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進化する魂

フリートーク
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休日における国家の役割

2010-03-05 13:53:55 | 社会
連休を地域別に分けて、渋滞を緩和するとともに、観光需要の有効活用を促そうとする提案がされている。

連休が地域別に分けられると「異なる地域に住んでいる人と会えなくなるじゃないか」という批判が多い。

私はこの問題を中途半端なものだと見ている。
それがなぜかということについて述べたいと思う。

最初に明確にしておくが、私は渋滞に辟易しているし(高速道路が低速道路になるんだもの)、連休中に観光地に行くと明らかに許容量を超えている様(東京なんて毎日許容量オーバーしているけど・・)を見て実感しているだけに、休みが分散化されることには大賛成である。
もうずっと何年も望んでいることである。

首都圏で生活している人ならわかると思うが、毎日渋滞、毎日ラッシュ、毎日お祭り騒ぎみたいな中にいたら、「休みくらい静かにしたい」と思うのは自然なことだろう。

で、遠方の親族や友人と会えなくなるという問題設定だが、そもそも論に立ち返って考えればいいのではないかと思う。

我々は、「休みをいつとるか」ということまで国家に介入を許すのか、ということについて考えなければならない。
私の立場から思うのは、国家は「休み権利」のみを保証してくれればよく、「いつ休むか」なんてことは「個人の自由」に任せるべきだ。

そもそも休日を国家が規定しているのは、規定しなければ「労働者の休む権利」が保証されないからであって、労働者が自由に休みがとれるのであれば、休日日数だけ決まっていれば、いつでもいいわけである。

もう一度繰り返すと、「いつ休むべきか」ということを国家が決めなければ労働者が休めない状況が現実的にはあるから、国家が大号令を下すわけだ。
だから、労働者が自由に定められた休日数分だけ休めるなら、国家が休日を決める必要がない。
こういう意見に対して反論はあるだろう。
例えば、国民の休日には、それぞれ意味があると。
春分や秋分の日には自然を敬い、敬老の日には高齢者を敬う、といった形で節の変わり目で、普段の生活を見つめ直す機会を設けていると。
そういう機会を国家レベルでもうけることは社会的に有意義であると。
一部には、天皇誕生日や建国記念日に特殊な思いを持つ人々もいる。

私は、こういった意見を否定しない。
何にせよ、考える機会があるというのはいいことだと思う。
だが、それを国家が強制する理由がどこにある。

国家主義者には一蹴されるであろう。
彼らにとって国家とはホームベースであり、守るべきものであるからだ。
だが、私は国家というシステムは、国家のためにあるわけではなく、一個人のためにあると考えるので(一個人が集まって国家システムを構成する時、一個人は国民になる。)、国家は一個人の自由(利益)を侵害するような場合には注意深くならなければならない。
国家を守ることが最終的に一個人を守ることになるのだという発想はあるだろう。
だが、その発想は一個人の犠牲を容易に許容する。
つまり、一個人を守るために国家を守るのだが、国家を守るために一個人を犠牲にすることがある。という矛盾を抱え込む。
もちろん、たとえ国家が一個人の利益を重視しようとしたとしても、全ての一個人の利益を尊重できる保証はない。
一個人のために国家が危ぶまれるような状況に置かれるのだとしたら、それはそれで問題であろう。
全体最適視点と、個別最適視点との対立がここにある。

しかし、私は国家システムの捉え方次第で、この矛盾対立はいくらでも変わると考えている。
つまり、全体最適視点でいうところの「全体」を定義する国家というシステムを定義しなおせば、「全体」の意味が変わるのである。

一個人を守るために国家を守る、
その国家を守るために一個人を犠牲にする必要がある、

という場合に、国家の定義を変えればいいだろうという意味である。
「国家システムを考え直せ」という問題意識である。
だいたい「国体(簡略文字使用)」などと叫ぶ人々は、国体の意味など理解しておらぬであろう。
「国体」など実態なき概念である。

そういうと、またこういう反論が出るであろう。
「そんな柔な理想主義では政治はできない。」
「敵はこちらに戦う意志がなくても襲い掛かってくる。」
などというだろう。

そうなのだ、頭は柔にしておかなければならない。
「敵が襲い掛かってきたらどうするか」という問題設定は有意であるが、そればかりを強調するのはナンセンスである。
なぜなら「敵が襲い掛かってこないようにすること」も国家の選択肢の一つだからである。

そういうと、こう反論が出るだろう。
「時が戦国時代ではそうも言っていられないだろう」と。
なるほど、それは一理ある。
問題無用で征服してくるやつらもいるからだ。
確かに、そういった瞬間風速を止めることはできないかもしれない。
だが、これまで暴力的征服によって支配力を拡大できた勢力はあったであろうか。
史上最大の国家となったモンゴル帝国ですら統治においては寛容こそがポイントとなった。
ローマ帝国してもしかりである。
圧力による支配は持続性がないのである。
だから、力による支配は長続きしない。
(歴史的に短くてもといっても人の一生からすると長いかもしれない)

そういったことは、これだけ情報化された世界では共有される事実となる。

しかしながら、北朝鮮が核ミサイルのボタンを押さない保証はない。
可能性として0にはならない。限りなく0に小さくてもだ。
だから、そういう人と相互理解を得ることは難しいかもしれない。

話がそれたので元に戻そう。

私は、国家が最低休日日数を規定することには賛成だ。
そして、労働者の権利を保障するために、その日数を保証するための法的措置をとることにも賛成だ。
だが、国家が休日を取る日を強制するのには反対だ。
まして地域別などというのは全く意味をなさない。
経済は休日と関係なく動くからだ。
それぞれの分野で、それぞれの都合でもって休みを取るのが最善だと私は思う。
遠方の人と会うのには、休みを会わせればいい。
休みをとる権利を保障することを国家の役割としたい。

私はそう考える。


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