにソフトをぬいで、駅員に話しかけた。先生のしらが頭はかなり薄くなっていたが、きちんと刈りそろえられている。この時ばかりは、ヒロシの目にも、先生はおしもおされぬ「紳士」に見えた。
駅員も、ちょっと圧倒されたような顔をしていた。それでも、駅員は、事情を説明し始めた。さっきとはうってかわって、ていねいな口調だった。
「そうですか。山村はうっかりしたと言っているんですか」
そう言うと、先生は、ヒロシの顔を確かめるようにみつめた。
「彼の言葉は、わたしが保証します。この子は、うそをつくような子じゃない」
「しかし、……」
駅員が、言い返そうとした。
「それに、うっかりしたのは、この子だけではない。自動改札機もあなたたちも、今まで気づかなかったんじゃないですか?」
先生にこう言われると、駅員は黙ってしまった。先生は、さいふを取り出して一回分の正規の料金だけを払うと、ヒロシを連れてさっさと改札口を抜けていった。
翌日、ヒロシは、昨日のお金を返しに職員室へいった。
「蟹沢先生をお願いします」
入り口近くにいた先生に声をかけていると、
「おーい、ポンポコ、こっちだ」
向こうから、蟹沢先生が手を振っている。
「ありがとうございました」
ヒロシがお金を返すと、先生はこう言った。
「ポンポコ。昨日、なんであの駅員が、おれの言葉を信用したと思う?」
ヒロシがどう答えたらいいかわからずに黙っていると、先生はすぐに話を続けた。
「外見なんだよ。見た目ってやつ。中学生の言葉は信じられなくても、きちんとした身なりの大人の言うことならば信じてしまう」
先生は、そこでちょっと言葉を切った。
でも、また話を続けた。
「でもなあ、人間って、案外そんなとこあるのかもしれないなあ」
先生は、少し照れたように笑っていた。
「だから、このみかけだおしのかっこうも、たまには役立つってわけだ」
先生はそう言って、背広のえりに両手の親指をかけて、おどけてみせた。
「馬鹿みたい。こんなのやめときなよ」
ヒロシの説明が終わると、片柳さんが真っ先に反対した。大人びた顔に、馬鹿にしたようなうす笑いを浮かべている。
ヒロシと星野は、「ラ・マルセイエーズ」の計画について、クラスの中心的な女の子たちにも協力を求めていたのだ。すでに男子たちには根回し済みで、他のクラスや先生たちにばれないように、星野がかん口令をしいてある
「そうね。お年寄りを笑うなんてかわいそうよ」
そう言ったのは、クラス委員の竹田さんだ。
(ちぇっ。ブリッ子してら)
ヒロシは心の中でそう思っていたが、もちろん口には出さない。そして、けんめいにもう一度計画を説明した。星野は、そんなヒロシと女の子たちを見較べながら、ニヤニヤしている。
「でも、ちょっと面白いかもね」
「うん、最後はハッピーエンドなんだし」
何人かの女の子たちは、興味を持ってくれたらしく、賛成しそうな雰囲気になってきた。竹田さんも迷っているようだ。ヒロシは、期待をこめて片柳さんの顔をみつめた。
「しらけるなあ。まるで小学生みたいじゃない」
片柳さんはそう言い放つと、さっさと教室から出て行ってしまった。すると、賛成しかかっていた子たちまでが、前言を翻して反対にまわったので、ヒロシはすっかりがっかりさせられた。
星野はそんな様子をながめながら、相変わらずニヤニヤしているだけだった。
その晩の九時過ぎに、ヒロシに星野から電話がかかってきた。
「オーケー、山ポン。話はつけたよ」
「何の?」
ヒロシが聞き返すと、
「もちろん、『ラ・マルセイエーズ』のさ」
と、星野は、少しじれったそうに言った。
「えっ、女の子たちとか?」
ヒロシは、びっくりして答えた。
「鈍いな。まだ、片柳さんとだけだよ。彼女さえOKなら、後はだいじょうぶ。みんなに話をつけといてくれるから」
「そうか、やったな」
ヒロシはホッとしていた。どうやって女の子たちを説得したらよいか、ヒロシには見当もつかなかったからだ。
「でも、先生を笑うのはいやだってさ。合唱は協力するけどな」
「いいよ、いいよ。それだけで。告げ口したり、じゃましたりしなけりゃ、それでいいよ」
「それは絶対に保証するよ」
「でも、どうやって片柳さんを説得したんだ?」
ヒロシは、不思議そうにたずねた。彼女は、学校ではあんなに強く反対していたのに。
すると、星野は一段と大人びた口調で言った。
「山ポン。それは企業秘密ってやつだよ」
「えっ?」
星野が笑いながら電話を切った時になって、やっとヒロシにも、星野と片柳さんの関係がピンときた。
その後は、準備は着々と進んだ。
大学では、一応フランス語を習っていることになっている姉貴が、調べてくれた発音をカタカナで書いた訳詞付きの歌詞カードは、片柳さんが人数分のコピーをとってくれた。彼女は、前とはうってかわって協力的だった。
先生にプレゼントする「ラ・マルセイエーズ」をダビングしたCDは、凱旋門のカードとリボンで、きれいに飾られている。放課後にひそかに開いた合唱練習にも、クラスのほとんどが参加してくれていた。
いよいよ三月二十二日がきた。国語の授業は四時限目。もう学校は半日授業になっているので、これがその日の最後の授業だった。
蟹沢先生は、他のクラスでも、最後のあいさつをしたり、プレゼントを受け取ったりしているとの情報が、ヒロシたちに入ってきていた。
四時限目になった。
蟹沢先生は、いつもと少しも変わりなく授業をすすめている。相変わらずの皮肉っぽいしゃべり方で、一年間の授業内容を総括していく。
ヒロシは、授業に全然身が入らなかった。他のクラスの連中も、うわべはそしらぬ顔でまじめに聞いているふりをしているが、たぶん同じ気持ちだったに違いない。
終了五分前になった時、先生は授業を終わらせた。
「みんな、もうすでに聞いていると思うけど、私は、二十五日の終業式を最後に、退職することになりました」
先生は緊張をごまかすように、照れ笑いを浮かべながら言った。
クラスのみんなが、いっせいにヒロシの方へ目くばせしてくる。
ヒロシは、先生のあいさつが終わると、すぐに席を立った。
「先生、お願いがあります。最後に、先生の得意の『ラ・マルセイエーズ』を、聞かせてくれませんか?」
先生は、ちょっととまどったような顔をしていた。
「『ラ・マルセイエーズ』か。ポンポコ、ねえさんから聞いたな」
「ええ。ぜひお聞きしたいんですが」
「おれはへたなんだよ、歌が。音痴なんだ」
「そこをなんとか」
はじめは数人が、そして、しだいにクラス全体が、
「ラ・マルセイエーズ」
「ラ・マルセイエーズ」
と、叫びだした。机をがたがたさせたり、足を踏みならす者もいる。
「わかった、わかった。まあ最後だからな。みんなは知らないだろうけれど、『カサブランカ』っていう戦後すぐにヒットした映画の中で、フランス人たちが、ドイツ軍人に対抗して、この歌を歌うシーンがあってね。そのころの若い人は、みんなその映画に感動したんだそうだ。先生は、そういう古い映画が好きなもんでね」
話し終わると、蟹沢先生は、間をおかずにいきなり歌い出した。
「アロナファンドゥラパトリィー、ルジュドゥグラエーアリヴェ!
(たて祖国の若者たち、栄光の日は来た。) 」
星野が、あわててCDラジカセのスイッチを入れる。少しひずんだ「ラ・マルセイエーズ」のメロディーが流れ出した。
先生の歌は、まったくへたくそだった。ヒロシが想像していたよりも、数倍へたなのだ。音程もリズムもめちゃくちゃだった。CDの演奏にもまったく合っていない。
でも、先生は体中に力をこめて、いっしょけんめいに歌っていた。
最初の一小節が終わった時、最前列の数人が笑いかけた。
しかし、それは、打ち合わせどおりのそろった笑い声にはならなかった。
二小節目が終わった時には、もう誰ひとり笑う者はなく、みんなは、黙って蟹沢先生をみつめていた。
先生は、黒ぶちめがねの奥にある、ギョロリとした目にいっぱいの涙をためて、一心に歌っていた。からだを前後に揺さぶりながら、大きな声で歌い続ける。
「マルション! マルション! クンサナンピュー、アブルヴノショーン!」
最後まで歌い終わると、先生は、何も言わずに教室を出て行った。クラスのみんなは、黙ってその後ろ姿を見送っていた。
と、その時、片柳さんが小さな声で歌い出した。
「アロナファンドゥラパトリィー……。」
それにつれて、クラス全員が「ラ・マルセイエーズ」を歌い始めた。ヒロシは、プレゼントのCDをつかむと、廊下へ飛び出していった。
ヒロシが先生の退職のことを知ったのは、学年末試験の最中だった。昼休みにクラスの連中とだべっているときに、クラス委員の星野から聞いたのだ。
「そういえば、カニ先が学校を辞めるんだってさ」
星野が、それほど関心なさそうにみんなにいった。
「えーっ、どうして?」
ヒロシは驚いて星野に聞き返した。
「うん、定年なんだって。職員室で先生たちが話してたぜ」
星野は、いつものようにヒロシの机に腰をおろして、足をブラブラさせながら答えた。
「へーっ、カニ先って、そんな年だったんだ」
隣りにいた吉村も、びっくりしたような声を出していた。ヒロシも、それに同感だった。
自分の父親よりは年上だろうとは思っていたけれど、定年退職になるほどの年だとは思ってもみなかった。
定年を迎えた人というと、どうしても母方の祖父の顔が浮かんでくる。蟹沢先生よりも、もっとずっと年取った人のイメージがあった。もっとも、祖父はとうに七十を超えているはずだったから、それも無理はないことだったけれど。
「そういえば、蟹沢先生が退職するってよ」
試験が終わった日の夕食の時に、ヒロシは五つ年上の大学生の姉貴に話した。姉貴も蟹沢先生に教わったと、聞いていたからだ。
「そう。蟹沢先生も、もう定年かあ。わたしの知っている先生たちは、学校にほとんどいなくなっちゃったんしゃない?」
姉貴は、少しさびしそうな顔をした。
「そうかもしれないなあ。なにしろ、毎年十人ぐらいは、退職や転勤でいなくなってるからね」
ヒロシは、おかずのハンバーグをほおばりながら答えた。
「あら、蟹沢先生、お辞めになるの?」
台所でおつゆをよそっていたおかあさんが、口をはさんだ。
「そうなんだよ。今度の終業式でおしまいだって」
「はい、おつゆ」
おかあさんが、おわんを二人に渡した。今日のおつゆはけんちん汁だった。おいしそうなゆげをたてている。
「あの先生は、ほんとにユニークだったわね。私たちの中学では国語を教えているけど、英語の先生の資格も持っているし、大学ではフランス文学を専攻していたんだって」
姉貴は、なつかしそうに話していた。
「へえ、ほんと。そりゃ、初耳だな」
ヒロシは、たんなる国語の先生としての姿しか知らなかった。
「そうだっ。あの先生、酔っ払うとフランス国歌を歌うんだってさ。たしか『ラ・マルセイエーズ』って、いったよね。それも、すごい音痴でさ。聞いた人に必ず笑われちゃうんだけど、こりずにいつも歌うんだって」
姉貴は笑いながらいった
「姉貴も聞いたことあるのか?」
ヒロシは、興味をひかれて聞き返した
「ううん、聞いたことない。だけど、あの先生のクラスだった子が、この前、クラス会で聞いたって言ってたよ」
「ふーん」
「『ラ・マルセイエーズ』って、どんなメロディだっけ?」
おかあさんが、また口をはさんだ。
「えっ?」
姉貴もしばらく考えているようだったけれど、思い出せないみたいだ。
(どんなだったろう?)
アメリカの国歌だったら、覚えている。「星条旗よ、永遠に」だ。メジャーリーグの中継を見たりするときに、唄われるのを聞いたことがある。
でも、フランス国歌は、あまり聞いたことがない。けっきょく、家族三人、だれもそのメロディを思い出せなかった。
ヒロシにとって、蟹沢先生は大の苦手だった。
色黒でひげがすごく濃い。黒ぶちのめがねをかけていて、背はヒロシよりも低いくらいだ。いつも皮肉っぽい笑いを口の端に浮かべている。
生徒たちを、自分でつけたあだ名で呼ぶ。しかも、そのあだ名が特徴をすごくうまくつかまえているのだ。だから、友だちや他の先生までが使うようになってしまう。
ヒロシは、姉貴が二人も同じ中学を卒業している。それで、入学したとき、真っ先にあだ名をつけられてしまった。
「おい、山村。おまえのねえさんたちは、できが良くて美人だったけど、おまえはチョコマカ落ち着きがないなあ。コロコロ太っていて、ぜんぜんねえさんたちに似てないなあ。似てるといやあ、タヌキだな。そうだ。おまえ、タヌキってあだ名がいいかもな。いやゴロが悪いから、ポンポコにしよう」
以来、学校では、ヒロシのことを本名で呼ぶものはいない。女の子たちまでが、「ポンポコ君」なんていう。男子は、「ポンポコ」とか、「山ポン」と呼びすてだ。
翌日の昼休みも、ヒロシはいつものようにクラスの連中とだべっていた。蟹沢先生の話を持ち出したのは、星野だった。
「カニ先の授業も、あと二、三回で終わりだなあ」
「うん、あいつも変わったやつだったよな」
ヒロシは、カッターで消しゴムをきざみながらいった。
「カニ先には、いつもやられっぱなしだったな」
ヒロシの前の席で、いすに横向きに座っていた吉村が言った。蟹沢先生のあだ名や皮肉の餌食になったのは、ヒロシだけではなかったのだ。
「でも、あれでけっこう憎めない所もあるんだよなあ」
星野が、意外にもしみじみとした声を出した。
「でも、一度でいいから、カニ先にひと泡ふかしてやりたかったな」
吉村が残念そうに言った。
「カニだからか?」
吉村は、あげ足を取った星野のボディーに、軽くパンチを入れた。
ヒロシが、「ラ・マルセイエーズ」の件を思い出したのはその時だ。
「えっ。あいつ、『ラ・マルセイエーズ』なんか歌うのか」
ヒロシの話が終わると、星野がおもしろそうに言った。
「クラスで、歌わしてやりたいなあ」
吉村がそう言うと、他の連中も乗り気になってきた。
「ただ歌わすだけじゃ、おもしろくないよ。なんか、趣向をこらしてさ、カニ先をギャフンと言わしてやりたいな」
ヒロシがそう言ってみんなの賛同を得た時、昼休み終了のチャイムが鳴った。
ヒロシは、授業中もこのことを考え続けていた。こういうことにかけるヒロシの情熱は、本当にたいしたものだ。
その日の放課後に、もう一度、みんなを集めて相談した結果、つぎのような手はずになった。
①授業の最後に、ヒロシが「ラ・マルセイエーズ」を歌ってくれるように先生に頼む。
②先生が断ったら、クラス全員で「ラ・マルセイエーズ」を連呼して要求する。
③先生が引き受けて、最初の一小節を歌ったら、一列目が笑う。次の小節では二列目が、以下順番に各列が笑い、最後にみんなで大笑いする。
どうしても先生が引き受けなかったり、途中で怒り出したりしたら、みんなで「ラ・マルセイエーズ」を合唱する。そうすれば、悪意からではないことが、わかってもらえるはずだ。
ヒロシたち二年三組での蟹沢先生の最終授業は、三月二十二日。あと一週間しかない。クラスのみんなへの根回しもいるし、当日の用意も必要だ。大急ぎで準備しなければならない。
その日の放課後、ヒロシは、星野と一緒に、区立図書館の視聴覚ライブラリーへ出かけて行った。もちろん、「ラ・マルセイエーズ」のCDを借りるためだ。
そこのライブラリーは充実しているので、ヒロシは、時々、好きなJポップのCDや外国映画のDVDを借りている。
でも、今日はそんなひまはない。
「どこを探せばいいかなあ?」
ヒロシは、あたりをキョロキョロながめながら、星野に聞いた。
「国歌のコーナーってないか?」
星野も、あたりを見回している。
「そんなのあるはずないよ」
ヒロシは、あきれたように星野の顔を見た。
「じゃあ、クラシックだな」
星野が自信ありげに言った。
「ラ・マルセイエーズ」のCDは、予想どおりにクラシックのコーナーで見つかった。
しかし、残念ながら歌詞がついていない。インストルメンタルなのだ。
「クソーッ。これじゃだめだ」
ヒロシがそのCDを棚に戻そうとした時、星野があわてておしとどめた。
「待てよ。カニ先が歌ったりさ、おれたちが歌ったりする時に、バックに使えるじゃないか」
「あっ、そうか」
結局、「ラ・マルセイエーズ」が入っているフランスの合唱団のCDを見つけるのには、それから三十分近くもかかってしまった。
図書館の帰りに、ヒロシは、駅の前で星野と別れた。ヒロシは、となりの区から電車通学をしているのだ。
ホームで電車を待っていると、まるで待ち合わせでもしていたかのように、蟹沢先生がやってきた。
「おい、ポンポコ。なにやってんだ、こんな遅くに」
先生は、めざとくヒロシを見つけると、いつものように大声で言った。
「こんちは。ちょっと図書館に行ってたもんで」
ヒロシはそう言うと、手にさげていたCDの入ったビニール袋を、持ち上げてみせた。
(まさか、この中身が『ラ・マルセイエーズ』だとは思うまい)
「そうか」
先生は、納得したようすでうなずいた。
さいわい、すぐに電車がホームに入ってきたので、先生は、それ以上話しかけてこなかった。
ヒロシは、電車に乗るとドアのそばに立って、反対側の席に腰をおろしている先生を横目で見ていた。
古ぼけた三つ揃いの背広に、大きな黒カバン。おまけに、灰色のソフト帽までかぶっている。
今どき、こんなかっこうをしている中学教師なんて、東京広しといえども他にはいまい。
しかも、先生は一年中同じ格好をしていた。くそ暑い夏の日にも、きちんと背広を着て、汗だくで歩いている。それを生徒たち、それに若い先生たちまでが、笑いの種にしていた。学校新聞に、「U中学の七不思議」のひとつとして、「蟹沢先生のスリーピースとソフト帽」は、取り上げられたくらいなのだ。
でも、ヒロシだけは、なぜいつも先生がそんな格好をしているかを知っていた。
一年生の二学期のことだった。
ある日、ヒロシは、駅員に不正乗車の疑いをかけられたことがあった。
ピンポーン。
自動改札機のチャイムが鳴って、ヒロシの目の前で扉が閉まった。
(チッ)
仕方がないので、端にある駅員のいるレーンへ行って、定期券を見せて出ようとした。
めがねをかけた若い駅員は、定期を持ったヒロシの腕をつかんで言った。
「おい、期限が一週間も過ぎてるぞ」
「えっ」
ヒロシがあわてて定期を見ると、期日は十月五日までだった。今日はもう十二日だ。
「うっかり……。」
ヒロシが言いかけると、
「ちょっと、そこで待ってろ」
駅員はそう言って、続いてやってきた他の乗客をさばき始めた。
その後で、ヒロシは駅員と押し問答を繰り返した。昨日まで、どのように改札を通過したのだというのだ。そんなこと言ってもヒロシにもなぜ期限切れの定期で追加できたのかはわからない。ヒロシがいくら弁解しても、駅員は聞き入れてくれない。何か不正な方法で通過したのだろうというのだ。そして、ペナルティーとして、超過した期間の通常料金の三倍を払えとの、一点張りなのだ。ヒロシがその時持っていたお金では、とても足りなかった。
「山村、どうした?」
振り向くと、改札口に蟹沢先生が立っていた。いつのまにか、次の電車が到着していたのだ。
「失礼ですが、わたしは、この子の学校の教師ですが」
先生は、ていねいにソフトをぬいで、駅員に話しかけた。先生のしらが頭はかなり薄くなっていたが、きちんと刈りそろえられている。この時ばかりは、ヒロシの目にも、先生はおしもおされぬ「紳士」に見えた。
駅員も、ちょっと圧倒されたような顔をしていた。それでも、駅員は、事情を説明し始めた。さっきとはうってかわって、ていねいな口調だった。
「そうですか。山村はうっかりしたと言っているんですか」
そう言うと、先生は、ヒロシの顔を確かめるようにみつめた。
「彼の言葉は、わたしが保証します。この子は、うそをつくような子じゃない」
「しかし、……」
駅員が、言い返そうとした。
「それに、うっかりしたのは、この子だけではない。自動改札機もあなたたちも、今まで気づかなかったんじゃないですか?」
先生にこう言われると、駅員は黙ってしまった。先生は、さいふを取り出して一回分の正規の料金だけを払うと、ヒロシを連れてさっさと改札口を抜けていった。
翌日、ヒロシは、昨日のお金を返しに職員室へいった。
「蟹沢先生をお願いします」
入り口近くにいた先生に声をかけていると、
「おーい、ポンポコ、こっちだ」
向こうから、蟹沢先生が手を振っている。
「ありがとうございました」
ヒロシがお金を返すと、先生はこう言った。
「ポンポコ。昨日、なんであの駅員が、おれの言葉を信用したと思う?」
ヒロシがどう答えたらいいかわからずに黙っていると、先生はすぐに話を続けた。
「外見なんだよ。見た目ってやつ。中学生の言葉は信じられなくても、きちんとした身なりの大人の言うことならば信じてしまう」
先生は、そこでちょっと言葉を切った。
でも、また話を続けた。
「でもなあ、人間って、案外そんなとこあるのかもしれないなあ」
先生は、少し照れたように笑っていた。
「だから、このみかけだおしのかっこうも、たまには役立つってわけだ」
先生はそう言って、背広のえりに両手の親指をかけて、おどけてみせた。
「馬鹿みたい。こんなのやめときなよ」
ヒロシの説明が終わると、片柳さんが真っ先に反対した。大人びた顔に、馬鹿にしたようなうす笑いを浮かべている。
ヒロシと星野は、「ラ・マルセイエーズ」の計画について、クラスの中心的な女の子たちにも協力を求めていたのだ。すでに男子たちには根回し済みで、他のクラスや先生たちにばれないように、星野がかん口令をしいてある
「そうね。お年寄りを笑うなんてかわいそうよ」
そう言ったのは、クラス委員の竹田さんだ。
(ちぇっ。ブリッ子してら)
ヒロシは心の中でそう思っていたが、もちろん口には出さない。そして、けんめいにもう一度計画を説明した。星野は、そんなヒロシと女の子たちを見較べながら、ニヤニヤしている。
「でも、ちょっと面白いかもね」
「うん、最後はハッピーエンドなんだし」
何人かの女の子たちは、興味を持ってくれたらしく、賛成しそうな雰囲気になってきた。竹田さんも迷っているようだ。ヒロシは、期待をこめて片柳さんの顔をみつめた。
「しらけるなあ。まるで小学生みたいじゃない」
片柳さんはそう言い放つと、さっさと教室から出て行ってしまった。すると、賛成しかかっていた子たちまでが、前言を翻して反対にまわったので、ヒロシはすっかりがっかりさせられた。
星野はそんな様子をながめながら、相変わらずニヤニヤしているだけだった。
その晩の九時過ぎに、ヒロシに星野から電話がかかってきた。
「オーケー、山ポン。話はつけたよ」
「何の?」
ヒロシが聞き返すと、
「もちろん、『ラ・マルセイエーズ』のさ」
と、星野は、少しじれったそうに言った。
「えっ、女の子たちとか?」
ヒロシは、びっくりして答えた。
「鈍いな。まだ、片柳さんとだけだよ。彼女さえOKなら、後はだいじょうぶ。みんなに話をつけといてくれるから」
「そうか、やったな」
ヒロシはホッとしていた。どうやって女の子たちを説得したらよいか、ヒロシには見当もつかなかったからだ。
「でも、先生を笑うのはいやだってさ。合唱は協力するけどな」
「いいよ、いいよ。それだけで。告げ口したり、じゃましたりしなけりゃ、それでいいよ」
「それは絶対に保証するよ」
「でも、どうやって片柳さんを説得したんだ?」
ヒロシは、不思議そうにたずねた。彼女は、学校ではあんなに強く反対していたのに。
すると、星野は一段と大人びた口調で言った。
「山ポン。それは企業秘密ってやつだよ」
「えっ?」
星野が笑いながら電話を切った時になって、やっとヒロシにも、星野と片柳さんの関係がピンときた。
その後は、準備は着々と進んだ。
大学では、一応フランス語を習っていることになっている姉貴が、調べてくれた発音をカタカナで書いた訳詞付きの歌詞カードは、片柳さんが人数分のコピーをとってくれた。彼女は、前とはうってかわって協力的だった。
先生にプレゼントする「ラ・マルセイエーズ」をダビングしたCDは、凱旋門のカードとリボンで、きれいに飾られている。放課後にひそかに開いた合唱練習にも、クラスのほとんどが参加してくれていた。
いよいよ三月二十二日がきた。国語の授業は四時限目。もう学校は半日授業になっているので、これがその日の最後の授業だった。
蟹沢先生は、他のクラスでも、最後のあいさつをしたり、プレゼントを受け取ったりしているとの情報が、ヒロシたちに入ってきていた。
四時限目になった。
蟹沢先生は、いつもと少しも変わりなく授業をすすめている。相変わらずの皮肉っぽいしゃべり方で、一年間の授業内容を総括していく。
ヒロシは、授業に全然身が入らなかった。他のクラスの連中も、うわべはそしらぬ顔でまじめに聞いているふりをしているが、たぶん同じ気持ちだったに違いない。
終了五分前になった時、先生は授業を終わらせた。
「みんな、もうすでに聞いていると思うけど、私は、二十五日の終業式を最後に、退職することになりました」
先生は緊張をごまかすように、照れ笑いを浮かべながら言った。
クラスのみんなが、いっせいにヒロシの方へ目くばせしてくる。
ヒロシは、先生のあいさつが終わると、すぐに席を立った。
「先生、お願いがあります。最後に、先生の得意の『ラ・マルセイエーズ』を、聞かせてくれませんか?」
先生は、ちょっととまどったような顔をしていた。
「『ラ・マルセイエーズ』か。ポンポコ、ねえさんから聞いたな」
「ええ。ぜひお聞きしたいんですが」
「おれはへたなんだよ、歌が。音痴なんだ」
「そこをなんとか」
はじめは数人が、そして、しだいにクラス全体が、
「ラ・マルセイエーズ」
「ラ・マルセイエーズ」
と、叫びだした。机をがたがたさせたり、足を踏みならす者もいる。
「わかった、わかった。まあ最後だからな。みんなは知らないだろうけれど、『カサブランカ』っていう戦後すぐにヒットした映画の中で、フランス人たちが、ドイツ軍人に対抗して、この歌を歌うシーンがあってね。そのころの若い人は、みんなその映画に感動したんだそうだ。先生は、そういう古い映画が好きなもんでね」
話し終わると、蟹沢先生は、間をおかずにいきなり歌い出した。
「アロナファンドゥラパトリィー、ルジュドゥグラエーアリヴェ!
(たて祖国の若者たち、栄光の日は来た。) 」
星野が、あわててCDラジカセのスイッチを入れる。少しひずんだ「ラ・マルセイエーズ」のメロディーが流れ出した。
先生の歌は、まったくへたくそだった。ヒロシが想像していたよりも、数倍へたなのだ。音程もリズムもめちゃくちゃだった。CDの演奏にもまったく合っていない。
でも、先生は体中に力をこめて、いっしょけんめいに歌っていた。
最初の一小節が終わった時、最前列の数人が笑いかけた。
しかし、それは、打ち合わせどおりのそろった笑い声にはならなかった。
二小節目が終わった時には、もう誰ひとり笑う者はなく、みんなは、黙って蟹沢先生をみつめていた。
先生は、黒ぶちめがねの奥にある、ギョロリとした目にいっぱいの涙をためて、一心に歌っていた。からだを前後に揺さぶりながら、大きな声で歌い続ける。
「マルション! マルション! クンサナンピュー、アブルヴノショーン!」
最後まで歌い終わると、先生は、何も言わずに教室を出て行った。クラスのみんなは、黙ってその後ろ姿を見送っていた。
と、その時、片柳さんが小さな声で歌い出した。
「アロナファンドゥラパトリィー……。」
それにつれて、クラス全員が「ラ・マルセイエーズ」を歌い始めた。ヒロシは、プレゼントのCDをつかむと、廊下へ飛び出していった。