さて、以前古墳時代の古墳の壁画には仏教色がないという話をしました。古墳は仏教とは違う宗教観(厳密にはこれも道教の影響をかなり受けているので、そういう意味では日本古来とはいいがたい)によって成立しており、仏教伝来以後もしばらくの間古墳はつくられ続けています。ここで、仏教推進派と旧勢力派の軋轢が生まれます。もしかすると、その逆で旧勢力派に対する革新勢力がその旗印に仏教を掲げたのかもしれません。古代史はあんまり詳しくなくてすみません(笑)その衝突が大化の改新です。懐かしい言葉でしょ!ほとんど全国民がその年号を暗記していると思います(笑)
さて、仏教伝来と仏教文化の伝搬は微妙に意味が違うのです。つまり、仏教伝来以前の日本には、仏教の教義/教典や僧侶といったいわば仏教のシステムが不在でも、仏教から生まれた死生観が着実に根付いていたといえます。たとえば、古墳の副葬品に「銅碗」といった、仏教特有の什器が用いられることなどがあげられます。
しかし、そのもっとも大きな影響は以前書いたように、死後の世界のイメージが具体化したことです。たとえば、高松塚古墳の壁画は仏教色が見られません。しかしながら、それまでの縦穴を掘って地中に遺骸を埋めてしまう古いタイプの古墳と違って、埋葬施設が横穴式の石室という「空間」であること、そしてそこを壁画で飾ることはすなわち死者を「死後の世界」に安置することにほかなりません。いまだ死後の世界のイメージについては統一されてはいないようですが。
さて、高松塚古墳やキトラ古墳、珍塚古墳に王塚古墳。こういった古墳には比較的具体的な装飾が施されている一方で、中田横穴墓
虎塚古墳
と言った古墳には円と三角という非常に幾何学的な文様が主体となっています。連続する三角文は、葬送の儀式の際に周囲に張り巡らせた幕(鯨幕みたいなものか?)を、円は日/月あるいは「辟邪の目」を表しているともいわれます。この件については稿をあらためて述べたいと思いますが、この三角と円というのが日本古来のもっとも伝統的な文様になります。
その一方で、高松塚をはじめとする絵画的な装飾はいずれも中国の習俗や伝説/神話をモチーフとしています。東西南北に配された四神獣や高松塚の女官、馬の口取りをする人や龍などなど。
この時点では、やはり仏教思想の中での”死後の世界”という漠然とした概念だけが先行して伝搬してきたようです。仏教伝来と仏教文化の伝搬は意味が違うと言ったのは、つまりそういうことです。概念だけが伝搬すると日本伝統の三角文や円文で装飾するようになるし、大陸の文化や習俗と渾然一体となって伝搬してくると(あるいは大陸からの渡来人に装飾を任せると??)神話的なモチーフが描かれるのでしょう。多分。
で、この頃にあの世へは「船で渡る」というイメージが次第に醸し出されてきます。ちなみに、末法思想が流行った平安末期、西方浄土はこの世と地続きではない(どちらかというと遥か海上にあり断崖絶壁に囲まれたイメージ)と考えられていましたが、三途の「川」というイメージはいつ頃で来たのでしょうかね?
さて、仏教伝来と仏教文化の伝搬は微妙に意味が違うのです。つまり、仏教伝来以前の日本には、仏教の教義/教典や僧侶といったいわば仏教のシステムが不在でも、仏教から生まれた死生観が着実に根付いていたといえます。たとえば、古墳の副葬品に「銅碗」といった、仏教特有の什器が用いられることなどがあげられます。
しかし、そのもっとも大きな影響は以前書いたように、死後の世界のイメージが具体化したことです。たとえば、高松塚古墳の壁画は仏教色が見られません。しかしながら、それまでの縦穴を掘って地中に遺骸を埋めてしまう古いタイプの古墳と違って、埋葬施設が横穴式の石室という「空間」であること、そしてそこを壁画で飾ることはすなわち死者を「死後の世界」に安置することにほかなりません。いまだ死後の世界のイメージについては統一されてはいないようですが。
さて、高松塚古墳やキトラ古墳、珍塚古墳に王塚古墳。こういった古墳には比較的具体的な装飾が施されている一方で、中田横穴墓
虎塚古墳
と言った古墳には円と三角という非常に幾何学的な文様が主体となっています。連続する三角文は、葬送の儀式の際に周囲に張り巡らせた幕(鯨幕みたいなものか?)を、円は日/月あるいは「辟邪の目」を表しているともいわれます。この件については稿をあらためて述べたいと思いますが、この三角と円というのが日本古来のもっとも伝統的な文様になります。
その一方で、高松塚をはじめとする絵画的な装飾はいずれも中国の習俗や伝説/神話をモチーフとしています。東西南北に配された四神獣や高松塚の女官、馬の口取りをする人や龍などなど。
この時点では、やはり仏教思想の中での”死後の世界”という漠然とした概念だけが先行して伝搬してきたようです。仏教伝来と仏教文化の伝搬は意味が違うと言ったのは、つまりそういうことです。概念だけが伝搬すると日本伝統の三角文や円文で装飾するようになるし、大陸の文化や習俗と渾然一体となって伝搬してくると(あるいは大陸からの渡来人に装飾を任せると??)神話的なモチーフが描かれるのでしょう。多分。
で、この頃にあの世へは「船で渡る」というイメージが次第に醸し出されてきます。ちなみに、末法思想が流行った平安末期、西方浄土はこの世と地続きではない(どちらかというと遥か海上にあり断崖絶壁に囲まれたイメージ)と考えられていましたが、三途の「川」というイメージはいつ頃で来たのでしょうかね?