とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

気持ちが収まらない

2020-03-06 23:43:14 | 会社での出来事
別の記事を書いていたが、怒りの気持ちが収まらない。

2008年の職場では皆がいい人だったのだが、しかし私を全員が子供扱いするという嫌な体験をしたのである。
私をバカにするのはいいが、私が全てをおさえて突破口を開くと、皆だんまりになる。
私の方が実力が上だと認識するからだ。
だんまりになるくらいなら、最初から子供扱いしなければいいのだ。

本当に不快だ。気分が悪い。そして私は出世しなかった。
どんなに頑張っても頑張っても認められはしなかった。
その内、私は体を壊した。

その後出世の打診があったが、私はこれを断っている。
理由は「死にたくないから」とそのまま言っている。
あれだけ苦心して出世したくて出世したくて頑張って体も壊したのに、なんにもならなかった。
そして昇進すれば、半壊だった私は、今度こそ全壊になってしまう。

そのようなことを思い出しては、腹も立ち、憤りが止まらない。
それは今でも同じことだ。
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ハワイは夢の国と言うストーリーは続いているか否か

2020-03-06 23:17:28 | 社会・テレビ・広告・既存市場動向
私は2018年の1月に、社員旅行でハワイに行った。
会社にはこのような体験をさせて貰って大変に感謝をしている。
まさか食物連鎖のピラミッドで、自分の横にはゾウリムシがいそうであるような、私のような下等生物がハワイに行くとは思わなかったのだ。

が一方で、正直なところ、ハワイに行ったら行ったで、ハワイそのものに失望もした(会社には感謝している)。
「夢のハワイ」などと言われている割には、まず全てが80年代で社会が止まっていることを感じ、外に行けばtiktokの日本語観光バスが縦横に走っており、ハワイのちょっと奥に行けば、屋根が壊れている廃屋が何軒も見つかるのである(が、これはこれでこの失望もストーリーテリングの裏にある真実を見て、社会観察のタネとして大変貴重な体験ではあった)。

ナッツ園では鶏にエサをやり、サーターアンダギーに似た何かを食べ、うーん、これでは東南アジアと変わらないのではないのかと不満に思ったりしたのである。
なお、裁判所も外側だけ見に行ったが、ガイドの人が言うには「いつも時間が結構ずれているのに、今日はなぜかぴったり合ってますね、なぜでしょう? 」と言っていた。
これはガイドのための面白話として言っていたのかもしれないが、これが仮に本当だとすると、公的機関でさえこのレベルであるということである。

夕日だけは絶景で、あの瞬間だけビーチにいる皆は日が沈む方向を見ている。
ホテルの有色も、夕日が沈むタイミングで食事できるのも、自分には出過ぎた奢侈な体験だった。

下はハワイ人だけの土地だったというのだが、アメリカが接収して下衆な人間が入ってきて、夕日に心打たれると言うのと同時にその地を汚していると言うのも、私にとって気に食わない。
もっと外来の人間は、その土地とその土地の人間に対して畏敬を払って訪問をすべきなのだ、と私は個人的に考える。


ともあれ、ハワイに行った私が感じたのは、ハワイはハワイ人にとって特別な地ではあるものの、しかし総合して外の皆が羨むような天国ではないと分かったのは大変な収穫だった。無論、日本と比較して治安が悪い。


そうした「夢のハワイ」なるものは、真実を見れば、それは作られたストーリーなのではないか、と私は考える。
先日の記事で、「旅行先にはモノではなく、それに付随するストーリーが必要である」と書いた。
そうしたストーリーづくりに、ハワイはかなり成功した場所だと言える。本質的にはあそこは80年代で止まっている観光地である。


これが昨今の武蔵小杉のタワーマンションで発揮されたように思う。
そこに住んでいない私は、そもそも言う権利もないように思うが、一方で個人的にあそこのタワーマンションには何か強い幻想を生み出して、それを信じ込ませることに成功したフシがある。

人には夢が必要で、ストーリーが必要なのだ。
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皆一色になると言う恐怖

2020-03-06 22:59:48 | 哲学・社会
世の中、「ブームになっているから乗る」と言う人と、「ブームになっているからこそ乗らない」と言う人がいる。
どちらも人間らしい考え方だ。

ただ、この前者は、ニーチェの言う畜群と言うところであろう。
(ただ、私はニーチェは未読だ。下記のWikipediaによって知ったにすぎない。)

畜群 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%9C%E7%BE%A4

畜群(ちくぐん)とは、フリードリヒ・ニーチェによって提唱された哲学の概念。『善悪の彼岸』などで用いられていた。デモクラシーを趣味として、能弁と達者に生きる人々のことを奴隷として批判するためにこの言葉が用いられていた。畜群というのは孤独というものを知らず、己の孤独を持つこともなく、遅鈍で正直な連中であるということであった。畜群とされる連中が求めているのは、全ての人のために与えられる生活の保証、平安、快適、安楽という幸福であるが、これらは一般的な緑の牧場の幸福であると批判された。畜群にとっての教養というのは平等と同情の二つであった。畜群にとって苦悩というものは除去されるべきものとされたが、ニーチェにとっては人間というのは逆の条件に置かれるということから成長できるとのことであり、人間というのは邪悪なものや恐るべきものや暴虐なものや猛獣的なものも種族の向上のために役立っていたということであった。


私はこの畜群と言う言葉は知らなかったので、知らなかった頃は「鰯の魚群」とこの群像を言っていた。

自分の好みですら自分で決定できないある種軽度の知的障害者である彼らもまた、人間と言う存在である。
キャンベルのコーンスープの缶のカラーコピーがいいねなどと言って、機械のように生涯を過ごせば良い。

ただ人間は人間であるので、人間ならではの感性で、外界の文化を自分の感覚を鋭敏に全方向から受け止めて、文化的な喜びを享受すべきなのである。

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