東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

北の丸公園

2015年08月14日 | 散策

北の丸公園 北の丸公園 北の丸公園 北の丸公園 紀伊国坂の上側の歩道橋を渡って北の丸公園に向かう。中央の大きな道路を歩き左折し、ちょっと歩き、右折すると、ちょっと大きな池のある広場にでる(現代地図)。隅のベンチで一休み。暑いので冷たいペットボトルがおいしい。

ここから西側に進むと、樹木がかなり生い繁って、濃い緑の中に散歩道ができている。けっこう鬱蒼とした森となっていて、都心にいることも外界の暑さも忘れるほどである。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 御曲輪内大名小路絵図(慶応元年(1865)) 江戸図鑑網目(元禄二年(1689)) 北の丸公園 一枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図を見ると、紀伊国坂わきのチョウセンバゞウエダメ(朝鮮馬場植溜)の北側に田安屋敷と清水屋敷があり、さらにその北側に田安御門、東側に清水御門があるが、ここが現在の北の丸公園である。

二枚目の御曲輪内大名小路絵図(慶応元年(1865))の部分図にも、朝鮮馬場植溜の北側に田安屋敷と清水屋敷と両御門がある。

田安家と清水家は御三卿で(もう一つは一橋家)、田安家は八代将軍吉宗の次男徳川宗武、清水家は九代将軍家重の次男徳川重好を始祖とするので、これらの屋敷がここにできたのは千七百年代であろう(吉宗が八代将軍に就任したのは1716年)。

三枚目は、それ以前の江戸図鑑網目(元禄二年(1689))の部分図である。代官町などが見え、二家はまだできていないが、田安御門と清水御門が見えるので、これらの家名は門の名に由来することがわかる。(一橋家も一ツ橋御門による。)

紀伊国坂のある竹橋御門の上(西)は、明暦の大火(1657)の後であるので、明地となっている。

北の丸公園 北の丸公園 北の丸公園 北の丸公園 西側の鬱蒼とした森の縁にも散歩道ができているが、ここから下側に樹々の向こうに千鳥ヶ淵の水面が見える。淵の向こうのビルの上からかなり傾いた陽の光が樹木の葉々を通して差し込んできてまぶしい。

武道館の前を通り、田安門を通り抜けて、九段坂の歩道を下り、地下鉄九段下駅へ。

携帯によるいつもの総歩行距離はデータ消滅で不明だが、8~9km程度と思われる。

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

コメント
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