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美しさとは。パート2

2011年09月28日 00時02分20秒 | 創作
昨日の記事の続き。

作り手が表現するとき、作り手の中の美醜の感覚がにじみ出る。己の中の美しさを伝えようという思いが物語を生む力と言ってもいいだろう。もちろん、意識的かどうかは問わずに。

昨日の記事の引用を繰り返す。

ファンタジーは、善悪の違いを教えるだけでなく、むしろ真偽の見え方を教える。それ以上に美醜の基準、フェアネスのありかを示す。


美醜の基準を示すのがファンタジーとあるが、物語全般に言えることだ。ただたいていの作品はすでにある基準に沿うものであり、作り手が意識的に基準を描こうという姿勢が感じられなかったりする。

エンターテイメントであれ、芸術作品であれ、物語ろうとすればするほど作り手の美醜の感覚が作品に色濃く反映される。
逆に物語と隔絶した表現であれば、作り手の美醜の感覚が作品に反映されずに済む。しかし、現実にはそれは非常に困難な道だ。フラクタルを描いた動画の美しさは確かに作り手の社会的美醜感覚とは隔絶している。絵画や写真などは、そのものの美のみだけでなく社会的美醜が内包される場合が出て来る。背景としての物語性から隔絶することは作り手にとっても受け手にとっても難しいことだ。

美醜の感覚を語ること、他人の美醜の感覚を知ることが大切と昨日述べたが、一方でそうした物語性自体への懐疑もわれわれは持つようになった。現代においても世界では社会的美醜への感覚は伝統的宗教観に根付くものが多い。西洋では、それへの懐疑から意識的に美醜の感覚を研ぎ澄ます必要があった。
日本ではそうした宗教性の薄さが、物語を生み出したり、語りたいという欲求に繋がっているのかもしれない。オリジナリティはともかく、創作意欲が高かったり、ネットで表現する量的な面で日本はかなり突出しているようにも感じる。

社会的な美醜の感覚の違いは軋轢を生む。世界がグローバル化して美醜の感覚での少数派が虐げられていると感じてしまう機会が増えている。社会の多様性を保てるかどうかという問題の本質に位置していると言ってもいいだろう。

その中で、作り手の美醜の感覚を極力排除した作品を作る意味はなんだろう。エンターテイメントにおいて、ライトであるというのは武器になる。物語性を排除することで作品をライトにする価値はある。ただそんな息抜き的評価しか与えられないものなのか?

物語性を排除して、そのものの美を追求することは高尚な芸術だけではなく、もっと一般的な感覚ではある。例えばスポーツ観戦でも応援するチームの勝利や活躍を求めるという物語性ではなく、プレーそのものも美しさに感動することがあるだろう。

物語性を排除すること。その先にあるのは日常の断片である。社会的美醜の感覚に引きずられることなく日常の価値を見出すことができるなら、美醜の感覚の対立にかかわらず人と人が繋がることができるのではないか。

とはいえ、そうした日常性を描き出すこともまた作り手の美醜観に依るものと言える。また、美醜の基準を示す意義についてももっと深く考えねばならない。美醜観と創作については今後も語りたいテーマだ。


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4 コメント

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寄天様、ご無沙汰しております。 (名無し)
2011-09-30 10:37:27
回線を変えてみたら、凄まじく接続速度が変わって驚いています(苦笑)。

>事物の美醜について
人間の価値観の積み重ねの上にある「美」の基準が曖昧でも、一旦場を与えられれば、そこに立脚するパターンとしての「美」はありますしね。
少し違うのですが、廃墟についての美しさなども同様であると思います。モチーフとしては中世以降から存在した荒廃した環境を「美」とする基準は、単に寂寥感を強調するためだけでなく、人間が否応なく「変化する世界」について考えている、という事だったのでしょうし、そうしたものがロマン主義以外の部分からも美の基準になったりしているのは面白いなあ、と。
より後年、というか現代、ジャンルの細分化でエロ/グロ/ナンセンスにまで細かく差別化された「美しさ」の基準はありますが、人間がそれを美しいと思える状況が存在するのは、単に「パターンの積み重ね」以上の物があると思っています。
と、こう書いていてちょっと思い出したのですが、自分の好きな写真家は、ある瞬間、ある事件を切り取る、といったテーマ性よりも、事物を絵画のように切り出す、というタイプの人なのですが、事象を捉えた瞬間のロマンチシズム(英雄的なそれ)よりも、情景そのものが人間に与える情感を重視していました。加工もできる写真という媒体で絵画的に撮る、ということにどんな意味があるかというと、やはりそれは「写真という前提としてのフレーム」、という条件で成り立っている美術なんだな、と。

物語であれば、その構造が伝える事柄(文脈、或いはストーリーが肯定するあらゆる思想、もしくは否定する思想)全てが美の基準であると思いますし、それを肯定できることも、絶対に無理だと感じることも、やはり相対的なものだと思います。
音楽だとデスメタルやハードコアが昔から好きなのですが、家族や知人にはまず理解して貰えてませんしね(苦笑)。
未読ですが、ログ・ホライズンのそれは、美に限らず、宗教的戒律にも、社会的制約の肯定にも言える事ではあるでしょうね。後は地政学的な条件のどの上に乗った感覚なのか、という違いだけで。
ローカルなパターンの集積がより上位のパターンに食い込む、食い込まないは別として、社会がどこかにコミットすることでしか情報を降ろしてくれないのなら、「自分の主張を持つ」とまで言わなくても、包括的な指針となる理解だけは持っていたいな、と思います。

まとまらないままのコメントすみません。丁度似たような事を考えていたので、思わずレスしてしまいました(苦笑)。
これからも楽しみにしていますね。

PS:
ログ・ホライズン、SAOが行けそうなら大丈夫な感じでしょうか?
まおゆうはちょっと合わない部分もあったので(苦笑)。
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>回線を変えてみたら、凄まじく接続速度が変わっ... (奇天)
2011-09-30 21:26:24
先日読んだ「セックスメディア30年史」でテレホーダイ時代の話が出て来て懐かしく感じましたw
当時と比べると本当に雲泥の差になったなあと思います。まあ回線速度だけじゃないですけど。

>美醜

個々の美醜の基準は社会的に育まれるものですので厳密に区別することは難しいのですが、そのものの美と意味づけられた美に分けられるのではないかと思います。

写真や絵画の場合でも、背景を知らずともただそれを見るだけで美を感じる作品もあれば、様々な背景を知ることで深く美を感じる作品もあると思います。

現代の風潮として前者に対しても後者の意味づけをしすぎるように感じています。「あるがまま」を受け入れるのではなく、そこに解釈を加えて「分かった」気になって安心するような。
分かろうという努力は良いと思いますが、分かりやすい図式に当て嵌めてしまっています。日本だけではないと思いますが。

音楽でもそうですが、理屈にならない良さは理屈にならないから良かったりします。他人に伝えることは困難ですけどw

社会性を伴う美意識の場合はむしろ言語化によって生まれたものだと思いますので伝えることは可能です。ただ他人との整合性を求める場合、絶対的な判断基準がないため、社会的多数派が優位を占めるという形が一般的だと思います。
ただあらゆる美意識に対し多数派であり続けることは難しく、時に少数派に回るため疎外を生むのは必然となります。

先祖の霊など存在しないという科学的立場と、先祖の霊を敬い祀る立場を比べた場合、いまだ多くの日本人が後者を美しく感じると思います。これを単純に合理的でないと批難しても意味があるとは思えません。一方で、宗教色が強くなり過ぎると、いまの日本人の多くは美しさよりも醜さを感じるかもしれません。
時代の心性のようなものがその時代の社会を規定する形です。ただその心性が客観的あるいは道徳的に正しいと限らないわけですが、「時代の空気」に左右され過ぎな状況が今の日本で生まれているようにも思います。

美醜の基準を意識化したうえでどう向き合うのか。物語にどう関わり、それをどう評価するのか。私自身まだ全然イメージとしてつかめていない感じなので、このブログの記事でも(このコメントのレスでも)まとまった内容になってませんが。

>ログ・ホライズン

私も「まおゆう」はWeb版をさわりだけ読んだのですがちょっと合わない感じでした。ちゃんと読めばまた違うのかもしれませんが。
「ログ・ホライズン」の方は普通の小説っぽくて読みにくさは感じませんでした。まあ2巻はRPGの設定はどこ行った?って気もしましたが、許せる範囲ってとこでしょうか(笑)
返信する
けして「檄速!」みたいな速度ではないのですが、... (名無し)
2011-10-01 17:49:56
テレホーダイの時代、というのも今や遠いですけれど、初期のネットの話を聞いたり、それを扱った漫画を読んだりすると、拘りのある人しかネット(パソコン通信)はやれなかったんだな、と驚いたりしますw

>意味付け
何かについてラベリングすることで、外部へのアクセスを制約されるのと同時に、内部に向けて増幅される面は結構ありますね。
「これはパイプです」ではありませんがw、ある指向性を付加されると、「そのように見る」という条件が提示されてしまうので(リンゴを描いたのか、リンゴについての何かを描いたのか、とか)。

絵画であれば、生得的な、色彩感覚だけで美しい、と思えるような強さでない場合、やはり社会的な条件は強くなりますね。
ある種のアートの基準は、例えば小説のジャンルの巧緻に通じる部分があると思います。ミステリで言えばそれはトリックの複雑さ(傍目にはシンプルな方が良い場合もある)や、極度なメタ構造などですね。
音楽の場合もデスメタルはまだ爽快感の追求や暴れやすさなどでわかりやすいのですが、現代音楽になってくると、ケージなどは明らかに音楽理論の方に比重が傾く(スノッブ的な意識が首をもたげる)ので、こういうのは丁度いい例かなと(苦笑)。

最近、ここ数年の、ハイファンタジー小説の(とりあえずは市場に出てくる)少なさについて考えていたのですが、これなんかは、あるハイファンタジー作品があったとして、その他ハイファンタジーと差別化しづらい=売れない、出さない、という前提が出来てしまっているのかな、などと思ったりしました。
ライトノベルなどでは顕著ですが、尖った要素を持ち込むことでしか他の作品と差別化できない、アピールできない、という状況が既に確立されてしまってるのかな、と。
勿論アイディア勝負の作品ばかりではありませんけど、ハイファンタジーという、厳密な世界観を重視する世界を描く場合、どうしてもアピールポイントが出てこないのは、「~ファンタジー」というラベルが付けづらいからなのかもしれません(「純粋」であることを求められるジャンルだからこそ)。
ゲド戦記は完成度において突出していたのは確かだと思いますが、仮に現代、同じテイストの作品を提示できる作者がいるか、というと、これは既にジャンルの大御所となっている作家にしかできないのではないかな、などと思ったりします。流行廃りと言ってしまえばそれまでですが、こういうのは日本だと顕著でないかなと。
というより、これは根本的な部分なのですが、作家の特徴や特性を「特別」にしているのはどこなんだろう、というのは今更乍らに意識してしまったりします。プロの文章は素人のそれとは違いますが、それはセンテンスごとに決定付けられるものではなく、文脈に沿ってこそ生まれる「特別」で、例えばオーソドックスに面白い初期の宮部みゆきを「特別」にしているのは、一体どこなんだろう、とか(苦笑)。
村上春樹くらい特徴がどぎついと、センテンスだけで「特別」だと思ってしまうのですけど、絵画(色彩や構図)や音楽(リフの作り方や構成)に比べて、文章の艶はどこで生まれているのか解り辛いのかもしれない、などと。

>ろぐほら
結構変わった構成みたいですねw
まおゆうは、スレッドでの提示という点で、ああいう形式を取らざるを得なかったんだろう、とは思っていますが、やっぱり読みづらいです(苦笑)。
返信する
私のネットデビュー(笑)は97年なのでパソ通には憧... (奇天)
2011-10-02 21:45:04
電話回線→ADSL→光と替えていきましたが、すぐにその速度が当たり前になってしまうのが人の性なんですよね。

>美

なにを美しく感じるかは個人的な差異が存在するとはいえ、社会的な制約によって形成されている面が大きいです。
分かりやすい例が、「美人」の感覚で、個人個人で感覚に差があってもおおよその傾向は存在します。しかし、地域や時代によってその傾向は大きく異なり、江戸時代の美人と現代の美人では相当の差が生まれています。

美的感覚は社会によって教育されて身に付くものと言えますが、中でも言語化される社会的美醜は様々な形で為政者によって有利となるような教育が行われます。
最近ブログで取り上げた事例で言えば、日本人の羞恥心の変化が代表的です。江戸時代まで日本人の大半が自分の裸体をさらすことに羞恥心を感じていなかったわけですが、その慣習を恥ずかしいものだと日本にやってきた西洋人に指摘され、それに応える形で為政者による「教育」が施され、その結果として現代と同様の羞恥心が身についたわけです。

為政者による「教育」はこのように見えやすい形だけでなく巧妙に仕組まれたものもあります。一方、この「教育」は為政者の思惑を超えて暴走することもあります。
また、このような「教育」に対抗する手段もまた「教育(学問を身に付けること)」だったりもします。

夕焼け空を美しく感じる気持ちと原発を醜く感じる気持ち。それらの美醜の基準がどう形成されるのか。こうした基準は決して普遍的なものではなく、様々な要因によって形作られています。
こうした基準の多くは論理的に見直すこともできます。しかし、それは面倒なことであり、普通に生きる分には他人と同じ基準でいることが楽です。
TVでここが笑うところですと教えられたり、コメンテーターがこう感じればいいですよと言ってくれたりする方が楽だから。日々の生活の中でいちいち美醜の基準になんて構っていられないのは確かです。

一方で、人は自分の美醜の基準を肯定して欲しいという願望を持っています。表現の仕方や願望の表し方は人それぞれ異なりますが。
プロのクリエーターの場合、表現者としての側面と売れるための戦術とが対立することがよくありますが、一流と呼ばれる人たちはその両者をよく理解した上で表現しているように思います。
万人に受け入れられなくとも構わないというスタンス(ジャンル化)もこうした戦術の一つでしょう。

美醜の基準と言っても、あらゆる事柄について当てはまります。ひとつひとつの言葉の使い方であったり、キーボードの打ち方でさえこだわる人がいます。
小説一冊の中でも、言葉や登場人物の所作、行動原理や意識の持ちよう全てに著者の美醜感覚が表現されていると言えますが、もちろんそのすべてに渡って意図があるというわけではありません。
どれほど作者が細部まで意識しても、大半の事柄は社会的に受け入れられる美醜観に即したものでしょう。(現実的な話として著者が意識していても作品を成立させるためには社会的に受け入れられる美醜観をベースに描かなければならない。一部ポイントとなる部分でのみ美醜観を問う姿勢を入れるくらいで精一杯だろう。)

ファンタジーはこうした美醜観を問いやすい表現形式ですが、それを問うだけで面白さを伝えるのは困難です。いかに作品の魅力と作り手の問いかけとを融合させていくかは、クリエーター全般の問題ですが。
差別化に関しては作り手というよりも売る側の問題のような気もします。無理に差別化やアピールをしなくても、優れたものであれば売る側の宣伝のやり方次第で売ることは可能だと思っています。宣伝の能力が欠けていれば残念な結果となりますが、その場合差別化やアピールポイントがあっても売れるかどうか微妙ですが。

作家の「特別」性は難しいですね。読む読まないと美醜観が合うかどうかは私自身はあまり関係ありませんし。
東野圭吾は素晴らしい作品を安定して生み出していますが、それでも売れすぎのようにも感じてしまいますし(笑)。
まあプロと一口にいっても雲泥の差があり、同じ作家の中でも作品ごとに差がありますから、文章ひとつを取り出して評価するというのは違うような気もしますし。
文体の心地よさは読む上で重要ですが、作家や作品の評価と直結するわけでもなかったりしますし。
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