先日、テレビで最近の京都観光事情の事をやっていました。
それを観た私は、いくら京都観光をしたくても、
こんな大混雑の京都には行けないなと思いました。
私が初めて京都に行ったのは、中学の修学旅行でした。
当時の国鉄車両4人掛けのボックス席に5人くらいが詰め込まれて行きました。
清水寺、南禅寺、金閣寺、二条城といったお決まりのパターンです。
中学3年ともなると、色気づいた頃ですから、
古色蒼然たる神社仏閣などより、可愛いあの子の存在の方が気になって気になって。
その後は京都観光など行った事は無かったのですが、
20代になると仕事がらみで、ついでに京都観光を何度かしました。
しかし、あまりにも古い話しで、殆ど覚えていないのです。
それが2019年11月に、日本の歌声祭典が京都で行われたのを幸い、
この時とばかり、長く憧れていた大原・寂光院へ行ったのでした。
早朝まだ6時前に、朝焼けの最寄り駅を出発。
京都の宿で、観光ガイドブックに胸を膨らませました。
寂光院の門前はまるで、世をはかなむ若い建礼門院の女ごころを表すかの如く、
浮かれた観光客とは隔絶し、ひっそりとしたたたずまいでした。
ずっと憧れていた平家物語、悲劇のヒロイン建礼門院ゆかりの寂光院。
平家滅亡から834年の悲しい歳月。
壇ノ浦で我が子、安徳天皇と共に海に身を投げた彼女は、幸か不幸かすくい上げられ、
平家一門全滅の中で、たった一人生き残ってしまいました。
数年前には蝶よ花よと天国を謳歌していた若い彼女が見るのは、この世の地獄。
わずか数年という短い時間に、天国から地獄へと突き落とされた憐れな自分。
ごく数人の付き人と共に京都郊外の寂光院へ向かう道から、
振り返り見れば、遥かに霞む華やかなりし京の都は遠ざかるばかりの切なさ。
その時の彼女の心を思うと、それはあまりにも、あまりにも悲しいものでした。
寂光院から歩いて行ける所に、あの三千院があります。
ついでにそこへも行ってみました。
寂光院に比べ観光客は格段と増えましたが、
先日のテレビからすると、まだそれほど多くはありませんでした。
しかし、コロナが解禁されてコロナ前同様に観光客や外国人が増えてしまった京都。
もう京都という、本来静かであるべき場所であって欲しい地は、
もはやどうにもならない様相になってしまいました。
そういった意味から言えば、私が憧れていた大原・寂光院。
もうそれ以上、喧騒の京都に行く必要はないと思うのです。
たった1か所を見る事によって、京都の良さに触れたという思いが残っているのです。
それを観た私は、いくら京都観光をしたくても、
こんな大混雑の京都には行けないなと思いました。
私が初めて京都に行ったのは、中学の修学旅行でした。
当時の国鉄車両4人掛けのボックス席に5人くらいが詰め込まれて行きました。
清水寺、南禅寺、金閣寺、二条城といったお決まりのパターンです。
中学3年ともなると、色気づいた頃ですから、
古色蒼然たる神社仏閣などより、可愛いあの子の存在の方が気になって気になって。
その後は京都観光など行った事は無かったのですが、
20代になると仕事がらみで、ついでに京都観光を何度かしました。
しかし、あまりにも古い話しで、殆ど覚えていないのです。
それが2019年11月に、日本の歌声祭典が京都で行われたのを幸い、
この時とばかり、長く憧れていた大原・寂光院へ行ったのでした。
早朝まだ6時前に、朝焼けの最寄り駅を出発。
京都の宿で、観光ガイドブックに胸を膨らませました。
寂光院の門前はまるで、世をはかなむ若い建礼門院の女ごころを表すかの如く、
浮かれた観光客とは隔絶し、ひっそりとしたたたずまいでした。
ずっと憧れていた平家物語、悲劇のヒロイン建礼門院ゆかりの寂光院。
平家滅亡から834年の悲しい歳月。
壇ノ浦で我が子、安徳天皇と共に海に身を投げた彼女は、幸か不幸かすくい上げられ、
平家一門全滅の中で、たった一人生き残ってしまいました。
数年前には蝶よ花よと天国を謳歌していた若い彼女が見るのは、この世の地獄。
わずか数年という短い時間に、天国から地獄へと突き落とされた憐れな自分。
ごく数人の付き人と共に京都郊外の寂光院へ向かう道から、
振り返り見れば、遥かに霞む華やかなりし京の都は遠ざかるばかりの切なさ。
その時の彼女の心を思うと、それはあまりにも、あまりにも悲しいものでした。
寂光院から歩いて行ける所に、あの三千院があります。
ついでにそこへも行ってみました。
寂光院に比べ観光客は格段と増えましたが、
先日のテレビからすると、まだそれほど多くはありませんでした。
しかし、コロナが解禁されてコロナ前同様に観光客や外国人が増えてしまった京都。
もう京都という、本来静かであるべき場所であって欲しい地は、
もはやどうにもならない様相になってしまいました。
そういった意味から言えば、私が憧れていた大原・寂光院。
もうそれ以上、喧騒の京都に行く必要はないと思うのです。
たった1か所を見る事によって、京都の良さに触れたという思いが残っているのです。