東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

新坂(鶯谷)

2015年11月08日 | 坂道

新坂(鶯谷)街角案内図 新坂(鶯谷)下 新坂(鶯谷)下 新坂(鶯谷)下 御隠殿坂から跨線橋(御隠殿橋)を通って根岸側にもどり、言問通りにでて、鶯谷駅下を右折する。

南側を進むと、階段があり、ここを上ると、そのまま線路を越える陸橋となっていて、車道にもなっている。左下に線路が見える歩道を進むと、前方が緩やかな坂になっているが、ここが新坂である(現代地図)。

陸橋は凌雲橋といい、ちょうど山手線などの線路が上野に向かって南へと大きくカーブを始めるあたりにある。この坂は上野台地の南東端のあたりから北へ下る。

忍岡中学校の校門わきに坂の標柱が立っていて、次の説明がある。

『新坂(しんざか)
明治になって、新しく造られた坂である。それで、新坂という。明治十一年(一八七八)内務省製作の『上野公園実測図』にある「鶯坂」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期に造られたらしい。鶯谷を通る坂だったので、「鶯坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。』

新坂(鶯谷)下 新坂(鶯谷)下 新坂(鶯谷)下 新坂(鶯谷)中腹 鶯谷駅南口を出て、そのまま進み、横断歩道を渡ると、標柱の所にでるが、横断歩道を渡る前に撮ったのが、一枚目の写真で、車道と右の歩道が切り通しになっていることがわかる。

標柱の立っている左側(中学校側)の歩道が車道よりも高くなっているが、ここが切り通し前の形状を保っているのかもしれない。

この切り通しと左側の歩道の両方を新坂というのか、すぐにはわからないが、左側の歩道が、車道と学校のフェンスの間にできた小径といった感じで、車道よりもかなり高く開放感があり、学校側から伸びた樹木とあいまって、ちょっとよい雰囲気をつくっている。このため、写真はおもにこの歩道のものを掲載した。

新坂(鶯谷)中腹 新坂(鶯谷)上 新坂(鶯谷)上 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 坂上は、寺院がたくさん並んだところの北端で、そこを通り抜けると、上野公園で、右折して行くと、寛永寺方面である。かなり前に訪れたときは、公園側からアクセスし、学校側の気持ちのよい細い坂を下ったことを憶えている。

標柱の説明では、明治になってからの坂で、遅くとも明治十一年(1878)までにできていた。明治四十年(1907)の明治地図(左のブックマークから閲覧可能)をみると、この坂道があるが、台地から北へまっすぐに下り、坂下は線路を踏切で横切って北へと延びているようにみえる。このため、明治時代は、この坂は線路のある低地まで下っていたと想われ、そうだとすると、かなりの勾配があったように想像される。

四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))には、この坂は、当然ないが、「東漸院」があるあたりにできたと思われる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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