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ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

比叡山と白蛇のすがたで現れる神・・弁才天の変身(2)

2013-12-24 | 日本の不思議(中世・近世)


山本ひろ子氏の「異神」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


            *****

  
           (引用ここから)


宇賀神。異貌の弁才天女。

「記紀」はもちろん「延喜式神名帳」にも登場しない「人頭蛇身」のこの像は、10世紀半ばにはその名を現すが、恐らく院政時期ごろから成熟し、中世を通して独特の姿と信仰を宗教史上に刻みつけていったのだ。

本稿の主題は、中世という時代の中で「宇賀神」とは何であったのか、どのように信奉されたのかを、中世の比叡山延暦寺における行法と言説を通して明らかにすることにある。


なぜなら比叡山こそ、「宇賀神」信仰最大の拠点であったと考えられるからだ。

比叡山の典籍中、「弁才天」に関する言説が集中して見えるのは、花園天皇の文保2年(1318)に成立した「渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう」」だろう。

同書は密教の行法に関する比叡山の口伝記録を集めた大著で、「弁才天法秘決」と「弁才天縁起」が収められている。

これらの経典はすべて日本で作られた「宇賀弁才天」のための偽の経典である。

これらの偽経典は、同書が成立する14世紀の初頭までにすでに成立し、伝えられていたわけで、「宇賀神」の素性とその世界を考察していくことは、ひとえにこれらの偽経典の解読にかかっている。


            (引用ここまで)


              *****


筆者は、このように説明して、偽経典を紹介してゆきます。

     
              *****


             (引用ここから)


ある時、竹林精舎で、釈迦の大光明が十方世界を照らすことがあった。

おそれおののく大衆を前に、金剛手菩薩は「宇賀神将」の因縁譚を語りだす。

するとこの時、「宇賀神王」が忽然と姿を現すのである。

その姿は、“天女が頭に頂く宝冠の中には、眉毛の白い、老人の顔をした白蛇がいる”というものであった。

この奇怪な姿こそ、世に「宇賀弁才天」と称される尊の姿なのだ。

「宇賀神王」は西方浄土にあっては無量寿仏、娑婆世界では如意輪観音であるという。

また、ダキニ天、大聖天、愛染明王などにも変貌する。

こうして「宇賀神王」の変貌を説き終えた釈迦は、「宇賀神王」出現の由来を語る。

「過去、私は貧女であったが、仏により「宇賀神王」法を受けるとたちまちに大福長者となった。

この因縁によって、三世の諸仏出現の際に、「宇賀神王」も現れて、衆生を利益するのだ」と。


そして「宇賀神」の供養の仕方が示される。

1・供養の時期は、白月(月の一日から十五日までの間)とすること。

2・祭壇場は清浄な部屋か霊験のある社、または深山の峰や樹下、あるいは人里離れた場所を選ぶこと。

3・壇には百味の供え物を供えよ。

4・行者は百日間潔斎せよ。そうすれば一切のことは七日を過ぎないうちに成就するだろう。

5・白月に行法を行えない者は、巳と亥(たつみとい)の日を用いるように。


上の供養法で目につくのは、屋内の道場の他に野外祭場があげられていること、

また「宇賀神」の縁日として巳と亥が指定されていることだろう。

これは後に述べるように、荒神信仰との類似を思わせる。

さらに教理は、“蛇の翻るがごとき印を七度振る”というきわめてシンプルな作法に凝集されている。


           (引用ここまで・続く)

(真ん中の写真は「異神」より・頭に鳥居と蛇老人を乗せた弁才天。)

               *****




>するとこの時、「宇賀神王」が忽然と姿を現すのである。
>その姿は、“天女が頭に頂く宝冠の中には、眉毛の白い、老人の顔をした白蛇がいる”というものであった。

この不思議な姿が、偽経を作ってまで、天台宗の経文として、保存されているとしたら、非常に奇妙なことだと思えます。

奇妙なのは、弁才天なのか、宇賀神なのか、天台宗なのか、、ちょっと判断がつきかねます。

宇賀神の供養の仕方も、普通ではありません。
妖しすぎます。。

>2・祭壇場は清浄な部屋か霊験のある社、または深山の峰や樹下、あるいは人里離れた場所を選ぶこと。

なぜ仏教に、このように民間宗教的な要素が内包されているのか、たいへん興味深いです。


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白蛇のすがたで現れる神・・弁才天の変身(1)

2013-12-22 | 日本の不思議(中世・近世)



2013年・蛇年のうちに書いておきたいと思っていたことがあります。

たしかお正月頃に、新聞におもしろい写真が載っており、切りぬいておきました。

記事の写真は撮ったのですが、なぜかその後切り抜いた記事が行方不明になり、どうしたものかと思っていました。




記事は上のもので、蛇の体に老人の頭が乗っている像が紹介されていました。

悪趣味ですが、インパクトが強く、どこのお寺か神社にあるのか知りたいと思っていました。




先日やっと、この像がどこにあるのかが分かりました。

これは、東京の井之頭公園にある弁才天のお堂のそばに建立されているものだと思います。

「井之頭公園・弁才天へようこそ」

トップ画面の右下の再生ボタンを押すと風景が変わります。5つ目に“蛇に老人の顔”の像があります。


そこで、“蛇に老人の顔”の像はどんな由来があり、それと「弁財天」はどのような関係にあるのかを調べてみました。


“蛇に老人の顔”の像は、「宇賀神」と呼ばれていることが分かりました。

ウィキペディアには以下のように説明されています。


           ・・・・・


「宇賀神(うがじん)」は、日本で中世以降信仰された神である。

その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性など一様ではない。

その出自は不明である。

また、蛇神・龍神の化身とされることもあった。

これが比叡山・延暦寺(天台宗)の教学に取り入れられ、仏教の神(天)である弁才天と習合あるいは合体した。

この合一神は、「宇賀弁才天」とも呼ばれ、「宇賀神」はしばしば「弁才天」の頭頂部に小さく乗る。

その際、鳥居が添えられることも多い。

出自が不明で、経典では穀霊神としての性格が見られないことなどから、「宇賀神」は、「弁才天」との神仏習合の中で造作され案出された神、との説もある。

「宇賀弁才天」への信仰は、天台宗比叡山延暦寺に近い近江国・竹生島を中心に、安芸国・厳島、相模国・江ノ島など全国に広まった。

これらは、明治の神仏分離の際に市寸島比売命(いちきしまひめ)などを祭神とする神社となっている。

鎌倉市の宇賀福神社では、宇賀神をそのまま神道の神として祀っている。


               ・・・・・


そこで、「宇賀神」について書かれた本を探してみました。

山本ひろ子氏の「異神」という本を読んでみました。

この本は「渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)」という中世の比叡山の書物に載っている資料を用いて書かれていました。

この中世の本については、別の人が書いた本の紹介がありました。

                     ・・・・・

名古屋大学出版会HP 田中貴子著「渓嵐拾葉集の世界」

天台宗の「百科全書」とも言われる『渓嵐拾葉集』は、仏教教理のみならず多くの説話や巷説、和歌を含み、中世の思想・文学・歴史の一大資料となっている。

その作者・ 諸本・成立背景等を明らかにするとともに、説話の場に光をあて、同書を結節点とする中世文化のネットワークに迫る。

                     ・・・・・


では、山本ひろ子氏の「異神」のご紹介に入ります。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                    *****


                 (引用ここから)


日本にあって「弁財天」はその功徳ゆえにしばしば「弁財天」とも表記され、池や側などの水辺に祀られて崇敬されてきたのは周知の事実である。

ところが日本にはこの「妙音弁才天」の他に、もう一種の「弁才天」が存在した。

こちらの「弁才天」は頭の上に「宇賀神」という奇妙な神を乗せており、そのために「宇賀弁才天」と呼ばれた。

では「宇賀神」とはどのような姿であったのか。

江戸期の学者の語るところをみてみよう。


                ・・・

宇賀神とて頭は老人の顔にし、身体は蛇体に作り、カエルを押さえたる様をして神社に安置し、祀る時には一器に水を盛り彼の像を入れ、“天の真名井の水”などと文をとなえてその像を浴す。

                ・・・

続き、記事には次のようにある。

                ・・・

「宇加耶」は梵語にして「白蛇」と訳す。

されば、もと密教の修行法にして、神人が伝えてこの法を修行したと見る。

ただ俵の上に蛇を作り、これをも「宇賀神」といふ。

いと古きものなり。

                 ・・・


ここには「宇賀神」にまつわる秘密の多くが、不明瞭ながらも語られている。

頭上に蛇を乗せた「弁才天」は、「宇賀弁才」とも呼ばれること、

「宇加耶」とはサンスクリットの「白蛇」の意味で、密教徒の行った修行法が神祇信仰に取り入れられたらしいが、

伝統的な密教にはそのようなものはなく、中世に作為されたものであること。

江戸時代にも、宇賀神の像が神社などで祀られ、信奉されていたことがわかる一方で、この神の生い立ちや名称の由来などがすでに不明になっていたことが知られよう。

 
              (引用ここまで)


                *****


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ヤマトタケルと、オオカミと犬・・「オオカミの護符」(3)

2013-06-29 | 日本の不思議(中世・近世)



引き続き、小倉美恵子さんの「オオカミの護符」のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                 *****


                (引用ここから)


「お犬さま」とよばれている獣はニホンオオカミであることがわかったのだが、なぜ庶民は、表記はともかく、「犬」と呼びならわしているのだろうか?


「お犬」に「様」をつける言葉には、親しみが込められ、オオカミという響きには置き換えられないぬくもりが感じられるように思われた。


アメリカに長く住んだ友人の話だが、西欧では間違っても「犬」と「オオカミ」を混同するような呼び方はしないと断言した。

それはおそらく牧畜文化の中で家畜や人を襲うオオカミは人間の敵で、人を助ける犬は仲間だ、という意識からくるものなのだろう。

そう考えると、ペットとしての犬でもなく、野生を物語るオオカミでもない、やわらかな呼び名は、武蔵の風土が生み出したとも言えるのかもしれない。


更にこの呼び方を見て、再びモンゴルのフフバードさんの言葉を思い出した。

モンゴル人は遊牧を営んでおり、大切な家畜をオオカミに襲われることも少なくない。

しかしながら、モンゴル人はオオカミを「敵」と考えずに「神」と崇めている。

しかも自らを「蒼き狼」の末裔と言い、オオカミに対する尊敬の念は絶大だ。


オオカミが群をなして生き抜く知恵は、遊牧民の暮らしにも生かされているそうで、この上もなく大切な獣だと言うのだ。

モンゴルでも、オオカミのことは直接的に呼ぶのではなく、「天の犬」などと呼ぶ。

これまた理由は明快だった。

モンゴルでは恐れ多いものや偉大なものを直接の名で呼ぶことを慎む風習があるのだ。

オブラートに包むように柔らかな言い回しをすることで、対象への恐れや敬いを表わすのだそうだ。

日本とのつながりが感じられた。


秩父に通うようになって、多摩丘陵の地に伝えられる伝承や文物の多くは、どうやら山の世界からもたらされているらしいと気づいた。

縄文にまで遡ると言われるオオカミ信仰はその代表例だが、中世に広がった「板碑」と呼ばれる「青石塔婆」から、近世の「ささら」と呼ばれる三匹獅子舞など、若者が熱狂した芸能の数々も山の方からもたらされた痕跡がある。

それらの伝播を考えると、山から里へ下りてくる恩師や修験者の存在が浮かび上がってくる。

幕末から終戦頃まで、近在の村々で「ばくち」が流行ったことがあったようで、身を持ち崩した人の話を祖母から聞いたことがある。

お山の世界で覚えたものが、里の百姓にも広がったものかもしれない。

実際戦後しばらくたっても、御嶽山の御師の宿坊でも、講中は賭博に講じていたと、服部恩師から聞いた。


そうなると当然、山へ向ける庶民の意識は今と違ったものであったに違いない。

現代の価値観で、山を文化の「後進地」と捉えると、大きく見誤ることになる。


秩父には無数に峠があり、そこにはかつて市場が開かれたという。

それは、山の道がいかに流通ルートとして重要であったかを物語っている。

今でこそ道路は平地に造る方が容易だと思われているが、治水が困難であった頃は、川が氾濫する平場や海辺よりは、山に土地を開く方がはるかに効率的だったはずだ。

「すべての街道は山に通ず」と言っても過言ではないほど、山は流通ルートとして大きな役割を果たしていたのであろう。



武蔵国の山の世界に入ってから、ずっと私たちの背後に気配を漂わせている存在がある。

それは「ヤマトタケル」の伝説だ。

橘樹郡の由来にも関わりがあるが、実は武蔵御嶽山にも、宝登山にも、猪狩山にも、三峰山やその他オオカミ信仰の神社にも、「例外なく」と言えるほどに伝えられていた。

御嶽山の信仰のシンボルでもある「男具奈の峰」の「男具奈」とは、ヤマトタケルの幼名であるという。

ヤマトタケルが東国を平定しにやってきたとき、土地の神の怒りに触れ大鹿に路を塞がれ、危機迫るヤマトタケルのもとに、白と黒のオオカミが現れタケルの難を救ったとされる。

また宝登山や三峰神社にも、お犬さまがヤマトタケルを艱難から助けたり、山中を迷える時に道案内をしたという伝説があり、関東のオオカミ信仰にはヤマトタケルの神話がつきものなのだ。

これはオオカミ信仰を語る上で欠かせない物語だが、これをどのように捉え、扱うことができるか、わたしは悩んだ。

そもそも武蔵という国名からして、ヤマトタケルがその武具を蔵したことに由来するという説もある。


東征中のヤマトタケルを火で取り囲み、行く手を阻もうとした土地の神は、焼畑に関わりがあるのではないか?

また東征という言葉から推し量るに、ヤマト政権のヤマトタケルと、東国の先住民の対立と服従の話のようにも受け取れる。


大切なのは、関東のオオカミ信仰の山々は、神話の世界に遡るほどその起源が古いということだろう。

きっと私たちの感覚の中にも、とてつもなく古い暮らしの中で培われたものが眠っているに違いない。


             (引用ここまで)


               *****


「Wikipedia」によると、旅の地である関東ではヤマトタケルの救い手であったオオカミまたは犬は、関西に戻ると、彼の命を奪う「白い犬猪」として現れ、ついにヤマトタケルは死んでしまいます。

これは、たいへん興味深いことに思われます。

アニメーションの「犬夜叉」なども思い起こされます。



>そして、伊勢の神剣、草那芸剣を美夜受媛に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうと、出立する。

素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、白い大猪が現れる。

倭建命はこれを神の使いだと無視をするが、実際は神の化身で、大氷雨を降らされ、命は失神する。

山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。


以下に「wikipedia」の文中の、「古事記」に描かれたヤマトタケルをまとめます。


            ・・・・・

wikipedia「ヤマトタケル」より

ヤマトタケルは『日本書紀』、『先代旧事本紀』では景行天皇の第二皇子。『古事記』では第三皇子。


『古事記』と『日本書紀』の説話は、大筋は同じだが、主人公の性格や説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差がある。

ここでは浪漫的要素が強く、主人公や父天皇の人間関係から来る悲劇性が濃い『古事記』の説話を中心に述べる。


東征

西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。

倭建命は再び倭姫命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭姫命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。

倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受媛(宮簀媛)と婚約をして東国へ赴く。

相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那芸剣で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くす。

それで、そこを「焼津」という。


相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。

そこで、后の弟橘媛が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いだ。

入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。


その後倭建命は、足柄坂(神奈川・静岡県境)の神を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘姫を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。

そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。

また甲斐国の酒折宮で連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。

その後、科野(しなの=長野県)を経て、倭建命は尾張に入る。


尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受媛と歌を交わし、その際媛が生理中なのを知るが、そのまま結婚する。

そして、伊勢の神剣、草那芸剣を美夜受媛に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうと、出立する。


素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、白い大猪が現れる。


倭建命はこれを神の使いだと無視をするが、実際は神の化身で、大氷雨を降らされ、命は失神する。


山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。


弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。

地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。

そして、能煩野(三重県亀山市〉に到った倭建命は「倭は国のまほろば……」「……剣の大刀、その大刀はや」の4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。

倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。

彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、歌を詠った。

すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちはなお3首の歌を詠い、その後を追った。

これらの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌])となった。

白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。



ヤマトタケル説話の構成


ヤマトタケルの物語は、吉井巌が指摘したように、主人公の名前が各場面で変わるのが特徴である。

また、説話ごとに相手役の女性も異なる。

加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関連したとわかる。


ゆかりの地


走水神社(日本武尊の父・景行天皇が尊を祀ったのが起源と伝わる。

古事記では、110年に尊が走水から上総へ向かう途中、海上で難に遭い、弟橘媛命が身を投じてその難を救ったとされる)

姉埼神社(日本武尊が当社鎮座地の宮山台で弟橘姫をしのび、風の神である支那斗弁命を祀ったのが起源と伝わる)

腰掛神社(東征の途中、ヤマトタケルが腰掛けて休憩したという石を祀る)

山宮浅間神社(東征の途中、賊徒に追い込まれた尊が、富士の神を祈念し窮地を脱したことにより神霊を祀った場所とされる)

武蔵御嶽神社(東征時追手に追われ白狼に助けられたとの伝承により、御影が犬になっている)

三峯神社(ヤマトタケル創建と伝わる。神使の狼が東征時道案内をしたとされる)

       (略)

           ・・・・・



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「けもの」は、「ばけもの」より、強い・・「オオカミの護符」(2)

2013-06-26 | 日本の不思議(中世・近世)


引き続き、小倉美恵子さんの「オオカミの護符」をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                 *****

               (引用ここから)


はじめて御嶽山を訪れた時から、「男具那(おぐな)の峰」の整った円錐形の姿形に目を奪われ、気になっていた。

思わず手をあわせたくなるような雰囲気をたたえた小山だったからである。

今、この山こそが信仰の対象であったと知り、まるでパズルのピースがはまるように腑に落ちた。


「男具那の峰」のみならず、富士山や大山を始め、日本列島で古くから信仰の対象となってきた山は、左右対称の端正、または造山活動のエネルギーのほとばしりが形として現れているような印象的な形をしていることが多いと、恩師の服部さんから聞いていた。

また、日本列島の各地には「御嶽」という名を持つ霊山が多いという事実も興味深かった。


武蔵御嶽山を始め、木曽御嶽山、光州御嶽山など、かつて修験の行者によって一国に一山、「国御嶽」と呼ばれる信仰の山が開かれたのだと、御師は教えてくれた。

修験道には本山派、当山派といった系譜があるらしいが、遠祖・役小角が開いたという吉野・金峰山を「金の御嶽」として本山とあおぐ修験道は、御嶽を拝したといい、「神奈備」と呼ばれる端正な姿の山や霊威を物語る印象的な姿の山が選ばれたという。


一方、「御嶽」という名を冠していない「国御嶽」も各地にあるという。

駿河の富士山、相模の大山、上州の赤城山、日光の二荒山、上州・筑波山、これらの山々もみな「国御嶽」なのだそうだ。

土地の人にとって、常に見守っていてくれる地元の山とは、なにより親しみ深く、愛しいものなのだろう。


今回の取材では、「狐ツキ」の話をよく耳にした。

昔はよく「狐ツキ」と言われる現象が起こったようだ。

祖父や祖母からも聞いたことがあり、実際に目の前で「狐ツキ」になった人を見たという証言もいくつか聞いている。

キツネに憑かれた人は目つきが変わり、突然に人間業とは思えないような行動をとりはじめるのだそうだ。

しかし、オオカミの霊力は、たちどころにキツネを追い払ったという。


現在では精神的な病と考えられているらしいが、「狐ツキ」にかかると御嶽山に連れて行って、お祓いをしてもらったそうだ。

実際御嶽の御師の家中には、オオカミの頭骨を祀っている家があるとのことで、祈祷に使われたものだろう。


オオカミの頭骨に触れ、私は「太占」に牡鹿の肩甲骨が使われていたことを思い出していた。

山に住む獣の骨が、占いや祈祷に使われてきたことを考えると、古代の人々は骨に神秘的な力が宿ると考えてきたのかもしれない。

西本教授によれば、群馬、栃木、埼玉、長野、東京、神奈川、山梨と広域にまたがり、山が深い関東山地は、近代を迎えるまで、ニホンオオカミが数多く生息していたとのことだ。

関東平野を取り囲むように、遺跡からもニホンオオカミの骨がたくさん出土するのだそうで、御嶽の御師さんから教えられたとおり、武蔵の山々にはオオカミが生きていたのだ。


西本教授の話で特に興味深く感じたのは、オオカミは護符になる以前から信仰の対象であった可能性が高いということだった。

紙でできた護符は文字が庶民に浸透するようになってうまれたものと思われるが、縄文時代には実際に、ニホンオオカミの牙や手足の骨など身体の一部をお守りとして身に着ける風習があったという。

「オオカミの護符」は突然現れたのではなく、古代からのオオカミへの信仰がその背景にある。


オオカミの護符を発行するオオカミ神社は奥多摩、埼玉、山梨が圧倒的に多いが、他の地域はどうなのだろう?

長野県と静岡県にまたがる天竜川添いにも、オオカミ信仰の盛んな地域がある。

静岡県浜松市天竜区にある「山住神社」や「春の山大光寺」が中心になっているようで、いずれもオオカミの護符を発行している。


同じ天竜川の上流には、「オオカミの子」と伝えられる「早太郎伝説」で知られる光前寺もある。

この一帯のオオカミ信仰は、関東とは少し系統を異にするようで、山中神社も天竜川沿いと同じ系統と思われる。


紀伊半島や東北地方でも、さまざまな伝説や伝承とともにオオカミ信仰が見られ、社寺の縁起にもなっている。

オオカミ信仰と修験道の関係、更には山とオオカミの関係を思わずにはいられない。


             (引用ここまで)


               *****

太古から続いてきた、獣と人間の物語が感じられます。

獣の妖しさは、人にとって、どれほど脅威であり、また、魅惑的でもあったことでしょう。

御岳山は東京都にあり、都心からはハイキング気分で行けるところですが、こんな所にも、走り抜けていく獣の息遣いが聞こえるような自然の世界があるのだと、改めて思いました。


wikipedia「神奈備」より

神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)とは、神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域のこと。

または、神代(かみしろ)として自然環境を神体(しんたい)とすること。

神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域や、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や神体山を、また特徴的な岩(夫婦岩)や滝(那智滝)がある神域などをさす。

神籬と磐座の総称でもある。

依り代となる森林や岩などがない「神奈備野」もある。

現在の神社神道の神体は「社(やしろ)」であり、神奈備とはいわない。

神社神道も本来は日本で自然発生的に生まれた原始宗教といわれ、自然崇拝や精霊崇拝を内包する古神道から派生して現在に至る。

現在の神社には、主たる賽神の尊(みこと)とは別に、「自然」という神体が存在するのが常で、神体として注連縄が飾られた社とともに、境内の内外に神木や霊石や鎮守の森、湖沼や滝などの神体が存在する。

古い神社では、拝殿や本殿もなく、自然の神奈備そのものを賽神として祀るところもある。

神奈備はアニミズムでもあり、自然への感謝や畏敬や畏怖の体現であるが、神の住まう神域や、常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境、または、その常世と現世をわかつ結界や、禁足地なども意味する。



早太郎伝説(wikipedia「光前寺」より)


光前寺(こうぜんじ)は、長野県駒ヶ根市にある天台宗の別格本山の寺院である。

山号は宝積山(ほうしゃくさん)。院号は無動院。

本尊は不動明王で秘仏。

天台宗信濃五山(戸隠山の顕光寺・善光寺・更科八幡神宮寺・津金寺・光前寺)のひとつに数えられた。

1967年(昭和42年)5月10日、庭園が国の名勝のひとつに指定された。

また、霊犬早太郎説話でも知られている。

早太郎説話

この説話は、当寺や、その他各地で語られているものであるが、その内容は類型的である。

また、早太郎の名は、伝わる地方により異なり、遠江国では悉平太郎(しっぺいたろう)という。

駒ヶ根でも、疾風太郎(しっぷうたろう)という別名が伝わっている。

昔、光前寺に早太郎というたいへん強い山犬が飼われていた。

その頃、遠江の見附村では、毎年田畑が荒らされ、その被害に困った村人は矢奈比売神社の祭りの夜に村の娘を人身御供として神様に差出し、これを鎮めていた。

延慶元年(1308年)8月、この地を旅の僧侶が通りかかり、神様がそんな悪いことをするはずがないと祭りの夜にその正体を確かめると、現れた怪物が「信州の早太郎おるまいな、早太郎には知られるな」と言いながら娘をさらっていった。

僧侶は、早速信濃へ行き、光前寺で早太郎を探し出し和尚から借受けた。

そして次の祭りの日、早太郎は娘の身代わりとなって怪物(老ヒヒ)と戦い、見事退治した。

戦いで深い傷を負った早太郎は、光前寺までたどり着くと和尚にひと吠えして息をひきとったと言われている。

早太郎を借り受けた僧侶は、早太郎の供養のために大般若経を光前寺に奉納した。

これは寺宝として経蔵に保管されている。

また、本堂の横に早太郎の墓がまつられている。



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大口真神をまつる・・「オオカミの護符」(1)

2013-06-20 | 日本の不思議(中世・近世)



前にご紹介させていただいた「オオカミ探して40年」という新聞記事を読んで、かつて見た映画「オオカミの護符」のことを思い出したので、その映画を製作された小倉美恵子さんの本「オオカミの護符」を読んでみました。

ご自分の生まれ育った地域で、祖父、祖母、両親が「お犬様」を大切に信仰してきたことを、やさしい気持ちで振り返り、それが御嶽山の「御嶽講」であり、「犬」とはニホンオオカミであり、オオカミを敬って暮らしてきた地域文化の奥行の深さを伝えてくださっている本です。

映画を作るためにあちこちを訪れた記録が書かれています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                  *****


                  (引用ここから)


御嶽神社境内には「大口真神社」という名前のお社がある。

お札と同じ名をもつこのお社は、御嶽山の最も高い、しかも本殿を真後ろから見下ろす位置に置かれている。

山火葬の御師・服部さんは、それは「おおくちまがみしゃ」と読み、「正、五、九」と呼ばれる、正月、五月、九月の年三回、「大口真神祭」が行われると教えてくれた。


5月15日、神官が厳かに「オー」と発生する警蹕とともに「大口真神社」の扉が開かれた。

警蹕とは、声を発することによって、神が通る道を清め邪気を払うものとされている。


その獣の雄叫びのような声は、まるでオオカミの遠吠えのようにも聞こえた。

開かれた扉の奥から、木造のご神体が現れた。

「これはオオカミだ!」と心の中で叫んだ。

また、宮内宮司は「大口真神はニホンオオカミである」とはっきりと語った。

やはり「お犬様」は、オオカミだったのか。


オオカミは人を襲うおそろしい獣のイメージがあったが、武蔵国の百姓は神と祭り、大切にあがめてきた。

それにしても日々我が村を見守り続けてきた「お犬様」が、オオカミ、しかもニホンオオカミであったことを、祖父や祖母は知っていたのだろうか?


ニホンオオカミは、すでにこの日本列島から絶滅したとされている。

最後にその姿が確認されたのは、明治38年、奈良県山中でのこととされ、すでに100年がたっている。

ニホンオオカミはまるで明治維新に始まった近代化と入れ替わるように、その終焉を迎えたことが分かる。


ニホンオオカミを祀る「大口真神祭」では、御嶽神社が山岳信仰の霊場であることを物語る所作が見られた。

神事の最終盤に、社殿の奥に連なる山々に向かって深々と一礼をするのだ。


それはオオカミ信仰と山岳信仰が交差した瞬間だった。

宮内宮司によれば、奥の院が置かれている「男具那の峰」に対する遥拝だという。

そして御嶽神社で行われる数々の神事の中で、山を拝むのはこの「大口真神祭」だけだと言った。


更に興味深いことに、現在社殿がおかれている御嶽山は、本来の信仰の対象である「男具那の峰」を拝むための遥拝所ではなかったか、とも宮司は言う。

山を拝むこの自然への信心が、日々土地に着いて暮らしを立ててきたお百姓の心情と重なり合い、講を組んで毎年山に詣でる行いの源泉となっているのではないだろうか。

山を拝むという素朴な行為は、社殿が作られる以前の、山そのものに対する古い信仰を思わせた。

山とオオカミ、この二つは御嶽山の背後に広がる奥山の世界へと更に足を踏み入れていくキーワードとなった。

    
                 (引用ここまで)


                  *****


NHK「NTV特集・見狼記」番組紹介より
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2012/0219.html


熊野の山の中で長年、文筆生活を続ける宇江敏勝さんは言います。

「人間の幸せには二つある。一つは人と人との間の幸せ、もう一つは人と自然との間の幸せ」。

“想定外”の大天災を経験した今の私たちにしみる言葉です。

確かに人と人の間だけでは危うい。

この番組は、今から100年以上前に絶滅したとされるニホンオオカミという獣に、今なお特別な思いを抱き、それに呼びかけ続ける人たちを描きます。

日本のオオカミ信仰の総本山とされる埼玉県の秩父地方では今も村々にオオカミ講が組織され、旧家には魔をはらうというオオカミの頭骨が宝物として保管されています。

日々を生きる人々の自然への畏れと親しみが山にすむ獣王の生命力と交わってたくさんのロマンを生みました。

そして今なお秩父の深山からは毎年のように生きた“オオカミ”の目撃情報がもたらされ、実物を一目見ようと異様なほどの情熱で探索を重ねる人がいます。

オオカミ信仰と言うと、消えゆく過去の遺物のように感じますが、自然に呼びかけ、また自然に呼び掛けられながら暮らしたいという感覚は、案外多くの現代人が共有しているのではないでしょうか。

もちろん自然は“良い自然”ばかりではありません。

ニホンオオカミにも魔獣とも呼ぶべきまがまがしい側面があります。

そうしたダークサイドも含めて、この21世紀の日本になお残るオオカミ信仰のさまざまをロマン豊かに描きます。


wikipedia「三峰神社」より

山犬信仰(三峯講)

三峰信仰の中心をなしているものに、御眷属(山犬)信仰がある。

この信仰については、「社記」に享保12年9月13日の夜、日光法印が山上の庵室に静座していると、山中どことも知れず狼が群がり来て境内に充ちた。

法印は、これを神託と感じて猪鹿・火盗除けとして山犬の神札を貸し出したところ霊験があったとされる。

また、幸田露伴は、三峰の神使は、大神すなわち狼であり、月々19日に、小豆飯と清酒を本社から八丁ほど離れた所に備え置く、と登山の折の記録に記している。

眷属(山犬)は1疋で50戸まで守護すると言われている。

文化14年12月14日に各地に貸し出された眷属が4000疋となり、山犬信仰の広まりを祝う式があり、また文政8年12月2日には、5000疋となり同様の祝儀が行われている。

明治後期の文献と思われる「御眷属拝借心得書」には、御眷属を受け、家へ帰られたならば、早速仮宮へ祀られ注連縄を張り、御神酒・洗米を土器に盛り献饌し、不潔の者の立ち入らぬようにされたいとある(仮宮へ祀るのは講で受けた場合で、個人で受けた場合神棚でよいとされる)。


Wikipedia「武蔵御嶽神社」より

武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は、東京都青梅市(武蔵国多磨郡)にある神社。

武蔵御岳山の山上に鎮座する。

櫛真智命などを祀る。

中世以降、山岳信仰の霊場として発展し、武蔵・相模に渡る信仰圏を獲得した。

式内大麻止乃豆天神社という説があり、旧府社である。

現在は神社本庁に属していない単立神社である。



大口真神社(おおくちまがみ しゃ)

大口真神を祭る。

本社玉垣内にあり、神明社の後方に瑞垣に囲まれて鎮座している。

御嶽神社の眷属である狼を祀っている。

古くは神饌を供える台のみであったが、江戸時代末期に社殿が建てられた。

現在の社殿は昭和14年(1939年)に建てられた一間社流造の社殿で豪華な彫刻が全体に施されている。

社殿後方は奥宮遥拝所となっている。





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修験道とシャーマニズムとカラス天狗・・憑霊の人間学(5)

2013-06-07 | 日本の不思議(中世・近世)


引き続き、佐々木宏幹・鎌田東二氏共著「憑霊の人間学」からご紹介させていただきます。

これも佐々木氏の部分です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                *****

  
              (引用ここから)



仏教が日本に入ってきて約1500年たちます。

その間に仏教というものを実質的に支えてきたのは誰かというと、これは庶民大衆である。

この庶民大衆を牛耳りながら仏教を支えたのは誰か、というと、わたしはシャーマンあるいはシャーマン性を備えた職能者ではなかったかと見ているんです。

鎌倉時代に曹洞宗をおこした道元という僧が出ました。

この道元は「正法眼蔵」というおそらく世界に通用するだろうと言われているような書物を残した人です。


日本仏教にはさまざまなものがありました。

発達した大乗仏教には、様々なものがあったのですが、道元はあくまでも自己ということを厳しく見つめて、釈迦が菩提樹の下で座禅をすることによって悟ったのだから、
その悟りの姿そのままを実践することがすなわち仏道である、だから念仏したり、祈祷したりする必要はさらさらないという。

道元は永平寺に入り、座禅三昧をやる。


ところがだんだん曹洞宗が発展しまして、今日では約15000か寺、700万人位の檀信徒を抱えるに至っている。

ところがその道元の門下から出た寺寺の現在を見ていくと、教団のつっかえ棒になっている所が大きな祈祷寺院なんです。


これには、たとえば3つの大寺院がある。

大雄山最乗寺、これは小田原にある大きなお寺です。

次に迦葉山竜華寺というのが群馬の北にある。

それから円福寺妙厳寺というのがあり、これは豊川稲荷と称する大寺院です。


最初の大雄山最小時は小田原の南足柄にあって、末寺数4000。

ここの開祖が了庵彗明。

この人が開山する時に最も力を尽くしたのが超常的人物、妙覚道了です。

この妙覚道了は神変不可思議の霊力を発揮した。

小田原という所が、ちょうど大山など丹沢の山系が切れた南にあたり、山の中にお寺があります。

縁起を見ると、妙覚道了が現れて、大山明神、矢倉沢明神、箱根権現というような、いわば自然崇拝の山の神や箱根の権現様を自由自在に使役して、木を運ばせたり、井戸を掘らせたり、水を持ってこさせたりした、と書いてある。

これは何かというと、私はこういうのは「精霊統御型シャーマン」と呼んでいるのです。

つまりこれは先ほどのツングースの、守護神と一体化したシャーマンが様々な使役霊を使っていろいろなことをさせるのに極めて似ているわけです。

そこで堀一郎という宗教学者は、「修験道などのように護法童子を使ったり、眷属を使ったりするものに、北方シャーマニズムの影がちらつく」ということを「日本のシャーマニズム」という名著の中で触れているんです。


つまり私は、妙覚道了は修験者だろうと思います。

修験者で玄妙不可思議な力を身に着けて、それで土地神を駆使しながら助けていったおかげで最乗寺が建っている。


そして最後にどうなったかというと、やがて立派な境内ができ、了庵が遷化します。

すると妙覚道了が、お坊さんや信徒のいるところで「我の使命はここに終わった。これから以後、我は身を変じて未来永劫にこの山の守護とならん」と言ったと思うと、やにわに火炎が生じ、羽が出てきて、目がかっとばかりに見開き、くちばしが出てきた。


これを、「カラス天狗」といいます。

そして右手に剣、左手に策を持って、わーっとばかりに飛んで行って、その後二度と姿を現さなかった。

それがいま守護神として「ご真殿」というところに祀られているのです。


その大雄山最乗寺を見ますと、七堂伽藍があって、川があり橋がかけてある。

これを「結界橋」と呼びます。

一方が、「カラス天狗」の空間。

もう一方が座禅修行の空間と、二つに分かれるわけです。

そしてご利益の方には大会社の社長などがやってきて寄付をして、会社繁栄とか一族繁栄とかをお願いするのです。

本来の大雄山の方は、修行者は行っているけれども、非常に人がまばらなんです。

やっぱりこの世の幸せがほしい、ということになれば天狗さんの方に来ます。


この寺の構造は、神仏習合という考え方で捉えれば一番分かりやすいかもしれません。

たとえばスリランカでは、祈祷をやる霊媒と比丘は全く別な空間に住んでいるのだけれども、日本の場合は結界橋を渡って、行ったり来たりする。

この橋が、さっき申しました他のシャーマニズムでは、はしごをかけるのだけれども、日本ははしごをかけるよりも橋を架ける方が多いということです。

つまり天空に行くというモチーフより、どうやら横に行くというモチーフが強い。

この場合も異界に行くのに、橋を通って行っている。

そしてまた帰ってくる。

結論としていろいろと探っていくと、何が見えてくるかというと、人と神と自然の間が途切れていない、この三者が円環すると考えられる。

人が神になり、神が人になり、自然が神になり、自然が人になる。

あるいは人が自然に還る。

そういうようなものの間に、深い所では区切りがなくて、自在に行ったり来たりする。

その自在に行ったり来たりするというエネルギーを持った者が、他界とこの世を自在に梯子を架けたり、飛んで行ったりして、自由自在に経巡る。

シャーマンというものの行動、ものの考え方、技術、そういうものが複合してシャーマニズムが成り立つのですが、それは現代の宗教文化にとっても、見逃しえない力を持っていると言えると思います。


              (引用ここまで)


               *****

wikipedia「妙覚道了」より

妙覚道了(みょうかくどうりょう)は、室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧。妙覚は字。

出生地などについては不詳である。道了大権現・道了薩埵・道了大薩埵・道了尊などとも称される。

1394年(応永元年)曹洞宗の僧了庵慧明が最乗寺を開創すると、慧明の弟子であった道了はその怪力により寺の創建に助力。

師の没後は寺門守護と衆生救済を誓って天狗となったと伝えられ、最乗寺の守護神として祀られた。

庶民の間でも信仰を集めて講が結成された。また、江戸の両国などで出開帳が行われた。



wikipedia「烏天狗」より

烏天狗または鴉天狗は、大天狗と同じく山伏装束で、烏のような嘴をした顔、黒い羽毛に覆われた体を持ち、自在に飛翔することが可能だとされる伝説上の生物。小天狗、青天狗とも呼ばれる。


剣術に秀で、鞍馬山の烏天狗は幼少の牛若丸に剣を教えたともいわれている。

また、神通力にも秀で、昔は都まで降りてきて猛威を振るったともされる。

中世以降の日本では、天狗といえば猛禽類の姿の天狗のことを指し、鼻の高い天狗は、近代に入ってから主流となったものである。

和歌山県御坊市では、烏天狗のものとされるミイラが厨子に入れられて保存されている。

江戸時代から明治時代にかけ、修験者たちがこれを担ぎ、利益を説きながら諸国を回ったといわれる。

ただしこれは、2007年に保存事業の一環として行われた調査の際、トンビとみられる鳥の骨と粘土で作られた人造物であることが判明している。

天狗と迦楼羅(カルラ)天 [編集]

天狗は、仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅(カルラ)天が変化したものともいわれる。

カルラはインド神話に出てくる巨鳥で、金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き、龍を常食としているとされる。

奈良の興福寺の八部衆像では、迦楼羅天には翼が無いがしかし、京都の三十三間堂の二十八部衆の迦楼羅天は一般的な烏天狗のイメージそのものである。

信仰上の烏天狗

飯縄権現 - 飯縄山(長野県長野市、及び、上水内郡信濃町・飯綱町)や高尾山(東京都八王子市)など。


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富士山と日本人(1)・・月見草より似合う、憂いをどうすべきか。

2013-05-16 | 日本の不思議(中世・近世)


ずいぶん古い新聞記事ですが、いつか投稿しようと思ってとっておいたものです。

富士山信仰という重大な問題が扱われていますが、この記事は、富士山を世界遺産に登録するための文化的資料が作成されつつあるということの紹介記事であるようです。

しかし、こういった山岳信仰はどれもそうですが、あまり公にされることを好まない性質があるのではないかという気がします。

世界遺産になるかは、まあ、どうでもいいのですが、富士山の魂の永続を祈りたいと思います。




2010年3月31日読売新聞
「富士山信仰ルーツ発掘・・2合目の神社から渡来銭」


                *****



              (引用ここから)


日本の心と言われる富士山への信仰のルーツを探ろうと、山梨県埋蔵文化財センターが2009年度から3年計画で、富士山の発掘調査に取り組んでいる。

江戸時代には富士講が庶民に広がったが、いつごろから庶民の山となったのか?


昨年発掘に取り掛かったのは、富士山富士吉田口2合目にある富士御室浅間神社。

699年に勧進されたとの言い伝えがあり、富士山近辺ではもっとも古い神社とされている。


慶長年間(1596から1615)に整備され、それ以前の施設や使用状況はほとんどわかっていなかった。

発掘区域は現在の拝殿周辺と境内裏の二か所。

拝殿周辺からは江戸時代の貨幣である「寛永通宝」が出土している。

それに対し、境内裏からはそれ以前に流していた「渡来銭」約40枚が出土している。

また境内裏では礎石やくぎなどはみつからず、社殿などの痕跡も確認されなかったが、旧街道沿いに平らに造成されていることが判明した。

同センターの主査文化財主事は「何等かの信仰施設・・たとえば「ほこら」のような小さな建物がこの場所にあったと考えられる。

「渡来銭」があっただけでは断定できないが、造成時期は中世かそれ以前の可能性が高い」と話している。


二合目の信仰施設が文献に初出するのは1475年。

「大原かた山御室」の土地を保障する神領証文だ。


1500年の記録には、「富士へ胴者参ることかぎりなし(勝山記)」とあり、修験者による山岳での修行目的以外に、胴元と呼ばれた庶民が富士山に参詣しはじめたことが記録に残されている。


だが、江戸時代の「富士講」との関連は、これまで明らかにされていなかった。

「出土銭」に詳しい坂詰秀一・立正大学名誉教授は、

「修験者が銭をもって入山することは考えにくい。賽銭なり何なり、庶民が持ち込んだものではないか。

中世に2合目が庶民の信仰拠点として機能していたと考える材料となると今回の発掘成果を評価する」と語った。


今回の富士2合目の発掘は、日本人と富士山の関わりについて信仰面で補強することは間違いないであろう。

(引用ここまで)


           *****



ちなみに、月見草がなぜ出てきたかについては、GOOの検索によれば下記の次第です。

           ・・・・・

「富士には月見草がよく似合う」とは?

太宰治の「富嶽百景」にある一節。日本一といわれる富士山の雄姿には、けなげな月見草がよく似合うという意味。

           ・・・・・

「びた銭」について。


「貨幣博物館」HP
http://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/a3.html

           ・・・・・


Q3.渡来銭や、びた銭と呼ばれる貨幣とはどのようなものですか?

A3.渡来銭とは、東アジア(主に中国)から日本へ渡ってきた銭貨のことです。

日本では10世紀末から16世紀まで国家による銭貨鋳造が行われず、12世紀以降渡来銭が貨幣として広く流通しました。

16世紀後半には、こうした銭貨を「ヒタ(びた)」と呼んでいた例があります。

当時、「ヒタ(びた)」は良質とされた永楽通宝(明銭)よりは質が劣るものの、広く流通していた銭貨であり、必ずしも質の悪い銭という意味で使われていなかったと考えられています。

びた銭(鐚銭)が質の悪い銭という意味で使用されるようになったのは、これよりあとの時代とされています。

           ・・・・・


「びた一文やらない」、というような使い方が一般的でしょうか。。


「山梨県埋蔵文化センター」HP


wikipedia「徐福」より

徐福(じょふく)とは、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士。

斉国の琅邪の出身。別名は徐巿(じょふつ)。子に福永・福万・徐仙・福寿がいるという。

『史記』による記述

司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。

東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。

蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。

「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる。

瀛州はのちに日本を指す名前となった。東瀛(とうえい)」ともいう。

魏晋南北朝時代の487年、「瀛州」は、行政区分として制定される。

同じ『史記』の「秦始皇帝本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。

そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている。

現在一般に流布している徐福像は、ほとんどが「淮南衡山列伝」に基づいたものである。


出航地

『列仙酒牌』より

出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説あるが、河北省秦皇島、浙江省寧波市慈渓市が有力とされる。

途中、現在の韓国済州道西帰浦市(ソギポ市)や朝鮮半島の西岸に立寄り、日本に辿り着いたとされる。


日本における伝承

青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。

徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡などが有名である[7]。

徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。

ちなみに冠嶽神社の末社に、蘇我馬子が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然の葉たばこが自生している。

徐福が茶を運んだとされる中国茶は、別名埼玉茶であるが、自生種と言われ商業には適さず畑のあぜ道に境界として留めている。

鎌倉に上陸した栄西上人が運び込んだのは抹茶用の宇治茶の品種である。

徐福が持ち込んだ中国茶と抹茶用の茶の花粉が受粉して静岡の藪北種が誕生して煎茶の品種になったと考えられる。

中国の御茶の原木(プーアル茶やウーロン茶そして紅茶の葉は中国茶の品種である)と埼玉の中国茶とDNA鑑定の照合をすれば、徐福が持ち込んだことが証明される。

静岡と埼玉は絹の織物が地場産業であるが、徐福は養蚕の技術を伝来させている。

天女のような羽衣が駿河の浜で銀の柄杓で水を汲んでいたと竹取物語に記述があるが、絹の透けた着物を織ることができたからである。

徐福の一族の女官の着物姿のことを指していると言えよう。

八丈島に童男、童女を五百人ずつ別々に乗船させてきて、離れた島に童男を着けたと郷土史資料館に記述がある。
男の島までの距離はおよそ1000mである。

泳いで渡れる距離であった。

両島の北西に船を着床させられる岩棚が唯一存在する。

陰暦の七夕の日に南風が吹き、その風に乗れば相模湾まで航行可能である。

王子と姫を幽閉させて三年後に秦始皇帝は暗殺され、八丈島は見捨てられたのである。

牢屋番の宦官が死ぬと、伊豆七島づたいに本島に移り住んだのである。

当時の造船技術は進んでいた、長さ120m幅20mである。

木材は鉄木という堅木を使う。

亜熱帯のフィリッピンに自生する船舶用の木材である。比重は重く水に浮くことはない。

腐りにくく船のキール材に使われる。

また当時の船は腐敗し存在しないが、徐福が最初の航海で渤海航路を使って帰路に着いた証拠として、アムール川の河川敷きから数百メートル離れたところに長さ120m幅20mの木造船の遺構が衛星写真で確認ができる。

地形が隆起したために腐敗を免れたのである。

逗子市や葉山町に残る縄文時代末期の陶器や古墳の埋葬方式から観て、徐福たちの居住跡であると推理して間違いはないであろう。

遺構から漁具や水深測量の石球が出土している。

中国の徐福村の出土品と形状が酷似している。

横須賀市郷土資料館に保存されている。

逗子市小坪から古代帆船の石碇が出土している。逗子市教育委員会管理。

徐福が逗留したとの伝承が残る佐賀市金立(きんりゅう)山には、徐福が発見したとされる「フロフキ(不老不死に由来か?)」という植物が自生する。

フロフキは、カンアオイ(寒葵)の方言名で、金立地区では、その昔、根や葉を咳止めとして利用していたという。

丹後半島にある新井崎神社に伝わる『新大明神口碑記』という古文書に、徐福の事が記されている。

徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見されている。

波田須駅1.5kmのところに徐福の宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている。

徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し、徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である。

『富士文献』は富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群で、漢語と万葉仮名を用いた分類で日本の歴史を記している。

富士文献は徐福が編纂したという伝承があり、また徐福の来日した年代が、『海東諸国記』の孝霊天皇の頃という記述が『宮下文書』の記述と符合することが指摘される。

ただし、宮下文書はいわゆる「古史古伝」に含まれる部類の書物であり、文体・発音からも江戸後期から近代の作で俗文学の一種と評されており、記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない。


中国における伝承

北宋の政治家・詩人である欧陽脩の『日本刀歌』には「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」(日本人の祖である徐福は日本に薬を取りに行くと言って秦を騙し、その地に長らく留まり、連れて行った少年少女たちと共にその地で老いた。

連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)と言った内容で日本を説明する部分が存在する。

秦記30年の年 徐福たちが逃亡に成功した年である。

資治通鑑と史記の記述は、その年は何も記することが無かった。と記されているが、資治通鑑は女たちは黒衣を着て喪に服していた。

これは、徐福たちが集団でエスケープしたために、残された老人たちや男たちが逃亡幇助の罪で殺害された事を意味しているのである。

そして秦記の汚点になるので記載をしなかったのである。


朝鮮における伝承

朝鮮半島で書かれた『海東諸国記』には、孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、そして崇神天皇の時に死んで神となり、人々に祀られるとある。

徐福達が最初の航海のとき、帰路について渤海航路で上陸し徒歩または朝鮮で調達した馬車で秦国までもどる。

そのときの記載の可能性が高いのである。




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オシャカにならないホトケさん・・日本のミイラ(6・終)

2012-12-03 | 日本の不思議(中世・近世)



松本昭氏の「日本のミイラ仏」を読んでみました。続きです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                *****

               (引用ここから)



この弥勒の思想が中国へ伝来された時、人々は多いに信仰した。

最も有名なのは南岳彗思大師の「立誓願文」だろう。

それは「生身の人間ではとうてい56億年も待っているわけにはゆかないから、仙人になって弥勒の下生を待ちたい」という願文である。


この信仰は仏教とともに日本にも伝わって、弥勒信仰はさかんであった。

「立誓願文」を日本に持ち帰った比叡山の最澄などは誰よりも熱心な信者であった。


問題は、この最澄と共に新しい時代を開いた真言密教の開祖空海もまた、弥勒信仰者であったとされていることである。

そして空海は、インドの釈迦の弟子のように、弥勒の下生を待って、高野山の奥ノ院で生身のまま「入定」している・・・しかも、これが日本の「入定ミイラ」発生の原因だと言われているのである。

しかし事実はだいぶ違うのである。
問題は大変よじれた話で,明確に割り切ることはできない。



仙人になって弥勒の下生を待つ方法の他、もう一つ弥勒の下生を待つ方法があった。

それはミイラになって待つことである。

「大唐西遊記」には、現在のヤルカンドにあたる高冷乾燥の地の大山中に、インドの阿羅漢が三人も「減心定」に入って弥勒の下生を待っていた、と記してある。

その形は“るい人”、つまり弱って体が痩せた状態の人のようだというから、ミイラ化していたことがわかる。

またこの国の隣の、現在のコータンの牛角山でも、阿羅漢が一人、「減心定」に入って弥勒の下生を待っているが、すでに数百年來、人々は供養し続けている、とも記してある。


じつは日本にもこの入定ミイラになって弥勒の下生を、もう600年も待っている僧がいる。

新潟県寺泊の弘智法印がそれなのである。

法印は南北朝の中ごろの人で、現存する日本最古で唯一の入定ミイラなのである。


さて、この日本唯一で最古の弥勒信仰による弘智法印の「入定ミイラ」の近くに、出羽三山の「即身仏」たちが誕生しているのである。

その関係はどうだろうか?

なぜこれらのミイラを「即身仏」と呼ぶのだろうか?

湯殿山系の「一世行人」たちは湯殿山別当から海号、つまり空海の弟子であることを示す「海」の字を一時入れた法名をもらい、そのミイラを「即身仏」と呼んでいる。

その点、出羽三山ではない弘智法印は、高野山で密教を学んだというのに海号がない。

この違いはどこにあるのだろうか?


まず湯殿山系即身仏だが、これは弘法大師の哲理である「即身成仏」を実現することによって羽黒山の天台宗とは違うことを強調する狙いがあった。

だからミイラを「即身仏」と呼んだというわけである。

また「即身仏」に弥勒信仰がないのは、空海の「即身成仏義」に書いてある思想を根本精神としているためだろう。


一方、寺泊の弘智法印の方は、おそらく自身が修行した高野山における「弘法大師の入定説話」の影響であろうと思われる。

おなじ弘法大師の影響から生まれたミイラでありながら、大変違うのである。



だが改めて言うが、「即身成仏」とは悟りの境地であって、出羽三山の「即身仏」のように「ミイラ」になろうという話とは無関係である。

だから空海も自分の遺体を「ミイラ」化することなどまったく考えていなかったことだ。

としたら、出羽三山の「ミイラ」とはなにか、ということになろう。


これら「即身仏」になった人々の出身がいずれも最下層の農民であったり、救いのない殺人犯であったという理由はなんであろうか?

ここでは積極的に「即身仏」を製造していることである。


第一に考えるべきことは、本来「即身成仏」とは悟りであって「ミイラ」とは無関係だということである。

第二に、これら「ミイラ」たちの貧苦の生い立ちをみる必要がないであろうか?

おびただしいつぶれ百姓を出した残酷政治と寺院経済の結合が「即身仏」を生んだとしたら、これら「ミイラ」は農民の怨霊の姿ではないか?


          (引用ここまで)

 
            *****


筆者松本氏は、仏教用語である「即身成仏」という言葉が、死体の保存形態である「ミイラ」と、同じカテゴリーで語られることを、たいへん気にしておられるのだと思います。

最下層の人々が、なにを願い、なにをみつめ、なんのために緩慢なる餓死の道を選んだのか、わたしにも分かりません。

でも、日常用語でも、ダメになったものは「オシャカにした」などと言いますし、死んだ人は「ホトケサン」ですし、日本人は必ずしも良い仏教徒ではない、という側面もある、と考えてもおかしくはないと思います。

ミイラは死んだ人なのだから、「ホトケサン」と呼んでもさほどおかしくはない、という考えもできるのではないでしょうか?



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「入定」とミイラと即身仏・・日本のミイラ(5)

2012-11-27 | 日本の不思議(中世・近世)



内藤正敏氏の粘着性のある眼力と対照的な分析が、「日本のミイラ仏」を書かれた松本昭氏ではないかと思います。

こちらは至って読みやすく、同じミイラのことを書いているとは思えないほどです。

しかし、両方の本を読み合わせることで、日本のミイラたちの世界の深みと広がりが見通せるのではないかと思いました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                *****


             (引用ここから)

出羽三山のミイラは今はすっかり有名になってしまったが、この「即身仏」にはじめて科学のメスを入れたのは唱和35年のこと、毎日新聞社の後援で組織された「出羽三山ミイラ学術調査団」がそれである。

それまで学会では「日本人はミイラを作らない。あっても自然ミイラに過ぎない」という漠然とした考えしかなかったのに、出羽三山の中の湯殿山には、自ら進んでミイラになるための修行をした人々がおり、これは「入定ミイラと呼ぶべき性質のもの」ということが判明したのである。

日本のミイラ研究は緒に着いたばかりである。
一向にその謎は解けていない。

たとえばあれだけ有名になった出羽三山のミイラにしても、なぜ羽黒山系寺院はミイラを作らず、湯殿山系寺院のみがミイラを作るのか、解明されていない。

また全国各地にある出羽三山とは無関係の入定ミイラの思想的背景はなにか?

より根本的にはどの世界のどの民族もミイラを作っているのに、日本古代の人々はミイラを作らなかった。
なぜか、という疑問である。

しかるに日本人は中世になって初めてミイラを作った。
その原因はなにか?


実際には弥勒信仰による「入定ミイラ」と呼ぶべきものは一体だけで、他の思想の背景は一様ではない。

特に問題なのは湯殿山系「即身仏」には弥勒信仰がないことで、この点から言えば湯殿山系「即身仏」を単純に「入定ミイラ」と呼ぶのは間違っているとさえ言える。


そこでまず、「入定」とはなにか、それがなぜ弥勒と関係があるのか、そしてなぜ「入定ミイラ」となったのか、を考えてみよう。


「入定」とは座禅入定、つまり座禅によって精神を統一して修行することで、本来は釈迦の「滅尽定」という言葉が元で、これは「聖果を得て永遠に入定している姿で、死ではない」と「中阿含経」には説明してある。

こうした本来の意味が失われて、この「入定」という言葉が弥勒信仰に結びついて大衆化した原因は、玄僧三蔵法師の「大唐西遊記」にあると言ってよいようだ。

この「大唐西遊記」の中に、インドの古代国家マガタ国の首都近郊の山中の岩窟で、弥勒の一番弟子が弥勒の出世を56億7千万年の間「入定」して待っているという話がある。

弥勒というのは、釈迦が入滅したために空席となったブッダのポストにやがて座るべき菩薩で、目下兜率天(とそつてん)という浄土(天国)で修行している。

そして56億7千万年の後に悟りを開いて成仏し、この世に下生して、釈迦の救い残した人々を救済するという。

そして人々がこの弥勒を信仰すれば、死後弥勒菩薩のいる兜率天へ生まれ、毎日楽しい生活をしながら釈迦の説法を聞くことができ、さらに将来は弥勒と一緒にこの世に下生することができるというのである。


              (引用ここまで)


                *****


著者は、「入定ミイラ」という、摩訶不思議な存在を前に、冷静に分析を進めています。


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生きるとは死ぬこととみつけたり・・日本のミイラ(4)

2012-11-23 | 日本の不思議(中世・近世)




引き続き、内藤正敏氏の「日本のミイラ信仰」を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

内藤正敏氏は、木崎和広氏の「羽後の伝説」という著作から次のような記録を紹介しておられます。



                 *****


               (引用ここから)

                  ・・・・・


秋田県雄勝郡羽後町の和尚塚は、むかし托鉢の和尚がこの地に来て、当時このあたり一帯が毛ダニ(ツツガムシ)の生息地で、刺されて命を失うものが多かったので、これを救うため、また悪疫退散を祈って、みずから穴を掘り、煙のたつ間は生きている証拠だといって、断食して死んでいったという。
そのため当地に生まれた人は、たとえ毛ダニに刺されても決して死なないと言われている。
村人は供養のために塚を作り、これを「和尚塚」とよんだ。


                     ・・・・・


全国の土中入定伝説を調べると、この秋田の「和尚塚」のように様々な苦難から村人を救済することを遺言して「土中入定」した、という話が非常に多いのである。

さらに注目したいのがこの和尚のように、どこからか流れてきた旅の僧や山伏、行者であり、その土地の農民ではないという例が多いということである。

その点が湯殿山の「即身仏」になった「一世行人」と非常によく似ているのだ。


ところで平安時代の「往生伝」には、死に取りつかれたような焼身往生者の姿が見られたが、江戸時代の「往生伝」では焼身往生はなくなり、火葬後の舎利出現譚という消極的なものに代わった。

いずれも「土中入定」伝説のように、宗教家が衆生救済を祈って死んでいった、という他者救済の思想が見られないのだ。

焼身往生や入水往生に希薄な他者救済の思想が、「土中入定」に強く見られるのはなぜだろう。

それは死の美学の違いから起こるのではないかと考える。

山折哲夫氏は焼身の供養行が死者儀礼として、火葬の仏教的展開であるとすれば、「土中入定」は土葬の仏教的展開ではあるまいかと指摘している。

火葬は燃焼により、土葬は細菌やバクテリアなどの腐敗、発酵により遺体のタンパク質や脂質などを分解して遺骨にして浄化安定させる方法である。

火葬は短時間で死体処理ができるのに対して、土葬は長年月にわたって死体が腐っていく、おどろおどろしいイメージが付きまとう。

焼身往生と「土中入定」にも、こうした火葬と土葬に対応する死の美学が連想されたのではなかろうか。

天をこがす美しい紅蓮の炎は極楽浄土の光明のイメージがある。
しかも焼身は瞬間の死であり、極楽へ死に急ぐ往生者にはふさわしい死に方だったのではないだろうか。

焼身と共によく見られた入水往生も、瞬間の死であり、水底の竜宮やニライカナイなどの美しい神秘的な他界のイメージがある。

それに対して、「土中入定」は暗黒の冥界を思わす土のなかで徐々に衰弱してゆく緩慢なる餓死である。

しかも死後三年三か月土中に放置される入定者の遺体は、土葬の腐りゆく遺体のイメージを連想させる。

「土中入定」のような地下の暗闇の中での孤独な死では、自分が極楽往生できるといった自己の救済だけではとても耐えられるものではない。

なにか精神的な強い支えがなければとうてい死の恐怖を克服できるものではない。

そういう民族的な心意が、入定者が衆生救済を遺言して死んでゆくという、「土中入定」伝説の他者救済思想を伴うことになったと考えられる。

「土中入定」の他者救済の思想は、後に「即身仏」信仰と結びつき、近世の湯殿山で過酷な風土と社会状況を背景に、「土中入定型の即身仏」となって、民衆の強い支持を得て信仰されることになるのである。



                (引用ここまで)


                   *****

内藤正敏氏の「土中入定型即身仏」への傾倒は、鬼気迫るものがあり、自身のミイラ化を決行した彼ら一世行人たちの魂そのもののように思われます。

私は本当に何度もこの著書を読み返したのですが、理解しかねることはいまだ残っています。

しかしそんなことはどうでもいい、と思わせる何かが、このミイラ譚にあることだけは確かです。


「土中入定」という「死の方程式」を実現させる何者かがあるとしたら、それは理屈を超えたすさまじい生の在り方であり、理屈なんてもはやどうでもよくなる人間の生き死にの極限の姿であろうと思います。

この現象を仏教や中国思想などの影響から解析してもさしたる意味は見いだせないかもしれません。

著者の言われるように、これらの「即身仏」は、飢饉にあえぐ農民たちの、想像もつかないほどの苦しみを代弁しているのであろうと思います。

あるのはただ、真剣に生きている者が、真剣に、死を感受するとはいかなることか?と問い詰めている姿ではないだろうか、という気がします。


               *****


         

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「土中入定」と「即身仏」・・日本のミイラ(3)

2012-11-18 | 日本の不思議(中世・近世)



11月13日朝日新聞には、チベットの方々の焼身自殺の記事がありました。

大変に印象的な記事でした。
http://www.asahi.com/international/update/1112/TKY201211120375.html

「中国チベット族、炎の抗議 10月から焼身自殺20人」

【北京】中国でチベット族の焼身自殺が止まらない。

中国共産党の党大会を意識したかのように10月から20人が体に火を放った。

胡錦濤総書記は民族の団結を宣言したが、チベット族居住区では1万人規模のデモが起きるなど、民族や宗教問題が足もとから噴き出している。

 12日、新たに2人のチベット族が命を落とした。

インド・ダラムサラにあるチベット亡命政府によると、1人は中国青海省で「チベットに自由を」と叫んで体に火を放った。

写真には、大勢に囲まれ、横たわった体から炎が上がる様子が写っている。

党大会が開幕した8日までの2日間には6人が焼身自殺を図った。

9日には青海省東部の黄南チベット族自治州でチベット族学生らによる抗議デモがあり、規模は約1万人に膨れあがった。

「政治的な大きな問題がないと、焼身自殺なんてしない」。

12日、北京最大のチベット仏教寺院「雍和宮」で祈った若い僧侶は声を潜めた。

焼身自殺が相次ぐ四川省の出身だ。

                ・・・・・


引き続き、内藤敏正氏の「日本のミイラ信仰」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


            (引用ここから)



近世の「往生伝」で平安時代のような激しさが影をひそめるのは、「往生伝」の思想的な背景をなした浄土教が確立安定し、その安定した教義体系の中に「往生伝」そのものが吸収されてきたためであろう。

しかし民間では、近世になっても、「土中入定」という過激な死に方をする宗教家は多かった。


こうした「土中入定」にある再生観は、当然修験道の疑似再生の思想とも、弥勒信仰の再生観とも重なり、後に湯殿山で「土中入定」と「即身仏信仰」とが結びつくことになる。


日本で現存する最古の「即身仏」は、新潟県三島郡寺泊町野積の真言宗・西生寺に祀られる弘智法印である。

「北越雪譜」によると、高野山で密教を学び故郷に帰って大浦の蓮花寺に住した後、行脚の旅に出て越後に来て、西生寺の東に草庵をむすび、1363年10月2日に亡くなった。

その最期は「遺言なりとて亡骸を埋めず」地上の草庵で入定、そのまま「即身仏」になった。


もし明治13年の大火で焼失していなければ弘智法印についで日本で二番目に古い「即身仏」は、新潟県東蒲原郡の玉泉寺(真言宗)に祀られていたはずの1636年に入定した淳海上人である。

淳海上人の「即身仏」について、今までに書かれた記録を見ると、淳海上人の「即身仏」があったことは間違いない。

その姿も影顔笑うがごとし、とかその形枯れ魚に似たりという描写で、いかにも上人の神秘的な即身仏の姿をほうふつとさせる。


淳海上人は末期の時に、檀家たちに「肉身成仏はわが宗の願うところであるから、自分の遺体は火葬にも土葬にもせずに、寺の東南に小さい廟を作って安置せよ」と遺言し、寛永13年に78才で亡くなり、

遺言どおりにしたところ、数年して廟の扉を開くと淳海上人はミイラになっていた、という意味のことが書かれていたのである。


特に私が注目したのは、巡海上人が「肉身成仏はわが宗の願う所であるから土葬にも火葬にもせずに」と遺言している点である。

後の湯殿山系のように「土中入定」伝説をもたず、地上に入滅後にそのまま地上に安置されて「即身仏」になっていくことである。



淳海上人や弘智法印の「即身仏」は、「土中入定」伝説を伴っていない点で、すでに述べた平安時代の初期「即身仏」と共通する。

さらに地上で入定後にそのまま小廟に安置されるというパターンが平安時代の高野山関係者とまったく同じなのは、偶然の一致ではないと思う。

なぜなら「肉身成仏はわが宗の願うところ」という言葉は、空海入定伝説や高野山の地上入定型の「即身仏」を思い起こさずにはいられないからだ。



なぜ湯殿山系の「即身仏」が「土中入定」伝説をもつようになったのか?
いよいよ本書の中心テーマに入っていく。


「即身仏」になった「一世行人」の出身や動機を見たが、信者層の中心である純粋な農民は一人もいない。

「即身仏」になったのは、すべて「よそ者」である。

ここに「即身仏」信仰の実に残酷な一面が浮かび上がってくる。

本来、「即身仏」信仰と「土中入定」は別な信仰であった。

それが湯殿山では両者が結びついて集中的に「土中入定」伝説をもつ「即身仏」が生まれた。

湯殿山に「土中入定」型の「即身仏」が生まれた要因に重税や飢饉といった過酷な社会背景があったことはすでに明らかにしたとおりである。

「即身仏」は仏教の弥勒信仰とも結びつき、現世の救世主として信仰された。

しかし「土中入定」伝説そのものにも、衆生救済の思想が強く見られるのだ。


             (引用ここまで)


              *****


>「即身仏」は仏教の弥勒信仰とも結びつき、現世の救世主として信仰された。
>しかし「土中入定」伝説そのものにも、衆生救済の思想が強く見られるのだ。

私は、内藤氏は、「土中入定」という死のスタイルに、とても心を寄せておられるのだと思います。

衆生の救済を念じつつ死んでいった人々は、古来たくさんおられると思いますが、土に埋められた棺の中で、正座しつつ意識を保ち、自らが死につつある状態を認識しつつ死んでいくという難行を実行した人は、数少ないと思われます。

その方たちへの敬意と親近感が、とても印象的に感じられました。

空海や弥勒への信仰があったのかどうか?

あった場合もあり、なかった場合もあるようです。

だとすると、彼らをかかる無謀な行為に至らしめた要因は何だったのだろうか?

そういう疑問は、当然浮かんでくるのではないでしょうか?


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土の中で息絶えることをめざす荒行「土中入定」・・日本のミイラ(2)

2012-11-13 | 日本の不思議(中世・近世)


内藤正敏氏の「日本のミイラ信仰」を読んでみました。

ミイラを信仰することと、ミイラになろうと信仰することとが絡まりあっています。


             *****


         (引用ここから)


湯殿山の「即身成仏」行者に重視された修行に「千人沢山籠修行」があった。

これは湯殿山奥ノ院近くの千人沢という所に、一千日以上に渡って木喰行をしながら山籠する修行である。

ここは冬には5メートル位の積雪があり、バスも半年間ほど不通になる。


そうした深山にこもりきり、毎日奥ノ院に参籠し、真冬でも雪の中で水垢離を取らなければならなかった。

寒中の水垢離は単に水をかぶるだけという形式化したものではなかった。

沢や川などの氷を割って水中に身体を入れ、手のひらに立てたロウソクや線香一束が燃え尽きるまで、じっと水中に身を沈め続けたという。

このため意識を失ってしまうことも多かった。

仏海上人も村上市の三面川で水垢離中に失神して下流に流されては、漁師に助けられたことがたびたびあったという。


寒中水垢離だけではない。

即身仏を志す行者たちは進んでわが身を荒行の中に投じた。


たとえば、仏海上人はミイラ化しやすいように漆を飲む修行をしたという。

また「手行灯」といって、手のひらにロウソクをともす修行もした。

ロウソクといっても太い百貫ロウソクで焼いたため、観音寺に残る仏海上人の手形を見ると左手の指の付け根のあたりには全然墨の跡がない。

手行灯の結果、その部分が焼けただれているのである。


こうした荒行の総仕上げが、「土中入定」であった。

生きながら木棺の中に入り、土の中の石室に降ろしてもらい、息つぎ竹を地上に出して、土をかけて埋められる。

この中で鉦をたたき、読経をしながら死んでゆき、三年三か月後に掘り出されて、「ミイラ」となり、衣を着せられて厨子に安置され、「即身仏」としてまつられる。

湯殿山の「即身仏」はこうした「土中入定」伝説を伴っているのである。


「一世行人」は寺男のような存在で、掃除や炊事、薪作りなどの雑用をはじめ、お札作りや祈祷の手伝いなどの下働きをさせられた。

多くは出身階層も低く、中には前科者や流れ者もいた。

湯殿山系の「即身仏」になったのは、すべて「一世行人」なのである。


「一世行人」には本明海、忠海海のように、「海」の字がついている。


これは弘法大師空海の「海」の一字をもらってつけたもので、海号といって制度化されていた。

湯殿山系寺院では、開山の空海が湯殿山権現の化身八代金剛童子から授けられたという「上火」と呼ぶ聖なる火を切り出す作法を伝えており、その担い手が一世行人だった。

そのため上火が穢れることを忌み、一世行人は妻帯が禁じられ、別火を用いて生活した。

一世行人の千人沢山籠修行や木喰行も、本質的には清浄な上火を守るための別火精進修行が専門化したものといってよい。

湯殿山系「即身仏」の一世行人は、平安時代の「即身仏」が由緒ある名刹の高僧であり、平泉の藤原四代のミイラが貴族であったのとは対照的である。


            (引用ここまで)


              *****


言葉の定義として、即身仏とは何か、と言う問題があると思うのですが、内藤氏の力強い言葉には、彼ら荒行者の魂が乗り移っているようで、引き込まれます。

空海がどのように関与しているのか、と言う問題も、謎めいています。


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日本のミイラ(1)・・自分でミイラになる方法

2012-11-09 | 日本の不思議(中世・近世)


イロコイ族の先祖がいかにしてベーリング海峡を渡ったか、という問題は、アメリカ大陸と人類という壮大なテーマであり、北米と南米の人々のつながりということも大きなテーマであると思います。

したがって、この話はまだ続くのですが、インカ帝国展の余波がわたしの中で発酵しているので、別のテーマに移ります。


この春見に行った「インカ帝国展」では、アンデス地方の本物のミイラ五体が展示されていました。

その姿を見てから、ミイラのことがずっと頭から離れません。


以前図書館で、内藤正敏氏の「日本のミイラ信仰」という本を発見して以来、何度か繰り返し読みました。

延滞して通知が来たり、返して別の図書館でまた借りたり、何度読んだか分からないくらいです。
何度も読んだのは、難解だからなのと、書いてあることの意味がよくわからなかったからです。

私はいろいろなミイラに興味をもっておりますが、自分で自分をミイラにする=自分がミイラになる心意気をもっている日本のミイラほど立派なものは世界にも少ないと思うので、この本を読むと、その尊敬するミイラさんたちに会えて、ただただ嬉しい気持ちでいっぱいになります。

内藤正敏氏の著述はこのような感じで進められます。

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          *****

        (引用ここから)

世界各地の人工ミイラと「即身仏」は、技術的にも思想的にも著しい違いがある。

「即身仏」は医学的にはミイラであっても、単なるミイラではない。

世界でも特異な「即身仏」というミイラ信仰について考えるために、歴史の闇の奥へ奥へと分け入っていくことにしよう。


         (引用ここまで)


          *****  

しかし、書いてあることが何度読んでも理解できないので、繰り返し読むことになりました。

即身仏とは?

非常に複雑なようです。


          *****


         (引用ここから)


湯殿山即身仏

江戸時代、出羽の湯殿山で集中的に生まれた「即身仏」と呼ばれるミイラは、世界の人工ミイラのように死後の遺体に大がかりな科学的、物理的な処理を施してミイラ化したものではない。

「木喰行」といって、木の実くらいしか口にしないという徹底した食事制限によって生前から肉体の脂肪分を落とし、生きているうちに修行によってミイラになりやすくした、と言い伝えられている。

木喰行は穀物を断つ修行で、「穀断ち」といい、中国道教の神仙修行にも用いられた。

しかし中国の神仙修行の場合は神仙薬を飲むためのものだったが、湯殿山などでは木喰行そのものが宗教的な修行として重視された。


穀断ちには五穀断ちと十穀断ちがある。

五穀は米、麦、大豆、小豆、胡麻。
これに蕎麦、稗、あわ、唐もろこし 栗を加えて十穀とするとも言われるが、この穀物の種類は一定していない。

木喰行を続けると体中の力が抜け、鉄龍海上人の晩年は風呂に入るとき、どうしても身体が浮かんだようになり、近所の子供たちが押さえつけて入れたものだという。

いわば木喰行はゆるやかな餓死行為であり、断食よりはるかに期間が長いだけに、その苦しみも比較にならないものだった。


         (引用ここまで)


           *****


出羽三山については、以前ヤタガラスをめぐって、当ブログで考察をしたことがあります。

「東北のヤタガラス」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/s/%BD%D0%B1%A9%BB%B0%BB%B3


wikipedia「出羽三山」より

歴史

出羽三山は、出羽三山神社の社伝では崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。

崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。

そこで、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える。

月山神社は『延喜式神名帳』に記載があり、名神大社とされている。

出羽神社も、『神名帳』に記載のある「伊氐波神社」(いてはじんじゃ)のことであるとされる。

古来より修験道(羽黒派修験など)の道場として崇敬された。三山は神仏習合、八宗兼学の山とされた。

江戸時代には、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが仏教の寺院と一体のものとなった。

すなわち、羽黒山出羽神社は、伊氐波神の本地仏を正観世音菩薩とし、一山を寂光寺と称して天台宗の寺院(輪王寺の末寺)であった。

羽黒山全山は、江戸期には山の至る所に寺院や宿坊が存在した。羽黒山に羽黒山五重塔が残され、鳥居前に手向宿坊街が残っているのはその名残である。

月山神社は、本地仏を阿弥陀如来とし、岩根沢(現・西川町)に天台宗日月寺という別当寺が建てられた。

湯殿山神社は本地仏を大日如来とし、別当寺として本道寺(現・口之宮湯殿山神社)、大日坊、注連寺、大日寺(現大日寺跡湯殿山神社)という真言宗の4寺が建立され、うち本道寺が正別当とされた。

江戸時代には「東国三十三ヶ国総鎮守」とされ、熊野三山(西国二十四ヶ国総鎮守)・英彦山(九州九ヶ国総鎮守)と共に「日本三大修験山」と称せられた。

東北地方、関東地方の広い範囲からの尊敬を集め、多くの信徒が三山詣でを行った。

出羽三山参詣は、「霞場(かすみば)」と呼ばれる講を結成して行われた。

出羽三山の参道は、通称「七方八口」と言われた。八口とは、荒沢口(羽黒口)、七五三掛(しめかけ)口(注連寺口)、大網口、岩根沢口、肘折口、大井沢口、本道寺口、川代口であり、そのうち、七五三掛口と大網口は同じ大網にあったことから、七方となった。

それぞれの口には「女人結界」が設けられ、出羽三山の山域は女人禁制であった。

別当寺は、女人参詣所という役割もあった。

なお、八口のうち川代口は江戸時代初期に廃され、肘折口には羽黒山・月山派の末坊、阿吽(あうん)院が置かれた。

出羽三山の諸寺は山域の通行手形の発行も行い、出羽三山の参道は、村山地方と庄内地方とを結ぶ物流のルートであった。

庄内藩は大網に「大網御番所」を置いて、これを管理した。同じく、村山地方には大岫峠の手前に山形藩の「志津口留番所」が置かれた(江戸初期のみ。のち村山側も庄内藩知行地)。

志津には、湯殿山別当であった本道寺と大日寺がそれぞれ「賄い小屋」を建て、参拝者の便を図った。

明治の神仏分離で神社となった。

1873年(明治6年)に国家神道推進の急進派であった西川須賀雄が宮司として着任し、その際に廃仏毀釈が行われ、特に羽黒山において、伽藍・文物が徹底的に破却された。

その結果、別当寺が廃され神社となって3社を1つの法人が管理することとなり、出羽神社に社務所が置かれた。

旧社格は月山神社が官幣大社、出羽神社・湯殿山神社が国幣小社である。

戦後、神社本庁の別表神社となった。



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十万億土からの旅、伊勢のかんこ踊り2・・お盆・施餓鬼・七夕(5)

2011-08-21 | 日本の不思議(中世・近世)

五来重氏の「念仏おどり」に記されている、伊勢の「かんこ踊り」という、とても不思議な盆踊りについて、ご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



            *****


         (引用ここから)


なにゆえに「腰みの」をつけるのか、ということと、「かっこ(首から下げている太鼓)」をつける意味だけは明らかにしておかなければならない。


かつて、踊り手は背に「ござ」を巻いて背負っていたという。

「ござ」はつい数十年前までは、登山や田植えの雨具であった。

旅の雨具であったのである。

この「ござ」をもう一つ遡れば「みの」になるのであって、よりスマートな、浦島太郎や「鵜庄」のつける「腰みの」に変えたのであると思われる。

踊り手が「旅姿」をするという点は、ほとんど全国の踊り念仏に共通で、「かんこ踊り」でも、手甲、脚絆(きゃはん)、わらじは旅姿を表わす。

踊り手を「旅人」とする発想は、「聖」が遊行してきて、土地の亡魂のために「大念仏会」を催し、また村人に「踊り念仏」を教えたことの残存である。


もう一つは、踊り手は遠い十万億土からこの世に戻って来た「お精霊さん」達で、供養を受けて踊りながら、また戻って行く長い「旅人」である。


笠で顔をかくし、「みの」をつけるのは、死者の一種のユニフォームであった。


というのは、いまもお葬式の棺には笠と杖を入れ、墓の上には笠を乗せ、六角塔婆をそれに突き立てる。

そうして新墓の入り口の立ち木に「みの」をつるし、杖を立て、下駄を置いておく所もある。

「みの」のことを「ぼうりょう」と言うのは、「亡霊」の意味で、これから出ているのである。


死んでから根の国(よみ)へ追いやられたスサノオノミコトは、「みの」を着て衆神に宿を請うたが、みな断られた。

これを「日本書紀・一書」は「それよりこの方、世に「みの」を着、もって他人の家の内に入ることを忌む」と言ったのは、これが不吉な姿だったからだろう。


このような幽世(かくりよ)と顕世(うつしよ)の二つのイメージが二重焼きになって、「踊り念仏」というものは構成されている。

常に生者の影のように、死者が寄り添っている。

これが宗教というものであろうし、庶民は現世の物質的快楽だけで、幽世(かくりよ)の悲しみをごまかすことが出来ないのである。

ことあるごとに仏壇に話しかけ、イタコや巫女を頼んで死者の言葉を聞く、そのような精神構造が「かんこ踊り」を支えているのだ。




「かんこ踊り」の名の元になった「かっこ」という太鼓について。


「かっこ」は宮廷の舞楽用の楽器と民間の技楽用の楽器があるが、これを肩からひもで下げた伎楽用の「かっこ」であることはほぼ間違いない。

そしてその直接の源流は、“怨霊鎮魂の原初的念仏”であった、古い京都の念仏踊り「やすらい花」であろう。


「踊り念仏」に太鼓が多く用いられることは、しかるべき理由があるであろう。

直接には田楽の関係であるが、わたしは「踊り念仏」に「樽」が用いられることを注意したい。


このような太鼓を、音楽史家は外来楽器として位置づけるが、私は「桶胴太鼓」は「樽(たる)」から派生した日本固有の打楽器であろうと思う。

桶胴太鼓は、ひのきの薄板を曲げ物として、桜の皮で締める。

日本独特の桶作りで胴を作り、その両端に皮を張る。


「古事記」の「天岩戸の岩戸隠れ」の条に、

  天岩戸に「うけ」伏せて、踏みとどろこし、神がかりして、、、

とある「うけ」が「桶」で、これが日本での太鼓の起源であろうと思う。

すなわち「天岩戸」に“お隠(崩)れになった”皇室の始祖の鎮魂に、「桶」を逆さに伏せて、その中に荒御霊を篭めて、「だだを踏んだ」のである。


  (引用ここまで)


     *****




たしかに、浦島太郎の挿絵も、鵜飼の衣装も、丈の短い腰みのでした。

腰みのは、日本古来の衣装でもあったのでした。

そして、ござは、かつては棺の代わりに死者を置く場所でもあったのだと思います。

死者の持ち物である、ござ、みのをまとい、霊を呼び出し鎮める日本古代の“桶から造った太鼓”をとどろかせて踊る「盆踊り」は、まさに日本古来の魂の姿であるように思えます。


同じく五来重氏「続・民俗と仏教」より 引用させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****


       (引用ここから)


「盆踊り」は、たいてい輪になって踊る輪舞進行型であるが、輪の中央に「踊りやぐら」が組まれる。

今は音頭とりの座のようになったが、もとは祭りを受ける霊魂の祭壇で、「精霊台」ともいい、新仏の位牌を飾るところもある。

古くは中心に傘を立てたらしく、室町時代の記録や絵巻では、これを「風流」と言って、立派なものであった。

言うまでもなく、霊魂のより来る装置であった。

傘または笠は、霊に変身するためのもので、伊勢の「かんこ躍り」のように、踊り衆が花笠や「シャグマ」を被るのは、踊り衆に霊魂がのり移って、共に踊るという観念からきている。

大体、宗教舞踏というものは、神または霊の踊りである。

宗教舞踏はすべて伝統芸能の源泉と考えられるが、その踊り手は神霊の「よりまし」であり、神霊そのものとなって踊るのであった。

それゆえ宗教舞踏者はなにか神または霊を象徴しているもの、、たとえば笠とか鈴とか、、を持つか、普通の人間から区別されるような扮装をする。

花笠を被ったり、仮面を付けたり、仮装をするのはそのためである。


      (引用ここまで)


            *****


お盆で踊っているのは、精霊たちであり、死霊たちであり、そして生者たちであるのでしょう。

五来氏の考察は非常に深く透徹したもので、盆踊りに現れるさまざまなものごとの由来を説き明かしてゆきます。

五来氏によれば、ここに見られるとても変わった衣装は、南方由来ではなく、日本人の心の歴史を表わしているもので、民俗学の範疇で説明がつくということです。

それでは、この大きな被り物は、いったいどのような由来をもつものなのか?

“怨霊鎮魂の原始的念仏”の本質は何なのか?、、いよいよ興味深く思われます。



写真は、萩原秀三郎氏撮影


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なんてシュールな、伊勢のかんこ踊り・・お盆・施餓鬼・七夕(4)

2011-08-19 | 日本の不思議(中世・近世)
お盆がすぎても、盆踊りの音色が心を離れません。

前回まで藤井正雄氏の「盂蘭盆経」を読んでお盆について調べていましたが、その本に掲載されていたたくさんの盆踊りの写真にほれぼれとして見とれてしまいました。

よく見ると、萩原秀三郎さんという民俗学の写真家の人のもので、なるほどと感心しました。

その中で、一番あっと思ったのが、三重県の伊勢で行われている非常に古い盆踊りでした。

「かんこ踊り」というのですが、それについて藤井氏も引用しておられた 五来重氏の「踊り念仏」という本から紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


         *****


       (引用ここから)


伊勢の「かんこ踊り」

伊勢の国は、神の国と言われながら、また「踊り念仏」の国である。

今では常識化した「神仏分離」も、かつては庶民のあずかり知らぬ頭上の嵐であった。

その証拠に、どこの家でも、いまだに神棚と仏壇がなかよく同居している。

伊勢を中心に伊賀と志摩には広く「かんこ踊り」が分布していて、これは必ず「精霊供養踊」と「神事踊(宮踊)」を行うのである。

伊勢の「かんこ踊り」は「シャゴマ」という被り物が異様で、しかも“すげの腰みの”をつけ、胸の「かっこ」を打ちながら踊るので、やしの木陰で踊る南洋の踊りが伝わったものだろうと、海外文化渡来説まで飛び出してくる。

この「シャゴマ」というのは、白馬の真っ白な尾毛を一本絞りして、円筒形に頭巾の上に立て、また頭巾の下に長く垂らし、顔を覆う。

頭巾の上には紅絹布を巻くという派手なものである。

どうして踊り念仏の被り物を、こうまで凝ったのだろうか?

この鍵は、京都の古い踊り念仏「やすらい花」の鬼の被り物「シャグマ(赤熊)」にあるだろう。


「かんこ躍」りは「やすらい花」の系譜をひくものであるから、「鎮魂の踊り念仏」として、一方では御霊や疫病を棄却したり、雨乞いのような「神事踊」をする。

また一方では、お盆に帰ってくる御霊的新魂(あらみたま)である新仏を鎮め送る「精霊踊(供養踊)」をするということになる。

この「神事踊」と「精霊踊」は、庶民信仰の霊魂観から見れば、まったく一つのものだったのである。



「伊勢・佐八のかんこ踊り」の次第をしるす。

8月15日に踊るのを「盆念仏」といって、寺と新仏の家の庭で踊る。

花形はなんと言っても「シャゴマ」で、例の異様な被り物の「シャグマ」で顔をかくし、「腰みの」を足元まで垂らし、白黒だんだら縞の筒袖上着に白晒を胴に巻く。

踊り場の中央には、柴と松を積んだ大松明を焚くので、「シャゴマ」の真っ白な「シャグマ」と「腰みの」が火に映えて、夢幻的な雰囲気を盛り上げる。

その上音頭とりの和讃調の念仏と鉦(かね)の音が、踊り手をこの世のものでない、幻幽の世界から出現したもののように思わせる。


          (引用ここまで)


          *****


伊勢地方に伝わるこの「盆踊り」は、真ん中に火が燃えており、そのまわりを、異形のいでたちをした人々が踊ります。

この踊りを見たとき、わたしは本当に心から、満足を感じました。

「お盆」の踊りは、きっと元々は、こんな形で踊られていたのではないか、と思いました。

写真は藤井正雄氏「盂蘭盆経」の写真より転載させていただきました。

(写真の右端側は、津和野の盆踊りで、別の写真です。)

続きます。



「三重県インターネット放送局・伝統行事」にかんこ踊りの盆踊りの動画が、先日まで載っていました。
http://www.pref.mie.lg.jp/MOVIE/index.asp


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