梅林坂上を進むと、やがて天守台跡の後方にでる。この傍の広い広場を進み天守台跡に上ってみる。このあたり一帯に江戸城の本丸があった。
天守台跡を後にして左側へ進み、左折し東へ歩く。緩やかなカーブを描きながら緩やかに下る坂を進むと、石垣でできた一対の壁が狭まって門のようになったところが見えてくる。門を通りすぎて左に曲がると、坂がまっすぐに下っている。ここが汐見坂であるが、門の上側が坂上であろう。
いったん坂を下ってから坂を上る。
途中に立っている坂の標識に次の説明がある。
『本丸と二の丸をつなぐ坂道でした。
その昔、今の新橋から皇居前広場の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができました。坂の上には、汐見坂門が設けられていました。』
この坂は、坂下から見上げると、まっすぐに上っているだけのように見え、単純きわまりない坂だが、残っている石垣のおかげで見栄えがする。
梅林坂下の道を、坂を右に見ながら南へちょっと歩けば、この坂下に至る。
天和二年(1682)の戸田茂睡による「紫の一本」に次の記述がある。
『塩見坂
梅林の上、切手御門の内なり。ここより海よく見え、塩のさしくる時は、波ただここ元に寄るやうなるゆゑ、塩見坂と云ふなり、』
上記標識の説明もこの記述などによると思われる。
まっすぐに上り、突き当たりを右折し、石垣の門を通りすぎたあたりから大きくカーブしている辺までなかなか風情のある光景である。坂下側と対照的である。
汐見坂といっても、いまや海など見えるわけがないのは、他の潮見坂(汐見坂)と同じで、これは都内にたくさんある富士見坂も同じである。
そのむかし見えたという海は、ここでは、日比谷入江で、眼の前に広がっていたであろう。ここが埋め立てられたのは、慶長八年(1603)といわれるので、上述の「紫の一本」が書かれたときには、すでに眼前の海はなかった。慶長の頃に汐見坂とよばれていたとすれば、江戸の坂としては古い坂である。横関が梅林坂とこの坂を江戸の坂としてもっとも古い坂としているのはこのような理由による。
坂上の先を左手に進み、その先の休憩所で冷たいペットボトルで水を補給してから、近くの展望台に行く。
そこから白鳥濠の向こうに汐見坂の側面が見える。坂下でも壕の方にちょっと歩いてから坂を見ると同じように坂側面が見える。このように側面がよく見える坂というにのは珍しく、とくにここは石垣でできていることもあってよい風景になっている。
展望台から見えるが、東側の雑木林に行くと、なかなかよい散歩道ができている。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
鈴木理生「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)