前回、歌舞伎には時代を映す柔軟性が備わっていると書いた。しかしそれは時局・時事を取り入れることには決してならない。来年・再来年に時事ネタの部分だけ差し替えればいいの?それで、ずっと新鮮なままでいられるの?でも、たとえば心中ものなんて書かれた当時は時事ネタだったが、今では古典となっているものもある。果たしてどこが違うんだろう。
それはいかに普遍性を持っているか、につきる。心中ものだったら、心中した二人に同情するのか、心中させた人々に理解を示すのか、社会の責任を追及するのか、はたまた二人の短慮を笑うのか。舞台で演じられている事柄に対しての人々の視点と評価は、時代とともに刻々とかわっていくものである。
まず、脚本がそれに耐えるものでなければならない。そして、役者は時代を敏感に感じ取って、きめられた台詞と所作の中で表現して行かなければならない。同じ言葉の受け答えにしたって、時代が変わればニュアンスはかわってくるのが当然である。それをちょっとした間や言葉の調子で表現することが演技であり、役者の持ち分であろう。キセルとたばこ盆をマルボロメンソールライトと百円ライターに持ち替えたりはしない。幸いなことに明治以来、日本人の気質は根本的には変化していないので、脚本が書かれた当時から笑わせたい場面で笑うし、泣かせる場面で泣く。もちろん、それが変わってしまったら歌舞伎自体が成り立たない。
そして、能ほどではないけれど歌舞伎の演出は「見立て」による部分が多いのだから、実物を出すというのはいかがなものか?舞台にニューヨーク市警のパトカーが出てきて、演出上必要であったのだとすれば、それを必要としたその脚本がお粗末だっただけのこと。それしか話題がなかったとしたら、それは役者が未熟だといことになりはしないか?アメリカ人にその微妙なところがわかりにくいとしても、蕎麦のたれにトマトソースを使いはしまい。確かに建物を倒したり、大蝦蟇の背中に乗ったり、歌舞伎にも外連が無いわけではない。でも、それらは役者を際だたせるための手段であって、歌舞伎の演出は役者の演技のうちにおさまってほしい。
思うに、市川猿之助が自分の舞台を「スーパー」歌舞伎と名付けたのは、歌舞伎を愛し、観客を愛し、舞台を愛していた彼が、歌舞伎を逸脱することを覚悟のうえでの苦肉の策だったのだろう。スーパー歌舞伎はけして歌舞伎の近代化などではなく、新しい伝統芸能の誕生といってもいい出来事だったのである。そしてそれが伝統になるか鬼子で終わるか。それは段治郎と右近、猿之助の育てた二人の弟子にかかっている。
勘三郎の舞台を見て泣くとしたらそれは彼の演技力によって泣かされるのであり、段治郎によって泣かされるとしたらそれはスーパー歌舞伎という舞台で役者達が繰り広げる芸によって泣かされるのである。伝統とはそういうものだと私は思う。この春にダブルキャストで演じられる「ヤマトタケル」、スーパー歌舞伎の原点を二人が演じると言うことは今の歌舞伎にとってもとても大切なことなのである。
それはいかに普遍性を持っているか、につきる。心中ものだったら、心中した二人に同情するのか、心中させた人々に理解を示すのか、社会の責任を追及するのか、はたまた二人の短慮を笑うのか。舞台で演じられている事柄に対しての人々の視点と評価は、時代とともに刻々とかわっていくものである。
まず、脚本がそれに耐えるものでなければならない。そして、役者は時代を敏感に感じ取って、きめられた台詞と所作の中で表現して行かなければならない。同じ言葉の受け答えにしたって、時代が変わればニュアンスはかわってくるのが当然である。それをちょっとした間や言葉の調子で表現することが演技であり、役者の持ち分であろう。キセルとたばこ盆をマルボロメンソールライトと百円ライターに持ち替えたりはしない。幸いなことに明治以来、日本人の気質は根本的には変化していないので、脚本が書かれた当時から笑わせたい場面で笑うし、泣かせる場面で泣く。もちろん、それが変わってしまったら歌舞伎自体が成り立たない。
そして、能ほどではないけれど歌舞伎の演出は「見立て」による部分が多いのだから、実物を出すというのはいかがなものか?舞台にニューヨーク市警のパトカーが出てきて、演出上必要であったのだとすれば、それを必要としたその脚本がお粗末だっただけのこと。それしか話題がなかったとしたら、それは役者が未熟だといことになりはしないか?アメリカ人にその微妙なところがわかりにくいとしても、蕎麦のたれにトマトソースを使いはしまい。確かに建物を倒したり、大蝦蟇の背中に乗ったり、歌舞伎にも外連が無いわけではない。でも、それらは役者を際だたせるための手段であって、歌舞伎の演出は役者の演技のうちにおさまってほしい。
思うに、市川猿之助が自分の舞台を「スーパー」歌舞伎と名付けたのは、歌舞伎を愛し、観客を愛し、舞台を愛していた彼が、歌舞伎を逸脱することを覚悟のうえでの苦肉の策だったのだろう。スーパー歌舞伎はけして歌舞伎の近代化などではなく、新しい伝統芸能の誕生といってもいい出来事だったのである。そしてそれが伝統になるか鬼子で終わるか。それは段治郎と右近、猿之助の育てた二人の弟子にかかっている。
勘三郎の舞台を見て泣くとしたらそれは彼の演技力によって泣かされるのであり、段治郎によって泣かされるとしたらそれはスーパー歌舞伎という舞台で役者達が繰り広げる芸によって泣かされるのである。伝統とはそういうものだと私は思う。この春にダブルキャストで演じられる「ヤマトタケル」、スーパー歌舞伎の原点を二人が演じると言うことは今の歌舞伎にとってもとても大切なことなのである。