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引き続き、大平裕氏の本「知っていますか、任那日本府。韓国がけっして教えない歴史」のご紹介を続けます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
この後、歴史記述が続くのですが、簡略にまとめてあるウィキペディアの説明文を引用させていただきます。
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(引用ここから)
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『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場する。
•崇神天皇65年と垂仁天皇2年の条は一連の記事で、任那と日本の最初の関係の起源を語る。
•応神天皇7年と25年の記事のうち25年の条は『百済記』の引用である。
•雄略天皇7年のあたりからかなり詳しい伝承がふえ、同天皇8年の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。
•同21年の記事は有名な百済の一時滅亡と熊津での百済再建に絡んでの記事である。
•顕宗天皇3年、阿閉臣事代が任那に赴いたこと、紀生磐宿禰が任那に拠って自立の勢いを示したことが見える。
•継体天皇3年にも記事があり、同天皇6年の条は有名な「四県二郡割譲事件」の記事、同21年の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。
•23年、24年にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。
•宣化天皇2、大伴狭手彦を任那に派遣した。
•欽明天皇からはおびただしく記事が増え、ほぼ毎年任那関係の事件が見える。
•欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。
•同天皇23年(562年)の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。
•この10国は、562年の任那滅亡に近い最末期の領域である。
地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。
これらの史料によると日本(倭)は、任那滅亡後に新羅に「任那の調」を要求しており、従来日本(倭)に対し調を納めていた事実が書かれている。
(wikipedia引用ここまで)
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「知っていますか、任那日本府」のご紹介を始めます。
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(引用ここから)
戦争に明け暮れる三国、そして百済・新羅から浸食をうける「任那」諸国、そこに権益と居留民を抱える日本(倭国)は少なからず影響を受けました。
高句麗の南進と新羅からの圧迫に、百済が何とか耐え抜いたのは、いざという時の軍事力を持つ「倭国」の存在でした。
「倭国・倭人」の名が大陸王朝の史書に出てくる時期が、百済や新羅の建国に100~150年は先立つ話であることを忘れてはなりません。
「任那の日本府」は、明らかに存在していたのです。
しかし、読者の方々は驚かれると思いますが、新羅使の来朝は、約120年間で46回を数えているにも関わらず、そのすべてが韓国の正史「三国史記・新羅本記」では触れられていないのです。
このことは、「日本書紀」の記録が正しいことを示す傍証になるのではないでしょうか?
〇あとがき〇
筆者は日本古代史の核である「日本書紀」の「暦」に光をあてて、「日本書紀」の生い立ちを浮かび上がらせたいと思っています。
1・第20代安康天皇(454年即位)より元嘉暦(445年~)の暦を使用して編纂された天皇記第40代持統天皇(697年崩御)まで・・・この間の紀年については問題はなく、即座に西暦化が可能です。
2・第19代天皇より第15代応神天皇まで・・・この時代の「日本書紀」には、紀年の記載は無く、120年の年代の延長が図られています。
ただし「三国史記・百済本記」と「日本書紀」の紀年の一致の可能性と共に、いわゆる「倭の五王」の朝貢から、天皇の名称、在年数の推定が可能となっていること。
そして高句麗の「広開土王の石碑」などの金石文から、ほぼこの時代の全天皇の即位、崩御の年代の推定は可能です。
3・神功皇后の在位期間・・「日本書紀」では特別に執政と名付け、第9巻を神功皇后に割いています。
「日本書紀」編纂者は、神功皇后在位を「魏志倭人伝」及び「西周書」の「卑弥呼」と「豊与(とよ)」の在位に合わせ、西暦200年~269年と推定しています。
いわゆる「卑弥呼」と「豊与(とよ)」の在位の期間を合計した69年間ですが、応神天皇の母后ですので、実際の在位は西暦362年~389年と想定できます。
4・神功皇后の夫である仲哀天皇とそれ以前の天王13人については、紀年を当てはめることは不可能ですが、家系図等と考古学的資料を重ねると、
神武天皇の即位は西暦250年頃と推定できます。
「日本書紀」の編纂者たちは、なぜこのような無理を重ねてきたのでしょうか?
それは一つに、「儀鳳暦(ぎほうれき)」という当時最高の科学であった「総法1340」のしからしめるところなのです。
天文・占星学者であった天武天皇が、最新の「儀鳳暦」で、大和朝廷、日本の国の始まりを、飛鳥浄御原令の発布、「日本書紀」編纂のみことのり、そして最愛の日下部皇子の立太子令が重なった「天武10年」を起点にして、1340年前の紀元前659年2月11日を初代神武天皇の即位としたのです。
年代の不一致は、天皇の数を増やせば解消するはずですが、天皇も編纂者も、こうした工作は一切していません。
それが我々に残した彼らの誠意であり、よく考えてくれとのメッセージではないかと筆者は思っています。
このように「日本書紀」に残された問題はまだまだあります。
筆者の想定では、神武天皇の即位は、西暦250年。
これに日向三代、天忍穂耳尊、天照大神の5代50年を架上すると、「天照大神」の即位は、西暦200年という「魏志倭人伝」の「卑弥呼」と重なってきます。
「日本書紀」への思い入れ、興味はつきませんが、日本の学会・学者が、日本と天皇制をおとしめ、若い人たちに古代史の真の姿を伝えない悪い風習を改めるよう望んで止みません。
(引用ここまで)
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古代日本史も、古代朝鮮史も、「倭国」というものも、簡単にとらえられるものではなさそうです。
それで、「倭国」というものを理解するために、もう少し多角的に見てみたい、という気持ちは引き続き持って、考えていきたいと思っています。
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儀鳳暦(ぎほうれき)は中国暦の一つで、中国・唐の天文学者・李淳が編纂した太陰太陽暦の暦法である。
飛鳥時代から奈良時代にかけて使用された。
定朔法を用いており、優れた暦法とされる。
なお、この暦において初めて進朔が採用された。
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「梅原猛の「古代出雲王朝のなぞを解く(1)・・アマテラスとスサノオという光と影」(4)まであり
「白=新羅・・荒俣宏氏の〝白いサルタヒコ論(3)」
「牛殺しの風習と、牛の王・・新羅と日本人(2)」
「朝鮮と古代日本(1)・・済州島をめぐる考察」(6)まであり
「新羅と日本(1)・・スサノオノミコトはどこから来たのか?」(5)まであり
「北陸の白山信仰(1)・・菊理(きくり)ひめとは だれなのか?」(4)まであり
「新羅と日本(5)・・アメノヒボコと、角がある人(ツヌガアラシト)の渡来」
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