前回の記事に続き、軽井沢再訪三日目の昭和2年(1927)8月26日の日乗の原文とその私訳は次のとおり。
『八月廿六日 午前正宗白鳥ホテルに来り久米氏を訪ふ、余旅中其情郎を喪ひたる梢子の心中を推察し久米氏と共に勧誘して強ひて街を散歩す、一同土宜を購ふ、梢子は勝気の女と見え今朝は悲しみを面に現はさず、款語平生の如し、昼餉の卓を倶にす、午下二時の列車にて久米氏梢を扶けて帰京す、是日晴れて暑し、』
「8月26日 午前正宗白鳥がホテルに久米氏を訪ねてきた。私は旅行中その情郎を喪った梢さんの心中を察し久米氏と共に誘ってむりやりに街を散歩した。みな土産を買い求めた。梢さんは勝気な女のようで、今朝は悲しみを表情にあらわさず、打ち解けて話しふだんのようである。昼食を一緒にした。午後二時の列車で久米氏は梢を助けて帰京した。この日は晴れて暑かった。」
北沢氏急逝の次の日、残された梢を久米正雄と一緒に慰めたが、本人は外見はいつのとおりで、午後に久米氏と帰京した。
続いて、8月27日、28日の日乗は次のとおり(原文)。
『八月廿七日 午後むし暑し、此地にて今日の如き溽暑[じょくしょ]は稀に見る所なりといふ、樹下に森先生の蘭軒伝を読む、巻中木曾道中の記事あるを以てなり、』(溽暑:むし暑いこと)
『八月廿八日 正午軽井沢を発し薄暮帰京、是日残暑焼くが如し、』
27日には読書をしてゆっくりしたようであるが、28日に帰京してしまった。最後の二日間は日乗の記載量がぐっと減っている。特に帰京の日は一行で済ませ、前回と違ってきわめて短い。東京の日常と同じになってしまい、記述すべき事柄もなかったのかもしれないが、それよりも気力が低下したのであろう。詩心の喪失である。知人の突然死で衝撃を受け、その後始末にも係わって疲れ、友人の左団次(松莚)が不在で、おまけに避暑に来たのに連日残暑が厳しく、軽井沢に滞在する理由も必要もなくなった。結果的に、荷風にとって軽井沢再訪は、疲れることだらけで、こんなことなら来るんじゃなかった。
ところで、荷風は、日記「断腸亭日乗」を大正6年(1917)9月16日から書き始めているが、以降、昭和20年(1945)3月10日の偏奇館終焉までに東京を離れたのは、今回記事にした昭和2年(1927)8月の軽井沢行きと、大正11年(1922)9月、大正12年3月の京都行きの三回だけと思われる。荷風は旅行嫌いだった。
大正11年(1922)9月27日の日乗は次のとおり。
「九月廿七日 夜九時半の汽車にて松莚子の一行と共に京都に行く。」
左団次一行と京都に行くが、左団次所演の知恩院における野外劇を七草会の他のメンバーとともに声援するためであった。演目は「織田信長」で、配役は、信長が市川左団次、木下藤吉郎が市川寿美蔵、明智光秀が阪東寿三郎、足利輝姫が市川松蔦であった。観客が十万人も集まり、大変な人気だったという。
おもしろいことに、荷風は、10月5日朝東京に戻っているが、その4日後の10月9日の夜ふたたび京都に向かっている。後の軽井沢のときと行動パターンが似ている。
軽井沢行きは、左団次との約束で、一回目の十日間の滞在のとき七回も左団次と散歩などで会っているが、上記の京都行きも左団次絡みである。旅行嫌いでも左団次のこととなると別人のようになる。
荷風と左団次はかなり親密な友人同士であった。左のように、近藤富枝著「荷風と左団次」のサブタイトルが「交情蜜のごとし」となっているが、まさにそのようなものであったのであろう。
軽井沢から帰京した後、荷風は、関根歌にのめり込んでいく(以前の記事)。
参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)(下)」(岩波現代文庫)
近藤富枝「荷風と左団次」(河出書房新社)
川本三郎「荷風と東京」(都市出版)