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幕末、長崎・浦上村の潜伏キリシタン
外国人居留地に建つカトリック教会(大浦天主堂)
1865(慶応01)年02月20日、潜伏キリシタンが教会を訪ね、宣教師に信仰を告白
1867(慶応03)年03月から親族の葬儀を信徒組織の手順で行う
すなわち、キリスト教方式で行い、信仰を公然と表明
キリシタン禁制ゆえ、幕府・長崎奉行は放置できない
密偵を放ち浦上の信徒組織を探る
1867(慶応03)年07日14日深夜、急襲してキリシタン68名を捕らえる
幕府のキリシタン弾圧を踏襲した明治政府
1868年07月、信徒組織中心人物114名の津和野・萩・福山への流罪を決定
1870年(明治03年)まで信徒3,394名を捕らえ20の藩へ流罪
流罪信徒は拷問などをうける
そのうち375名は薩摩藩へ、廃寺の旧福昌寺に収容される
玉龍山福昌寺は1394(応永01)年に建立され、代々島津藩主の菩提寺
廃仏毀釈で1869(明治02)年に廃寺
時あたかも欧米歴訪中の岩倉使節団
キリスト教弾圧は先々で抗議・非難され、不平等条約改正の足枷と報告
政府は1873(明治06)年02月24日、キリスト教禁制の高札を撤廃
流罪信徒は自由の身となり帰村
3,394名のうち662名は拷問などで命を落とす
1879年(明治12)、戻った信徒は浦上天主堂を建てる
薩摩藩では53名が故郷に戻れず埋葬される
1905(明治38)年、ラゲ神父が散在の墓を集めて記念墓碑を造る(上の写真)
墓碑・墓地は急峻な姶良カルデラ崖の中腹に置かれる
明治政府の神道国教化政策推進過程でのキリシタン弾圧をキリシタン墓地に、神仏混淆禁止(廃仏毀釈運動)を旧福昌寺にそれぞれ見る
主な引用・参考文献等:①内藤幹生著『明治政府の宗教政策とキリシタン集落』(大正大学大学院研究論集 第三十六号 109-118頁) ②旧福昌寺・キリシタン墓地案内板
執筆・撮影者:有馬洋太郎
撮影日:2018年01月03日
撮影地:鹿児島市