記事タイトルで「エンターテイメントの本質」とぶち上げたが、要は面白いかどうかに過ぎない。
エンターテイメント作品において、面白いということは最も重要な基準である。もちろん受け手側によって面白く感じる部分が異なるため、絶対的な評価にはなりにくいのも事実だ。
面白さを評価・批評する場合、作品のテーマ、演出、構成、設定、表現、キャラクターなどを取り出して論評することが可能である。これらは本来非エンターテイメントの芸術性を志向した作品の論述に使われ、開発された概念だ。それをエンターテイメントに援用している。
だが、エンターテイメントを語る際に、これらの言葉だけでは不十分なことが多々ある。問題は、エンターテイメント独自の要素を語る言葉がない点だ。
例えば、漫画「北斗の拳」を例に挙げよう。
表現には効果音の使い方など非常に独自性が見られる作品だが、力を重視するテーマ性は低く、週刊連載を重視しているため構成などは完全に崩壊している。演出も同じようなパターンの繰り返しだし、キャラクターだって決してオリジナリティがあるわけではない。設定も当時ですらありがちだった。
それでも、高い人気を得たのは周知の事実である。
漫画の場合、絵の力が物語性の欠点を覆い隠すことも多いが、作画だけでこれだけ支持されたとも言い切れない。決してよくできた話でもないのに、多くの人が面白いと感じた理由は、実は説明できない。それは適切な言葉がないからだ。読み手が感じた迫力や熱さを評論の言語に転換できないため、感想レベルの言葉でしか表現できない。
言葉は有限である。それに対し感情はアナログなものだ。そのアナログをデジタルな言葉で切り取ることでしか人は表現できない。当然、掬い残された感情がある。もちろん人によって表現力は異なるが、どれほどの表現力を持とうが全てを正確に表現することは不可能だ。特に一般に通用する言語が存在しないものを表現するのはその一部ですら難しいことだ。
「萌え」という言葉が広まったのも、こうした表現できない感情を伝えるための努力の成果である。これまで伝えられなかった面白さの一つの基準をこの言葉によって言語化し、共通の理念として浸透することができるようにした。
岡田斗志夫が提唱した「バカマンガ」という概念も、「北斗の拳」などの作品を評価するための新たな基準として必要だから生み出されたが、残念ながらいまだ一般化するには至っていない。
ゲーム「スーパーマリオブラザース」はファミコン版であれ、その後の作品であれ、非常に面白いゲームとして高い評価を受けている。しかし、その面白さをきちんと言葉で説明せよと言われれば困難だと分かるだろう。操作性の良さやキャラクターのかわいらしさ、音楽など周辺を個別に評価することは出来ても、プレイしている時の心地よさ、楽しさを言語化するのは難しい。
ゲームの批評はその歴史の短さもあり、他のエンターテイメントから譲り受けた批評言語以上のものをほとんど持っていない。だが、他のエンターテイメントとの差異は大きく、そのため物語性などを除くゲーム性に対して批評するための言語を有していない。
言語化されていない感情はよほど強烈なものを除いて記憶に留まりにくい。更に人は言語化されないものよりも言語化されるものを高尚なものとみなす傾向がある。文学が常に文芸よりも上とされるのは洋の東西を問わず普遍的なことだ。もちろん人を楽しませることを目的とした文芸の方が質の低い作品が多くなる傾向は間違いないのも事実だが。
こうしたことから、言語化されない面白さを持った作品は不当に低く評価される傾向がある。一世を風靡した作品でも、子供向けとして切り捨てられたりすることが多い。
漫画としてもアニメとしてもその人気で五指に入るであろう作品に「ドラゴンボール」がある。日本国内に留まらずヨーロッパなどでも高い人気を得ている作品だが、なぜドラゴンボールがこれほど受けるのかを適切に表現したものを見たことはない。
構成は他の週刊連載の作品同様、どうしてもその場重視になってしまいよく出来ているとは言えない。設定もあとづけ的なものも目立ち、何より死んでも生き返るというある意味なんでもありで普通なら受け入れにくいものだ。キャラクターもそれほどオリジナリティが目立つわけでもない。漫画としては演出や表現に鳥山明の持つ独自性、表現力の高さが生かされているが、アニメも受けたことを考えるとそれはあくまでもこの作品の一部への評価に過ぎない。
テーマも少年ジャンプ掲載作品として、また少年マンガとして普遍的なものであり、よく似た内容の作品はごまんとある中で、なぜドラゴンボールだけがこれほどヒットしたのか説明はつかない。
非常に強く支持された「ドラゴンボール」ではあるが、アニメや漫画の評論の場で語られることはめったにない。全てがとは言わないまでも、とても面白い作品だったことは多くの者が認めると思われるが、評論のメインストリームでは取り上げられない。単純に語る言葉がないからだ。だが、それは批評レベルでは作品の評価を下げることでもある。
批評や評論する側からすれば、論評できない作品の価値は当然減じられる。ネットの普及もあって、一億総評論家時代においてはそれは単なる一部の評価ではない。
繰り返すが、言語化しえない面白さを含んだ作品は正当に評価されにくい。エンターテイメントの作品の中でも、論評できる要素を含む作品が批評され評論されて価値を見出される。
このことは多くのエンターテイメントの送り手にとっても自明のことだ。しかし、評価されやすいことは決して重要事ではない。
エンターテイメントは基本的に早く大量に生産されている。そのほとんどは世に出たあと一瞬のうちに消えると言っても過言ではない。一方、論評される要素を含む作品は大量生産に向かない。そのため、非言語的面白さの追求に走る一部の例外を除くと、大半は過去のフォーマットの範囲内に語られそうな要素を組み込んで作品を提供している。
浅薄でも語る内容があれば評価されるのも事実だからだ。エンターテイメントの対象となる年齢は若者が多く、使い古されたテーマでも新鮮に感じたり、経験・知識の乏しさや思考力の低さがこれらを支えていたりする。
スタージョンの法則を真に受けるならば、エンターテイメントの90%もクズであり、上質の一部の作品を除けば粗製濫造されたものということだ。
アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」は毀誉褒貶はあるものの上質のエンターテイメントであることは間違いない。多くの者を魅了した作品だが、作り手である庵野秀明はもともと非言語的面白さを描くタイプのアニメ作家だった。その彼が意図的に言語的要素を組み込んで作られたものがエヴァである。
非言語的な面白さは通常作り手と読み手との共感を形成する。これがファンの支持に繋がっていく。対して、言語的な部分を強化することは、作り手と読み手の対話を意味し、それは時には論争にまで発展する。エヴァの場合、放送開始当初は圧倒的な支持があったのに、徐々に監督とファンの相互批判へと至ることとなった。テーマ性の強い作品がリアルタイムに、しかも反応を見ながら作られるという稀有な例だったこともあり、非常に特殊な作品となったが、この作品を下支えした言語化できない面白さは語られることは少ないが非常に優れたものだった。
これまで述べたように、非言語的面白さの存在を明確に自覚してエンターテイメントを評論することは大切だ。その視点のない批評は読む価値がないと言ってもいい。エンターテイメントの本質が面白さである以上、言語化できる要素以上に評価すべきことと言ってもいいかもしれない。
だが、批評する立場のスタンスとして、あえて言語化できる要素を上位に置く。これはエンターテイメント評論のあるべき姿に対して、異なる場所に立つということだ。もちろん非言語的面白さを無視するものではない。その視点を有して尚、求める面白さに異を唱えているわけだ。
この記事を書く原因は、過去何度か批評しているビジュアルノベル「Fate/stay night」である。この作品は過去に述べたように、面白いものの批評レベルでは低い評価となる。つまり、言語化できない面白さは非常に高いレベルにあるが、言語化できる要素は評価が低いわけだ。
そして、面白さという絶対基準を導入するならば、この作品は高く評価できるということになる。しかし、前述したように、あえて評価基準を言語化できる部分優位にしている私からすれば、その欠点の方が目に付いてしまう。
奈須きのこについて言えば、他の作品(月姫、空の境界)を読んでいないし、ビジュアルノベルという制約があることを前提しても、評価できない部分が強く印象付けられてしまった。何度も言うように、非言語的面白さは優れている。その上で、テーマを描く挑戦をしているように見える。それは決して既存のフォーマットに頼ったものではなく、言語化できる面白さを組み込むための努力であり、その志しは高く評価できる。ところが、その試みは無残にも失敗している。その試みはこの作品にプラスに働いたとは思えない。
特に評価しえない部分は、作者がどこまで考えてこの状態で世に出したのかという点である。確かに下手にいじることで、非言語的面白さを消してしまう懸念はあっただろう。言語的な要素が破綻していても非言語的面白さには影響しないし、時には意図的に破綻させるケースだってあるから、狙って行うのなら作者の力量を示すものだが、さすがにこれは違う。
面白さを減じさせずにもう少しマシな展開を描くことはできそうだが、それに気付いていなかったのか、このままでいいと思ったのか、出来なかったのかがよく分からない。そこがこの作家を信用できない理由となっている。
時代が生み出す作品というものがある。1995年頃の「エヴァ」や2000年頃の「ガンパレ」はヒットの規模は違うが、その時代を背景に支持された作品だ。時代の言説とシンクロする只中で、その作品を語ることの悦楽は極上のものだ。私があえて言語化できる点を評価するのは、それを求めてのことであり、例えヒット作でもその要素が乏しいと辛口になってしまう。
エンターテイメントに対する評価法としては真っ当なものではないのは自覚している。それでも、なお。上質のエンターテイメントの中で、更に奇跡的に現れる存在に出会うために。
エンターテイメント作品において、面白いということは最も重要な基準である。もちろん受け手側によって面白く感じる部分が異なるため、絶対的な評価にはなりにくいのも事実だ。
面白さを評価・批評する場合、作品のテーマ、演出、構成、設定、表現、キャラクターなどを取り出して論評することが可能である。これらは本来非エンターテイメントの芸術性を志向した作品の論述に使われ、開発された概念だ。それをエンターテイメントに援用している。
だが、エンターテイメントを語る際に、これらの言葉だけでは不十分なことが多々ある。問題は、エンターテイメント独自の要素を語る言葉がない点だ。
例えば、漫画「北斗の拳」を例に挙げよう。
表現には効果音の使い方など非常に独自性が見られる作品だが、力を重視するテーマ性は低く、週刊連載を重視しているため構成などは完全に崩壊している。演出も同じようなパターンの繰り返しだし、キャラクターだって決してオリジナリティがあるわけではない。設定も当時ですらありがちだった。
それでも、高い人気を得たのは周知の事実である。
漫画の場合、絵の力が物語性の欠点を覆い隠すことも多いが、作画だけでこれだけ支持されたとも言い切れない。決してよくできた話でもないのに、多くの人が面白いと感じた理由は、実は説明できない。それは適切な言葉がないからだ。読み手が感じた迫力や熱さを評論の言語に転換できないため、感想レベルの言葉でしか表現できない。
言葉は有限である。それに対し感情はアナログなものだ。そのアナログをデジタルな言葉で切り取ることでしか人は表現できない。当然、掬い残された感情がある。もちろん人によって表現力は異なるが、どれほどの表現力を持とうが全てを正確に表現することは不可能だ。特に一般に通用する言語が存在しないものを表現するのはその一部ですら難しいことだ。
「萌え」という言葉が広まったのも、こうした表現できない感情を伝えるための努力の成果である。これまで伝えられなかった面白さの一つの基準をこの言葉によって言語化し、共通の理念として浸透することができるようにした。
岡田斗志夫が提唱した「バカマンガ」という概念も、「北斗の拳」などの作品を評価するための新たな基準として必要だから生み出されたが、残念ながらいまだ一般化するには至っていない。
ゲーム「スーパーマリオブラザース」はファミコン版であれ、その後の作品であれ、非常に面白いゲームとして高い評価を受けている。しかし、その面白さをきちんと言葉で説明せよと言われれば困難だと分かるだろう。操作性の良さやキャラクターのかわいらしさ、音楽など周辺を個別に評価することは出来ても、プレイしている時の心地よさ、楽しさを言語化するのは難しい。
ゲームの批評はその歴史の短さもあり、他のエンターテイメントから譲り受けた批評言語以上のものをほとんど持っていない。だが、他のエンターテイメントとの差異は大きく、そのため物語性などを除くゲーム性に対して批評するための言語を有していない。
言語化されていない感情はよほど強烈なものを除いて記憶に留まりにくい。更に人は言語化されないものよりも言語化されるものを高尚なものとみなす傾向がある。文学が常に文芸よりも上とされるのは洋の東西を問わず普遍的なことだ。もちろん人を楽しませることを目的とした文芸の方が質の低い作品が多くなる傾向は間違いないのも事実だが。
こうしたことから、言語化されない面白さを持った作品は不当に低く評価される傾向がある。一世を風靡した作品でも、子供向けとして切り捨てられたりすることが多い。
漫画としてもアニメとしてもその人気で五指に入るであろう作品に「ドラゴンボール」がある。日本国内に留まらずヨーロッパなどでも高い人気を得ている作品だが、なぜドラゴンボールがこれほど受けるのかを適切に表現したものを見たことはない。
構成は他の週刊連載の作品同様、どうしてもその場重視になってしまいよく出来ているとは言えない。設定もあとづけ的なものも目立ち、何より死んでも生き返るというある意味なんでもありで普通なら受け入れにくいものだ。キャラクターもそれほどオリジナリティが目立つわけでもない。漫画としては演出や表現に鳥山明の持つ独自性、表現力の高さが生かされているが、アニメも受けたことを考えるとそれはあくまでもこの作品の一部への評価に過ぎない。
テーマも少年ジャンプ掲載作品として、また少年マンガとして普遍的なものであり、よく似た内容の作品はごまんとある中で、なぜドラゴンボールだけがこれほどヒットしたのか説明はつかない。
非常に強く支持された「ドラゴンボール」ではあるが、アニメや漫画の評論の場で語られることはめったにない。全てがとは言わないまでも、とても面白い作品だったことは多くの者が認めると思われるが、評論のメインストリームでは取り上げられない。単純に語る言葉がないからだ。だが、それは批評レベルでは作品の評価を下げることでもある。
批評や評論する側からすれば、論評できない作品の価値は当然減じられる。ネットの普及もあって、一億総評論家時代においてはそれは単なる一部の評価ではない。
繰り返すが、言語化しえない面白さを含んだ作品は正当に評価されにくい。エンターテイメントの作品の中でも、論評できる要素を含む作品が批評され評論されて価値を見出される。
このことは多くのエンターテイメントの送り手にとっても自明のことだ。しかし、評価されやすいことは決して重要事ではない。
エンターテイメントは基本的に早く大量に生産されている。そのほとんどは世に出たあと一瞬のうちに消えると言っても過言ではない。一方、論評される要素を含む作品は大量生産に向かない。そのため、非言語的面白さの追求に走る一部の例外を除くと、大半は過去のフォーマットの範囲内に語られそうな要素を組み込んで作品を提供している。
浅薄でも語る内容があれば評価されるのも事実だからだ。エンターテイメントの対象となる年齢は若者が多く、使い古されたテーマでも新鮮に感じたり、経験・知識の乏しさや思考力の低さがこれらを支えていたりする。
スタージョンの法則を真に受けるならば、エンターテイメントの90%もクズであり、上質の一部の作品を除けば粗製濫造されたものということだ。
アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」は毀誉褒貶はあるものの上質のエンターテイメントであることは間違いない。多くの者を魅了した作品だが、作り手である庵野秀明はもともと非言語的面白さを描くタイプのアニメ作家だった。その彼が意図的に言語的要素を組み込んで作られたものがエヴァである。
非言語的な面白さは通常作り手と読み手との共感を形成する。これがファンの支持に繋がっていく。対して、言語的な部分を強化することは、作り手と読み手の対話を意味し、それは時には論争にまで発展する。エヴァの場合、放送開始当初は圧倒的な支持があったのに、徐々に監督とファンの相互批判へと至ることとなった。テーマ性の強い作品がリアルタイムに、しかも反応を見ながら作られるという稀有な例だったこともあり、非常に特殊な作品となったが、この作品を下支えした言語化できない面白さは語られることは少ないが非常に優れたものだった。
これまで述べたように、非言語的面白さの存在を明確に自覚してエンターテイメントを評論することは大切だ。その視点のない批評は読む価値がないと言ってもいい。エンターテイメントの本質が面白さである以上、言語化できる要素以上に評価すべきことと言ってもいいかもしれない。
だが、批評する立場のスタンスとして、あえて言語化できる要素を上位に置く。これはエンターテイメント評論のあるべき姿に対して、異なる場所に立つということだ。もちろん非言語的面白さを無視するものではない。その視点を有して尚、求める面白さに異を唱えているわけだ。
この記事を書く原因は、過去何度か批評しているビジュアルノベル「Fate/stay night」である。この作品は過去に述べたように、面白いものの批評レベルでは低い評価となる。つまり、言語化できない面白さは非常に高いレベルにあるが、言語化できる要素は評価が低いわけだ。
そして、面白さという絶対基準を導入するならば、この作品は高く評価できるということになる。しかし、前述したように、あえて評価基準を言語化できる部分優位にしている私からすれば、その欠点の方が目に付いてしまう。
奈須きのこについて言えば、他の作品(月姫、空の境界)を読んでいないし、ビジュアルノベルという制約があることを前提しても、評価できない部分が強く印象付けられてしまった。何度も言うように、非言語的面白さは優れている。その上で、テーマを描く挑戦をしているように見える。それは決して既存のフォーマットに頼ったものではなく、言語化できる面白さを組み込むための努力であり、その志しは高く評価できる。ところが、その試みは無残にも失敗している。その試みはこの作品にプラスに働いたとは思えない。
特に評価しえない部分は、作者がどこまで考えてこの状態で世に出したのかという点である。確かに下手にいじることで、非言語的面白さを消してしまう懸念はあっただろう。言語的な要素が破綻していても非言語的面白さには影響しないし、時には意図的に破綻させるケースだってあるから、狙って行うのなら作者の力量を示すものだが、さすがにこれは違う。
面白さを減じさせずにもう少しマシな展開を描くことはできそうだが、それに気付いていなかったのか、このままでいいと思ったのか、出来なかったのかがよく分からない。そこがこの作家を信用できない理由となっている。
時代が生み出す作品というものがある。1995年頃の「エヴァ」や2000年頃の「ガンパレ」はヒットの規模は違うが、その時代を背景に支持された作品だ。時代の言説とシンクロする只中で、その作品を語ることの悦楽は極上のものだ。私があえて言語化できる点を評価するのは、それを求めてのことであり、例えヒット作でもその要素が乏しいと辛口になってしまう。
エンターテイメントに対する評価法としては真っ当なものではないのは自覚している。それでも、なお。上質のエンターテイメントの中で、更に奇跡的に現れる存在に出会うために。
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