とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

脳のホットとクールシステム

2015-12-13 15:17:40 | 哲学・学術・教育
私は昔から本を読まなかった。
なぜかと言うと、これがまた説明が面倒臭い。

例えば、「○○がしたい! 」の欲求だとか、「○○が嬉しい! 」の喜び、「○○が憎い! 」などの怒りだというのは、それはその個人を構成する必須要素ではあるが、しかしそれが積もり積もると、それは過度な行動原理からストレスへと変化し、ストレスを過剰になるとその個人の生活を害することになる。

そういう時、誰かに話したり、日記に書いたり、あるいは書籍を読んで誰かの体験を追体験などすれば、それらのストレスはある程度収まることは誰しも経験があることだろう。
しかし昔の私はこれを拒否した。

私は、自分自身は何であるか? と具体的に考えたことは無かったが、ある種の直感的な感覚は自覚していた。
自分自身の存在が、自分の内側から溢れ出る情動で構成されているのを自覚しており、それらこそが自分なのである、とは理解していたのである。

仮に書籍を読んだり、日記を書いたり、誰かに話すことというのは、自分を構成する内的な何かが外部へ拡散するか、あるいは気持ちの整理がついてしまって自分を構成していた情動までが失われてしまう、という危機感はうすうす感じてはいたのである。そしてそれは本質的に擬似的な死なのであるとも認識していた。

よって、私は本を読まなかった。日記も書かなかった。人に悩みを話すこともなかった。その”情動で構成される自分”を死から守ってきたのである。
こうして野人や狂人に近い人間が出来上がったのだった(本を読むようになったのは社会人になってからである)。

そして「本を読んだり、日記を書くと情動としての死を迎え、情動を自分の一要素にしている自分はそこで死を迎える」と考えていたが、そうした理論が誤りであると認識したのは、本当につい最近である。


「マシュマロ・テスト:成功する子・しない子」(ウォルター・ ミシェル)では、スタンフォード大学での心理学的テストを通じて人の動物的思考習性を解析していく。

そこでは人間の習性がホットとクールシステム(ゴーとストップシステム)、に分かれるとしている。

例えばマシュマロを食べたいと思う気持ちがホットで、それを冷却するシステムがクールである場合、クールはホットを冷却できる、としている。この場合、私が上記で書いた情動で構成される自分が死ぬことになるのだが、実はそうではない。

私という存在は、脳のホットだけで構成される存在ではない。それを冷却し、自己の欲望を客観的に観察するクールもまた、私を構成する要素であるのだ。

こう考えた場合、私の主導権は完全にクール部分へ渡すことになり、それまでのホットな狂人は完全に死に追いやられるだろう。
しかしそれこそが、私と世間を苦しめる存在だったのだ。

プラトンが著書「国家」の中で、自分の中の存在を、一人の人間と一匹のライオン、そして巨大なモンスターに例え、自分という存在はその中の人間であり、モンスターを押さえつけ、そして勇気あるライオンと手を携えるべきなのだ、と言っていたが、まさにその通りである。

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概念の整理 (佐久間)
2015-12-13 19:16:27
《自我》
認識は自我の要請によるものですが、これは自我が認識を要求しているという意味ではありません。その反対です。自我を要請しているのは現象の裏側にひそむ原因すなわち、この世界の方向性であり、そのために認識という作用が存在して自我をつくり出しています。

自我の成立は認識作用に絶対的に依存しています。我々の認識は対象の記憶能力(切り取り)、対象の概念(抽象・イメージ)化能力、概念を他の概念と作用させて構造化する思考能力によって構成されます。認識作用は非対象である唯一無二の世界から対象としてそれを切り取り、対象の抽象化イメージ化を経て、これらを互いに作用させることで独特の世界観をつくり出します。そして、その認識作用によって『非対象の認識作用』を対象化・概念化し、この作用の在処すなわち器(肉体)となる概念に特別な感覚(私は此処に存在していると言う感覚)を伴って結びつけることで、自我を形成します。これを受肉、または認識的受肉と呼びます。つまり自我とは認識作用によって形作られた錯覚です。


《認識》
一般的に我々の考えうるものや語りうるものは現象以前の世界(原因)でもなければ、認識以前の世界(非対象)でもありません。また対象(切り取り)の世界でもありません。我々が考えたり語ったりできるのは唯一認識作用によって形作られた構造であり、水面に浮かぶ泡のみです。我々の認識に本当の意味での対象同一性(対象と認識は同一であると言うこと)はありません。

(補足)
言語がなくても思考はできることから、考えうるもの(-認識)と語りうるもの(言語化された認識)は区別します。


《観念》
観念とは対象にもつ認識(考え)であり、またその考えに伴って生じる感情です。ゆえに観念という概念は広く凡ゆるものに用いることができます。学問界を支配する諸科学ですら観念であると言えます。


《根源》
根源は非対象(唯一無二)の世界の裏側にひそむ原因でありこの世界の方向性を意味する概念です。そのため、この世界の泡に過ぎない頼りない概念で語ることはできません。創造主がこの世界を造ったというのは全てでたらめです。物質がこの世界を形作っている原因というのも根拠はありません。全て概念によって形作られた構造の中で完結します。また、根源は視(見)たり聴(聞)いたり嗅いだり触ったり味わったりすることはできません。ゆえにその有無を判断することもできません。根源と言う概念は根本的に矛盾しています。


《志向》
志向(目的)は経験で得た記憶(対象)を何らかの方法によって再現する、その方向付けとなる原因因子ですが、ここで言う方法という概念は特殊で、認識としての方法論や原理説明(概念)でもなければ、非対象、対象に浮かぶ形質物の現象すなわち己の肉体や物質、道具の実使用といった意味でもありません。認識や対象や非対象のように表面に浮游する薄っぺらい頼りない現象は、我々の活動の手段(根源的原因)ではありません。それらは全て結果です。矛盾を承知で言うならば、方法とは非対象(概念、対象を含む)唯一無二の世界の裏側に想定される肉体機構やそれを取り巻く環境など、志向に対して再現可能性を与える凡ゆる根源的原因を言います。このとき想定される肉体機構によって、再現可能性を得た原因因子(志向)を志向性と呼びます。

《思考》
思考は「認識作用を構成する最後の重要な要素」であり、認識内容をつくり出します。その認識内容に基づいて行動の向きである志向が選択されます。思考には表面に現れているものと表面に現れていないものがあり、思考内容が認識内容に完全に一致することはありません。







《自己》



《社会的承認》
返信する
概念の整理(訂正) (佐久間)
2015-12-14 02:40:22
《自我》
認識は自我の要請によるものですが、これは自我が認識を要求しているという意味ではありません。その反対です。自我を要請しているのは現象の裏側にひそむ原因すなわち、この世界の方向性であり、そのために認識という作用が存在して自我をつくり出しています。

自我の成立は認識作用に絶対的に依存しています。我々の認識は対象の記憶能力(切り取り)、対象の概念(抽象・イメージ)化能力、概念を他の概念と作用させて構造化する思考能力によって構成されます。認識作用は非対象である唯一無二の世界から対象としてそれを切り取り、対象の抽象化イメージ化を経て、これらを互いに作用させることで独特の世界観をつくり出します。そして、その認識作用によって『非対象の認識作用』を対象化・概念化し、この作用の在処すなわち器(肉体)となる概念に特別な感覚(私は此処に存在していると言う感覚)を伴って結びつけることで、自我を形成します。これを受肉、または認識的受肉と呼びます。つまり自我とは認識作用によって形作られた錯覚です。


《認識》
一般的に我々の考えうるものや語りうるものは現象以前の世界(原因)でもなければ、認識以前の世界(非対象)でもありません。また対象(切り取り)の世界でもありません。我々が考えたり語ったりできるのは唯一認識作用によって形作られた構造であり、水面に浮かぶ泡のみです。我々の認識に本当の意味での対象同一性(対象と認識は同一であると言うこと)はありません。

(補足)
言語がなくても思考はできることから、考えうるもの(-認識)と語りうるもの(言語化された認識)は区別します。


《観念》
観念とは対象にもつ認識(考え)であり、またその考えに伴って生じる感情です。ゆえに観念という概念は広く凡ゆるものに用いることができます。学問界を支配する諸科学ですら観念であると言えます。


《根源》
根源は非対象(唯一無二)の世界の裏側にひそむ原因でありこの世界の方向性を意味する概念です。そのため、この世界の泡に過ぎない頼りない概念で語ることはできません。創造主がこの世界を造ったというのは全てでたらめです。物質がこの世界を形作っている原因というのも根拠はありません。全て概念によって形作られた構造の中で完結します。また、根源は視(見)たり聴(聞)いたり嗅いだり触ったり味わったりすることはできません。ゆえにその有無を判断することもできません。根源と言う概念は根本的に矛盾しています。


《志向》
志向(目的)は経験で得た記憶(対象)を何らかの方法によって再現する、その方向付けとなる原因因子ですが、ここで言う方法という概念は特殊で、認識としての方法論や原理説明(概念)でもなければ、対象や非対象に浮かぶ形質物の現象すなわち己の肉体や物質、道具の実使用といった意味でもありません。認識や対象、非対象のように表面に浮游する薄っぺらい頼りない現象は我々の活動の手段(根源的原因)ではありません。それらは全て実感(結果)です。矛盾を承知で言うならば、方法とは非対象(概念、対象を含む)唯一無二の世界の裏側に想定される肉体機構やそれを取り巻く環境など、志向に対して再現可能性を与える凡ゆる根源的原因を言います。このとき想定される肉体機構によって、再現可能性を得た原因因子(志向)を志向性と呼びます。

《思考》
思考は「認識作用を構成する最後の重要な要素」であり、認識内容をつくり出します。その認識内容に基づいて行動の向きである志向が選択されます。思考には表面に現れているものと表面に現れていないものがあり、思考内容が認識内容に完全に一致することはありません。



《自己》



《社会的承認》
返信する
概念の整理 (佐久間)
2015-12-14 12:10:42
《自我》
認識は自我の要請によるものですが、これは自我が認識を要求しているという意味ではありません。その反対です。自我を要請しているのは現象の裏側にひそむ原因すなわち、この世界の方向性であり、そのために認識という作用が存在して自我をつくり出しています。

自我の成立は認識作用に絶対的に依存しています。我々の認識は対象の記憶能力(切り取り)、対象の概念(抽象・イメージ)化能力、概念を他の概念と作用させて構造化する思考能力によって構成されます。認識作用は非対象である唯一無二の世界から対象としてそれを切り取り、対象の抽象化イメージ化を経て、これらを互いに作用させることで独特の世界観をつくり出します。そして、その認識作用によって『非対象の認識作用』を対象化・概念化し、この作用の在処すなわち器(肉体)となる概念に特別な感覚(私は此処に存在していると言う感覚)を伴って結びつけることで、自我を形成します。これを受肉、または認識的受肉と呼びます。つまり自我とは認識作用によって形作られた錯覚です。


《認識》
一般的に我々の考えうるものや語りうるものは現象以前の世界(原因)でもなければ、認識以前の世界(非対象)でもありません。また対象(切り取り)の世界でもありません。我々が考えたり語ったりできるのは唯一認識作用によって形作られた構造であり、水面に浮かぶ泡のみです。我々の認識に本当の意味での対象同一性(対象と認識は同一であると言うこと)はありません。

(補足)
言語がなくても思考はできることから、考えうるもの(-認識)と語りうるもの(言語化された認識)は区別します。


《観念》
観念とは対象にもつ認識(考え)であり、またその考えに伴って生じる感情です。ゆえに観念という概念は広く凡ゆるものに用いることができます。学問界を支配する諸科学ですら観念であると言えます。


《根源》
根源は非対象(唯一無二)の世界の裏側にひそむ原因でありこの世界の方向性を意味する概念です。そのため、この世界の泡に過ぎない頼りない概念で語ることはできません。創造主がこの世界を造ったというのは全てでたらめです。物質がこの世界を形作っている原因というのも根拠はありません。全て概念によって形作られた構造の中で完結します。また、根源は視(見)たり聴(聞)いたり嗅いだり触ったり味わったりすることはできません。ゆえにその有無を判断することもできません。根源と言う概念は根本的に矛盾しています。


《志向》
志向(目的)は経験で得た記憶(対象)を何らかの方法によって再現する、その方向付けとなる原因因子ですが、ここで言う方法という概念は特殊で、認識としての方法論や原理説明(概念)でもなければ、対象や非対象に浮かぶ形質物の現象すなわち己の肉体や物質、道具の実使用といった意味でもありません。認識や対象、非対象のように表面に浮游する薄っぺらい頼りない現象は我々の活動の手段(根源的原因)ではありません。それらは全て実感(結果)です。矛盾を承知で言うならば、方法とは非対象(概念、対象を含む)唯一無二の世界の裏側に想定される肉体機構やそれを取り巻く環境など、志向に対して再現可能性を与える凡ゆる根源的原因を言います。このとき想定される肉体機構によって、再現可能性を得た原因因子(志向)を志向性と呼びます。


《思考》
思考は「認識作用を構成する最後の重要な要素」であり、認識内容をつくり出します。その認識内容に基づいて行動の向きである志向が選択されます。思考には表面に現れているものと表面に現れていないものがあり、思考内容が認識内容に完全に一致することはありません。
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