God is in the details ~神は細部に宿る~

一箱古本市専門店《吉田屋遠古堂》主人のぐうたらな日々。。。。

わたくしも、にほんの、おなまえを、いただいてまいりました。

2005-01-30 16:34:10 | その他
http://curiogate.net/mt-user/nanaki/
ナナキ様のブログを拝見して、面白そうなので、やってみました。

石川 Ishikawa (stone river) 誠 Makoto (sincerity).
Take your real japanese name generator! today!
だそうです。
ちなみに
ピータ・ゲイブリエルは「松尾大河(まつおたいが)」
ピーター・ハミルは「松尾拓海(まつおたくみ)
う~ん、松尾はともかく、絶妙な振り分け。このシステム、馬鹿にできないかも!?

美少年/美少女用も準備されてるし、
http://rumandmonkey.com/widgets/toys/namegen/721

私が英吉利国人ならMy very British name is
Rufus Garside.Take The Very British Name Generator today!
となるらしい。

さあ、みんなも自分に様々な名前をつけよう!
体の特定部位につける名前も用意されてるぞ!!
http://rumandmonkey.com/widgets/toys/namegen/

追記
nanaki様より重要な指摘が届きました。
たしかに、入力は
「family name first, given name last」
と書いてあるじゃん!!
つーか、peterの入力で気付けよ、俺!

その日は何を着て行こうか

2005-01-25 21:23:48 | 歴史/民俗/伝統芸能
さて、その日はどんな格好で出かけようか。

 古来、その日は白装束と決まっているようである。そう、その日、とは自分の出棺の時である。しかしながら、その古来がどこまで古くさかのぼるものであるか、よくわからない。

 医学あるいは生理学上の死ではなく、人々が「この人は死んだ」という認識を持つその境界というのは、非常に曖昧である。(だから第三者である医師に立ち会ってもらうことによって、安心して死を見届けることができるという側面もあるのだろう)もちろん、心臓が動いているにもかかわらず「死んでいる」と言われることは悪口の場合を除いて、普通はあり得ない。しかし、心臓が止まっても、死んだと認識するためにはかつては幾つかの手続きが必要だったのである。その大部分は「抜けた魂」を呼び戻す行為、たとえば井戸に向かって名前を呼ぶとか、屋根に上って名前を呼ぶとか、生き返らせる努力をしたにもかかわらず、やはり魂は戻ってこなかった、という一種の通過儀礼的な行為である。一般に行われる通夜も、「もしかすると生き返るかもしれないから、しばらく見守っていよう」という、有る意味消極的な魂の呼び戻しと言えないこともない。もっとも、日本人の肉体と魂の関係に関する意識については、そう単純なものではないのだが、ここではこれ以上触れないでおこう。

 さて、そうした行為の後、湯灌され、剃髪され、着替えさせられて「死者(仏)」になる。そのときに着せられるのがいわゆる「死装束」である。死装束というと、経帷子に手甲脚絆、頭陀袋といった、まるでお遍路さんのような衣装を思い浮かべるのは私だけではあるまい(笑)それは逆に、日本人であれば白い経帷子をきて、額に三角形の布をあてている人を見れば、「幽霊か死人」という共通認識は不動のものであるだろう。そのくらい日本人に浸透しているイメージであり、かつ他ではあり得ない非日常的な衣装なのである。これと肩を並べられるのは、全身に太い横縞の描かれた服、そう「囚人服」ぐらいだろう。実際にそんな服を着ている囚人がいたかどうかは別として、その姿はドリフによって我々に確実に刷り込まれているのである!

 ところが、死装束の非日常性は見た目だけではないのである。現在はもしかすると葬儀屋さんがメーカーに頼んで縫製しているのかもしれないが、かつてハンドメイドだったころは、かなり非日常的な作り方だったようである。たとえば、糸尻を結ばないとか、背中を縫い合わせないとか、一反を使い切るとか。ちなみになくなった際に着用していた衣類は洗濯した後、逆さまに干すのだそうだ。もっとも、これらは地域によって千変万化、千差万別。

 着せるタイミングというものも、もちろんある。すぐに着せる場合は問題ないのだが、硬直してからだと無理矢理着せる場合と、上に掛けるだけで済ませるケースがあるのだとか。

 蛇足だが、頭陀袋には六文銭を入れる。これは何のため??実は江戸時代のはじめ頃に始まった風習で、それほど古いものではない。もともとは埋葬するときに土公つまり土地の神に、埋葬地の賃貸料を支払うことから始まったのだ。だから埋葬に限らず、地鎮祭だったり、その土地を開拓するときだったり、様々な局面で人は土公に地代を支払ってきたのである。たくさん払ったり、ちょっとしか払わなかったり。それが六道思想と結びついて、死者に持たせる銭が六文に統一されたのであった。もともとそれ以前は、死んだら野辺に晒しものにされてたしなぁ。「怪僧のざらし」って、覚えてる人います??

今朝早く

2005-01-15 14:03:21 | 日々の暮らし
メインのハードディスクが機能を停止した!
ガラガラと音がしたので、物理的なクラッシュのようだ。
俺の140Gが・・・・吹っ飛んだ(笑)

とはいえ、ブックマークとアドレス帳がなくなって
不便になっただけで、中身については最低限必要なものは
バックアップしていたので、データ自体は何とかなる。
あたらしいHDを購入する資金をどう捻出するかが最大の問題である。
 
現在はサブのほうで立ち上げてはいるが、システムが古いので、
使いにくいことこの上ない。10と10.3のたった0.3のささやかな(?)違いなのに。
人間、楽ばかりしているとあっというまに順応して、
駄目になってゆくものだと妙に感心している。

これ見た人、メールください(笑)あなたのアドレスも不明ですから。

私的歌舞伎論 勢い余って三夜連続  第三夜

2005-01-07 21:09:03 | 歴史/民俗/伝統芸能
いまさらであるが、私は歌舞伎が好きである。歌舞伎座でみる歌舞伎がとっても好きである。そういうと、歌舞伎に興味のない人たちは決まってこういうだろう。「歌舞伎って何喋ってるかわからないし、難しい」。

 では聞こう、たとえば外国語のロックを聞くとき、そのすべてを理解していますか?

 仮に言葉がわからなくとも台詞の調子や所作の美しさを気持ちいいと感じることはさほど難しくない、と思う。ようするにリズムに乗ってアクションをきめると言い換えれば済むだけのこと。リズムが合わない、アクションがかっこうわるい、だから好きじゃない、というなら、それは仕方のないことだが。
 実際のところ、歌舞伎でも一部の言い回しや言葉尻をのぞいて、地の部分の言葉はほとんど今の言葉とかわらない。普通に日本で生活している人なら、外国映画の字幕を見るよりも、遙かにきめ細かい表情を読み取る事ができるのである。芝居が主である以上、義太夫なんかはBGMなので、唄っていることがわからなくてもまったくかまわない。結構テンポも良く、メリハリがきいていて聞き流していても心地いいし、もちろん、わかればさらに面白い。

 そして、一番大切なのは歌舞伎座でみること。テレビでみてたら私だって飽きる!たとえレッドツェッペリンのコンサートだったとしても、テレビで見てるだけではよほど好きな人じゃなきゃ飽きてしまうだろう。生ライブにかなうもの無し、である。
 私はなかなか歌舞伎座まで足を運ぶ機会がないので地方公演にも行くけれど、地方公演と歌舞伎座公演はまったく別のものだと思う。演目が同じでも、歌舞伎座公演と地方のそれとではアメリカ大リーグのオールスター戦と日本プロ野球のイースタンリーグくらいの差があるのではないだろうか?地方のそれは2~3人の看板役者で持っているし、それとて歌舞伎座で主役をはれるほどの人でない場合もある。一方歌舞伎座では人間国宝(!)が2人同時に舞台に上がることだって珍しくない。脇を固めるのはいずれも一人で看板を出せちゃうぐらいの人たちである。もちろんお囃子も各々それに釣り合う人たちがつとめるのは言うまでもない。開幕時の三味線のつま弾きからして響きが違うのだ。

 通常歌舞伎座では昼の部と夜の部それぞれに演目が3つ用意されている。場合によっては昼夜通しの演目だったり、昼・午後・夜の三部だったりすることもあるけど、おおむね昼夜二部の各三幕構成が標準のようだ。さて、お値段のほうだが、一等席二等席は一万~一万五千円(時価)で、三階のA席B席が5000~8000円くらいである。高い!?でも4階には幕見席というものがあり、それぞれ一幕毎に当日券が売り出される。一幕800~1200円くらいで、昼の部だと11時から16時30分まで(途中休憩が2~3回合わせて一時間半くらい)、3幕分4000円でおつりが来る。通してみても映画2回分とあんまりかわらない金額なのである。もちろん4階席は舞台からはかなり遠いし花道は見えないけど、それでも表情や指の動きはほぼ見える。むしろ双眼鏡なんか使わないで、役者の全身、舞台の全体を見渡すほうが面白い。

 さて、一度くらいは見てみてもいいな、なんて思いました?私は見たくなりました(笑)一月の板東三津五郎「鳴神」は超おすすめです!!!でも、勘三郎の襲名披露公演は混むと思うので、当日券をゲットしたかったら、平日でもかなり早くから列ばないと駄目かも。海老蔵の襲名披露公演の時は平日でも昼の部の当日券に発売の二時間以上前から列んでたっけ・・・

私的歌舞伎論 勢い余って三夜連続  第二夜

2005-01-06 19:51:37 | 歴史/民俗/伝統芸能
 前回、歌舞伎には時代を映す柔軟性が備わっていると書いた。しかしそれは時局・時事を取り入れることには決してならない。来年・再来年に時事ネタの部分だけ差し替えればいいの?それで、ずっと新鮮なままでいられるの?でも、たとえば心中ものなんて書かれた当時は時事ネタだったが、今では古典となっているものもある。果たしてどこが違うんだろう。

 それはいかに普遍性を持っているか、につきる。心中ものだったら、心中した二人に同情するのか、心中させた人々に理解を示すのか、社会の責任を追及するのか、はたまた二人の短慮を笑うのか。舞台で演じられている事柄に対しての人々の視点と評価は、時代とともに刻々とかわっていくものである。
まず、脚本がそれに耐えるものでなければならない。そして、役者は時代を敏感に感じ取って、きめられた台詞と所作の中で表現して行かなければならない。同じ言葉の受け答えにしたって、時代が変わればニュアンスはかわってくるのが当然である。それをちょっとした間や言葉の調子で表現することが演技であり、役者の持ち分であろう。キセルとたばこ盆をマルボロメンソールライトと百円ライターに持ち替えたりはしない。幸いなことに明治以来、日本人の気質は根本的には変化していないので、脚本が書かれた当時から笑わせたい場面で笑うし、泣かせる場面で泣く。もちろん、それが変わってしまったら歌舞伎自体が成り立たない。

 そして、能ほどではないけれど歌舞伎の演出は「見立て」による部分が多いのだから、実物を出すというのはいかがなものか?舞台にニューヨーク市警のパトカーが出てきて、演出上必要であったのだとすれば、それを必要としたその脚本がお粗末だっただけのこと。それしか話題がなかったとしたら、それは役者が未熟だといことになりはしないか?アメリカ人にその微妙なところがわかりにくいとしても、蕎麦のたれにトマトソースを使いはしまい。確かに建物を倒したり、大蝦蟇の背中に乗ったり、歌舞伎にも外連が無いわけではない。でも、それらは役者を際だたせるための手段であって、歌舞伎の演出は役者の演技のうちにおさまってほしい。

 思うに、市川猿之助が自分の舞台を「スーパー」歌舞伎と名付けたのは、歌舞伎を愛し、観客を愛し、舞台を愛していた彼が、歌舞伎を逸脱することを覚悟のうえでの苦肉の策だったのだろう。スーパー歌舞伎はけして歌舞伎の近代化などではなく、新しい伝統芸能の誕生といってもいい出来事だったのである。そしてそれが伝統になるか鬼子で終わるか。それは段治郎と右近、猿之助の育てた二人の弟子にかかっている。

 勘三郎の舞台を見て泣くとしたらそれは彼の演技力によって泣かされるのであり、段治郎によって泣かされるとしたらそれはスーパー歌舞伎という舞台で役者達が繰り広げる芸によって泣かされるのである。伝統とはそういうものだと私は思う。この春にダブルキャストで演じられる「ヤマトタケル」、スーパー歌舞伎の原点を二人が演じると言うことは今の歌舞伎にとってもとても大切なことなのである。

私的歌舞伎論 勢い余って三夜連続  第一夜

2005-01-05 21:30:08 | 歴史/民俗/伝統芸能
 歌舞伎は伝統を重んじる。伝統の上に成り立っている芸であるから当然のことである。慶長8年(1603年)に出雲の阿国が京都で歌舞伎踊を初めてから、四百年にわたる伝統が息づいている。しかしながら、それはいわゆる形式美を伝えるという事と等価ではない。
 時代を無視して、ひたすら伝承されるだけのものであれば、とっくの昔に風化しているはずである。あるいは地域に根ざした伝統芸能の枠を越えられず、たとえば檜枝岐歌舞伎や黒森歌舞伎、黒川能、大江戸助六太鼓のように、保存会によって命脈を長らえるものになっていたであろう。あるいは能のように大衆文化を離れ、芸術の高みに祭り上げられていたかもしれない。

 歌舞伎には時代を映す柔軟性が備わっている。意外と思われるかもしれないが、歌舞伎の古典には明治時代にかかれたものも少なくない。茨木しかり鏡獅子(春興鏡獅子)しかり、極付伴随院長兵衛しかり。壺坂霊現記だって浄瑠璃から移されたものだが、歌舞伎としては明治期のものである。これらは激動の時代に、江戸時代の香りを残しながら、明治の気風を吹き込んでの新作である。あたかも時代そのものが回り舞台であるかのごとく浮かれ進んでいくときに、優れた作家が成した芝居が、たとえば九代目市川団十郎や五代目尾上菊五郎といった秀でた役者を得て、古典として残ったのである。

 歌舞伎にはシェークスピアなどと違って、「その役を演じるところの役者」を見に行くものであるという特殊性がある。それゆえ、同じ演目でも演者が入れ替わったりする事も珍しくない。歌舞伎では、それがどんな芝居か、上手いか下手か、などが問題になるのではなく、贔屓の役者がどんな役を演じるかが一番の関心事である。三人吉三を見るとき、お坊吉三ではなくお坊吉三を演じる市川団十郎を、お嬢吉三ではなくお嬢吉三を演じる板東玉三郎を我々は見に行くのである。

 それゆえ、歌舞伎においては古典というものは時代と話と役者の三拍子が揃って初めて生まれるものなのであろう。これから先、いったいどんな古典が生まれるのかはわからない。ただ、我々の時代にはまだ生まれていない事だけは確かである。時代の速度が速すぎて、人々は回り舞台にしがみつくのがやっとなのだから。それは歌舞伎役者とて例外ではない。

 そんな中で、市川海老蔵は不器用で稚拙ではあったが、紛れもない歌舞伎役者である。あるいは不器用故にしっかりと舞台をつかみ馬鹿になって立ち上がれるのは、結局何をやっても歌舞伎しかできない、彼のような役者なのかもしれない。

巧夫のあとが見られます

2005-01-04 19:40:38 | その他
少し前の話になるが、正月に少し時間があったので映画を見に行った。「カンフー・ジョン」もとい「カンフーハッスル」。時間の関係で、吹き替え版しかみられないという不安はあったが、とても面白かった。コメディーにたいしてどこが面白かったかという説明ほど間抜けな話はないし、第一「ありえねぇ」話を中心にそこここで賛否両論たくさんの板やブログが立ち上がっていることであろう。まぁ、あえて一言だけ言わせてもらえばとにかく構成がしっかりしていて、キャラクターが良く作り込まれているのに感心した。あ、二言だ(笑)わかりやすいということと底が浅いということは違うのだと言うことがあらためて良くわかった。

 さて、この映画を見て、記憶の底から浮かび上がった映画がある。Mr.Booだろうって?いやいや、もっと古いフランス映画。ピーター・セラーズの「ピンクパンサー」であるといったら、褒めすぎかな?
 ストーリーにそってきちんと練られたギャグといい、わかりやすい構成といい、キャラ立ちの見事さといい、画面のほどよい混み具合といい、「私の記憶の中のピンクパンサーという映画のイメージ」と非常に近いものがある。実際に今ピンクパンサーを見直せばその評価は変わるかもしれないが、カンフーハッスルが面白かったことにかわりはないから大丈夫。香港映画としてはかなり洗練されている、あるいは洗練されている方ではあるが香港映画である、という部分(偏見かな?)で賛否分かれるかもしれないが、私にはちょうどいいバランスだと思える。

 ゴジラにしても、怪獣達を含め個々の登場人物のキャラクターがもう少し丁寧に作り込まれていれば、違ったものになったかもしれないと思う。怪獣達を含め、役者(じゃなくてタレントか??)のキャラクターに頼ってしまったところがもったいないなぁ。逆にサンダーバードのように、五人兄弟の一人にポイントを絞ってしまうというのも有りだろう。そうすれば第5弾までは引っ張れるから(笑)