これはうまい表現だと思った。
伝統芸であり様式美
もはや「作法」にすら昇華されつつある気もする。
AKB48の「学びの作法」である。
どういうことか。
高橋みなみの言葉が正しいかどうかは、実はAKB48にとってどうでもよいのである。
そうではなく、高橋みなみの言葉によって「学び」を起動することこそが、この学びの作法の本質なのである。
「何に意味があるのか」を教えるのではなく、学ぶ側が「学び方」を学ぶのである。
伝統的な業種の師弟関係のそれである。
師匠は弟子に教えたりしない。
弟子が師匠から勝手に学ぶのである。
師匠がやることは弟子の学びを起動させることだけだ。
こうすることで、学ぶ側をある価値観に固定化させず、全ての情報に対して視野を開いていかせることができる。
(親子の関係も基本はこれだ。親は子に生きていく方法を教えるべきなのだ。)
端的に言えば、「トイレ掃除も師匠が言えば修行になる」のだ。
こういう考え方は、伝統芸のような「道」を志す目的地のないものに適している。
答えを保留できる悠長な状況でなければ適用できない発想だからだ。
AKB48が長期的な存続を目指していく組織なのであれば、組織の学習能力として、このような「学びの作法」も重要となってくるだろう。
高橋みなみの怒鳴り声に、その内容にどれだけ意味があるのかということは、実はあまり重要ではない。
あれは「学びの作法」だからだ。
高橋みなみの努力、原みづきの努力、やすす先生の努力 ~努力と競争戦略と学習のトリレンマ~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/955b300923bbc4c6a1a256fab4a5c0df
コメントありがとうございます。
わかりにくくてすみません・・。
>たかみなの怒鳴り声は宗教的行事みたいなもの
なるほど。
そこまでは言ってなかったのですが、近い意味ではあると思います。
怒鳴り声が「基点」になっているということなんですね。
伝統芸とか様式とか、作法というものに近いのかななんて思ったりしたのでした。
AKBの神の代理人というか神官なのかなと思いました。