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理念とビジョン:「全文」 「ダイジェスト版」
何はともあれ、今日の朝日新聞の朝刊に掲載された「反原発論者は暗い現実を見て」と題する次の投書をご覧ください。
この投書は「経済が衰退しても安全性さえ確保できればいいという考えは『幻想』にすぎないということを、反原発を支持する人々は銘記すべきだと思う。」と結ばれています。原発維持論者や“反原発という立場”をとらないが、「原発は不安だが,必要である(原発は必要悪)」と考えている多くの一般国民の考えが見事なまでに凝縮されていると思います。
今回の投書を読んだときに、私がすぐ思い出したのが、私が6年前の 2006年に上梓した 『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日新聞社)でした。ここで取り上げた「持続可能な社会」、「持続可能な開発」、「持続可能な経済」などのテーマは2週間後にブラジルのリオデジャネイロで開催される「国連のリオ+20会議」の主要テーマとなっています。
次の図はこの本の「第5章 経済成長はいつまで持続可能なのか」の扉で、私は投書の方とは異なる視点から、結論として「自然科学者の明るくない未来予測に、耳を傾ける必要があるのではないか」と書きました。
この投書の方がおっしゃるように、私も、一般の多くの反原発論者や一般の方々の「原発反対の論点」の多くは、原発の「安全性」に集約されていると思います。この点は東日本大震災という厳しい経験から考えても当然のことだと思います。
昨年3月11日の過酷事故以来、マスメディアに加えて、ネット上でも将来の日本のエネルギー体系に原発が必要かどうか、原発の賛否を問う発言は最高潮に達しているかのようですが、それでも、日本の「原発議論の内容や論点そのもの」は昨年3月11日の過酷事故以前とあまり変わらないというのが私の印象です。
そこで、今最も関心の高い原発論議に新しい視点を提供する目的で、「原発は持続可能な社会の電源としてふさわしいか」というテーマで、5年前にこのブログで掲げた「原発問題を考えるシリーズ全10回」(2007年4月10日から4月19日まで)を装いも新たに再掲することにしました。5年前の議論とは言え、現在の原発議論にも十分耐え得るものと思いますし、「原発の安全は確保されているのか」、「電力はほんとうに足りないのか」、「原発コストは他の電源と比較して安いのか」などの具体的な論点に振り回されない原発の本質を議論する新たな論点を提供できると考えるからです。
さらに言えば、ここに再掲する5年前のブログ記事は、冒頭で紹介した投書に対する私の間接的な答えでもあります。投書者と私の考え方の決定的な相違は2030年およびそれ以降の社会に対するビジョンの相違です。投書者は「経済の現状維持および拡大」を前提に将来社会を考えているのに対し、私は「経済の現状維持および拡大」は持続不可能なので、「持続可能な社会のビジョン」を掲げ、それににふさわしいエネルギー体系を構築しなければならないと考えているからです。
端的に言えば、投書者が「20世紀の原発論」を展開しているのに対し、私は「21世紀の原発論」をしていると言ってもよいでしょう。「日本の暗い現実」という点では投書者と私の基本認識は一致していますが、その現実を解決し未来を明るい希望の持てる社会にするために投書者は原発復帰に期待するのに対し、私は投書者とは反対の立場をとっていることになります。つまり、 私の環境論(今日の決断が明日の環境を決める)に従えば 、この岐路で、どちらの道を選択するかによって、未来の社会が原則的に決まってしまうと言うことです。
原発は持続可能な社会にふさわしいか ①まずは、皆さんへの質問 (2007-04-10)
古くて(とは言っても、1960年代頃からですが)、新しい原発議論が、再び高まってきました。3月30日に、全国の12の電力会社が発電所の不祥事に関する調査報告書を経済産業省原子力安全・保安院に提出し、不適切な事例を報告したことが、議論をいっそう高めているようです。ネット上では原子炉技術の専門家、評論家をはじめ、さまざまな方がそれぞれの立場からさまざまに発言しています。
そこで、私も混乱している原発議論に参加します。原発に対する私の過去の発言などを織り交ぜながら、「私の環境論」に基づいて現在の私の原発に対する考えをお伝えして、皆さんと一緒にこの大切な問題を考えていきたいと思っています。しばらくおつきあいください。私の考えに対するコメントは大歓迎です。
今回は初回ですから、次のような問いかけから始めましょう。
あり得ないことではありますが、「仮に原発の安全性が100%保障され、核廃棄物も100%安全に処分できる夢の原発」が開発されたとしたら、日本のエネルギー体系は現在よりもさらに原発に依存する方向でよいのでしょうか、それともそれでもだめだというのでしょうか?」
この疑問は原発賛成派の方、反対派の方、どっちとも決めかねる方、そんな分けかたに関係なく、原発議論を始める前に私が、是非とも皆さんに伺ってみたいと思っていたものです。
この設問に答えるために、「これまで原発について議論されてきたこと」と、「原発が21世紀の電源としてふさわしいかを判断するために議論しておかねばならないこと」を、私の視点から挙げておきましょう。(図1)
ここに掲げた論点は、原発の問題点として、電力会社の不祥事の問題は一切取り上げていません。私がここで議論したいことは原発の本質を議論するために、「原発が正常に稼働しており、原発に対する「安全性向上に向けたさまざまな技術開発」や「放射性廃棄物の処理・処分の技術開発」が常に着実に行われており、電力会社も真剣に対応している。情報公開は完全に確保され、電力会社の不祥事は一切ない。」という前提での議論です。
今回報告された原発の不祥事は、検査漏れ、データの改ざん、検査中の原子炉の事故、報告の義務違反などですが、これらに関してはネット上にたくさんの議論がありますので、あえてここでは触れないことにします。
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理念とビジョン:「全文」 「ダイジェスト版」
何はともあれ、今日の朝日新聞の朝刊に掲載された「反原発論者は暗い現実を見て」と題する次の投書をご覧ください。
この投書は「経済が衰退しても安全性さえ確保できればいいという考えは『幻想』にすぎないということを、反原発を支持する人々は銘記すべきだと思う。」と結ばれています。原発維持論者や“反原発という立場”をとらないが、「原発は不安だが,必要である(原発は必要悪)」と考えている多くの一般国民の考えが見事なまでに凝縮されていると思います。
今回の投書を読んだときに、私がすぐ思い出したのが、私が6年前の 2006年に上梓した 『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日新聞社)でした。ここで取り上げた「持続可能な社会」、「持続可能な開発」、「持続可能な経済」などのテーマは2週間後にブラジルのリオデジャネイロで開催される「国連のリオ+20会議」の主要テーマとなっています。
次の図はこの本の「第5章 経済成長はいつまで持続可能なのか」の扉で、私は投書の方とは異なる視点から、結論として「自然科学者の明るくない未来予測に、耳を傾ける必要があるのではないか」と書きました。
この投書の方がおっしゃるように、私も、一般の多くの反原発論者や一般の方々の「原発反対の論点」の多くは、原発の「安全性」に集約されていると思います。この点は東日本大震災という厳しい経験から考えても当然のことだと思います。
昨年3月11日の過酷事故以来、マスメディアに加えて、ネット上でも将来の日本のエネルギー体系に原発が必要かどうか、原発の賛否を問う発言は最高潮に達しているかのようですが、それでも、日本の「原発議論の内容や論点そのもの」は昨年3月11日の過酷事故以前とあまり変わらないというのが私の印象です。
そこで、今最も関心の高い原発論議に新しい視点を提供する目的で、「原発は持続可能な社会の電源としてふさわしいか」というテーマで、5年前にこのブログで掲げた「原発問題を考えるシリーズ全10回」(2007年4月10日から4月19日まで)を装いも新たに再掲することにしました。5年前の議論とは言え、現在の原発議論にも十分耐え得るものと思いますし、「原発の安全は確保されているのか」、「電力はほんとうに足りないのか」、「原発コストは他の電源と比較して安いのか」などの具体的な論点に振り回されない原発の本質を議論する新たな論点を提供できると考えるからです。
さらに言えば、ここに再掲する5年前のブログ記事は、冒頭で紹介した投書に対する私の間接的な答えでもあります。投書者と私の考え方の決定的な相違は2030年およびそれ以降の社会に対するビジョンの相違です。投書者は「経済の現状維持および拡大」を前提に将来社会を考えているのに対し、私は「経済の現状維持および拡大」は持続不可能なので、「持続可能な社会のビジョン」を掲げ、それににふさわしいエネルギー体系を構築しなければならないと考えているからです。
端的に言えば、投書者が「20世紀の原発論」を展開しているのに対し、私は「21世紀の原発論」をしていると言ってもよいでしょう。「日本の暗い現実」という点では投書者と私の基本認識は一致していますが、その現実を解決し未来を明るい希望の持てる社会にするために投書者は原発復帰に期待するのに対し、私は投書者とは反対の立場をとっていることになります。つまり、 私の環境論(今日の決断が明日の環境を決める)に従えば 、この岐路で、どちらの道を選択するかによって、未来の社会が原則的に決まってしまうと言うことです。
原発は持続可能な社会にふさわしいか ①まずは、皆さんへの質問 (2007-04-10)
古くて(とは言っても、1960年代頃からですが)、新しい原発議論が、再び高まってきました。3月30日に、全国の12の電力会社が発電所の不祥事に関する調査報告書を経済産業省原子力安全・保安院に提出し、不適切な事例を報告したことが、議論をいっそう高めているようです。ネット上では原子炉技術の専門家、評論家をはじめ、さまざまな方がそれぞれの立場からさまざまに発言しています。
そこで、私も混乱している原発議論に参加します。原発に対する私の過去の発言などを織り交ぜながら、「私の環境論」に基づいて現在の私の原発に対する考えをお伝えして、皆さんと一緒にこの大切な問題を考えていきたいと思っています。しばらくおつきあいください。私の考えに対するコメントは大歓迎です。
今回は初回ですから、次のような問いかけから始めましょう。
あり得ないことではありますが、「仮に原発の安全性が100%保障され、核廃棄物も100%安全に処分できる夢の原発」が開発されたとしたら、日本のエネルギー体系は現在よりもさらに原発に依存する方向でよいのでしょうか、それともそれでもだめだというのでしょうか?」
この疑問は原発賛成派の方、反対派の方、どっちとも決めかねる方、そんな分けかたに関係なく、原発議論を始める前に私が、是非とも皆さんに伺ってみたいと思っていたものです。
この設問に答えるために、「これまで原発について議論されてきたこと」と、「原発が21世紀の電源としてふさわしいかを判断するために議論しておかねばならないこと」を、私の視点から挙げておきましょう。(図1)
ここに掲げた論点は、原発の問題点として、電力会社の不祥事の問題は一切取り上げていません。私がここで議論したいことは原発の本質を議論するために、「原発が正常に稼働しており、原発に対する「安全性向上に向けたさまざまな技術開発」や「放射性廃棄物の処理・処分の技術開発」が常に着実に行われており、電力会社も真剣に対応している。情報公開は完全に確保され、電力会社の不祥事は一切ない。」という前提での議論です。
今回報告された原発の不祥事は、検査漏れ、データの改ざん、検査中の原子炉の事故、報告の義務違反などですが、これらに関してはネット上にたくさんの議論がありますので、あえてここでは触れないことにします。
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