奇想庵@goo

Sports, Games, News and Entertainments

PC変遷

2018年09月15日 20時45分41秒 | デジタル・インターネット
初めてパソコンを購入したのは1997年。二台目が2002年頃。そして、三台目が2009年の年末だった。

当時はPCゲームをプレイすることが多く、それなりのスペックを求めていた。しかし、予算的にメモリを積めず、FF11なら快適にプレイできたが、FF14だとかなり厳しい感じだった。

SSDも当時普及し始めた頃で、まだ手が出なかった。初めての液晶モニタとセットで購入したので、それなりに新鮮さはあったし、それ以前のものよりは遙かにスペックアップしていたので満足感はあったが、スペック的にはすぐに物足りないものになってしまう。

それでも、スペック自体には今でもそれほど不満は抱いていない。メモリ不足を感じることは往々にあるが、我慢できないほどではなかった。

問題はトラブルの多さだ。

購入直後から様々なトラブルが起きた。多くは接触不良によるハードのトラブルだと思われた。グラボの挿す位置を変えたり、ハードディスクを換装したり、トラブルを機に色々といじることが多かった。

特にブラックアウトになるトラブルはずっとつきまとった。ほぼ予告なしに起き(あるいは衝撃を受けると発生(PCの載っているテーブルにコップを軽く置いただけでも起きたことがある))、起きたら電源を切る以外に復旧の手がない。
しかも、再起動しようとしても立ち上がらないことが多々あり、復旧に数十分から数時間かかることもあった。

それでも、「たまに」ならまだよかった。この夏、おそらくは暑さも原因だと思うが、このトラブルが頻発した。数十分かけてようやくWindowsが立ち上がったと思ったらまたブラックアウトといった心折れる事態も起きた。

さすがにこれ以上使い続けられない。精神衛生的にも、もうね。

高スペックPCゲームをプレイしなくなったので、グラボ不要。Windowsの起動にかなり時間がかかっていたので、SSD搭載モデルを選択。またメモリも増やした。

メーカーは初代、二代目のPCと同じDELL。注文から二週間ほどで届き、環境の再構築に日々を費やしている。

いちばんの驚きはその静音性。PCってこんなに静かだったっけと思うほど。いや、それほど今まで使っていたPCがうるさかったということだろう。

環境が整うまでにはもう少し時間がかかりそうだが、PCの快適さはいかに精神的に大きいかを実感している。逆に言えば、これまでいかに時間をロスし、精神的苦痛を受けていたか。高い買い物(とはいえ過去に比べると非常に低価)だが、もう元が取れた気がしてしまう。

Cookie Clickerで、チートなしに反物質コンデンサを100個所持する簡単な方法

2013年09月19日 21時14分54秒 | デジタル・インターネット
クッキーに取り付かれてまもなく丸4日。いい加減、飽きてきているのだけれど、「あと少し」と思うと止められない。

現在、実績(Achievements)の開放は、81/88。リセットによるものが4、連射によるものが1あるので、それを除くと残りは2つ。反物質コンデンサ(Antimatter condenser)を100個というものと、全施設100個以上というものなので、同時に達成できる。

いま92なので、残りはわずか8。わずか8なのだが、そのためには2京1078兆枚のクッキーが必要とされる。

CPS、一秒当たりのクッキーの生産個数は、216億枚ほど。このペースでも271時間以上要する計算だ。反物質コンデンサを購入することでCPSは若干増えるが、焼け石に水と言っていい。

このゲームのミソとも言えるのが、ひたすら自力でクッキー連打!……ではなくて、金クッキー(Golden Cookie)の存在だ。

Lucky dayとSerendipityのふたつのアップグレイドによって、75~210秒でポップするようになる。効果は4種類だが、ほとんどはFrenzyかLuckyのどちらかだ(Clicking Frenzyは自力クリックによる獲得が777倍という凄まじい効果がある。一方、Chain Cookieは最大で7兆枚ほどで最終盤ではあまりありがたみがなくなってしまう。)

Frenzyは77秒間、生産・クリックともに7倍となる。77×6=462秒分のメリット(自力クリックをすれば更に増えるが)がある。Luckyは、その時点の手持ちクッキー数の10%か、20分間の生産量か、少ない方が入手できる。手持ちクッキー数が少なければ、10%は微々たるものだが、20分間分の生産量を常にキープしておけば、20×60=1200秒分のメリットを得られることになる。

Frenzyなどの効果時間が2倍となるGet luckyのアップグレイドをずっと軽視していた。しかし、Frenzyの効果が持続中にLuckyを取ると、効果が重複することを知った。つまり、最大で20×60×7=8400秒=140分=2時間20分ぶんのメリットということになる。

Frenzyの効果時間が154秒になれば、比較的高い確率で7倍Luckyが起きる。もちろん、そのためにはCPS8400秒分のストックをキープしていなければならないが。今のわたしだと、7倍Lucky1回で181兆枚手に入る。

金クッキーがポップしたらチャイムがなるくらいのチートは欲しいところだけど、チートなしに反物質コンデンサを100個揃えようとするなら、これを狙っていくしかないよね、という話。全然簡単じゃないし。別に目新しい話でもないし。本当に今更なので、参考にもならないと思うけど。

でも、もういい加減止めた方が良いのだけどね。分かってる。分かってはいるんだ……。


2013年度「ライトノベルBESTランキング」ウェブ・アンケート

2013年09月06日 19時34分52秒 | デジタル・インターネット
ライトノベルBESTランキングウェブアンケート


今年もこの季節がやってきた。締め切りは10月10日(木)。

とはいえ、最近はまったくライトノベルを読んでいない。昨年10月以降で読んだのは、「アウトブレイク・カンパニー」「サエズリ図書館のワルツさん」「ゲート 自衛隊彼の地にて、斯く戦えり」「ビアンカ・オーバースタディ」「マグダラで眠れ」「大日本サムライガール」「RDG レッドデータガール」といったところ。今回のアンケートの対象作となるともっと少なくなるわけで。


第2回将棋電王戦と『われ敗れたり コンピュータ棋戦のすべてを語る』

2013年04月19日 04時54分44秒 | デジタル・インターネット
われ敗れたり―コンピュータ棋戦のすべてを語るわれ敗れたり―コンピュータ棋戦のすべてを語る
価格:¥ 1,365(税込)
発売日:2012-02


3月23日より毎週土曜日に開催されている第2回電王戦も残すところあと1局となった。

第2局で初めて現役プロ男性棋士がコンピュータ相手に公式戦で敗北し、続く第3局もコンピュータが勝利した。第4局は珍しい持将棋(引き分け)となり、これまでプロ側の1勝2敗1分けとなっている。最終第5局に勝てば、2勝2敗1分けと五分の結果となる。

チェスにおいて初めて世界チャンピオンにコンピュータが勝利したのは1996年(ただし、1勝3敗2分け)。チェスに比べ複雑な将棋では人間を越える強さを得るには時間が掛かると見られていた。
しかし、2005年にBonanzaが登場し、翌年の世界コンピュータ将棋選手権で初出場初優勝を飾り、その思考ルーチンのソースを公開した。これを機にBonanza系のソフトが多数開発され、それとしのぎを削るように非Bonanza系のソフトも強くなっていった。

2007年に大和証券杯ネット将棋・最強戦特別記念対局として、渡辺明竜王とBonanzaが対局。結果は竜王の勝利だったが、互角に近いものだった。
2010年清水市代女流王将と「あから2010」が対戦し、コンピュータが勝利した。
そして、2012年日本将棋連盟会長で、永世棋聖、元名人である米長邦雄が第1回電王戦でボンクラーズと対戦した。

2003年に現役引退。対局当時68歳。49歳で名人獲得最年長の記録を作ったとはいえ、将棋は若い頃の方が強いとされるもの。『われ敗れたり』には対局が決まってから、改めて将棋に取り組む様子が語られている。

対局相手が決まってからは自宅でボンクラーズと繰り返し対戦し、その強さを認めている。「矢倉の繊細な駆け引きも、相振り飛車の機敏さも、横歩取りの激しい変化も見事に指しこなします」
そして、「『自分よりもコンピュータのほうが強い』ことを認め、それを受け入れた上で戦略を練ろうと考えるにいたった」。
勝負師の言だ。

Bonanza開発者保木邦仁氏のアドバイスを元に、ボンクラーズの初手「7六歩」に対して「6二玉」で応じる策を練った。人間相手であれば奇策どころか敗着にすらなりかねない手だろう。だが、だからこそコンピュータを惑わす手でもある。

終盤の正確性については、昔からコンピュータの強さは指摘されていた。従って、いかに序盤にリードを作るかが勝敗を分ける。しかし、単に優位に立てばいいという訳ではない。コンピュータ側は自分が不利と見なせばどんどんと勝負を仕掛けてくるだろう。それをミス無く対応するのは難しい。むしろコンピュータに自分が有利と思わせることが必要と考えた。

実戦は、美濃囲いで堅く守るボンクラーズに対して、角道を開けず、飛車と玉が近い米長の陣形は良いように見えない。だが、6筋から8筋にかけての位を取り、金銀桂といった駒で押し上げ、負けない形を作り上げていた。その後いくつかの失着により、形勢が大きく傾き、ボンクラーズの鋭い終盤が光った勝負となった。

米長は自身が対局を受ける前に、将棋界トップに位置する羽生善治とコンピュータとの対局料を7億800万円と宣言した。羽生は米長に「もしもコンピュータとどうしても戦わなければならないとすれば、私はまず、人間と戦うすべての棋戦を欠場します。そして、一年かけて、対戦相手であるコンピュータを研究し、対策を立てます」と語ったという。

コンピュータとの対戦と人間との対戦は全く異なる研究・準備が必要となる。現役を引退していた米長だからしっかりと対策を練ることが出来た。しかし、現役の棋士ではそれは難しい。

そうした中での第2回電王戦は、プロにとって厳しいものとなった。初戦は阿部光瑠四段が習甦に快勝したものの、第2局で佐藤慎一四段がPonanzaに敗れた。続く第3局も船江恒平五段がツツナカに敗れ、プロは1勝2敗と窮地に立たされた。この第3局は184手に及び、形勢は二転三転した。「途中は優勢になったと思いますが、終盤逆転を許したのは自分という人間の弱さが出てしまいました」と船江はコメントを残しているが、コンピュータ相手との戦いにおける人間の精神状態のあり様も興味深い。

第4局の塚田泰明九段は元王座でA級通算7期を誇る。現在はC級1組の48歳。対する「Puella α」はボンクラーズが改名したもの。負ければプロ側の敗北が決まるという重圧の中で、塚田はコンピュータが苦手とされる入玉を目指す。これに対し、Puella αも入玉に。塚田は敗勢だったが、相手のミスに助けられ持将棋に持ち込んだ。インタビューでは涙ぐむ場面も見られた。

4月20日。三浦弘行八段とGPS将棋による最終局が行われる。三浦は現在もA級に在籍する39歳。現役トッププロの一人。GPS将棋は東京大学大学院総合文化研究科によって開発された。

電王戦を観戦したファンの声で、「ここ数週間で『コンピュータがプロ棋士相手にやれるのか』から『プロ棋士がコンピュータ相手に善戦』に変わったのが凄い」というものを見かけた。将棋界にとっても、コンピュータによる情報処理といった研究にとっても、激動の日々だったと言えるだろう。

『われ敗れたり』に掲載されている羽生の第1回電王戦の感想に、

そのうちに棋譜だけでは、指し手が人間なのかコンピュータなのか、見分けがつかなくなると予想しています。
思考のプロセスはまったく異なっているにもかかわらず、現れる選択が似ているというのは、実に驚くべきことです。
これからは、コンピュータの計算処理能力から導かれる一手を、人間の知性で理解し、同じような結論を導き出せるかを、問われるような気がしてなりません。


とある。

Bonanzaの登場は、ソフト開発者の強さがソフトの強さだった時代から、膨大な棋譜データをソフト自身が分析・評価する時代へ、そして、そうしたプログラムの合議が元となる時代へと変貌させた。コンピュータの思考を将棋を通して読み解くとも言えようか。
もちろん、棋譜データから導かれたものである以上、「完全解」などということはあり得ない。ただ、単純なロジカルではなく、大局観などの感性も含めて、人の思考を照らし出す灯りにコンピュータはなるだろう。人とコンピュータの戦いが今後どうなっていくのか、わくわくして見ていきたい。


PCトラブルの日々

2012年12月03日 19時09分54秒 | デジタル・インターネット
今回ばかりはもうダメかと思った。

現在のPCは2009年12月にドスパラで購入したもの。数ヶ月迷い続けた末の選択だったが、購入直後からトラブルが続いた。
翌年2月に早くも「PCの不調」という記事を書いたが、この時はグラボの挿し直しでなんとか解決したが、4月にも「困惑」という記事を書いた。

特に起動に関するトラブルがやっかいだった。モニターに信号入力が届かず、ビープ音が鳴る。画面が映らないだけで普通に立ち上がるケースもあれば、立ち上がらないケースもある。シャットダウン後にしばらく時間を置くと、このトラブルは発生しないが、再起動が必要な場面で再起動ができない状況だった。

また、強制終了をしなければならない場面が増えたことでハードディスクに負担を掛け、容量のこともあったが増設を繰り返すこととなった。購入時のハードディスクはまともに機能しなくなった。

それでもだましだまし使い続けていた。
しかし、ネット回線をNTTからCATVへと乗り換えることになり、それに伴ってトラブルが起きるようになった。とりわけネットが繋がらなくなると再起動させるしかなく、再起動はできないのでシャットダウンして1時間ほど待機という面倒な状況になってしまった。

そして、待ち切れずに、つい、早めに電源を入れてしまった。当然の如く、ビープ音が鳴り、モニターは映らない。Windowsが立ち上がる気配もない。更に、時間を置いて電源を入れても回復する様子がなく、手の施しようがなくなってしまった。

原因はグラボかマザボと思われた。
対策として、安いグラボの購入を考えたが、グラボが原因でなければ無駄遣いになってしまう。マザボの交換も選択肢としてはあり得るが、未経験のことなのでできるかどうか分からない。
古いPCでネットを利用できるものの、古いだけに表示に時間が掛かったりして満足に情報を集めることも困難だったりもした。

いっその事、PCを買い替えることも覚悟した。最近はPCゲームはほとんどやっていないので、ほぼネットメインなら高性能の必要はない。もう少し安定したPCが欲しいとも思う。とはいえ、安いと言ってもそれなりの出費となってしまう。

グラボの挿し直しなどいろいろと手を尽くした後、グラボのスロットがもうひとつあることに気付いた。こっちに挿してみたらどうだろう。もうそれ以外に考え付く方法がなかった。すると、あっさりとモニターに起動画面が現れた。ドライバを読み込んだ後の再起動も何の問題もなく成功した。

結局、接触不良が解決していなかったということか。




とりあえず、シリアスな問題は解決したようだ。だが、小さなトラブルはまだいくつか残っていたりする。

ネット回線への負荷を掛けることが多いためか、トラブルの原因となっている。今のところ、再起動すれば解決するようだが、大きな不安材料のひとつだ。

リソース不足も、ウィルス対策ソフトとの相性なのかいくつかのフリーソフトを使っていると起きやすいようだ。作業したデータが吹っ飛んだりする場合に備えての対策が必要だろう。こまめな保存を忘れてはならない。

原因不明な問題のひとつにマウスのサイドボタンが機能しないというものがある。コピー&ペーストを割り当てているが、この機能が使えないのは地味に不便。ドライバを入れ直したりしても改善されず、困った状況に。

PCの問題ではないが、XREAのレンタルサーバでCGIが機能していない状態が続いている。以前から、たまに接続できないことがあったが、ここしばらく掲示板にアクセスできなくなっている。

PCを酷使しているのは間違いないが、だからといってわずか3年でダウンされてはたまらない。今後もトラブル続きは変わらないだろうが、シリアスなトラブルが起きないことを祈るしかない。データのバックアップなどもしっかりしないといけないのだけど、なかなか面倒だしね。


2011年度ライトノベルBESTランキング ウェブアンケート

2011年09月03日 00時07分09秒 | デジタル・インターネット
ライトノベルBESTランキングウェブアンケート


恒例、宝島社による「ライトノベルBESTランキング ウェブアンケート」が始まった。『このライトノベルがすごい!2012』に向けてということになる。締め切りは10月4日。

私もじっくり考えて投票したい。読もうと思いつつ読んでない作品もいっぱいあるし(ー∇ー;)

実は、昨年全国共通図書カード500円が当たったりした。「このライトノベルがすごい!文庫」5作品のイラスト入りのカード。でも、このライトノベルがすごい!文庫の作品ってまだ読んだことがなかったりする(ぉぃ


善意の暴力―『検証 東日本大震災の流言・デマ』より

2011年07月04日 20時07分11秒 | デジタル・インターネット
検証 東日本大震災の流言・デマ (光文社新書)検証 東日本大震災の流言・デマ (光文社新書)
価格:¥ 777(税込)
発売日:2011-05-17


3月11日に発生した東日本大震災。それに関する流言・デマの具体例を多数取り上げつつ、その特徴と今後への展望を見出している。

1章の「注意喚起として広まる流言・デマ」では、コスモ石油流言や外国人の犯罪集団、レイプ多発といったデマの数々を取り上げている。こうした流言・デマの発生は今回に限った話ではなく、過去から何度も繰り返されている。危険喚起は必要な面もあるが、度が過ぎれば不安を煽り、人々に精神的苦痛を与えることもあるだろう。週刊誌など以前からそういったスタイルを取ってきたメディアも存在するが。

2章の「救援を促すための流言・デマ」では、ニセSOSや関電による節電よびかけチェーンメールなどが取り上げられている。
ただそれ以上に興味深かった指摘が「情報ボランティア志願者」による「災害カーニバル」である。ネット上で震災関連の情報を広めようと使命感を持っているかのような「情報ボランティア志願者」が、その情報の内容を十分に吟味することなく広めていったことが今回の震災の特徴だったのではないか。一種の「祭」状態の中で、冷静に対処することが最も大切だったように感じる。

3章の「救援を誇張する流言・デマ」では、英雄的評価や批判の集中が十分なソースの提示なしに行われていた状況を記している。ネットでは元来マスコミへの批判や不信が根強くあってそこで取り上げられていないがゆえに信憑性があると思わせる流言・デマが少なくない。今回の震災でも特に原発関連でそれは強く現れた。
こうした主張は誤解に基づいたものというより、一種の信仰のようなもので、合理的な説明があっても信じなかったりすることも少なくない。そして、自分の主張に沿わないものはすべて敵と見なしたりする傾向にある。

4章の「流言・デマの悪影響を最小化するために」では、海外での日本に対する流言・デマを取り上げながら、こうした風評被害に対峙するためにも流言への耐性を身に着けようと述べている。そして、先に書かれた『ダメ情報の見分けかた―メディアと幸福につきあうために』で述べていた情報に対する内在的チェックと外在的チェックの重要性を説いている。
更に、うわさを撒き散らす「うわさ屋」の存在に対して、そうした噂をチェックする「検証屋」が果たした役割についても言及している。ただし、「検証屋」も常に正しいわけではなく、専門分野以外については間違うこともあるし、専門分野においても絶対に間違わないわけではない。
「絶対に間違えない人を求め、その人の情報ばかりを鵜呑みにする」ことの危険性など非常に重要な指摘だろう。

序章で、「個人のリテラシーだけに頼らない」と述べている。誰もが十分な情報に対するリテラシー能力を持つことなどあり得ないし、また、十分なリテラシー能力を持っていたとしても誤まらない保証はどこにもない。専門的知識をあらゆる事象に対して持つことなど不可能だし、常に合理的な考え方をできるわけではない。
まずはその前提を共有することが大事ではないか。




インターネットを始めて15年弱、ホームページを持つようになって10年ほどになる。その間、流言・デマに振り回されたことは何度もあった。また、それを広めてしまったこともある。
それらは笑い話で済むレベルの流言・デマだったとは思う。それでも、ネットという個人が情報発信できる環境における責任のあり方には強く意識せずにいられなかった。

今回の震災では発生後しばらくはブログの記事1本を書いたのみで基本的に情報の発信は控えた。特にTwitterでは数多くの情報が流れていたが、「非常時」に責任を持って情報を流す自信はなかった。
言いたいことはあったが、遠く離れた安全な場所から批判するのは筋違いだと感じていた。重要な情報を流すために無駄な情報を流さないという判断もあった。

本書を読んで、自身の行動を振り返って妥当だったかなと感じる。ただ、他にできたこともあったかもしれない。著者のブログを始め、いくつかのサイトで震災に関する流言・デマへの検証が行われていた。協力できたかどうかは分からないが、そうした存在を知っていればまた違ったアプローチもあっただろう。
震災で様々な流言・デマが流れたというだけでなく、そこにどう関わるのかということこそが本書を読む意義だろう。流言・デマを広めたのは人々の善意による。だが、善意を免罪符にしてはならない。「非常時」にどう対応するべきかは、普段から考えておかねばならないことだろう。本書はそのための大きな助けになるものだ。




追記:

原発問題についての流言検証 / 荻上チキ


電子書籍と小説の拡張

2011年02月16日 21時14分36秒 | デジタル・インターネット
9日の記事「縦書きは滅びるか?」に頂いたコメントのやり取りから電子書籍の話題となった。電子書籍をネタに記事を書くと公言したが、その切り口がなかなか思い浮かばなかった。

昨年あたりから電子書籍元年などと騒がれ、少しずつではあるがその流れは広がってきている。私自身は現時点であえて電子書籍で読みたいと思うことはない。いま電子書籍が注目されているのは、出版サイドの論理によってだと感じるからだ。

現在流通している電子書籍はあくまでも本をデジタル化したものに過ぎない。販売が本より先行したとしても、本の代替物以上のものとはなっていない。

PCの普及、特にインターネットが広まって十数年が経過している。その間、海外での事情は知らないが、日本において、日本語の創作物において、小説を拡張しようという試みはプロアマ問わず行われてはいるが、それは圧倒的に少なく期待はずれの状況である。

唯一の例外にして成功を収めたものは『ひぐらしのなく頃に』であり、全てのプロ小説家が成し遂げられなかったことをアマチュアだった竜騎士07だけがやってのけた。
もちろん、小説の拡張はプロの作家の誰もが目指すものではない。商業的な展望が開けないことも大きな理由だろう。しかし、私の目には怠惰に映る。電子書籍は本来、作家の側から提案されるべきものではなかったか。

井上夢人による『99人の最終電車』は1996年からWeb上で発表された作品であり、ハイパーリンクを利用した小説である。
林亮介の『迷宮街クロニクル』はWebで公開された小説の書籍化だが、Web版は「はてなダイアリー」を利用して群像劇を描くという試みを通じて書かれている。

1992年サウンドノベルとして『弟切草』が発売された。脚本・監修は作家の長坂秀佳を起用している。分岐の存在など小説よりもゲームとしての特質が強い作品だが、その後のアドベンチャーゲームのあり方に大きな影響を与えた。
アダルト向けPCアドベンチャーゲームも90年代躍進したが、ビジュアルノベルとして1996年『雫』が登場し、その後『痕』『To Heart』へと展開していく。

2002年から制作され始めた『ひぐらしのなく頃に』はビジュアルノベルの系譜に位置する。ただし、選択肢はなく、この作品をゲームたらしめているのは、その内容を巡ってネット上でプレイヤーが推理し合う点にある。
ビジュアルノベルとしてPCの存在が前提になっているだけでなく、ネットの存在もまたこの作品には必須だったと言える。こうしたプレイヤーの推理が作品へとフィードバックされることも作品の本質として想定されている。

電子書籍に小説を書くことが前提となれば、音、絵、写真、動画、リンク、選択肢など様々な「小説の拡張」の可能性が存在することになる。
忌み嫌われているがドリーム小説化することも可能だろう。

このような「拡張」は小説にとって外道な存在だろうか。小説はあくまでも手法に過ぎない。これまで本という制約に縛られてきたが、その制約が別のものに取って代わるならば「拡張」は必然ではないのか。

本を電子書籍に置き換えるだけというのは出版サイドの論理である。本ではなく電子書籍に書くとするならば何ができるかという視点は作家サイドの論理になる。拡張の可能性を考えた上でそれでも拡張せずに書くことがベストだと言い切るのであればそれはその作家の下した決断として尊重したいが、今のところそこまで踏み込んだ作家の存在を知らない。

ただもう一つ、ブックリーダーの製造・販売サイドの論理もある。
現在、キンドルやiPadなどのブックリーダーが存在するが、果たして5年後10年後も現役でそれらが使えるかどうかは未知数だ。電子機器は進化のスピードが速い。特に出始めの時期はそれが顕著だ。

一度読めば二度と読まない本も少なくはない。しかし、何度も読みたい本は存在する。ブックリーダーの世代交代だけならば読み続けられる可能性は残るが、一つのフォーマットが廃止などとなれば電子書籍では読めなくなる作品も出てくるだろう。

小説の「拡張」が意味あるものとなれば、本は電子書籍の代替とはならない。ブックリーダーの製造や販売が文化を担っているという意識が乏しそうなだけに心配ではある。


敬称略

2011年02月14日 20時15分42秒 | デジタル・インターネット
例えば、スポーツ選手について語るとき呼び捨てが基本である。
テレビの実況や解説でもたいていは敬称を省いており、使っても「監督」「選手」という言葉を敬称として利用している。まれに後輩にあたる解説者が先輩にあたる選手に対して「さん」付けなどすると違和感を覚える。

スポーツを語るという行為は第三者的な立場である観客側から語る行為であり、呼び捨てにするのは対象を非日常の存在として切り離すもので、一種の神格化にあたると言えるだろう。すごいと思うからこそあえて敬称を付けない。

以前、TV番組の中でイチローが彼に声を掛ける少年ファンに「さん」を付けろと言っていたが、呼び捨てにする関係は当然対象の選手と観客が離れているからこそ成り立つもので、対話する場面ではまた別の関係となる。
日本語の常識として、「さん」や「選手」などの敬称を付けることが一般的だ。

スポーツ選手に限らず、芸能人など公的な存在に対し敬称を付けないことは多い。ただ一般紙の場合は、基本敬称付きでスポーツ選手に限って略している印象。スポーツ紙の場合はスポーツ選手及び芸能人に敬称略といった感じか。

このブログは評論・批評のつもりで書いているので原則敬称略である。作家や漫画家などに対して呼び捨てにするのは、スポーツ選手を呼び捨てにするときの心情に似通うものもある。
「かきふらい」なんて敬称を略すととても語呂の悪い名前の漫画家もいたりするわけだが、原則を曲げちゃいけないかと思っている。
とはいえ、過去ログを見たらこの原則に反している例はいくつでも見つかりそうだけれど。




Twitterは敬称略の文化を現在もキープしている。文字数の制限が主たる理由であるが、敬称略であることをTwitterの魅力であると語る人もいる。
Twitterは著名人も一般人もフラットな関係であるという理念のようなものがあり、それもまた敬称を付けない理由だろう。

ワールドカップの時にTwitterを利用したSNSがあった。試合ごとに対戦する両チームの席があり、どちらかのチームのファンとなってTwitterを繰り広げる。Twitterの歴史が浅いこともあり、ローカルルールのような感じでそこでは「さん」付けが普及していたが、違和感を覚えたものだ。
先日も広告Tweetが送られてきたときに「さん」付けされていてうわぁと仰け反ってしまった。

敬称をあえて排除する方向で書いているこのブログで意図的に敬称を多様しているのが他人様のサイト名である。GoogleやAmazonなどは敬称を付ける発想もないが、一般のサイトの名を出すときは敬称を付けている。
別に「奇想庵」を「さん」付けして欲しいと思ったりはしないのだが、むしろ「さん」を付けさせてもらうことで同じウェブ上の同志感覚を味わっているのかもしれない。「読書メーター」さんあたりになるともう敬称付ける方が失礼かと思わなくもないけれど。

ちなみに、「さん」「様」論争は昔々に見たことがある。ウェブ上はできるだけフラットであって欲しいと願う派なので、私自身は「さん」派。基本的にそこの管理人の付ける敬称に合わせておけば良さそうにも思えるけれど、特に規定していない限りは好みの問題と言っていいかも。
私が「様」を付けるのは世界でただ一人シャントット様をおいて他におりませぬが(ぉぃ


縦書きは滅びるか?

2011年02月09日 21時27分06秒 | デジタル・インターネット
Web上の日本語の文章の大半は横書きである。

一方、リアルの活字文化は今も縦書きが主流と言えるだろう。しかし、報告書などの文化と呼べない方面では横書きが当たり前になっている。新聞、雑誌、本が孤塁を守っている状況だ。

新聞や雑誌の記事が縦書きである必然性はない。実際、新聞社のニュースサイトも全て横書きだ。それで何も違和感はない。

問題は小説である。
小説だけは横書きに違和感を覚える。横書きで書かれた小説も少ないながらもあるし、それに抵抗を感じたりはしないのだけれど、モニター上で横書きに記された小説にはすんなりとは入っていけない。
これは単に慣れの問題なのだろうとは思う。

しかし、慣れだけに簡単には受け入れがたい。テキストファイルであれば縦書きで表示されるソフトもあり、それを使ってカバーは出来る。電子書籍でも縦書きで読めるものも少なくない。

日本語の書き言葉の歴史は縦書きだったからなんて大仰なことを言うつもりはない。ただ縦書きで書かれたものは縦書きで読むのが筋ではないかと思う。
特に小説の場合、著者は時に物語の内容だけでなくその見栄えにさえ気を使う。

印刷されたものであれば、縦書きも横書きも変わらないと思う人もいるだろう。すべての書き手がそうだと言うつもりはないが、書き手にとっては縦書きと横書きは大いに違うものだと思う。

文章という表現手段を取る者にとって、中身だけでなく外見も大切だ。現実には様々な制約があり、著者の思い通りになる部分は多くはない。そこまで気を使う作家ばかりでもない。

将来、小説を横書きで読むことにまったく抵抗のない世代が増えることは間違いない。機能として縦書きで読めても、その機能を使わずに電子書籍が読まれることになるだろう。
それでも、縦書きで書こうという書き手、縦書きで読んでもらいたいと思う書き手がいる限りは滅びないと信じたい。
そんな書き手が減っていくことも時代の流れなのだろうけれど。

過去に書かれたものは縦書きで読んでこそ書き手の想いが伝わると思うのはただの感傷に過ぎないのだろうか。