God is in the details ~神は細部に宿る~

一箱古本市専門店《吉田屋遠古堂》主人のぐうたらな日々。。。。

二つの断絶 二つ目の断絶

2013-01-27 11:19:39 | 歴史/民俗/伝統芸能
大規模災害の場合、仮設住宅が造られます。その仮設住宅には様々な問題がありますが、
その中に仮設住宅での「孤独死」があります。仮設住宅では、コミュニティが作られています。
でも、それは機能していないということなのでしょうか?
お互いが声を掛け合い、自治体がこまめにフォローしていけば、防げるのでしょうか?

共同体あるいは社会という言葉は、比較的最近の言葉です。
西欧の概念に、日本なりに言葉を当てた造語です。
ですから、共同体(コミュニティ)や社会(ソサイエティ)には、人間しか入れません。
ま、「機関」も入れるのかもしれませんが、それとて人間で構成されています。

その一方で、日本人は、自分たちをとりまくすべてを含めてイメージしています。
日本人は、人間を人間関係だけで完結させません。
ですから、我々が我々自身を関係性でとらえるときには、
自然(環境)や時間(歴史・過去)や神仏までも包括して考えます。
内山節氏の言葉を借りれば、これが「世間」です。
たとえば、「人に迷惑をかけない」というだけではなく、
「お天道様に恥ずかしくない」こと
「先祖に顔向けできないことはしない」ことが、生活の根幹にあります。
自分たちの血肉になるために失われた命に対して「ごちそうさま」と感謝する気持ちがあります。
我々は人間以外のたくさんの「ことがら」のなかで生かされています。
そして、様々なあるいはありとあらゆることがらと我々は
不可分であり、因果を結んでいるのです。

そこから、人間だけを抜き出したときにどうなるでしょうか?
そのつながりは、非常に脆弱なものに変化します。
ただでさえ人間偏重の現代においては、紐帯が失われつつあります。
集団移転は、それを加速させているのです。
ですから、集団移転せざるを得なかった人たちは、
自分たちを産み育てた様々な「ことがら」から断絶し、
自分たちの紐帯や一体感を失いました。
共同体をあらたに作ることは可能でも、
共同体が人を育てる様々なことがらを生み出すには
気が遠くなるほどの時間がかかることでしょう。

帰郷できない以上、空間的な連続はもう、どうしようもありません。
ただ、時間的な連続は、現在まだ一時停止の状態かもしれません。
少なくとも過去を共有し、過去に空間を共有していたという「記憶』は残っています。
もしかすると、過去を救うことが、断絶に橋を架け、未来を助ける。
そんなことがあるかもしれません。



ついでに言っておきますが、そういう理由からボクは
子供たちの集団移転(疎開)については、絶対に反対します。
子供たちが集団移転すれば、子供たちは三つ目のそして最大の断絶に直面せざるを得ないと思うからです。
もちろん、個人的に家族単位で、家族の意志で福島を離れることについては、何の問題もありませんが。

二つの断絶 一つ目の断絶

2013-01-25 23:13:20 | 日々の暮らし
ちょっと、まじめに考えてみた。

3月11日以降、被災地とくに福島第一原子力発電所付近を中心とした福島県浜通り地域は、
二つの深く大きな溝によって社会と断絶している。

東日本大震災およびそれにともなう福島第一原子力発電所爆発事故については
たくさんの記録が明らかにされ、活字や映像や音声によって、それらが伝えられている。
私自身、当日の様子を直接聴くこともあったし、様々なメディアを通して知ることもあった。
しかし、それらは震災から二年が経過しようとしている現在、
人々の関心が低くなってくるとともに、メディアに載る回数が目に見えて減少している。
それは予想されたことであり、かつある意味しかたのないことでもある。
ここではそのことを、とやかく言うまい。問題はそこではない。

現在でも東日本大震災の被害、とくに福島第一原子力発電所爆発事故について言及している人は
直接間接の被害者か、関心の高い人たちか、立場上関わらざるを得ない人たちであろう。

そこに大きな断絶がある。

震災や原発事故に直面した人たちからは、様々な証言が得られている。
それらは、想像を絶するものであり、かつきわめて深刻な内容でもある。
しかし、忘れていけないのは語られている、語ることのできることはその一部でしかないということである。
すべてが語り尽くされている訳では、無い。断じて、無い。
もっともつらい体験、もっとも恐ろしい体験、言葉にできない経験をしてきた人たちは
一言も語ること無く、死ぬまでその闇を心の底におさめていくこともあるだろう。
もちろん、語ることで心が軽くなる人もいるし、時間が彼らを癒すことだってある。
でも、それができない人だって、いる。

言葉にできない経験を、我々はどうやって知ることができよう?
彼らと我々の間には、どうしてもこえることのできない深い裂け目が横たわる。
そこから目をそらして、語られる言葉だけに頼って、復興はなし得ない。
われわれはそこに大きな断絶があることを直視しなければならない。
我々が知る術さえ持たないほどの経験があったことを、忘れてはいけないだろう。
被災者の言葉に耳を傾けるということは
推し量ることすらできない経験があるということを知った上ででなければいけない。
その経験をしたものと、していないもの。それが断絶なのではない。
言葉にできない経験をしたものと、言葉で理解しようとしかしないものと間にあるのが断絶なのだ。

もちろん、それは今回の震災に限ったことではなく、戦争や飢饉や、
もっとパーソナルな経験であっても、語れない闇は、あるのだろう。

あけましておめでとうございます!

2013-01-03 17:40:56 | 日々の暮らし
昨年はなんとなく更新が滞っていましたが(笑)
今年はもうちょっとだけがんばります。。。
本年もよろしくお願いいたします。





さて、新年の繁華街は、昨年よりも少し人出が減っていたようです。
でも、イルミネーションがきれいでした。




今日は父の古希のお祝いに、家族で写真を撮りました。
せっかくなので、私は祖父の形見の大島を、
かなり、、、恰幅よくなった私は着物が似合うかも(笑)




妻は母から譲っていただいた大島を着てみました。





穏やかな正月も今日で終わり。明日からの一年はハードになりそうです。