まずはニュースから。
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国民が70人死んでも大統領は一言も謝罪なし
「間違いがあれば謝罪せよ」という常識が塵のごとくはかない世の中に
韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が、自分の誤りについて最後に謝罪したのは2018年7月だ。文大統領は「2020年までに最低賃金1万ウォン(現在のレートで約870円)を実現するという目標は事実上困難になった」として「結果的に、大統領選挙の公約を守れなくなったことをおわび申し上げる」と語った。ほかにも守れなかった公約が多数あるという点を考えると、実に突拍子もない謝罪だった。その後は、自分のやったことについてきちんと謝罪した例はほとんどない。でたらめ経済政策で一家の大黒柱が次々と仕事を失っても、借金が雪だるまのように膨れ上がっても、防疫失敗で70人の国民が命を落としても、決して謝罪しなかった。最近、マスク不足問題で文大統領が久々に謝罪したというが、これは事実ではない。文大統領は「マスクを十分に供給できず、不便をおかけしたことについて恐縮に思う」と発言し、閣僚らを叱責(しっせき)した。残念だという意味の「恐縮」は、自分の誤りを認める「謝罪」とは明らかに意味が違う。(中略)
大統領が謝罪しない理由を、韓国国民はあれこれ推測するだけだ。だが、はっきりしているのは、「誤りがあれば心から許しを求めよ」という基本的な常識が、この政権においてはちりのごとくはかないものになったという事実だ。やるせないことだが、常識が覆される時代を生きていこうと思ったら、親が子に伝える教えもかくのごとく変わることは避けられない。「厚かましくなれ。ダブスタ(二重基準)を基本テクとして身に付け、絶対に謝罪するな。謝ったら負けだ」
チェ・ギュミン経済部次長
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
http://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2020031980172
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下記は私の作業仮説。メモ程度に書いておく。
日本の文脈でこの謝罪を読むと誤った結論に辿り着いてしまうのではないかと危惧する。
トラブルがあった場合、それをゼロベースにしてやり直す、と言う様式はどこの国でも存在する。
(モンゴルでは足がぶつかった際に喧嘩などのトラブルになるため、握手をする習慣がある)。
日本の場合は、一にも二にも謝罪をし罪を認め謝ることで罪が清算され、−100になるかならないか分からなかった罪は(社会上の本質は−100のままだが、表面的形質において一応そうなるというレベルの意味で)0になる。
一方韓国では、罪を認め謝罪をすると、あやふやで−100になりそうだった罪は−100に固着する。
なので、日韓の両国は「罪を犯したならば、礼儀としてまず謝れ」と言う様式は同じであるが、そこから導かれる結果、即ち、その罪が0になるのか、値を持った形で半永久的に固着し、半永久的に断罪を続けることになるのかが異なる。
この意味からすると、「罪を犯したならば、礼儀としてまず謝れ」と言う、中身が全く異なる。
日本の意味合いでは、「まず事実と罪を倫理面から認め、そこから被害者が得心の行く事項が決定される。被害者側の溜飲が下がれば、怒りも一応おさまることになる」と言うことだが、韓国での意味合いでは、「事実と罪を倫理面から認め、そこから被害者が得心の行く事項が決定される。被害者側の溜飲が下がることはなく、社会の訓戒と反省のために、未来永劫において断罪と反省を促さなければ再度同じ過ちを犯すことになるだろう」と言う意味で永久に言い続ける。
今回の「間違いがあれば謝罪せよ」と言うのは、ゼロベースに罪が清算される様式があれば、それが間違いなく選択されるだろうということだ。謝罪の回避は、罪の固着と永続的な叱責と凋落を回避することなので、韓国社会では仕方のないことなのではないだろうか。
この意味において、本来であればある程度踏み込んだ政策も、リスクを織り込んで実行しなければならないのに、罪が清算されないとなると、新たなるリスタートが切れないことをも意味する。
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国民が70人死んでも大統領は一言も謝罪なし
「間違いがあれば謝罪せよ」という常識が塵のごとくはかない世の中に
韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が、自分の誤りについて最後に謝罪したのは2018年7月だ。文大統領は「2020年までに最低賃金1万ウォン(現在のレートで約870円)を実現するという目標は事実上困難になった」として「結果的に、大統領選挙の公約を守れなくなったことをおわび申し上げる」と語った。ほかにも守れなかった公約が多数あるという点を考えると、実に突拍子もない謝罪だった。その後は、自分のやったことについてきちんと謝罪した例はほとんどない。でたらめ経済政策で一家の大黒柱が次々と仕事を失っても、借金が雪だるまのように膨れ上がっても、防疫失敗で70人の国民が命を落としても、決して謝罪しなかった。最近、マスク不足問題で文大統領が久々に謝罪したというが、これは事実ではない。文大統領は「マスクを十分に供給できず、不便をおかけしたことについて恐縮に思う」と発言し、閣僚らを叱責(しっせき)した。残念だという意味の「恐縮」は、自分の誤りを認める「謝罪」とは明らかに意味が違う。(中略)
大統領が謝罪しない理由を、韓国国民はあれこれ推測するだけだ。だが、はっきりしているのは、「誤りがあれば心から許しを求めよ」という基本的な常識が、この政権においてはちりのごとくはかないものになったという事実だ。やるせないことだが、常識が覆される時代を生きていこうと思ったら、親が子に伝える教えもかくのごとく変わることは避けられない。「厚かましくなれ。ダブスタ(二重基準)を基本テクとして身に付け、絶対に謝罪するな。謝ったら負けだ」
チェ・ギュミン経済部次長
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
http://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2020031980172
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下記は私の作業仮説。メモ程度に書いておく。
日本の文脈でこの謝罪を読むと誤った結論に辿り着いてしまうのではないかと危惧する。
トラブルがあった場合、それをゼロベースにしてやり直す、と言う様式はどこの国でも存在する。
(モンゴルでは足がぶつかった際に喧嘩などのトラブルになるため、握手をする習慣がある)。
日本の場合は、一にも二にも謝罪をし罪を認め謝ることで罪が清算され、−100になるかならないか分からなかった罪は(社会上の本質は−100のままだが、表面的形質において一応そうなるというレベルの意味で)0になる。
一方韓国では、罪を認め謝罪をすると、あやふやで−100になりそうだった罪は−100に固着する。
なので、日韓の両国は「罪を犯したならば、礼儀としてまず謝れ」と言う様式は同じであるが、そこから導かれる結果、即ち、その罪が0になるのか、値を持った形で半永久的に固着し、半永久的に断罪を続けることになるのかが異なる。
この意味からすると、「罪を犯したならば、礼儀としてまず謝れ」と言う、中身が全く異なる。
日本の意味合いでは、「まず事実と罪を倫理面から認め、そこから被害者が得心の行く事項が決定される。被害者側の溜飲が下がれば、怒りも一応おさまることになる」と言うことだが、韓国での意味合いでは、「事実と罪を倫理面から認め、そこから被害者が得心の行く事項が決定される。被害者側の溜飲が下がることはなく、社会の訓戒と反省のために、未来永劫において断罪と反省を促さなければ再度同じ過ちを犯すことになるだろう」と言う意味で永久に言い続ける。
今回の「間違いがあれば謝罪せよ」と言うのは、ゼロベースに罪が清算される様式があれば、それが間違いなく選択されるだろうということだ。謝罪の回避は、罪の固着と永続的な叱責と凋落を回避することなので、韓国社会では仕方のないことなのではないだろうか。
この意味において、本来であればある程度踏み込んだ政策も、リスクを織り込んで実行しなければならないのに、罪が清算されないとなると、新たなるリスタートが切れないことをも意味する。