6月19日(日)は桜桃忌というので、三鷹駅で下車し、駅前で昼食をとってから、禅林寺に行った。この日に太宰の墓を掃苔するのははじめてである。
前日は梅雨の季節というのにかなり暑かったが、この日は曇りでさほどでもなく助かった。
駅前南口から左手に玉川上水の樹木を見ながら歩き、すぐ右折し本町通りに入る(現代地図)。南へまっすぐに延びる道を歩き、千草跡の金属板や野川家跡の説明パネルなど見ながら進むと、まもなく、左手に太宰治文学サロンが見えてくる(以前の記事)。
さらに歩き、途中、前方を見ると、まっすぐな道がわずかであるが上下し、縦にうねっているのがわかる。かなり進むと、通りの両側に畑が広がっている。太宰が生きていた頃はもっと広かったのであろう。
連雀通りに出て右折し、ちょっと歩くと、禅林寺前の交通標識がある(現代地図)。ここを右折し、進むと、禅林寺の山門が見えてくる。山門から入って森鴎外の遺言碑(以前の記事)のあたりに咲く紫陽花が梅雨の季節であることを感じさせる。
たくさんの人が来て行列をなしているのだろうかと、左の方から墓地に入り、小路の先を見ると、人がかたまっているがさほどでもなく、ちょっと拍子抜けした。それでも老若男女が来ており、いまでも幅広いファンがいることがわかる。お参りをしてまもなく引き返した。
次に、三鷹駅近くにある、太宰がよく通ったといううなぎ若松屋跡を訪ねた。ここで吉本隆明が太宰に会っているが、その内容は東京人12月増刊(2008)に詳しい(以前の記事)。
駅前から線路西側に歩き、太宰がよく行ったという跨線橋に向かう(以前の記事)。ここは、三鷹に太宰散歩に来たときの最終を飾る定番の地になっている。
二十代のころ失恋や仕事などの悩みがいずれも解決不能なようにのしかかってきたことがあった。いまふり返ると多かれ少なかれ誰にでもあるという程度の意味しかないことだけど、実時間ではどうしてもなにかに救い(心の支え)を求めてしまう。それが吉本隆明と太宰治とそのころちょっと流行ったいくつかの歌だった。
太宰は一時期貪るように読み耽る一方、山崎ハコ・中島みゆき・森田童子などの歌声が心にしみた。どれもどちらかといえば明るい世界ではないが、太宰が「右大臣実朝」で実朝にいわせた「平家ハ、アカルイ。」「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」を信じて暗い孤独の中に沈んでいた。
当時、一回だけであるが、太宰治の研究会みたいな集まりに出かけたことがあった。かなり記憶が薄れているが、いまのようにインターネットがあるわけではなく、新聞や雑誌などの案内を見たのであろう。出席者の多くは私などよりもかなり年配の人たちであった。わずかであるが宗教的な雰囲気がし、ちょっとなじめなかったようなかすかな記憶がある。太宰を好む人はそういった傾向に陥り易いのかもしれない。思い入れが前面にでてしまうから。それでもいまならばどう感じただろうかとちょっと懐かしい。
同じころ、山崎ハコのコンサートに出かけたことがあった。たぶん、新宿厚生年金会館ホール。かなり離れた二階の席だったように記憶するが、声量のある歌唱をたんのうした。
吉本の太宰好きは当時から知っていたが、後年、中島みゆきファンとも知って、ちょっとうれしく、両者の感性があうのだろうとかってに肯いた。
参考文献
東京人「三鷹に生きた太宰治」12月増刊2008 no.262(都市出版)