長らく日本産業界が必要とした人材は、人間関係を構築する社交性と基礎学力(という名の「受験勉強に耐えうる忍耐強さ」)であった。
これは雇用者と労働者の間に長期雇用関係があったからで、深化された専門能力や卓越した創造性というものはあまり重視されず、新卒一辺倒での採用であった。
ゆえに、企業は大学に入学する能力だけが欲しかったから、学歴を重視する風潮が生まれる。
限られた資源(入学可能数)の争奪戦が起き、ポジティブフィードバックがかかる。
皆が学歴を重視することわかっているから、自分もそれに先回りして学歴を重視する。
学歴社会の誕生である。
学歴社会には実態がないが、皆がそれを現実だと思えば、それが現実になる。
皆が学歴社会と思うがゆえに学歴社会が存在するのだ。
なぜ、企業が専門性や創造性よりも、社交性と基礎学力を重視したかといえば、日本の産業は既存の産業における持続的イノベーションと生産性向上(効率化)において利益を上げることに専心してきたからであるし、それが持続的に可能であった背景がある。
日本が2千年の間にやってきたことは、世界標準を創造することではなく、世界標準をキャッチアップし、そして改善することであった。
しかし、キャッチアップすべき世界標準が見当たらないとき、日本が自らの進路を決定せねばならなくなった時、このモデルは破綻する。
今、日本産業の世界的競争力は新興国の台頭により相対的に低下し、世界最強を誇った輸出製造業の利益は低下傾向にあり、産業構造の転換は遅れ、新しい収益源を見出せずにいる。
この中で長期雇用関係は崩壊しつつあり、近い将来、それは間違いないものになるであろう。
入学する能力を問うという意味での学歴社会はもうすぐ終わる。
なんのことはない、人類の歴史から見れば高々50~100年程度のわずかな瞬間の出来事でしかない。
今後、どういう大学が評価されるかは、日本の産業構造がどのように変わっていくかによって決まるだろう。
評価基準が変われば、大学も教育も変わる。
いや、もはやこのような問題設定自体が時代遅れになりつつあるのかもしれない。
※
就職氷河期ということで、就職活動中の学生の悲痛が聞こえる。
ついつい、このようなエントリをしてしまったが、学歴を重視するような企業なら、社員に求める能力も先述した能力なのだ。
学歴で否定されたからといって人格が否定されると思う必要はない。
そういう「旧来のビジネスモデルをやる企業なのだ。」と考えればよい。
それが良い悪いというつもりはない。
お互いの認識のギャップが埋まったというだけの話だ。
なんの救いにもならないが。
これは雇用者と労働者の間に長期雇用関係があったからで、深化された専門能力や卓越した創造性というものはあまり重視されず、新卒一辺倒での採用であった。
ゆえに、企業は大学に入学する能力だけが欲しかったから、学歴を重視する風潮が生まれる。
限られた資源(入学可能数)の争奪戦が起き、ポジティブフィードバックがかかる。
皆が学歴を重視することわかっているから、自分もそれに先回りして学歴を重視する。
学歴社会の誕生である。
学歴社会には実態がないが、皆がそれを現実だと思えば、それが現実になる。
皆が学歴社会と思うがゆえに学歴社会が存在するのだ。
なぜ、企業が専門性や創造性よりも、社交性と基礎学力を重視したかといえば、日本の産業は既存の産業における持続的イノベーションと生産性向上(効率化)において利益を上げることに専心してきたからであるし、それが持続的に可能であった背景がある。
日本が2千年の間にやってきたことは、世界標準を創造することではなく、世界標準をキャッチアップし、そして改善することであった。
しかし、キャッチアップすべき世界標準が見当たらないとき、日本が自らの進路を決定せねばならなくなった時、このモデルは破綻する。
今、日本産業の世界的競争力は新興国の台頭により相対的に低下し、世界最強を誇った輸出製造業の利益は低下傾向にあり、産業構造の転換は遅れ、新しい収益源を見出せずにいる。
この中で長期雇用関係は崩壊しつつあり、近い将来、それは間違いないものになるであろう。
入学する能力を問うという意味での学歴社会はもうすぐ終わる。
なんのことはない、人類の歴史から見れば高々50~100年程度のわずかな瞬間の出来事でしかない。
今後、どういう大学が評価されるかは、日本の産業構造がどのように変わっていくかによって決まるだろう。
評価基準が変われば、大学も教育も変わる。
いや、もはやこのような問題設定自体が時代遅れになりつつあるのかもしれない。
※
就職氷河期ということで、就職活動中の学生の悲痛が聞こえる。
ついつい、このようなエントリをしてしまったが、学歴を重視するような企業なら、社員に求める能力も先述した能力なのだ。
学歴で否定されたからといって人格が否定されると思う必要はない。
そういう「旧来のビジネスモデルをやる企業なのだ。」と考えればよい。
それが良い悪いというつもりはない。
お互いの認識のギャップが埋まったというだけの話だ。
なんの救いにもならないが。
バランスのとれたコメントありがとうございます。
ここなっつさんの人柄が醸し出されており、このような方々にコメントいただけることは私としては恵まれたことだと考えております。
私も、いつの時代も「社交性」は重要な要素だと考えています。ただ、「社交性」をどれだけ重要視するかには、様々な見解が有り得るだろうとも思います。例えば、Appleのスティーブ・ジョブスなどは人間としてかなり嫌わるタイプですが、でも彼のおかげで新たなビジネスが起きる。アメリカという国は、経済の持続的成長のためにイノベーションを重要視しますから、「社交性」の重要性が低い状況を大きく許容していると考えます。どちらか一方ではなく、どちらも許容している。もっといえば、日本では起業という外部オプションが結果として制限されているから、優秀な人材も既存の企業に入社することが圧倒的多数派であるため、「社交性」の重要度が上がるともいえる。つまり、「社会(産業界)からの要請として採用基準が決まる」ということがいえるのであれば、産業構造の転換が避けられないなら「これまでの学歴社会はもう直に終わる」という結論を導き出すことはできると考えます。
そういう意味で「最も大切なのは人」という部分に強く賛同するのではありますが、企業がある特定の目的を持った組織なのだとすれば、組織として「目的に合致する人」を採用することが合理的であり(逆に目的に合わない人を採用する理由がないのであり)、採用において採用基準が設定されることは避けられないと言えそうです。そこで、私は「企業の採用基準に合わないからといって人格が否定されているわけではない。」と述べるのです。
しかしながら、私が本エントリで述べたいのは、「採用人事」を責めたいのではありません。本Blogの立ち位置として「人間は環境に適応する形で意思決定を行っている」というものがありまして、本エントリは、社会環境、事業環境が変われば意思決定もまた変わるものだと言っているに過ぎず、価値判断をしたいのではありません。ご理解いただけると助かります。
また気軽にコメントいただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。
再コメントありがとうございます。
同一エントリに対する再コメントは当Blog第1号でございます。
おめ・・ではなく、ありがとうございます。
「失敗学」といった類の研究も行われておりますが、失敗が単一の要因から生まれるということはないように思います。問題の原因というのは無限回廊に足を踏み入れるようなもので、我々が日常的に行っている原因解析は、どこかの時点で有効性を鑑みて原因を断定(決断)するということです。例えば、誰かがレバーの操作を誤ったとしても、その操作に至る過程や、その操作を許してしまう環境、またその環境を許した環境、と追い求めればキリがありません。
極端なことをいえば、結局のところ、「何かのせい」という軸で考えた時には、我々は我々が納得できればそれでよいのだと思います。
私が主張したかったことは、論理を単純化し過ぎかもしれませんが、「そもそも日本的文化の構造として原因を明らかに仕組みは備わっていない。」ということです。それがベストだからです。そのことについて、新しいエントリに似たようなことを書いたので是非コメントいただけると嬉しいです。
日本には「新しい公共」より「個人の定義」が必要だ
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/27acda3251603b8ece91834d9d9ace7c