先日、さる哲学者(というより思想家?)のかたのお話を聞きにいってきました。
そこで聞いた話の一つに、森林の問題があります。現在、日本の森林面積は戦前のそれと
同等か、あるいはそれをしのぐまでに回復しているとのこと。それはそれで喜ばしいことで、
やはり自然保護と植林の成果があらわれているのでしょう。
その一方で、草原が消えてしまっているのだそうです。草原と言っても、見渡す限り
草が風になびくような、そんな草原ではなく、いわゆる「裏山に行く途中の草むら』的な
草原(そうげん よりも くさはら と言った方が良い感じ)のことです。
森林、細かくいうと山と里の緩衝地帯としての森林は、実際にはサイクルがあります。
まず伐採され、焼き払われ、畑地化した後に耕作放棄され、荒れ地から草むらになり、
低木が茂り、次第に高木がのびてくると低木は日照不足によって淘汰され、再び伐採
され・・・・
当然のことながら、地域や植生、土地利用によっても異なってきますが、
どの土地でもこのゆな循環は存在します。人の手が入りにくい場所などではそのサイクルが
極めて長い場合もあるでしょう。あるいは天候や自然現象でサイクルが乱れたり、
かわったりすることもあるでしょう。しかし、間違いなく変化は循環し、あるいは
継続しているのです。
これは何を意味するのかと言うと、循環しているのは「植物」だけではなく、
底に養われている
生態系も絶えずそのもとで変化し続けているということです。
それは言い換えればそこで養われている
いのちが多様で多層的であるということです。
それが
豊かであるということだと私は考えます。
こういう言い方は非常に嫌いなのですが(笑)、人はその中で生かされているのです。
もちろん、森林やその近くで生活していた人たちは無意識のうちに、自分たちを生かしてくれる
自然を、
山の神様と呼んだり、あるいはそこに自分たちの
祖霊を重ねたりして
敬意をはらっていたのです。
そういった関係を全く無視したところで行われる植林は、当然のことながら
「生命の循環」を復元するものではありません。誤解のないように言っておきますが、
植林が悪いのではありません。しかし、植林はあくまでも出発点で、最終目的は
「生命の循環」の復元、復元は困難なのであるいは新しい生命の循環の誕生なのです。
そして、もっとも大切なことは
その循環の中には人間も含まれると言うことなのです。
私がエコロジーやロハスを嫌う理由はまさにそこです(笑)
自然を守るとか、自然に負担をかけないとか、そんなことじゃなくて、
もう一度豊かな生態系を構成しなおすのは、
ナチュラルに生きることでなんて絶対に、絶対に不可能なのだ!
地球を、自然を救えと言うけれど、
歴史にかかわっている人間としていいたいのは、
いつの時代の、どんな生き方が理想なのかまず決めてくれ!
ということ。今の社会を発展させ理想化していくことは不可能だと思うけれど、
すべてを捨てる覚悟さえあれば、あのときのあの場所には帰れる気がする私です。
いやあの、昨晩、昔つきあっていた女の子の夢を見たからってわけじゃありませんよ、念のため。