とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

マンガ版サザエさんが面白い

2015-12-31 14:54:37 | マンガ
マンガ版サザエさんが大変面白い。

2016年版として、昔のサザエさんのマンガで年末年始を描いた4コマを抜き出しているのだが、これが大変に面白い。

興味ある方は是非。

あとこういう面白さがマンガにはあったが、アニメでは全くその要素が無い。スポンサーからの注文のせいで、社会的な毒を吐けなくなったのだろう。スポンサーとしてもそうせざるを得ない部分もあっただろう。そうした社会構造的問題がここにはあったのではないか、と邪推するのであるが、いやはや、アニメ化に際しての作品の堕落化という罪は重いが、それをありがたがって恒常的に見てきた日本人もまた、その頭の中身を疑わなければならない。

何が面白いのか、という視点が全く以て日本人から抜け落ちており、「ただなんとなく見ているだけ」という白痴化した大衆がそこかしこに転がって、そして高視聴率をたたき出したのである。高視聴率の作品が面白いのではない。面白くないけれども、何となく見させる番組というのが高視聴率をたたき出し、そして偉いのである。

とある顔ハンコマンガが流行った時も、みんな頭がおかしくなったんだと私は思った。登場人物はおおよそ同じ顔で目の焦点があっていなかったが、しかしそのマンガは読まれて売れた。


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世界世論の日韓問題認識

2015-12-31 14:44:52 | 海外・国内政治情報等
リップマンが著書「世論」で説いた通り、世論というのは、不完全な情報によって醸成される。
このの不完全な情報と言う母体から発せられた世論は次第に政治決定としてつながっていく。これを見ていこう。



海外「なぜアメリカは韓国を支援する?」→「韓国はいつ裏切るかわからない国だ」海外の反応
http://tamenal.com/25480

お互い好きになるように努力しろよ
ノルウェーとデンマークとか、アメリカとカナダとか、ニュージーランドとオーストラリアの例を見てみろよ

君は短期記憶しか持ってないんだな

あんまりよく知らないけど、こいつは真剣に言ってるのか?韓国人は、日本人に対して、本当になにもひどいことはやっていないのに


現在の世界的世論はおおよそこれではないか、と”不完全な情報”に基づいて私自身が類推してみる。現在の世界的な情報については、かつての日本と朝鮮に関する資料が不足している。
英語の資料やその政治的判断の基礎たるや、英語の資料や報道でさえもこれが全くない。全く韓国の地道な努力たるや、その多くが成果を結実しようとしているのだ。尚且つ、最近の外務省の活動が目を見張るものがあるものの、韓国の嫌がらせ外交に伴う日本の損失に対しては全く対応できていないのが現状である。

何がどうやればそうなるのか、韓国という国は、その努力のパラメータを日本への嫌がらせ一択にガン振り、エネルギーを全投入しているのである。

さて、ここで韓国や朝鮮半島問題に関して、韓国人は全くの被害者です、というのが世界世論の総論として生成されたように思うのだが、それがいかに不完全であるのか、という点について検証して行ってみよう。

下記は過去に何回か掲載したものと同じ資料であるが、再度引用する。


外国人による日本人強姦被害の例 - とめどもないことをつらつらと
http://blog.goo.ne.jp/booter/e/e5f0be1c1657e825fe2268a2df24068b


二日市保養所 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%97%A5%E5%B8%82%E4%BF%9D%E9%A4%8A%E6%89%80

終戦直後より在満・在朝日本人は塗炭の苦しみを味わうことになった。追放や財産の略奪に止まらず、強制連行や虐殺などで、祖国の地を踏むことなく無念のうちに斃れた者も少なくなかった。これに加えて女性は、朝鮮人やソ連兵、中国人[1] 等による度重なる強姦を受けた末、心ならずも妊娠したり、性病に罹ったりしたにもかかわらず、何ら医療的治療が施されずにいた。そして強姦により妊娠・性病罹患した女性の中には、これを苦にして自殺する者が少なからず出た。

釜山日本人世話会による1945年(昭和20年)12月 - 1946年(昭和21年)3月の調査では、調査対象者885人のうち、レイプ被害者70人、性病罹患患者19人、約1割が性犯罪の被害に遭っているという数字が示された。

在外同胞援護会救療部では、引揚船に医師を派遣し、引揚者の治療に当たったが、殊のほか女性の性的被害が多いことに愕然し、早急に専門の治療施設を作る必要があると上部に掛け合った。こういう経緯で、1946年(昭和21年)3月25日に「二日市保養所」が開設されることになった。医師は在外同胞援護会救療部員(旧京城帝国大学医学部医局員によって構成)が担当した。



尼港事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E6%B8%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

女性たちは強姦された[128]。朝鮮人部隊の中隊長はある漁業経営者の娘を強姦すると翌日には音楽会で歌うことを強制した[128]。その後、この少女と幼子も含めた家族全員はバージからアムール川に突き落とされた[128]。また、女性教諭も強姦され、多くの少女達は恐怖の下でパルチザンと同棲することを強制された[128]。



通州事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に中国(中華民国)の通州において、中国人部隊(冀東防共自治政府保安隊)による日本人への襲撃が行われ、日本人居留民および日本軍部隊・特務機関が襲われて、日本人らが大量虐殺された事件。日本軍は壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害された。殺害方法も猟奇的なものが多かったとされる[1]。また朝鮮人慰安婦も殺害されている。

日本人居留民への暴虐行為

冀東政府保安隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった[1]。

7月30日午後通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、飲食店の旭軒では40から17~8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺されていた[1]。日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したもの」であった[1]。

第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた[1]。帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた[1]。女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった[1]。カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた[1]。南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた[1]。

当時、同盟通信特派員の安藤利男はこの近水楼に宿泊していたが脱走に成功した[1]。

また支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた[1]。鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、ゴミばこや壕から続々発見され、ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた[1]。14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、口に土砂をつめてあったり、腹を縦に断ち割った遺体があった[1]。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていた[1]。



通化事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%8C%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6

当時の中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍

当時、先に進駐していた朝鮮人民義勇軍と延安からの正規の中国共産党軍を中共軍または八路軍と包括的に呼称した。ただし、中ソ友好同盟条約によって満州で中国共産党が活動することは許されていなかったため、東北民主連軍などと称していた。元朝鮮人日本兵や現地の朝鮮人などで構成されていた朝鮮人民義勇軍は新八路軍や朝鮮八路とも呼称され、「(日帝支配)36年の恨」を口にしながら暴行・略奪・強姦などを繰り返した[2]。

当時の通化の状況

通化は終戦時に中華民国政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍や満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって統治されていた。交通の要所である通化には大勢の避難民が集まっており、1945年8月18日には通化国民学校に避難民収容所が設置された。また1945年8月13日に発生した小山克事件(武装した暴民に襲われ、日本人避難民が強姦・虐殺され約100名が集団自決した)に巻き込まれた避難民も到着しており、通化にもともと居住していた17000人[3]の日本人居留民と、10万人以上の他の地域からの避難民が滞在していた[4]。武装解除された元日本兵は次々とシベリアへ送られ、残留した居留民の多くが女性や老人で、略奪や強姦に遭い麻袋に穴を空けたものをわずかに身に付けただけの姿もあった。通化の在留邦人が衣服や住居を提供するなどしていたが、多くの日本人家屋は強制的に接取されるなどして、在留邦人・難民ともに困窮していた。
ソビエト軍・中国共産党軍の進駐と暴行

1945年8月20日、通化高等女学校に短機関銃を持ったソビエト兵2名がジープで乗り付けると校内に乱入し、女生徒の腕を掴んで引きずり出そうとした。古荘康光校長と村田研次教師が止めに入ると銃を乱射し始めたため、20代の女性教師が自ら身代わりとなって連行された。連絡を受けた通化守備隊の中村一夫大尉は直ちに兵士40名を乗せたトラック2台とともに駆けつけ、男性教師たちと共同でソビエト兵のジープを捜索したが発見できなかった。女性教師は深夜に解放されたが、その晩自殺した。翌日、ソビエト兵は再び女学校に乱入すると女生徒か昨日の女性と金品を出すよう要求した。村田教師が「女性は自殺した」と述べると、他の女性を出すよう要求されたため、隠し持っていた拳銃で2人を射殺した。教師たちはソビエト兵を埋葬すると寄宿生を連れて通化を脱出した。

1945年8月24日[5]に将校20人、兵士200人からなるソビエト軍が通化に進駐、市内の竜泉ホテルに司令部を設置した。また、ソビエト軍によって武装解除された関東軍の兵器を譲渡された中国共産党軍も同市に進駐した。

占領下の日本人はソビエト軍による強姦・暴行・略奪事件などにも脅かされていた。この段階では日本軍憲兵隊はシベリアに連行されずに治安活動を行っており、ソビエト軍の蛮行を傍観していたわけではなかった。原憲兵准尉はソビエト兵が女性を襲っているとの通報を受け、現場に駆け付けると、白昼の路上でソビエト兵が日本女性を裸にして強姦していたため女性を救おうと制止したが、ソビエト兵が行為を止めないため、やむなく軍刀で処断した。原准尉は直後に別のソビエト兵に射殺され、この事件以降は日本刀も没収の対象となった。守る術を持たない日本人遺留民はソビエト軍司令部の命令に従って日本人女性たちを慰安婦として供出するなどして、耐え忍ぶしかなかった。さらに、日本人はソビエト軍進駐時にラジオを全て没収されたため、外部の情勢を知ることは不可能となった。また、中国共産党軍は日本軍の脱走兵狩りを行い600人を検挙した後吉林へ連行した。





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掃除も・・・終わり? 

2015-12-31 13:44:41 | 最近の出来事
さて、大晦日の掃除も大体済んだ。

まあ、人から見ればまだ全く綺麗にすべきところは多いが、それでもまだマシになった方である。

カーテンは洗濯(除菌剤のゲル状洗剤で洗濯)し、窓も除菌した。
キッチンは蛍光灯とグロースタータを交換した。(キッチンの電灯が付かないまま放置していたのだ)。
コンロ周りはメラミンスポンジで一蹴。というよりあのベトベトの油汚れがなぜこんなにもすんなり落ちるのだ? 親油性の高い油汚れがあんなにさらさらになるだなんて、どこかで何かの化学反応が起こっていなければおかしいのではないだろうか。うーん、と、疑念に思いつつも、しかしメラミンスポンジは手離せない。便利すぎる。

携帯電話の連絡先も入れるのを二ヶ月放置していたが、昨日復活させた。
(消失したのは10/30だったからジャスト二ヶ月である。)

年賀状も出した。
本日は9時に就寝予定、翌元旦は3時に起床、4~5時で初詣予定である。
7時くらいで睡魔が襲うというのが毎年のことなので午前中は寝ている。とは言え、2013年の元旦は昼から粗大ゴミ回収業者がトラックでアナウンスして回っているのを聞いて辟易したので、今年はそんなものに遭遇したくない。インフラ業者じゃないのだから、お正月くらい休みなさいよ。

トイレも簡単に掃除した。
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熱い男たち

2015-12-31 06:38:04 | 会社での出来事
年末だろうがなんだろうが、愚痴をここに書く。

初夢とはよく言うけれども、年納めの夢と言うのはあまり聞かない。まあ皆夜通しで騒いだり、あるいは働いたりする為、あるいは師走という文字通り、いつもは静かなお坊さんでさえ、せわしなく走るほど忙しいから、夢について云々語っているヒマがないからだとかそういう話なのだろうが、年末だろうがなんだろうが、人間であろうものなら大抵の人は睡眠をとり、そして夢を見る。

そういう中、奇妙な夢を見た。
私が会社に行くと、私の上長と、派遣の会社で働く女性(派遣されている方ではなく、派遣を采配しているエージェントの方)が話しをしている。時計を見てはいないが、朝の4時だということが分かった。ウチに誰かが派遣されてくるのだろう、そういう話を上長とエージェントがコーヒーを飲みながら談笑している(ちなみに夜勤などではない)。

朝の4時だというのに大変ですね、というか普通は始業に間に合っていればよく、早くても8:30くらい、それよりもかなり早くても7:30の出社だというのに、こんなに早く、この時間に出勤しても給料でないでしょう、という直感もあって、仕事をするには出来すぎた人で、素晴らしい人だなと思ったのだが、その折にねぎらいと賞賛の声をかけたら向こうから返事が来た。「いえいえ、○○さん達には適いません。私が適わないと思うところについて、こうしてお話しなどして勉強させていただいています。それに私は会社に雇われているのではありません。私は私が為すべきことを仕事としてやっているのです。」と。人はこういうのにほれ込んでしまうのだろう。無論異性としてではなく、仕事をする人として、人に入れ込む、あるいは入れ込まれる人というのはこういう人なのだと思った。
ここで夢が覚めた。

夢が覚めてから改めて考える。
ふうむ。私は私の過去を振り返るに、4:30など出社したこともなかった(前の日からの続きでいたことはままあったけれども)。
最初の会社に入社した私は全くの役立たずで、次の会社の最初9ヶ月も、これもまた私は役立たずだった。
でも2006年から2008年の間は、それなりに成果は残したから、それなりに評価して貰ってもいいんじゃないかと思ったのだが、そうでもなかった。私の先輩が私の1/15しか仕事をせずに、本社に報告を挙げていなかったのは勿論のこと(それと、親会社に当たる会社から、無制限の長時間労働の命令をされた後、残業時間が100時間を超えたら「インパクトがでかいから100時間以内で申請してくれ」と頼まれたり(ただ、総時間としての残業代に不正はなく、残余分は翌月に繰越している)、過労で私が机に突っ伏していたら「姿勢が悪い! 」と言って無理矢理引き起こされ、私は言葉が上手く喋れなくなった。)、プロジェクト内でのそれなりの位置も与えられたから、完全に評価が無かったわけではない。ただ、会社間階層構造があるから、その位置と職制が一致するわけではない。
それでも親会社やグループ会社の人間よりも沢山働いた。私は親会社に当たる会社ののIさんに「私の先輩のSさんは一生懸命さというものがない。私から言える話しではないので、もし出来ればIさんからそれとなく注意して頂けないか」と手を回したことがある。無論言われる方としては面白くないだろうから、その発言のスタート地点が私であることを隠した状態でお願いすることになった。

私は当時、熱い男だった。熱湯みたいなヤツで、触ったら火傷するような人間だった。とにかく誰からも恐れられていたように思う。キャラが濃く、論戦では誰にも負けないという自信もあった。
当時は過労問題もさして気にしていなかった。いずれ評価して頂けるのだろう、という見込みがあったし、私の周囲でも、残業時間を「自分の勉強の時間だ」と言って残業代をつけないことはざらにあった。サブロク協定に引っかからないようにする為、現場の社員は自主的にそういうことをする。

ただ数年の評価を通して、次第に職場内ではそういうことが迷惑だったんだ、ということに気付かされることになる。
プロジェクト内で色んな仕事が任されるも、私の評価が一向に上がらない。
先輩からの様々ないじめなどの後に私がつぶれ、その職場を異動して去った数年後、「どうして評価が上がらないのですか? 」と当時の部長に訴えたところ、なぜかその半年後に私の昇進が決まった。その時の私は潰れていたので、会社に何の貢献も出来ていなかった。このことから、これは逆におかしいと思い、やはりその時の部長のEさんに聞いてみたのであるが、これがまた不可解な回答であった。この時具体的な回答はなく、「まあ、いいじゃないか」とお茶を濁す言葉だけ返ってきた。

私が評価されなかったことの理由については、可能性として考えられることは三つある。一つ目は、私が親会社やグループ会社を通しての評価が全く無かったことから、評価されるも何も、仕事を熱心にする下位の会社員というスタンスが嫌われていて、私自身がそういうことに無頓着であったので、そういう結果になった(それでも仕事はかなり振られていたから、仕事面では好かれていたように思うが)。そして私自身が極度に熱い男というのは嫌われるというのを全く自覚していなかった。二つ目は、そういう事態を面白く思わなかった先輩が、本社と親会社に評価を上げていなかった。三つ目は、本社の評価制度の怠慢だ。

特に、三つ目であるが、2010年の職場では、異動先の職場(親会社に当たる会社)で、私宛の評価をわざわざして頂いたというのに、本社側の人間がそれを全くキャッチしていなかったことが分かった。
2008年にあった話しだが、本社側人間は麻雀とゴルフしかしてないんじゃないか、という噂があり、当時の私としては「そんなバカなはずがない」と思っていたが、どうにも2010年以降の本社側の仕事の実態としてつき合わせてみると、その仕事の実態ぶりから噂の信憑性が増してきたように思われる。

さて、そんなこんなで、まあ私という人間は最終的に嫌われていたのだな、と、仕事を熱心にすればいずれは誰かが認めてくれるとという虚妄を信じていた私、空気を読めない私は、数年を通して「お前は社会的に迷惑だ」というメッセージを受け取り、それを学習したのである。

私はとことん腐った。真摯というものには意味が無い。熱心には意味がない。礼儀というものには意味がない。それよりも好かれるスタンスというのは、過労死一歩手前の仕事を振られても、それで評価されなくても、倒れても、人生が潰されても、文句を言わずにそれをさわやかな笑顔で受け止めて、社会にうずもれて忘れ去られて死んでいく、というものなのであって、それがあるべき社員の姿である。

冗談ではない。好かれて死ぬよりは、嫌われて生きていた方が余程マシではないか。
現在の私が嫌われていても平然としていられるわけというのはこの辺に理由がある。


さて、こんな愚痴を今日書くのも理由がある。

先日、仕事納めの時に、納会で酔っ払った人たちがいた。
その人たちのうちわけは、親会社に当たる会社の人、特に事業部長などのかなり上の方の人であって、その集団に遭遇したのである。

ひと目で分かったが、昔の私と同類だった。熱くて濃くて恐ろしく、しかし礼儀正しくて愛すべき昭和の男たち。
私は混乱した。

なぜお偉方にこういう人たちがいる? というかそういう人しかいないじゃないか。

私の考えていることは間違いかもしれない。ただ直感はした。

私がやっていたことは間違いではなかった。当時、私の上にいた人たちの欺瞞に隠れたその笑顔の下には、ささやかな怠惰や怠慢が眠っていたのであって、あるいは私に対する欺瞞があったのであって、それは真摯なものではなかった。

私は当時の私の上にいた人たちに対して、今の憤慨を抑えきれない。なぜそのようなことをしたのか、なぜ評価して下さらなかったのか。プロジェクト内での位置と実際の職制が異なるというのはままある。
仕事だけは十全に振ってくるのに、職制上のポジションを全く与えなかったという。

最初の話しに戻る。夢の中の女性は、「会社に雇われているのではなく、自分が為すべきことを仕事としてやっている」と言っていた。
私はある程度の自主性があって私自身が仕事をやってきたものだと思うのだが、ひょっとして私は雇われ根性が過ぎているのだろうか。
いや、逆に考えると、夢の中の女性が言っていたことは、これは仕事をする人間の思想としては立派であっても、ある程度の評価がついてくる人間のやることだ。
「評価はあとからついてくる」、そういう言葉があるのは後から知ったが、当時の私はがむしゃらにやった。だが何も無かった。実体としての実力が無かったのだと思ったが、後から総合的にじっくり考えると、やはり若干おかしいと思う部分が出てくる。

日本型経営の、給料が評価に従量しているスタイルとしては、自分の評価を他人に委ねる他律式がメインだ。
2009年に面談したOさんの話しによれば、マズローの五段階欲求説によると、最終的に自己実現を目指すべきだという(が、Oさんはマズローのこの説をちょっとだけ自己解釈していて、マズローの自己実現に至るまでの前提となる善段階条件は不要だと考えていた)。これは自律式の思考だが、それは自己の人生を犠牲にしてまでも達成すべきものなのだろうか。


仕事を振られすぎて、それを自主的に受け、過労で倒れて人生がダメになって、低評価で安月給とかナンセンスにもほどがある。



とにかく私は彼らの笑顔はもう信じない。その下には欺瞞が隠れている。
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