雲は完璧な姿だと思う。。

いつの日か、愛する誰かが「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」と見つけてもらえたら。そんな思いで書き記してます。

アテルイ 3

2012-09-27 00:00:46 | 勇気
……京都。
有名な「清水寺」の境内にヒッソリと、
しかし大きな石碑がポツリと建てられています。
多くの観光客には素通りされているようなものですが......
そこにはこう記されています......




「阿弖流為 母禮 之碑」 ......アテルイ、モレの碑。



「モレ」はアテルイの戦における最良のパートナーであり生涯にわたる友人。
知略に長けた、三国志でいえば「諸葛孔明」を思わせる東北の英傑の一人。
アテルイと共に蝦夷を纏め続けた人物です。

朝廷の日本国統治に向かう長い長い闘争史において、
38年もの長きにわたり制圧出来なかった民族は唯一、蝦夷=エミシだけです。
最後も征夷大将軍「坂上田村麻呂」によって
この蝦夷を纏める二人に「停戦交渉」という手段で手打ちがなされました。
東北の地の安定と、二人の命の保証もするので都へ投降してくれ、、と、
朝廷における最高の「義勇の武人」であった田村麻呂はそう言って二人を説得します。
無駄な血は互いにこれ以上流したくない......と。

蝦夷の軍を率いた二人の「英雄」はこれに応じ、
最後は投降という形で長い長い戦の幕を引くことになりました。
田村麻呂は停戦後も東北の地はこの二人に纏めてもらいたいと望んでいたようです。

しかし京都に投降後、二人は命の保証をされていたのにもかかわらず、
朝廷を長きに渡り震え上がらせたその統率力と武勇を恐れた
幾人かの役人の陰謀と裏切りによってその命を奪われてしまいます。

田村麻呂はそんな朝廷内で最後まで二人を守り通そうと、
約束を守ろうと奔走しました。
それは武人としての「義」でもあり、「誇り」でもあり、
強大なる朝廷と最後まで戦い抜いた勇者二人への敬愛でもあったのでしょう。



清水寺は、あまり知られていませんが、
元々はこの武人、田村麻呂が「私寺」として開いたお寺です。
私寺ですから朝廷の「公的な縛り」も受けず比較的自由に運営できます。
そこに最大の朝敵であった東北の英傑二人の碑が建てられています。
勿論、天皇からの命令で戦った相手とはいえ、
二人は田村麻呂の敵将でもあったはずです。



しかしながら......石碑は「そこ」に建てられています。



もし、清水寺に遊びに行く機会などがあれば、
ここに記した「火怨」の物語を少し思い出してみて下さい。
何か発見や歓迎!?があるかもしれません。
開祖、田村麻呂からのお願い!?です。(^.^)



今回の記事を書いていたらまた「もののけ姫」を見たくなったのだ。
ちなみに「ねぶた祭り」も、
田村麻呂と蝦夷の戦いを模した事から始まってるのだお。 d(・ω・*)


☆シリーズ過去記事はコチラ☆
アテルイ
アテルイ 2


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コメント (4)    この記事についてブログを書く
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4 コメント

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共鳴 (星のカガセオ)
2016-07-16 14:48:47
和をもって尊しとなす
気持ちこそ
大和魂なんでしょうね。

阿弖流為、天草四郎、
ゲバラ、デビルマン、
天津甕星
ふるえます。

だ~れも しらない
しられちゃいけない~♪
星のカガセオさんへ。 (amenouzmet)
2016-07-16 20:31:56
神話などでは詳しく記されてはいませんが、アマツミカボシさんの乱はとても特別なものの様に思います。
blog拝見させていただきました (刑部)
2017-05-17 19:54:39
蝦夷討伐で何故田村麻呂が何故、悪いイメージが無いのか分かりました (情報コントロールされていたとしても)
今まで清水寺にしてもモヤッとした感じでしたが、これからはしっかり拝みたいと思います
ところで、ねぶたは田村麻呂さんですか?
刑部さんへ。 (amenouzmet)
2017-05-17 21:27:41
「ねぶた」は正確には、元々あった地元のお祭りに、後年、英雄譚の多かった田村麿の伝承や伝説が重ねられて出来たのだと思います。
その方が客寄せとか含めて盛り上がったのでしょうか(^^)
武人やライバル同士にしかわからない絆みたいなものはきっとあるのでしょうね。

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