私は昔から本を読まなかった。
なぜかと言うと、これがまた説明が面倒臭い。
例えば、「○○がしたい! 」の欲求だとか、「○○が嬉しい! 」の喜び、「○○が憎い! 」などの怒りだというのは、それはその個人を構成する必須要素ではあるが、しかしそれが積もり積もると、それは過度な行動原理からストレスへと変化し、ストレスを過剰になるとその個人の生活を害することになる。
そういう時、誰かに話したり、日記に書いたり、あるいは書籍を読んで誰かの体験を追体験などすれば、それらのストレスはある程度収まることは誰しも経験があることだろう。
しかし昔の私はこれを拒否した。
私は、自分自身は何であるか? と具体的に考えたことは無かったが、ある種の直感的な感覚は自覚していた。
自分自身の存在が、自分の内側から溢れ出る情動で構成されているのを自覚しており、それらこそが自分なのである、とは理解していたのである。
仮に書籍を読んだり、日記を書いたり、誰かに話すことというのは、自分を構成する内的な何かが外部へ拡散するか、あるいは気持ちの整理がついてしまって自分を構成していた情動までが失われてしまう、という危機感はうすうす感じてはいたのである。そしてそれは本質的に擬似的な死なのであるとも認識していた。
よって、私は本を読まなかった。日記も書かなかった。人に悩みを話すこともなかった。その”情動で構成される自分”を死から守ってきたのである。
こうして野人や狂人に近い人間が出来上がったのだった(本を読むようになったのは社会人になってからである)。
そして「本を読んだり、日記を書くと情動としての死を迎え、情動を自分の一要素にしている自分はそこで死を迎える」と考えていたが、そうした理論が誤りであると認識したのは、本当につい最近である。
「マシュマロ・テスト:成功する子・しない子」(ウォルター・ ミシェル)では、スタンフォード大学での心理学的テストを通じて人の動物的思考習性を解析していく。
そこでは人間の習性がホットとクールシステム(ゴーとストップシステム)、に分かれるとしている。
例えばマシュマロを食べたいと思う気持ちがホットで、それを冷却するシステムがクールである場合、クールはホットを冷却できる、としている。この場合、私が上記で書いた情動で構成される自分が死ぬことになるのだが、実はそうではない。
私という存在は、脳のホットだけで構成される存在ではない。それを冷却し、自己の欲望を客観的に観察するクールもまた、私を構成する要素であるのだ。
こう考えた場合、私の主導権は完全にクール部分へ渡すことになり、それまでのホットな狂人は完全に死に追いやられるだろう。
しかしそれこそが、私と世間を苦しめる存在だったのだ。
プラトンが著書「国家」の中で、自分の中の存在を、一人の人間と一匹のライオン、そして巨大なモンスターに例え、自分という存在はその中の人間であり、モンスターを押さえつけ、そして勇気あるライオンと手を携えるべきなのだ、と言っていたが、まさにその通りである。
なぜかと言うと、これがまた説明が面倒臭い。
例えば、「○○がしたい! 」の欲求だとか、「○○が嬉しい! 」の喜び、「○○が憎い! 」などの怒りだというのは、それはその個人を構成する必須要素ではあるが、しかしそれが積もり積もると、それは過度な行動原理からストレスへと変化し、ストレスを過剰になるとその個人の生活を害することになる。
そういう時、誰かに話したり、日記に書いたり、あるいは書籍を読んで誰かの体験を追体験などすれば、それらのストレスはある程度収まることは誰しも経験があることだろう。
しかし昔の私はこれを拒否した。
私は、自分自身は何であるか? と具体的に考えたことは無かったが、ある種の直感的な感覚は自覚していた。
自分自身の存在が、自分の内側から溢れ出る情動で構成されているのを自覚しており、それらこそが自分なのである、とは理解していたのである。
仮に書籍を読んだり、日記を書いたり、誰かに話すことというのは、自分を構成する内的な何かが外部へ拡散するか、あるいは気持ちの整理がついてしまって自分を構成していた情動までが失われてしまう、という危機感はうすうす感じてはいたのである。そしてそれは本質的に擬似的な死なのであるとも認識していた。
よって、私は本を読まなかった。日記も書かなかった。人に悩みを話すこともなかった。その”情動で構成される自分”を死から守ってきたのである。
こうして野人や狂人に近い人間が出来上がったのだった(本を読むようになったのは社会人になってからである)。
そして「本を読んだり、日記を書くと情動としての死を迎え、情動を自分の一要素にしている自分はそこで死を迎える」と考えていたが、そうした理論が誤りであると認識したのは、本当につい最近である。
「マシュマロ・テスト:成功する子・しない子」(ウォルター・ ミシェル)では、スタンフォード大学での心理学的テストを通じて人の動物的思考習性を解析していく。
そこでは人間の習性がホットとクールシステム(ゴーとストップシステム)、に分かれるとしている。
例えばマシュマロを食べたいと思う気持ちがホットで、それを冷却するシステムがクールである場合、クールはホットを冷却できる、としている。この場合、私が上記で書いた情動で構成される自分が死ぬことになるのだが、実はそうではない。
私という存在は、脳のホットだけで構成される存在ではない。それを冷却し、自己の欲望を客観的に観察するクールもまた、私を構成する要素であるのだ。
こう考えた場合、私の主導権は完全にクール部分へ渡すことになり、それまでのホットな狂人は完全に死に追いやられるだろう。
しかしそれこそが、私と世間を苦しめる存在だったのだ。
プラトンが著書「国家」の中で、自分の中の存在を、一人の人間と一匹のライオン、そして巨大なモンスターに例え、自分という存在はその中の人間であり、モンスターを押さえつけ、そして勇気あるライオンと手を携えるべきなのだ、と言っていたが、まさにその通りである。