昨年末に恋愛ブログ宣言をしたものの、形だけで終わってしまった。
今思えば「恋愛」という枠組みが漠然としすぎていることが問題であった。
そこで、次の議論ネタを決めました。
ずばり「結婚」だ。
数回にわたり結婚について議論していきたい。
コメント求む!
余談だが、私も「恋愛工学」の学者になりたいな~。
不合理と知りながら男はなぜ結婚するのか(森川 友義)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/2914
結婚のメリットは4つだという。
1、相手の独占的保有とセックス
2、自分の遺伝子を後世に遺す
3、シナジー効果による資本の増強
4、社会的ステータス
一方、デメリットも4つあるという。
1、恋愛感情の喪失
2、セックス欲の減退
3、視覚的価値の急減
4、不倫コストの大幅上昇
以上のことから、魅力ある男性が女性に対してプロポーズするというのは、かなり非合理的な意思決定なのかもしれません。男性にとっては、同棲・半同棲などの方法によって、結婚に伴うメリットだけを享受して、視覚的、性格的劣化が生じた時点で次の異性に乗り換えるというのが合理的判断と言えるかもしれません。
女性側がそれを阻止する、つまり結婚に持ち込むには、男性が女性に欲しているものを提供することが重要となります。就職活動では「want」より「can」をアピールすることが内定に持ち込む重要な要素ですが、婚活においても「want」より「can」です。
女性も男性に何を求めるかと考える時、私に何をしてくれるの?という要素、つまり「can」が重要と感じているはずですから、全く同じことです。
これまで私は「結婚観」を巡る議論で多くの女性の不快を買ってまいりました。
(もちろん、一般化できるほどサンプリング数が多いわけではありません)
女性にとって「結婚を分析しようとする行為」そのものが不快なのです。
(もちろん、そうではない人もいます)
しかし、このブログでは「結婚」について多いに語っていきたいと考えています。
(多分、読者のほとんどは男性と思われますし・・。)
腕がうなります。
ではまた次回
今思えば「恋愛」という枠組みが漠然としすぎていることが問題であった。
そこで、次の議論ネタを決めました。
ずばり「結婚」だ。
数回にわたり結婚について議論していきたい。
コメント求む!
余談だが、私も「恋愛工学」の学者になりたいな~。
不合理と知りながら男はなぜ結婚するのか(森川 友義)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/2914
結婚のメリットは4つだという。
1、相手の独占的保有とセックス
2、自分の遺伝子を後世に遺す
3、シナジー効果による資本の増強
4、社会的ステータス
一方、デメリットも4つあるという。
1、恋愛感情の喪失
2、セックス欲の減退
3、視覚的価値の急減
4、不倫コストの大幅上昇
以上のことから、魅力ある男性が女性に対してプロポーズするというのは、かなり非合理的な意思決定なのかもしれません。男性にとっては、同棲・半同棲などの方法によって、結婚に伴うメリットだけを享受して、視覚的、性格的劣化が生じた時点で次の異性に乗り換えるというのが合理的判断と言えるかもしれません。
女性側がそれを阻止する、つまり結婚に持ち込むには、男性が女性に欲しているものを提供することが重要となります。就職活動では「want」より「can」をアピールすることが内定に持ち込む重要な要素ですが、婚活においても「want」より「can」です。
女性も男性に何を求めるかと考える時、私に何をしてくれるの?という要素、つまり「can」が重要と感じているはずですから、全く同じことです。
これまで私は「結婚観」を巡る議論で多くの女性の不快を買ってまいりました。
(もちろん、一般化できるほどサンプリング数が多いわけではありません)
女性にとって「結婚を分析しようとする行為」そのものが不快なのです。
(もちろん、そうではない人もいます)
しかし、このブログでは「結婚」について多いに語っていきたいと考えています。
(多分、読者のほとんどは男性と思われますし・・。)
腕がうなります。
ではまた次回
結婚は結局のところ、心の奥底からくる感情「passion」によって形作られるものだと思うのです。その「passion」とは何なのか。理由なく人を動かすそのモノに個人的にはとても興味があります。
コメントありがとうございます。
ttosiさんは夢を見たいタイプですか(笑)
「passion」いいですね~。
ここはあえて分析的に行きたいのですが、リンク先の言葉でいえば「結婚バブル」と関連させて考えていきたいテーマでもありますね。
ここでいう「バブル」というのは、実態からかけ離れて上がって、そして落ちて実態に回帰するプロセスのことですね。
「passion」は「バブル」的現象なのか、そうではないのか。
もし「バブル」だとしたら、このプロセスにはどのような意味があるのか、またどのような価値があるのか。
そして、もし「バブル」だとしたら、その「バブル」を受け入れるべきか、否か。
など。
難しいのは自分以外の要素が絡んでいるときでしょうか。バブルに任せて動けない状況になる。自分で自分を束縛している。ただ、バブルのとき、視野が狭くなると思います。言い換えれば視野を狭めてバブルを迎えている。客観になるのはバブルを避けようとする行動だと思います。どちらがいいかは、自分次第、自由が確保されているのですね。
コメントありがとうございます。
非常に本質的なご指摘ですね。
バブル的現象、それは変化をもたらすもの。
そして、バブルは自由の中からではなく、束縛の中から生まれる。
なるほど。
ttosiさんのコメントを読んで、熱力学のエントロピー増大の法則を連想しました。
自由状態では発散するエネルギーが、閉じ込められた系では暴れる。
しかし人は人それ自身が完全自由状態では何者にもなれないから、どうしてもクローズドなシステムとして存在せねばならない。
ゆえに人が人である限りバブルは不可避である。
我々はバブルとどう付き合っていくべきなのか、という話ですね。
なかなか難しい問題です。