新涼や用水泳ぐ亀のゐて
立秋を過ぎて、実際に感じる涼しさのことをいう。
夏の「涼し」は暑さのなかで感じるかりそめの「涼し」であるが、「新涼」は、秋になっての本当の涼しさである。
涼しくなると、心地よくはなるが、やがて一抹の寂しさを伴うようになる。
雨が降ってようやく涼しくなった、
いわゆる新涼である。
そんな中、用水に亀が泳いでいた。
地蔵には多き供花あり涼新た
新涼や用水泳ぐ亀のゐて
立秋を過ぎて、実際に感じる涼しさのことをいう。
夏の「涼し」は暑さのなかで感じるかりそめの「涼し」であるが、「新涼」は、秋になっての本当の涼しさである。
涼しくなると、心地よくはなるが、やがて一抹の寂しさを伴うようになる。
雨が降ってようやく涼しくなった、
いわゆる新涼である。
そんな中、用水に亀が泳いでいた。
地蔵には多き供花あり涼新た
立秋や山鳩二羽の歩きゐて
二十四節季の一つで、太陽の黄経が一三五度の時をいう。
陽暦八月七日頃に当たる。
暦の上ではこの日から秋に入るが、実際にはまだ暑さが厳しい。
しかし、朝夕などはどことなく秋の気配が感じられる。
立秋の今日、川堤の道を歩いた。
そると、そこにはつがいの山鳩が歩いていた。
秋立つや母子眺むるアーチ橋
冬近し菜園に誰(た)もをらずして
立冬を目前にした頃をいう。
秋も終わりに近づくと、日差しも弱くなり、冬の到来が間近であることが実感させられる。
冬隣には、寒く厳しい冬に対して身構える緊張感が伴う。
いつも誰かいる菜園には人影がなかった。
冬が近いことが実感させられた。
球場の早点りけり冬隣
次々と家灯りけり秋の暮
秋の夕べ、夕暮れ時のことをいう。
清少納言の『枕草子』には、「秋は夕暮」とある。
秋で最も風情があるのは夕暮れであるという。
『新古今和歌集』の三夕の歌はことに有名で、寂しげにして「もののあはれ」の極みといわれている。
「暮の秋」は秋季の終わりを意味する。
「秋の日は釣瓶落し」といわれるように、あっという間に暮れていく。
そのため、家々は次々と灯されていった。
道歩く人もをらずや秋の暮
深大寺山門
秋深し門前に水流れゐて
晩秋の十月、秋もいよいよ深まった感じをいう。
無患子の実
大気は冷ややかに澄み、草木は紅葉を始め、寂寥の心持が深い。
「秋深む」は慣用的に用いられている。
東京都調布市の深大寺を訪れた。
門前には澄んだ湧水が流れ、秋の深まりを感じた。
とろろ蕎麦
美濃よりの人も交へて走り蕎麦