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2011.09.27 つぶやきし言の葉

2011年09月28日 02時15分12秒 | Twitter



美しさとは。パート2

2011年09月28日 00時02分20秒 | 創作
昨日の記事の続き。

作り手が表現するとき、作り手の中の美醜の感覚がにじみ出る。己の中の美しさを伝えようという思いが物語を生む力と言ってもいいだろう。もちろん、意識的かどうかは問わずに。

昨日の記事の引用を繰り返す。

ファンタジーは、善悪の違いを教えるだけでなく、むしろ真偽の見え方を教える。それ以上に美醜の基準、フェアネスのありかを示す。


美醜の基準を示すのがファンタジーとあるが、物語全般に言えることだ。ただたいていの作品はすでにある基準に沿うものであり、作り手が意識的に基準を描こうという姿勢が感じられなかったりする。

エンターテイメントであれ、芸術作品であれ、物語ろうとすればするほど作り手の美醜の感覚が作品に色濃く反映される。
逆に物語と隔絶した表現であれば、作り手の美醜の感覚が作品に反映されずに済む。しかし、現実にはそれは非常に困難な道だ。フラクタルを描いた動画の美しさは確かに作り手の社会的美醜感覚とは隔絶している。絵画や写真などは、そのものの美のみだけでなく社会的美醜が内包される場合が出て来る。背景としての物語性から隔絶することは作り手にとっても受け手にとっても難しいことだ。

美醜の感覚を語ること、他人の美醜の感覚を知ることが大切と昨日述べたが、一方でそうした物語性自体への懐疑もわれわれは持つようになった。現代においても世界では社会的美醜への感覚は伝統的宗教観に根付くものが多い。西洋では、それへの懐疑から意識的に美醜の感覚を研ぎ澄ます必要があった。
日本ではそうした宗教性の薄さが、物語を生み出したり、語りたいという欲求に繋がっているのかもしれない。オリジナリティはともかく、創作意欲が高かったり、ネットで表現する量的な面で日本はかなり突出しているようにも感じる。

社会的な美醜の感覚の違いは軋轢を生む。世界がグローバル化して美醜の感覚での少数派が虐げられていると感じてしまう機会が増えている。社会の多様性を保てるかどうかという問題の本質に位置していると言ってもいいだろう。

その中で、作り手の美醜の感覚を極力排除した作品を作る意味はなんだろう。エンターテイメントにおいて、ライトであるというのは武器になる。物語性を排除することで作品をライトにする価値はある。ただそんな息抜き的評価しか与えられないものなのか?

物語性を排除して、そのものの美を追求することは高尚な芸術だけではなく、もっと一般的な感覚ではある。例えばスポーツ観戦でも応援するチームの勝利や活躍を求めるという物語性ではなく、プレーそのものも美しさに感動することがあるだろう。

物語性を排除すること。その先にあるのは日常の断片である。社会的美醜の感覚に引きずられることなく日常の価値を見出すことができるなら、美醜の感覚の対立にかかわらず人と人が繋がることができるのではないか。

とはいえ、そうした日常性を描き出すこともまた作り手の美醜観に依るものと言える。また、美醜の基準を示す意義についてももっと深く考えねばならない。美醜観と創作については今後も語りたいテーマだ。