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文化としてのゲーム

2009年09月15日 22時27分12秒 | アニメ・コミック・ゲーム
昔、『ファイナルファンタジーIII』がSF雑誌である『SFアドベンチャー』で評論されたと記憶している。同じ頃、『ドラゴンクエストII 悪霊の神々』が日本SF大賞の候補に挙がったとも言われている。
現在大手の新聞の文化面でコミックが定期的に取り上げられている。しかし、ゲームの話題は経済面でしか見かけないようになってしまった。
TVアニメも似た状況で、『ぼくたちのアニメ史』によると手塚治虫文化賞にTVアニメ部門のようなものを設ける打診を受けた辻真先は選考者がちゃんと最後まで観て評価できるとは思えず否定的な見解を示したという。話題となるのは、海外で高い評価を受けるか、経済的に面で記事になる場合であって、その内容に対して評されることはまずない。そのTVアニメでさえ何度か受賞している日本SF大賞や星雲賞メディア部門でゲームの受賞はわずか1度きりである。

もちろん賞を受けることが大切なわけではないし、新聞で評されることが大事なわけではない。宮本茂が日本よりも海外で高く評価されているとしても、もはや任天堂を除くと日本のゲームが海外で通用しなくなったとしても、仕方がないことだと言うしかない。
産業としてのゲームは国内市場を中心にやっていけるのだろうが、文化としてのゲームは風前の灯といった様に見えてしまう。アニメ界も似たようなものだが、アニメはTVアニメとして原則無料で放映されそれを見たファンの評価によってDVDなどのグッズが売れるシステムになっている。ゲームは最初にお金を払ってプレイするため、アニメ以上にマーケットの顔色を窺い、冒険できる余地が少ない。

文化と言っても肩肘張ったものを指す訳ではない。例えば、『スーパーマリオブラザーズ』だって立派な文化だ。絶妙のアクション性、アクションのユニークさ、隠された仕掛け、土管やキノコ、馴染み深いキャラクター、そして音楽。楽しければいい、余計な理屈はいらない、エンターテイメントに批評は必要ない、そうした考えも理解はできるが、その先にあるのは不毛な世界だ。
日本のゲームが衰退しているかどうかは判断が分かれるところだし、衰退しているとしてもそれは少子化が原因と言うべきなのかもしれない。だが、衰退の原因が他にあるとしたら、私にはゲームを文化として扱ってこなかったせいに思えてしまう。文化として扱ってこなかったのは、ゲーム界の外部だけでなく内部も含めてだけれど。