私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

宮内の今昔

2013-06-26 09:45:02 | Weblog

 さて、幕末の宮内には二人の全国的に名の知れた人物がいました。藤井高尚と真野竹堂です。一人は文学者でもう一人は実業家で、しかも素朴家で頼山陽などの学者のパトロンでもあったのです。此の二人の家はほんの数町しか離れていないいにもかかわらず、やり取りは総て手紙で行っていたのです。だからこそ、当時の二人が、どのような考えで、どのような行動を取っていたかがつぶさに分かるのです。現在、宮内には高尚から竹堂宛の数百通の書面が残っていていて、見ることができるのだそうです。

 その二人の手紙のやり取りを紹介している最中あったのです。話を中断して、横道にそれておりましたが、その続きを今日から、又、始めます。

 こんな書面を前に紹介しました。
 
 “精進は御止めにてかきぞうすゐを弁当に被成候が可宜小屋へ被仰付候か宜候さかなは一種づヽ宵と更て二度に出し候か宜候。・・・・”
 
 人をやって伝言でもすればいいものを、一々その都度、このような面倒な書面のやり取りをしていたようです。まだ鉄道も郵便も何もなかった時代の事です。たった250年の昔にですよ。


再び、宮内について

2013-06-25 10:03:05 | Weblog

 昭和16年8月に出版されました当時の山陽新報(現在の山陽新聞)に掲載されました、矢尾牛骨氏の「宮内の今昔」について書いていたのですが、途中、私の浮気癖が出て、それとはほとんど無関係のような記事を書き綴ってまいりました。 ほんの一時と思っていたのですが、気が付いてみますと、時は、はや北風の冬が往き、花咲く春も遥か昔の事のように思え、今、時鳥が、”ちとせの松のふかき色かな”と詠ましめた吉備のお山から、頻りと聞こえる水無月も終わろうとしています。
 

 ごめんなさい。一寸又横道に。
 時間が早く過ぎ去る事を 「光陰矢のごとし」とか「隙を過ぎる馬」とか呼んでいるようですが、矢は分かるのですが、どうして馬なのでしょうか。鳥ではいけないのでしょうか。その事をちょっぴり調べてみました。

 ご存じとは思いますが、これは山上憶良の歌から来ているらしいのです。ものの本によると、万葉集に
 “二つの鼠競ひ走りて、目を渡る鳥は旦に飛び、四つの蛇争い侵して、隙を過ぐる駒夕べに走ぐ”
 があります。この最後の言葉から出来たのだそうです。
 それにしても、貧乏の歌を歌った山上憶良という人の学識の高さは何処から来たのでしょうか。偉大な情も言葉もその上調べも最高な歌読みです。あの柿木・山部大人と遜色のない歌人だっと思われて仕方ありません。
 これもですが、高尚の山上憶良論を聞きたいものですね。どんよりとした梅雨空から「てっぺんかけたか」と、甲高い鳴き声が、今、吉備のお山から聞こえて来ます。

            


さて、「歌のしるべ」も最終回となりました

2013-06-24 19:59:22 | Weblog

 なんだかんだと書き綴って高尚先生の「歌のしるべ」もいよいよ最終回になりました。このしるべの最後の部分を紹介して終わりにします。

 “近きとしごろなやみわたれば、こよなきほけ翁となり、老のならひにもまさりて、たどしへなくさし過したるこのしわざよ。われながら見るににくげなる所々おほかるを、まして人のとはおもふものから、かしらいたさにえかきなほさでなむ。”

 と。

 老人になり病になやまされ、年寄りくさくなり、愚痴っぽくなってしまたことよ。自分の書いたものですが、あまり自慢できるものではなく書き直さなくてはならない所も沢山あるにはあるのだが。

 これで終わっています。どうでしょうか。高尚の歌に対する鋭い見方に感心しながら終わります。


「ちょっと」と「ちょびっと」 

2013-06-23 09:01:34 | Weblog

 備中地方の方言に「ちょびっと」というのがあります。お分かりいただけますか。「ちょっと」との中に「び」がはいって「ちょびっと」になった言葉です。「ちょっと」というのは、ほんの少し、と云う意味ですが、此の言葉は、時空を飛び越えて色々な方面に使われます。
 「ちょっと行ってくる。」「ちょっと待ってください」「それをちょっとくださ」「この問題はちょっとむずかしいぞ」など、その言葉は空間的にも時間的にも量的にも、さらには、人の心的な量を表すための言葉にも使われています。

 そのことばが、我々の吉備の国では、いつ誰が作ったと云うことではなしに、長年の人々の生活の中から、此の多方面に使われている「ちょっと」に、「び」と云う字を間に挟めることによって、数量的にのみ使う言葉が生まれ育ったのです。ですから、「それをちょびっともらえんじゃろうか」がという言葉は使えますが、「ちょびっと待ってくだせえ」とか「ちょびったと行ってくる」などとは決して使わないのです。
 このことばには方言の良さ、面白さ、微妙さを兼ね備えた何か技巧的な臭いすら感じさせられるような巧妙さが有るのではないかと思っております。

 「どうして いまごろ そげえなやっちもねえことを いうてもしょうがねえじゃろに」と、お叱りを受けるかもしれませんが、高尚先生の[歌のしるべ」も、「もうちょびっとしかのこってねえがな」と、昨日、書いている時に、「あ、このことばってなんじゃろうかな」と、ふと、頭に浮かんできたものですから、その「ちょびっと考」を蛇足的に書いてみました。
 
 でも考えてみたら、この方言を含め言葉って面白いものですね。特に、今朝の朝刊に出ておりました「ナカニシ先生万葉こども塾」を見ておりますと、余計に、そんな思いがしました。

 「ほんとうに やっちもねえことじゃけえど」と、今日のも、高尚先生を離れて、全くの蛇足です。


歌のしらべとは

2013-06-22 19:15:49 | Weblog

歌に込められたしらべとは、高尚は言います。
 “歌のすがた余情をこめていう事にて、いひもてゆけば、情詞のほかならねど”と。要するに、すがたとは、いひもてゆけば、そうです、せんじつめていうと、結局のところ情や詞と同じで、それを人に教えるにあたっては、歌の姿とは、女性の持つ真の美しさと同じだと、そう説明するのが一番分かりやすいと述べています。

 ここまで読むと、昨日私が書いた高尚氏の「女性蔑視論」は、ちょっと待てよと云う気になります。真の歌を詠もうと思えばそのような心配りがが必要だと云う事を、云おうとしていたのだと云うことが分かります。

 さらに
 “此しらべ、いひしらずすぐれたらんには、情詞のをかしさそえて、いといとめでたく、おくれたらんには、よき詞もこちなげにおぼゆれば”と書いております。「こちなげ」のこちとは骨の事で、何となくその場に似合わない趣がない少々無風流な感じがすると、云ったぐらいの意味だと思いますが。

 


「歌のしるべ」も終わりになりました

2013-06-21 09:51:18 | Weblog

 高尚は、今の世の歌読みは、歌もの持っている本質、情や詞ですが、を忘れて、歌の調べだけよければと思って歌を詠んでいるが、それは大いなる“あさはかなり”と決めつけておりますが、そのしらべについても、又、言っております。

 ”この頃はこれを歌のむねなりとようにいひて、をしふる人ありとぞ。さようにはあらねど、げに歌はしらべも、なほざりにおもふまじき事なり。たとへば歌の情あはれに、詞のをかしきは、女の心うつくしくかほよきなり”

 と。
 そして、しらべがわるい歌は、“女のかはひのいやしげなるが如し”。そうです。女の姿も顔もみっともなくて、さも下品そうなのに似ていると云うのです。
 高尚先生ちょっとばかり待ってくださいな。その言葉、少々例えが悪いのじゃありませんか、と云いたいのですが。もし、これが、何処かの国の政調会長みたいな政府の高官の言葉だとしたら、これ又、失言訂正の記者会見がひをしなくてはならない所の様な気もするのですが、どうでしょうかね。

 でも、これって、本当に、例えとすれば大変有効な訴えだと感心もしておるのですがね、皆さんはどうお思いになられますか??

 そして、“こころばへもかほもにくからぬは、あてなるさまぐしたらんやうなるぞ”と。こんな歌がいい歌なのだと言っております。要するに、美人は、単に、顔だけが整っていると云うのではなく、その心ばえもよくなければいけない。それは歌の世界でも、全く、同じだ、と云うのです。


「うべしこそ」とは

2013-06-20 11:47:31 | Weblog

 失礼しました。昨日の「うべしこそなべて情浅けれ。」に付いてですが、この「うべしこそ」ということばは辞書によりますと「なるほどその通に」と云う意味が込めっれているのです。お問い合わせがありましたので、念のためにと書き加えさせていただきます。

 高尚先生、現代の歌読みは、どいつもこいつも、ただその形、しらべだけにこだわって作っているから。昔のような情のある人麻呂や赤人のようなあはれを感じさせるような歌が読めないのだと、苦言を呈しているのです。
 何度も言うようですが、出来る事なら高尚先生と正岡子規との歌のしるべに付いての討論をさせて見たい気持ちが、いよいよ強くなってきます


“うべしこそなべて情浅けれ”

2013-06-19 12:20:22 | Weblog

 万葉歌人である柿本、山部両大人の歌のあはれなる情を深くしたい、その詠まれた情に付いて深く理解して、その歌に積極的に取り入れたのが紀貫之だと云うのです。そうであるにも係らず現代の、江戸後期の歌読みは、見て習うこともせず、それらの優秀な歌に付いて何一つ知りもしない。だから、いい歌など詠めるはずがない。その為に、“今ようの歌は、うべしこそなべて情浅けれ。”と、高尚は言うのです。
 唯、今の歌読みも貫之を大変尊敬していることは確かですが、それは、貫之が昔から尊敬されているから、その歌に表されている情がどうのこうのと云うのではなく、真の歌のねうちなどは考えないで、漠然と、貫之の歌はいいもんだと思いこんでいて、誰もかれも貫之の歌を目出ているに過ぎず、“歌といふものは、しらべだけよければと、あさはかにこころえていふなり”と。


真の歌評とは?

2013-06-17 06:05:51 | Weblog

 さて、高尚先生は、更に、詞と情について書きます。

 “・・・あさ夕にといはず。くるとあくとゝいへるは、詞つかりてしらべはわろくなれども、くるあくというは、のちへかヽりていふ詞にて、くるといふに、夜もすがら見る事こもり、あくといふに、ひねもす見る事こもりて、情ふかくなれり。情をおもひて、詞をもしらべをもととのへざるなり。”

 と。
 「ことば」の一つを選んで、詞と情を深く関連づけ、敢て、言葉余りの言葉を使ってこの歌の情をより細やかに表現したのだと云うのです。これは、先にあげた柿本ノ大人の“あはぢのぬじまの崎の”と詠んだ歌の心ばえに似ていると云うのです。
 これも誠にその言わんとする所が日本の歌の核心に迫るような、それまでの人が、本居宣長を除いて、誰もがなしえていない歌評ではないかと、私は思っています。それが[歌のしるべ]なのです。


筆敬さんからのおこごと

2013-06-15 09:01:17 | Weblog

 久しぶりに例の筆敬さんからの「おこごと頂戴仕り候」。

 「なにゅう かきょんなら、てえげえに しとかにゃあ おえりゃあせんど。みんふりゅうしてえたんじゃが、あんまりひつけえもんで、ほってえたろうかと おもようたんじゃが かきとうもねんじゃがのう・・・そげんに ながたらしゅう おめえはええきになったようにおもうてかきょうんじゃろうが そげえなおもしろうもくそもねえもんはなあ でえもよまあせんど。もうやねとけえ」

 と。
 私も筆敬さんのように思っているのですが、行きがきの駄賃じゃないのですが、一応、高尚先生の「歌のしるべ」書きだしたからには、全部を紹介するのが、この我が郷土「吉備津」の大偉人に対する最大の敬意ではないかと思いながら、それこそ情も詞もあったものではありません。大変拙い言葉の連続ですが、まあなんとか恥じ曝しのような文で書き綴っておりますがあしからず。でも、もう少しでこの「歌のしるべ」も終わりますので、どうぞ最後までお付き合いください。お願いします。

 それはそうと、今日やっと梅雨らしい雨模様になりました。吉備津神社のアジサイが見頃です。是非お参り方々見学してみてください。真夏のかんかん照りでは、推奨できませんもの。雨でなくでは、それこそ、アジサイの情は映えませんもの。

 


花ををしむ情のいといとふかく

2013-06-14 11:45:50 | Weblog

 “うつろひぬらん“、花が散ってゐんでしまうのが人も花にも同じくあると云うのです。それは、人の心が散る花の心をも思ってそう表現したのです。それだけ花に対する思いが深いから、はなはだしく“せちなるよりこころまよいして”と、高尚をしてそう解釈させたのです。
 この“うつろひぬらん”は、前にあげた山部赤人の「ふじのねにふるけるゆきはみな月のもちにけぬれば・・・」の歌と同じように“あはれなる情いみじうふかし”といっております。
 また、「うつろひぬらん」の前にある“人ま”というのは、“おのがことなるをおほらかに人よいへるは、いひしらずをかしき歌詞なり”、自分の事ですが、一般的におおざっぱに人と表現したことにも大変な妙味が隠されている詞なのですと言いきっております。
 これは、正岡子規にも、決して、出来ない彼独特の歌に対する造詣の深さが伝えられる文章です。

   どうでしょうかご批判を待ちます。


更に、高尚は言います。

2013-06-13 19:51:44 | Weblog

 「うつろふ」とは、此歌にては、「ちる」をいうのです。花も、人のこころと同じように、花を散らさないようにじっと見つめておったのだすが、その思いとは裏腹に自分の意志とは反対に、散ってしまう、そのやるせないこころは人のこころと同じだと云うのです。その散ってしまう寂寥は人も花も同じだと言うのです。花としても“散りてゐぬる事のならぬもののようにおもふは” それが「うつろふ」と云う詞に込められた情であると云うのです 。

 ちょっとばかり理屈っぽくはなりましたが、高尚は言います。「歌の心はその歌う人の情が対象のものにまで入り込んで始めていい歌になるのだ」と。


くるとあくとめかれぬ・・・

2013-06-12 08:16:50 | Weblog

 くるとあくとめかれぬものをうめの花いつの人まにうつろひぬらん

 の歌に突いて、高尚は次のように言っています。
 “此歌の情をときえざるゆゑは、いつの人まにといふを、いつのひまにと云意のように、なほざりにたれもたれもこころえてとけるゆゑなり。もしさようならば、いつのまにかもうつろひぬらんというべく、ことように人まとはいふまじきなり。人まは人のなきまなり”
 この歌を解釈する人がその情について詳しく解釈できないのは、この「いつの人ま」と云う言葉をいい加減に解釈してしまうからだと云うのです。いつのまにかしらないうちにというぐらいにしか、此の意味を解していないからだと。「人ま」と云うのは本当は、人が誰もいない間に、と云意味なのに。此の詞を、この歌を解釈するうえで一番のカギに成るのだと述べています。

 この歌の本当の意味は、日が暮れるとまだ見、夜があけると見して、目も離さず、ずっと花を見つめているのにも拘らず、人がいないかの如くに知らない間に散っていったのをあやしく思うこころが、この歌には込められていると云うのです。

 どうでしょうか。現代の解釈との差異が感じられはしませんか。

 なお、この歌の現代の、一般的な解釈は
 「常に目に止めて鑑賞していたはずのに、いつの間にこんなに花が散るようになってしまったのだろう、」というぐらいでしょうか


こんなのあり???

2013-06-11 07:02:52 | Weblog

 私の菖蒲がきれいに咲きました。早速、花を床の間に生けてみました。そのバックには、岡山で晩年を過ごした波多野華涯の菖蒲の絵を掛けてみました。するとある人が
 「こんなのあり??」と云うんです。「花に花の絵じゃあ、どうも恰好が付かん。おめえが、今、書きょうる高尚の云う情が、これじゃあ さっぱりのうなってしもうておる。花と掛け軸の両方にある情がお互いに消し合って、結局、全体の情がのうなってしまって、おえんようになるんじゃねえかなあ」
  と。
 そうでしょうか。これは床の間飾りの様式から逸脱した邪道でしょうか。お教え願えたらと思います。

 

               


菖蒲の花が咲きました

2013-06-10 14:28:50 | Weblog

 我が家の花菖蒲園に御招待します。今年の丹精の甲斐あって見事な花菖蒲がさきました。写真で、その菖蒲園にご案内いたします。

                                           

 

      

            

                   

 

  中には、”これほど幸福な虫は!”と思われる様な姿も見えます。