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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

安治川親方の侍魂

2010-02-03 12:17:08 | 社会
私は、小幡氏のキャラクターが好きだ。

「ユーモラス」と「本気」の間に「ユニークさ」が存在している。
なんだろう、これは言葉では表現しにくいのだが、彼は一応准教授というそれなりに言葉に重みを求められるであろう立場にいるにも関わらず、自然と彼に絶対的な正しさを求めない感じふうわふわとある。
いや、「正しいかどうかなんて関係ない」というより、正しさなんか存在しないところに彼がいて、彼が言ったことが事実になる。
それは現実とは関係なしにそこでは事実なのだ。
でもきっとそれはギャンブルと同じなのだと思う。

意味不明か。

市場と人生(小幡積)
http://blog.livedoor.jp/sobata2005/archives/51421492.html


市場も分からないが、人生は、さらに分からない。

大相撲の安治川親方が辞職したが、彼の人生はどうなっていくのか。見守りたい。

論理的に考えれば、安定した人生を捨てて、何も得るものがないように見えるが、気持ちで動いてしまった彼の馬鹿な行動が、彼の人生に何を呼び込んでいくのか。

研究者としても、人間としても、やはり、見守りたい。


私は「安治川親方が安定した人生を捨てた」と判断するには早計だと思う。
「(計算高く)このまま親方続けても利益はさほどない。」と考えた可能性だってある。
ただ、私が強く思うのは、業界の人間には「馬鹿な行動」にうつるその行動が、結果として何をもたらすのかは定かではないということだ。
その不確かさを受け入れて、つまり合理を超越した判断をしたのだとすれば、私は「まだ日本に武士道は生きていた。」と思わざるを得ない。

これは内田樹からの受入れだが、新渡戸稲造によると「武士道とは合理を超越したもの」なのだそうだ。
Honesty pays in the long run.のpayすることを期待しないことなのだとか。
結果として客観的に利益をもたらすかどうかは関係のないことだそうだ。

なるほど。

これまでの学歴社会はもう直に終わる

2010-02-02 20:07:00 | 社会
長らく日本産業界が必要とした人材は、人間関係を構築する社交性と基礎学力(という名の「受験勉強に耐えうる忍耐強さ」)であった。
これは雇用者と労働者の間に長期雇用関係があったからで、深化された専門能力や卓越した創造性というものはあまり重視されず、新卒一辺倒での採用であった。
ゆえに、企業は大学に入学する能力だけが欲しかったから、学歴を重視する風潮が生まれる。
限られた資源(入学可能数)の争奪戦が起き、ポジティブフィードバックがかかる。
皆が学歴を重視することわかっているから、自分もそれに先回りして学歴を重視する。
学歴社会の誕生である。
学歴社会には実態がないが、皆がそれを現実だと思えば、それが現実になる。
皆が学歴社会と思うがゆえに学歴社会が存在するのだ。

なぜ、企業が専門性や創造性よりも、社交性と基礎学力を重視したかといえば、日本の産業は既存の産業における持続的イノベーションと生産性向上(効率化)において利益を上げることに専心してきたからであるし、それが持続的に可能であった背景がある。
日本が2千年の間にやってきたことは、世界標準を創造することではなく、世界標準をキャッチアップし、そして改善することであった。

しかし、キャッチアップすべき世界標準が見当たらないとき、日本が自らの進路を決定せねばならなくなった時、このモデルは破綻する。
今、日本産業の世界的競争力は新興国の台頭により相対的に低下し、世界最強を誇った輸出製造業の利益は低下傾向にあり、産業構造の転換は遅れ、新しい収益源を見出せずにいる。
この中で長期雇用関係は崩壊しつつあり、近い将来、それは間違いないものになるであろう。

入学する能力を問うという意味での学歴社会はもうすぐ終わる。
なんのことはない、人類の歴史から見れば高々50~100年程度のわずかな瞬間の出来事でしかない。
今後、どういう大学が評価されるかは、日本の産業構造がどのように変わっていくかによって決まるだろう。
評価基準が変われば、大学も教育も変わる。
いや、もはやこのような問題設定自体が時代遅れになりつつあるのかもしれない。


就職氷河期ということで、就職活動中の学生の悲痛が聞こえる。
ついつい、このようなエントリをしてしまったが、学歴を重視するような企業なら、社員に求める能力も先述した能力なのだ。
学歴で否定されたからといって人格が否定されると思う必要はない。
そういう「旧来のビジネスモデルをやる企業なのだ。」と考えればよい。
それが良い悪いというつもりはない。
お互いの認識のギャップが埋まったというだけの話だ。
なんの救いにもならないが。

「日本の民主化」とは「空気を変える」こと

2010-01-26 17:02:56 | 社会
ようやく当Blogと似たようなことをいう論客が現れました。
「国体」とは「國體」のことでありますが、簡略的に「国体」とします。


後日、内田樹氏の「日本辺境論」を基に「国体」というキーワードを使って、私的日本論を展開したいと思います。
日本辺境論を読んでみて、やっぱり彼とは考え方が似ていると再確認したのでした。
今回は単に当Blogの方がより深くこの問題を捉えているよという宣伝です。

小沢vs検察 「国体」との最終戦争の行方(カトラー:katolerのマーケティング言論)
http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2010/01/post-33e3.html


国家とは本来人間が作りだしたシステムであるから、為政者の権力意志を表現している。しかし、日本にあっては、それは天皇を頂点とする「国体」という曖昧な言葉で覆われ、誰が権力者なのか、顔の「見えない構造になっている。この「顔の無い統治構造」こそが「国体」の本質であり、日本の高級官僚たちは、その「国体」の一部を担っているという自覚があるから、強烈な使命感とエリート意識を持ってきた。

敗戦によってこの国の全てが灰燼に帰したが、マッカーサーの下で制定された平和憲法では象徴天皇制がとられたために、こうした統治構造とエリート官僚達の意識構造は、戦後になっても基本的には変わることがなかった。米国の占領に当初は怯えていた官僚たちも米国と手を結びさえすれば、「国体」の構造は温存されることを理解して、親米国体主義ともいえる戦後の奇妙な官僚至上主義が形成されていった。

[中略]

自民党による55年体制が、昨年の夏に終焉したのと同様に、外交、経済、それぞれの政治局面で、パラダイムが変わったことをメッセージとして出し続けることができれば、この陣取り合戦にも、ぎりぎりの所で勝てると小沢はふんでいるのではないか。

とすれば、壊し屋、小沢一郎が、政治家として最後の目標に据えているのは、実は、顔の無い統治構造「国体」そのものを壊すことかもしれない。
国体が壊れる時、この国は、千々に乱れて崩壊してしまうのか、それとも成るようにしかならないのか、その答えはまだ見えていない。


「国体」は絶対に負けません。
なぜなら「国体」に実態はないし、そもそも「国体」が何かは誰にもわかっていないからです。
「国体」が何かがわかっていないのだから、「国体」を倒すことができようはずがありません。
「国体」とは、その場に参加している人間達の間に漫然とある空気が生んだ感覚で、掴もうとしても誰にも掴めないのです。

では、当Blogで繰返し主張する「小沢の目的は日本の民主化」とは何でしょうか。

それは、新しい「空気」を作り上げることです。
これが「今でも日本は民主主義国家じゃん。」という反論に対する私からの回答です。

私のように「日本の民主化が必要だ。」という人の問題意識には、民主主義というものが民主主義制度のうえによって立つものではないという考えがあるのです。
民主主義制度を採用するから民主主義国家だというのではなく、その場にいる国民が民主主義を理解することによって初めて民主主義国家になれるという意味です。
形式論を述べているのではありません。

私が述べるように、もし日本における民主主義がうまく機能していないのだとしたら、民主主義制度を採用しているのに、その民主主義制度がうまく機能していない原因がどこかにあるはずです。
その原因は何でしょうか。

私は「空気」だと考えています。
その「空気」を変えるために必要なものが、何度も繰り返すように社会のダイナミズムです。
だから、社会の柔軟性を失わせ「空気」を固定化する阻害要因を排除しようとする小沢の志に私は賛同するのです。
このことについては、今後も議論してきたいと思います。

「犯罪行為を権力闘争への置き換えるという論理のすり替え」というような批判をする人がいるのですが、私にそのつもりはありません。
単純に小沢批判が稚拙すぎることへの批判です。
興味のある方は最近アップした下記3エントリをご覧ください。

小沢バッシングに思うこの国のかたち
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/5d4f9e273e8a4aad203e5a289859a5d1

小沢は民主主義政治家
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/15018de5306aeb659f9d77a10bec998b

国家権力に対峙する方法について考える
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/92071e9d212d3fef66c7e339622463b6

気づくと他にも似たような内容のエントリをたくさん書いてしまっているのでまとめなきゃですね・・

国家権力に対峙する方法について考える

2010-01-21 16:55:14 | 社会

題名のわりに軽い内容です。


池田信夫氏がプリティなテーマで鋭く日本(京都)体質の本質を切り抜いている。
つい先日、私も少し異なる観点で「小沢バッシングに思うこの国のかたち」で「日本では表象としての絶対的な支配者を排除する力が働く」という主旨のエントリをしたばかりであった。


京のお茶漬け(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51348480.html
(ほとんど全文コピペ,太字による強調は私によるもの)


[前略]

実際の京都人は、排他的で冷たい。ていねいに話すのは、「よそ者」に気を許していないことを示しているのだ。

これには理由がある。京都には1000年以上にわたって国家権力の中心があり、街中が戦乱に巻き込まれる体験を何度もしている。権力が変わると、きのうまでの隣人が敵に回るといった経験が繰り返されてきた結果、「一見さん」を信用しない習性が根強く残っているのだ。魯迅の小説に描かれているように、人間が国家権力と隣り合って生きていると猜疑心の固まりになる。幸い日本は国家に対峙した経験があまりないが、京都だけは例外的に権力を意識し続けた都市である。

「京のお茶漬け」というのは落語のネタだが、それに近い風習は(少なくとも私の子供のころは)あった。「もう遅いさかい泊まっていきなはれ」といわれると、「あしたは朝早いさかい」と辞退して帰る。「泊まっていけ」というのは「早く帰れ」という暗号だが、はっきりいうと相手は気を悪くして敵に回るかもしれないので、あくまでも婉曲にいうのだ。その暗号を理解できるかどうかで敵を識別する意味もあるが、本当のよそ者が誤解して泊まったら大変なので、こういう表現の間合いは非常にむずかしい。

京都にながく共産党府政が続いたのも、このような面従腹背の習性によるものだろう。自民党と共産党を競わせ、決して一つの権力にはコミットしない。こうして昔からマルクス主義に親しんでいるので、京都人は社会主義にも幻想を持っていない。そういう土地に育った私から見ると、国家が永遠に債務を返済してくれると信じる人や、派遣村で貧しい人々を救えと国家に求める人は、権力に裏切られたことのない幸福な日本人の典型にみえる。そういう人に限って「反権力」を語ったりする。



あの織田信長ですら手こずった1000年の歴史を持つ京都の面従腹背の文化は、明治以降に構築されたたかだが100年そこらの官僚機構よりも手ごわいかもしれない。

しかし、この両者には共通点がある
そのことについて、前回の焼き直しだが言い回しを変えて説明しよう。

京都における天皇というシステムは、桓武天皇が奈良の平城京から平安京に遷都した時から、明治初期に東京へ遷都されるまでの間、いくつかの混乱期や荒廃期を経ながらも約1000年の長きにわたり維持された。
この実質骨抜き状態になりながらも1000年にわたり維持されたことは注目点である。

桓武天皇は、平城京における強大化した寺院系勢力を退けるために、既得権益者の抵抗にあいながらも京都への遷都に成功したが、その既得権益者が闊歩していた平城京が都であった期間はわずか100年にも満たない
「権力は腐敗する」という言葉があるが、たった100年であっても天皇の地位を脅かすほど既得権益者の力は強大になる。
京都のように1000年という長期にわたって権力構造を健全に保つためには、工夫が必要であった
それは権力構造を複雑にし外部の誰にも解けないパズルを構築すると同時に「表象としての絶対的な支配者」を認めないようにすることである。

このシステムは誰か1人が設計したものではなく、天皇システムの周囲にいる関係者のある種の防衛本能によって、それもいくつもの困難とともに長い年月がかけられ、少しずつ構築されたものである
1人の人間が設計したものなら外部の人間にも賢ければ解けようものだが、数え切れないほどの者が幾世代にもわたって共同で作り出した複雑系システムなのである。
これは暗黙知的なものではなく形式知化できないほど複雑に作られた知であり、捉えどころがないのではなく全容を把握するのが難しいといった類のシステムである。

天皇システムが生き残るためには、権力構造が複雑なだけでは不十分であった
なぜなら、その場合、相手を権力構造そのものに引きずり込まなければ効果がないからである。
システムの存在そのものを否定する集団には効果がない。
ここで出てくるのが「表象としての絶対的な支配者を認めない」ことである。
これは、目立つ、目立たないということではなくて、「実質として存在する」のではなく「名目として存在する」ということである

君臨すれども統治せず」の極意である。
これは良心でもなんでもなく、統治しないことで己を守るのである。

権力を狙う外部者は、実質的な権力を手にすることができれば満足するからである。
そういう形で征夷大将軍になったり関白になったりする人がいたのだ。
(織田信長はそれでも満足できなかったので消されてしまった。小沢一郎みたい。。)
だから天皇システムは名目として存在し、実質は他に譲るのが得策である。
端的にいえば「私(天皇)はお飾りで、実質的に偉いのはあなたですよ。」ということである。

空っぽの有用性」で天皇の真空エネルギーについて触れたが、天皇が実質的に権力を持っていないということは、むしろ周囲に認知されて意味があるのである。
「みんな偉くないのを知っているのに、偉いと思っている。」ということが重要で、それがなんとも日本的なのである。


そういう体制を構築できた環境的要因については前回のエントリで述べているのでそちらを参照。
外敵の侵入に怯えなくて済む限り、名目的な支配者と実質的な支配者を分け、人々は名目的な支配者を崇めて暮らすことで無駄なコンプレックスを抱かずに済ませたというのが当Blogの主張である。

そういう意味で「象徴天皇制」という考え方は、本質的に昔と何も変わっていない。

話が少しそれてしまったので本題に戻る。


この天皇システムの仕組みは、今でも形を変えて官僚組織に受け継がれている。
しかも今度は逆側から天皇システムを利用しているといっていいだろう。



官僚組織を幾世代にわたって複雑に作り上げ、外部の人間には理解できぬようにし、「名目的な支配者」=「政治」に譲り、「実質的な支配者」=「官僚組織」とし、国民の目を政治に向けさせ、人々に政治を見下させることで人々のコンプレックスを発散させる。
マスコミには政治を叩かせ、政治家に自分達の都合のいいように武器を渡して国民に向けて「政治の責任です。」と言わせる。
政治家にとっても政治の責任なら自分を必要としてもらえるので悪いことではない。
(「なんとかしろ。」と国民に言わせる(つまり必要とさせる)のは政治家の仕事の一つである。)
実質的な支配者そのものを否定するものが現れれば、織田信長を消し去るように寝技で排除する。


さて、我々にはどのような対抗手段があるだろうか。
答えはある。


京都にながく共産党府政が続いたのも、このような面従腹背の習性によるものだろう。自民党と共産党を競わせ、決して一つの権力にはコミットしない。



天皇システムを国民側が逆に利用するのである。
競わせ一つの権力にコミットしないことだ。


本来、官僚機構と競うべき政治が機能しないうえ、さらに官僚機構と政治を抑制すべきマスコミも機能していないという批判はあるだろう。
だが、ここで登場するのが「インターネットによる市民の政治参加」だ。
そもそもマスコミとは市民から権限が委任された存在であるので、それが機能せぬなら、その役割はより直接的に市民に近づくことになる。
専門家個人やその道の有識者がマスコミに変わって統治機構を抑止する力になるであろうし、それは不可避である。
(なぜ不可避かについてはまた後日)

もう一つは、外敵を呼び込むことだ
そして、そこに新しい旗を打ちたてる。
そうすれば人々は新しい権力にコミットする
権力の乗換えだね。

「政治とカネ」の問題で置き忘れられる2つのトピックス

2010-01-21 11:16:13 | 社会
日本を騒がしている小沢一郎に関連する「政治とカネ」の問題だが、大局的に見ると2つのトピックスがある。
1つは、民主主義の根幹と言われる「よく知らされた市民(Well known public)」をどう実現するのかということ。
もう一つは、「政治の役割」の定義をどうするのかということである。

前者について、上杉隆氏がわかりやすく指摘をしている。
米国内で指摘された「軍産複合体」と同じように仕組みを持つ「官報複合体」という存在が日本における「よく知らされた市民」の実現を阻んでいるというものだ。
構造としては戦前の「大本営発表」と変わらぬものだと彼は主張している。
(もちろん新聞社の人達は否定する。「我々は検察と緊張感持って仕事をしている。」と。主観的評価で実態を的確に把握するのが難しいという好例である。)

小沢問題で検察リークに踊らされるメディアへの危惧(上杉隆)
http://diamond.jp/series/uesugi/10110/


密室であるはずの取調室の会話が即時に新聞紙上に踊るのだろうか。なぜ、検察からのリーク情報は止まないのか。

 そもそも捜査が順調な場合には、検察は絶対に情報を洩らさない。筋のいい事案を追っているときは、たとえば朝刊に「きょう○○を逮捕へ」という具合に、結果が出た段階で初めて世間に知らされる。

 ということは、事前にメディアに捜査情報が漏れる場合は、捜査が芳しくない状況にあるか、あるいは「死に筋」であったりする。つまり、リークによって局面を打開するためにメディアを利用するのだ。

 この1年弱の小沢報道も同様の可能性が高い。贈収賄、斡旋収賄、脱税などの文字が躍り続けているが、現時点では、元秘書と現職秘書の政治資金規正法違反にぎすない。


「政治の役割」という話題については、ここでは軽く触れるに留める。
(これまでも当Blogで度々触れてきただけでなく、説明が長くなりそうなので日を改めることにする。)

日本の識者やマスコミというのは、片方で加点方式の人的評価を賛美しておきながら、もう片方で旧来の減点方式の人的評価を実際にするという、八方美人ぶりを発揮している

政治家は1つでも法律に違反すると政治生命が絶たれなければならないのか。

「日本は法治国家だから」と言う人々もいるだろうが、しかしその「法」は所詮人間が作ったもので、時代とともに変えていかなければならないものでもある。
その時々に、法による利益と損失のトレードオフを鑑みて成立・修正・削除されるべきものだ。
それに、そもそも法律で何かを規制するのは、皆でその法が守られることによって得る利益が社会的にみて価値があるからで、法そのものを守ることに価値があるわけではない
ただ、「公平性」というものが人間社会の安定において非常に重要な要因であるため、法の適用がケースバイケースであると問題が生じするため、法は名目的に一律的に適用されなければならないとされている。


速度違反なんかいい例だ。(法律家の方々はいや、それは質が違う話だといわれるかもしれないが、マクロで見れば同じである。)
あんなの運が悪いと捕まるが、ほとんど99%は捕まっていない。
速度違反を100%捕まえられると、国民が困るからそんなことはしない。
取り締まるコストが高いから100%でないだけだという人がいるかもしれないが、違う。
もし技術的に100%取り締まれるとするなら、法律を改正する必要が出てくると思われる。
そもそも100%取り締まりたいなら国内で販売される車にメーカー側のコストがかかっても速度制限を設けなければならないが、そんなことはしない。
あくまでも指針なのである。
法律違反がだめだというなら「あなた制限速度40kmの道路で80kmで走ったことあるから、あなたに小沢一郎を追求する権利はない。」と言われたらどうするのだろうか。

ここでの問題は、法律にレベルの高低があるとかないとか、そういうことではなく、「罰を与える」ことが法律の主眼ではないということだ。
水戸黄門のように悪者に懲罰を与えるのが法律の仕事ではない。
社会的価値に照らし合わせて「みなで守る必要のあるものかどうか」が主眼なのである
罰を与えるのは、あくまでも「皆で守らねばならないということを認識させるため」と「公平性の担保」のためである。

他にも犯罪の抑止という観点もあろう。
たとえば、性犯罪者を獄につなぐのは、たとえその犯罪者の人権を犠牲にしたとしても、社会的に見て、その人を市中に出すのは危険だからである。

「あいつ犯罪者だから人でなし」みたいな議論は相当危ない議論だ
太平洋戦争中に日本国内で起きた言論統制を許した雰囲気とは、まさにそういう発想に基づくものだった
犯罪は相対的な基準に基づく判断だが、その相対性はあくまでも自分達の利益に適うかどうかによって評価されるべきものなのである。

あいつにはこういう過去があるが、でもあいつのこの能力は、社会のために役に立つから、社会のために、あいつにこういう仕事をやらせる

という発想ぐらいできないものだろうか。
「悪者は獄に繋げばいい」みたいな発想は大変に危険なのである。

小沢バッシングに思うこの国のかたち

2010-01-19 13:16:24 | 社会
駄文&一面的な見方で申し訳ない。

連日の民主党の小沢一郎幹事長に対するバッシングを見ていて、日本という国は、まっこと保守的な国であるなと思わされる。
(「保守」と書くと誤解を生むのが日常茶飯事であるが)

(この手の議論は使い古されているのだが)
面白いことに、日本という国では、個人としてではなく総体として見た時に、「表象としての絶対的な支配者」を排除する力が働く。
(ポイントは"表象として"の部分だ。)
歴史を紐解いて欲しいのだが、この国では皇帝も絶対王政的な王も存在したためしがない。
実質的な支配者として実権を握った者や、王になろうと目指した者は多く入るが、絶対支配者としての王になることに成功した者はいない。
(3,4000年前まで遡れば日本にも存在するのかも知れないが不明。)

話を単純化して述べれば、日本人は「支配者が嫌い」だからである。
(歴史といってるけど「日本人」が成立したのはいつの時代だよ?と思うあなたは融通の利かない人だ。)

これには理由がある。
今日は、その話をしよう。
(肯定・否定を問わずコメントを待つ!)


そもそも、なぜ「支配者」なる階級が存在するのだろうか。
この世に「支配されることが好きだ」なんていうのはいわゆる変態と呼ばれる少数民族だけだ。
にも関わらず「支配者」は存在できるのだろうか。
歴史が好きではない人は「武力や経済などの理由で恐いから従う」と考えるであろう。
しかし、ミクロではそれで正しいかもしれないが、マクロでは違う。

(実は過去に当Blogの主張の焼き直しだ)
支配者が存在できる本当の理由は「被支配者が支配を必要とするから」なのである。

一番わかりやすい例は「戦争」である。
戦争は勝つか負けるかで結果が大きく異なる。
勝てば相手を従えられる可能性があるが、負ければ悲惨である。
戦争は非常にリスクが大きい。
だから戦争をする以上は負けるわけにはいかないのである。
(負ける戦を仕掛けることはある。感情が理性に勝つ時だ。)


だったら、戦争しなきゃいいじゃん。
そうすればノーリターンかもしれないがノーリスクだぜっ。と思うあなた。
めちゃくちゃ間違っている。(そんな人いないと思うけど)
だって自分が戦争したくなくても、相手が戦争しかけてくるんだから!
戦争したくないから外交手段に訴えかけ、そして攻めてきたから仕方なく防衛線張って専守防衛しようとするけど、相手はルール無視の思う付く限りの姑息な手を使ってくるんです!
しかも和解しようと外交的な妥協を重ねれば重ねるほど相手が増長するだけ、さすがに切れます。
「これを打ちのめさずして何が正義か」といわんばかりに!

戦争に負けるのを座して待つ胆力のある国についてはここでは触れない。(現代に存在するとは思えないが)
しかし、「負けたくない」と思うのならどうすればよいか。
それは「強くあること」だ。
強くあるためにはどうすればよいか。
それは「みんなの力を結集すること」である。
みんなの力を結集するために必要なものは何か?
それは「強いリーダーシップ」である。
国難に当たっては国家総動員的な協力が必要である。

で、そのための仕組みは?

代表的な仕組みが「ピラミッド型組織」である。
バラバラの個人から成る集団を組織的にまとめるには、意思決定の集約が有効である。
意思決定をそれぞれの個人に委任していたのでは組織的に無駄が生じてしまう。
個人レベルで策定される戦略では、ミクロで正しくともマクロで正しいとは限らず、組織としての力が半減する可能性が大きい。
組織としての力を最大化するためには、目的に対して無駄なくその利益を追求できるよう、組織を徹底的に合理化および効率化することが重要である。
ピラミッド上位に意思決定を集約し、指揮権を持たせるのだ。
これが軍隊式ピラミッド型組織の理由であり、これは「階級」が生まれることを意味する。
「命令する側」と「命令される側」である。


もちろん目的に応じて適切な組織の形は異なる。
一つの目的に集団として一心不乱に取り組むのに適切のにピラミッド組織は有効だが、答えがなく、何が成功するかわからないようなイノベーション創発を目的とするのであればピラミッド組織は個人の自由を奪い、創造性を失わせるため向かない。
最近では「逆ピラミッド型組織」の有用性なども議論されている。

戦争などが予測されるような状況では、国民は自分達に明るい未来を提示できる強いリーダーシップ、つまり支配者を求めるであろう。

この本質的な解釈は「被支配者は支配者の支配に順ずることで得る利益を求めるゆえに支配される道を選ぶ。」なのである。


これまで「なぜ支配者と被支配者がいるのか。」ということについて簡単に理由を述べた。
次は「なぜ日本人は支配者を嫌うのか。」という問いについて答えよう。

日本人が支配者を嫌う最大の理由、それは「名目的な支配者が必要ないから。」である。
先述したような意味で、支配者を必要とする局面が少なかったことが大きい。

例えば、日本は外敵の侵略をほとんど受けずにこれた。
侵略の危機が訪れた「白村江」「元寇」「黒船」「アメリカ(太平洋戦争)」の時はいずれも中央集権化が促進されている。
例えば、お隣の中国に目をやると領土争いはひどいことになっている。
様々な民族が入り乱れての支配権争いにあけくれ、自然と皇帝のような支配者が必要になったのだ。
外敵の侵略がほとんどなかった日本はずっと緩い連合体でこれた。
(必要がないのにあえて階級を意識する必要はない。)
戦国時代などに織田信長のような強権者が現れたが必要なくなったタイミングで排除された。

多くの時代で内乱や人心の乱れなどは経験したが、実質的な権力者によってほどよく統治されていたのだ。
天皇についても支配者であった時期は短く、そのほとんどは表象としての存在であった。
いつの時代も天皇が意識されていたかについては横に置くとして、日本人は表象としての権力者として天皇を認めつつも、実質的な権力が他にあることを知っていた。
それが誰であるかもだいたい知っていたり、実態としての支配体制があったとしても問題ではなかった。
名目としての支配者を認めないことで無駄なコンプレックスを招かず、緩い連合体を築き、そこでコミュニティの構築に専念してこれたのだ。
(抑圧されている人々のコンプレックスは第2次世界大戦も生んだし現代ではテロリストを生んでいる。)

それともう一つ日本人が支配者を必要としなかった大きな理由がある。
自然に恵まれていたため、誰かの庇護に入らずとも生活することができた。
日本国内であれば、土地と人手と少しの創意工夫があれば、なんとか生きることができた。
必要なかったから誰も強いリーダーシップを望まなかったし、支配されずに済むならそれでよかったのだ。


さて、以上で日本人がなぜ支配者が嫌いかを述べた。(つもり)
この思想は今でも日本の中に残っている。
なぜなら今でも環境が残っているように思えるからだ。
(実際には残っていない。)


あくまでも一つ観点からの要因を説明したのであって、これで説明が尽きているなどとは考えていない。


そういう意味では、「皇室」という存在は実に如実に日本の性質を表していて面白い。
「皇室」をとりまく文化は日本独自に進化を遂げている現在進行中のものである。
現在の憲法や法律がアメリカの押し付けなどという批判があるかもしれないが、この意見は無意味だ。
なぜなら、現在の皇室はその押し付けられた法の上に自生しているからである。
たとえそれが鉄条網であっても、ここで述べているのはその鉄条網の中で自生した皇室文化を述べているのである。
人々は皇室が偉くないことを知っているのに偉いと思っている。
皇室に何も権限がないことを知っているのに象徴としての存在を認めているのだ。
その脇に政治という権力構造があることがより一層皇室の存在を際立たせている。
表象としての支配者を嫌っているし、認めたくないという心理の表れであると見ている。


もう一つ大きな理由に「非連続性」もあるだろう。

「出る杭を打つ」のが好きである。
なぜ好きか?
「非連続性」を嫌うからである。
なぜ嫌うのか?
劇的な環境変化を望まぬからである。
なぜ望まぬのか?
連続性を指向することこそが持続的社会を実現するのに最も合理的に思えるからである。
なぜそう思えるのか?
過去の失敗体験と成功体験を持つがゆえである。
過去の失敗体験と成功体験とは何か?
失敗体験とは太平洋戦争であり成功体験とは日本的社会民主主義である。
なぜそれが成功であり、失敗なのか。
・・・またあとで。

鳩山ブーメランは来年の流行語

2009-12-24 12:56:01 | 社会
鳩山首相が辞任したら流行語になる可能性は低いな。

鳩山首相のマニフェスト違反より深刻な問題(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/12/post-bf4e.html

最近、極東ブログを読むと噴出して笑うことが多い。
ネタは「鳩山ブーメラン」だ。

ここずっと面白いくらいに鳩山ブーメランが炸裂している。
ほんっとキレイにスパッと決まる。
かつてこれほどキレイなブーメランで人々を沸かせた首相がいただろうか。
鳩山首相の絶妙なキャラクターのおかげでブーメランがお笑いに変わる。

最近、finalvent氏が言う「鳩山首相のキャラ」がわかってきた。

自民政権だったら即死級のネタが豊富な民主党政権において、なにゆえ鳩山バッシングが中途半端なのか。
これまで当Blogでは「自民党に対する嫌悪感」が理由としてきた。
民主党に変わる野党が存在しないことが第一の理由だと。
その意見は今でも変わらない。
しかし、もう一つ重要な理由があることに気づいた。

それは「国民の誰も鳩山首相を真剣に見ていない。」ことだ。

内田樹の「日本辺境論」ではないのだが、日本人は日本のことを日本の外から眺めているのである。
鳩山首相のことはイコール自分達のことなのに、客観的に見ているのである。
そして、さらにいえば客観的にまるでTV番組を見るように鳩山首相を、そして政治を見ている。

極端なことをいえば、多くの国民が、今この瞬間に政治の世界で起きていることを「政治」というフレームワークを通してしか見ておらず、「自分」というフレームワークが介在していないのだ。

これは、日本人の「平成の坂本竜馬」などといった英傑を求める思想と関連があるのだろう。
政治はお上で、お上のことは誰かがなんとか解決してくれるものなのだ。
日本人にはどうも「社会」という概念を理解することが難しいようだ。
自分達がどのように社会と関わるべきかについての考察が根本的に欠けている。
(昔、社会という言葉はなかったようだ)

根底にあるのは、ある種の謙遜。
日本人が美徳としてきた概念である。
日本人は、他国に比較して自己能力の客観的評価に優れている

「私はたいしたことないから、ここは専門家の人に任せたい。」という感じだ。

これがアメリカ人だったら

「私ならできるかもしれない(やらねばならない)、やってみます。」になるかもしれない。


なぜこのような思想が日本人の根底に流れているのかは、いつか語りたい。

長所でもあり短所でもある、この日本人の思想性質に、鳩山首相のキャラクターが重ねあわされると、無関心に似た寛容的関心に変わるのかもしれない。

鳩山首相というキャラクターが政治を自分とは関係のないフレームに押し込めるのだ。
彼に何か大きなことが成せると思っていないから。
(つまり、自分に直接影響のある形で損失をもたらす雰囲気がしない。一種の諦めである。)

これが小沢だったらお笑いにならない
彼はやってしまうし、ゆえに彼がコケたら洒落にならんからだ。

まぁくだらないことを愚考したわけだが、
おそらく根本的なところは、国民のほとんどは日本の将来に希望的観測を持っているということなのだろう。
(人間には自然と楽観する習性がある。悲観ばかりでは生きていくのをやめてしまうだろう。)
そして、自分達の求める政治が実現されるまでには幾らかの時間を要するというのも覚悟していると。
その希望的観測の根拠は実はないのだが。

時間がある時にこのあたりの話をしたいと思う。(いつになることやら・・)

推奨図書
・ブラックスワン
=> 不確実性に対するものの考え方について参考になる。
・アニマルスピリッツ
=> 人間が本能的に持つ不合理性について知るのに参考になる。

公正報道が生み出す社会不平等、大局報道を指向せよ

2009-10-28 22:53:01 | 社会
ちょっと強引な理屈ですが、言いたいことは伝わるのかなと・・

“郵政改革の大転換”に見る日本の宿痾
~なぜ、焼け野原にならなければ改革できないのか (辻広雅文)
http://diamond.jp/series/tsujihiro/10088/

これにはシビれた
是非、ダイヤモンド・オンラインのようなマイナーメディアだけでなく、マスメディアで彼の意見を取り扱って欲しい。
彼の意見を知らねばならないのはビジネス・インテリ層ではなく地方の中高年層なのだから、アプローチしなければならないメディアは、日経以外の全国区の新聞と報道ステーションなどの報道番組、とりわけNHKである。

映像コンテンツが当たり前の時代なので気づきにくいが、メディアに文字だけでなく映像が加わったことは、人類史上で非常に大きな意味がある。(哲学なんかをやっていた人には極当たり前の認識なのだが)
映像ベースのメディアが人の心象に与える影響は、文字ベースのメディアとは比べ物にならないほど大きい。
第4権力といわれるマスコミのうち、TV局の果たす役割は、普段我々が意識しているよりも遥かに大きい。

NHKは報道において公平性を保たねばならないため政治的に中立であろうとする。
しかし、完全に中立を指向してしまうとストレートニュースのようになり、何のメッセージ性もないチャンネルになってしまう。
(もちろん、ストレートニュースでいいではないか、という意見も多々ある。)
政治的中立を見せ掛け上保ちつつ、これを避けるためには、どうしても弱者にスポットを当てるしかない。
弱者側の立場に立てば、どのような立場においても正論を主張できるからだ。
弱者救済を是とする限りにおいて。

おかげで国民には弱者バイアスが植え付けられる。
<私は弱者報道の価値が小さいという主張をしているのではない。
社会には数多の問題があり、我々はこの問題をより冷静かつ平等に評価すべきなのであるが、弱者バイアスは平等な評価を著しく阻害し、偏向させる
弱者は様々なところに存在するのに、一部の弱者のみにスポットがあたり、その弱者のみが救済され、そしてその救済によって他の弱者をより酷い環境に置き、また他の弱者を生み出すのだとすれば、それは「弱者救済」と呼ぶことができるのか。
その意味での問題提起である。

みな可能性的には「未来の弱者」なのであり、みなそれを恐れている。
本来、政策立案者は、社会の構成員はみな潜在的な弱者であることを前提にしなければならない

もちろん、全ての弱者にスポットを当てることも、あらゆる状況を想定して政策を立案することも不可能であるので、政策立案においてある程度の妥協を受け入れることは仕方が無い。
我々は自分達自身に不安を抱きながら悩みながらも手探りで政策を進めるしかない。
が、いかに我々が不完全な知性体であろうとも、我々自身の最善を指向して物事を考えることは、より多くの弱者を救済する意味で有用であると、私は信じる。

不完全な我々は失敗する。
10人より20人を救おうとして100人を陥れることもあるだろう。
だが、10人を救うことしか考えないで100人陥れるよりもずっとマシだ。
なぜなら100人を陥れた反省より、次は20人の救い方を変えることができるからだ。
そうすることでいつか100人を救うことができる。
(何も手を加えないことこそが最適だという意見もある。なんにせよ、より多くの人を救うためには何が最善かという話だ。)

私は、それこそが進化できることの素晴らしさだと考えている。
進化可能性(変容)」こそこの宇宙が相対的であることの重要な意味である。

だから、私が報道機関に求めるものは、公正さよりも、大局さである。
なぜなら、それこそが将来的な公正さを担保する最大限の努力の形だからである。

NHKスペシャル・セーフティーネット・クライシス 雑感

2009-10-15 23:50:01 | 社会
今更であるが10/4に放映されたNHKスペシャル「セーフティーネット・クライシス Vol.3」を見た。

日本では最近になって「子供の貧困」にフォーカスが当たるようになってきたが、この手の話は特段新しい議論ではない。
貧困について問題意識を持つ識者はもう何年も訴え続けているが、政治の世界には声が届かなかっただけだ。
いや、届いてはいたが、優先順位が低いままで、ほとんど手をつけられずにいた
しかし、民主党が政権与党になり、流れが大きく変わろうとしている。
重要なことは問題が解決に向けて動くのか、動かないかということである。
ここが注視されなければならない。(この点、湯浅氏はよく理解していると感じた)

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国家政府による貧困対策などの社会政策は、国家が国民生活に介入するということを同時に意味し、バランスの問題はあっても、どうしても社会主義的にならざるを得ず、ゆえにアメリカでは毛嫌いされ、ヨーロッパの社会民主主義国家で進んでいる。
そもそもアメリカ合衆国は国家権力からの脱却を目指した人達による国家であるから、国家政府を信用していない人が多く、社会主義的な性質を帯びた政策を嫌う傾向がある。
リーマンショックのような出来事があった後も、オバマ大統領の社会政策が苦境に立たされている様子を見ることができるのは、それでもアメリカという国が成長し、夢と希望に溢れる国家だからだ。
(優秀な人材も民間に流れるから、民間部門のイノベーションに期待しているという側面もあるだろう)
一方、ヨーロッパの古い先進諸国は日本よりも早く低成長時代が到来したため、問題の根本的解決策が求められた。
アメリカや新興国のように高成長を前提とした政策では、問題を解決できないことを早々に理解することができたのだ。
(それで同じく低成長時代に入った日本は先進国の先輩ヨーロッパに答えを求めているのである)

アメリカ型とヨーロッパ型のどちらがよいのかは、何をクローズアップするかに依存する問題で、単純には決められない。
どちらにも光と影がある。
もちろん、スウェーデンやデンマーク、フィンランドなどの北欧諸国の国民の幸福度の高さを見るにつけ、羨望の眼差しを持つが、それが日本においても適用可能かどうか、そしてそれが持続可能かどうかは議論がわかれるところであろう。
(そのあたりはこのページが参考になるhttp://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20091012/p1)

あと、ことさら主張されるのがサイズの問題である。
サイズの問題を想像するのは容易い。
あなたがある会社、スポーツサークル、なんでもよいがチームのリーダーだとしよう。
あなたが管理可能な人数は何人だろうか。
スーパーマンでも100人が限度であろう。
日本の学校の40人学級ですら先生一人では無理だと言われるくらいだ。
並みの人間ならせいぜい20人程度が限度である。
だから最低限のルールだけを厳密に守らせて後は自由にやらせる方が楽だ。
そうすると、中には天才的な才能を開花させる人もいるかもしれないが、中には没落する人もいるだろう。
没落する人が増えてきたら、みんなでがんばろう方針に切換えることもいい。
しかし、ここで問題になるのがサイズだ。
10人教室なら先生も一人ひとりをケアできるが、40人となると無茶だ。
一人ひとりに個別の生活や個性があるため、全てを網羅することは能力的に不可能だ。
全てを管理しようとして一人も管理できなくなり、破綻するパターンが目に見える。
あらゆるシステムは限界数までは効用を発揮できるが、それを越えると徐々に効用を失うのではなく、一気に破綻する。

(台風による鉄道網混乱をネタにトレードオフについて考えるを参照)
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0632d0bf67159250eba46909d346fa96

北欧モデルを日本に適用することは可能だろうか。
ここで登場するのが日本を道州制で北欧諸国並みのサイズに分割統治するというアイディアだが、問題も多い。
地方分権が進むと中央集権型国家に比べて、(日本に国家戦略なんてないかもしれないが)国家戦略の画を描きにくい。
全体最適が、半全体最適になってしまう(今の日本に全体最適なんて言葉自体が馴染まないけれど)。
何をするにも必ずトレードオフがあることを忘れてはいけない。

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戦後、日本は貧しかった。
親のいなかった人、学校に通うことができない人、住むところのない人、食うのも難しかった人もいた、みなそうやって生きてきた。
「私もがんばったんだからお前らもがんばれ」と言う高齢者の声が聞こえてきそうである。
(確かに今でいう「貧困」は数十年前まで「普通」だった。)

だが、それが可能だったのは、その人達が特段優れていたからではない(苦労は認めるけれど)。
経済がもの凄い勢いで成長していたからだ
彼らの成功を否定するつもりは全くないが、彼の成功は彼らの努力だけによるものではなく、そのほとんどは環境によるものだ
(彼らは認めないかもしれないがね。修羅場をくぐってきたなどといってね。)
(しかし環境がなければ成功することもできない。我々はお釈迦様の手のひらで騒ぐ孫悟空のようなものだ。)

しかし、今、日本経済は停滞している。
加速による力でバランスを保ってきたシステムが、加速が落ちることでバランスを崩しはじめている

ここで一度立ち止まって考えよう。
バランスが崩れていく中、セーフティネットの必要性を訴えるのはよくわかるが、セーフティネットを満足に張る事は可能なのだろうか。
「世界第2位の経済大国の日本が」なんて話をよく聞くが、GDPが第2位なんてものは単に相対的順位に過ぎず、2位だから十分な国力があるというわけではない。
そもそも日本には十分なセーフティネットを張る力があるのか
我々が今置かれている環境はどんな環境なのか。
誰かそれを検証してくれまいか。

どんなにがんばったって100%以上の力は出せないのだから、我々が目指すべきなのは、100%の力を発揮することと、限界値を引き上げることである
100%の力を発揮するためには「全体最適」がキーワードになるし、限界値を引き上げるためには「潜在成長力」がキーワードになる。
そのあたりは↓を読んでもらいたい。

『鏡の国のアリス』の「赤の女王」が言い当てた日本経済低迷の真相(辻広雅文)
http://diamond.jp/series/tsujihiro/10086/

やばいくらいにグタグタなエントリになってしまった。
NHKスペシャルを見た雑感ということで許してくれまいか・・。

安心社会と信頼社会

2009-10-13 23:19:40 | 社会
本エントリは誤解に基づく表現をしている可能性があるため、後日修正する可能性があります。

「武士道」より「商人道」に学べ(アゴラ、池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/770161.html


一時、日本社会の「道徳の崩壊」を嘆き、武士道の復活を求める議論が流行したことがあった。著者はこうした通俗的な「道徳教育」を批判し、むしろ市場のルールを守る「商人道」こそ重要だと説く。武士道の依拠しているのは、集団に忠誠をつくす安心社会の原理だが、商人道は不特定多数の相手と取引するための信頼社会のルールだ。日本人は互いを信頼しているなどというのは神話で、その実態は特定の集団の中での長期的関係に依存する安心社会だ。


人間によって構成されるシステムについて語る時「評判メカニズム」を避けては通れない。
特に緊密性の高いコミュニティでなくても、評判メカニズムは機能する。
オンラインショッピングやネットオークションなどがその典型だ。
いや、むしろネットのように情報過多かつアクセス・コストが低い世界では評判メカニズムは先鋭化し、アクセスは一部に集中する。
人気サイトとその他大勢といった具合だ。

ビジネスのグローバル化によって安心社会から信頼社会への移行が起きる一方で、ネット上のコンテンツの部分では評判メカニズムが先鋭化しているのである。
オープン・プラットフォームは信頼社会型へ、そしてその上に乗るユニーク・アプリケーションは安心社会型へ、という流れだろう。

結局のところ「安心社会」にせよ「信頼社会」にせよ、要は何によって「信頼」を得るのかという話なのである。
評判によって信頼を得るのか、組織的、制度的なものによって信頼を得るのかという違いだ。

人間の趣味趣向のように人によったり時代によったりで変わるものは、つまり定義の難しいものは評判メカニズムの方が信頼を得やすいし、権利管理や課金システム、裁定処理などの比較的定義の容易なものはルールの明文化がなされた方が信頼を得やすいだろう。

責任論から脱却せよ

2009-10-07 22:56:33 | 社会
セーフティーネット・クライシス - 子どもの貧困は社会の損失、子育ては「自己責任」ではない(すくらむ)
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10358230900.html

時間がないので詳細は省くが、この手の議論が迷宮入りする(コンセンサスが得られない)のは、結局のところ「誰の責任か?」みたいなことが本質的な問題ではないからだ。
(社民や共産の人達の主張に全く説得力がないのはこのためだ。)

まず、貧困問題を社会的(道義的)責任として取組むのはナンセンスだと思う。
ましてや憲法に定める権利がどうのこうのっていうのは論外だ。
なぜなら、何をすることが正しいのかというのは誰にもわからないから。
憲法なんてものは人間が勝手に作ったものでしかない。
社会にとってメリットがあるから社会としてそれに取組む」というのは論理としてわかりやすいが「それをすることは正しいからそれに取組む」というのはかなり危険をはらむ発想だ。
正しさなんていうアヤフヤな旗印を立てると、思わぬ方向に進むともかぎらない。
正しさの認識が人によって異なるし、いつの時代も正しさの追及が暴力を生んできたのだ。
(フランス革命的な感じ)
対投資効果を基に積極的社会政策を肯定する方がよっぽどよい

これは非常に基本的なところだけれども、自分に意味がないなら自分としてやる必要はないように国家として意味がないなら国家としてやる必要はない

そもそも、「責任」というのは「そうでなければならないという認識」のことであって、実態のあるものではない。
無自覚な人に「責任とれ」って言ったって無駄なように、責任論は中身が伴わなければ意味がないのだ。
それを契約的に拘束力を持たそうというのは人類の知恵だが、無自覚を懲罰によって自覚に変えようとする発想は非常に暴力的なものである。
最も重要なことは論理的かつ合理的に納得することであるので、正しいとか正しくないということではない。
何が正しいか(誰の責任か)みたいな議論を続けるからいつまで経っても多くの人の納得を得ることができんのだ

まとまりがなく言葉足らずで、かなり乱暴な文章なのだが、書かずにはいられなかった。

少子化問題の本質

2009-09-16 22:50:34 | 社会
時間がないので簡単に。

増子化対策(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/09/13_1040.php


一見すると、それぞれの人の自由意思の結果のようであるけれど、親族形成が類的宿命である以上、それに逆らう行動をとることには、個人の意思を超えた強い規制力が働いていると考えなければならない。
人口の増減はその社会の「キャリング・キャパシティ」によって決定される(これは人口社会学の古田隆彦さんに教えてもらった)。
carrying capacity というのは一定の環境の中に一種類の生物がどれだけ棲息できるか、その上限数のことである。「環境収容力」とも「環境許容量」ともいう。
グッピーの雌雄50匹を栄養の十分な養魚鉢に入れておくと、卵が孵化するたびに成魚が幼魚を食べ、個体数の増加を抑える。さらに成魚同士が共食いを始め、九匹になったところで個体数が安定する。(古田隆彦、『日本人はどこまで減るか』、幻冬舎新書、2008年、47頁)
人間もこの法則から自由ではない。
列島の環境収容力は1億3000万人で上限に達した。
だから、これから安定的な個体数になるまで減り続けるであろう。


私は上記の考えに同意するのであるが、しかし彼は一つ見落としている。
彼の主張が正しければ、我々は個人の意思を超えた環境条件に制約されているのだ。
であるならば、ある条件下では日本の環境収容力は1億3000万人かもしれないが、条件が変われば数値も変わるはずだ

日本の人口が減ることが環境収容力に制約された事象であるならば、逆に環境収容力が増せば日本の人口が減るのではなく増える可能性がある。
いわゆる少子化問題への適切な取り組みとしての政治の役割は、環境収容力を制限しているボトルネックを発見し、取り除くことだ
もし、生物学的限界により環境収容力が頭打ちなのだとしたら、それはそれで我々が成すべきは華麗なる撤退戦であり、少子化対策でも増子化対策でもない。
少なくても「グローバル資本主義」などというイデオロギーが本質的問題なのではない。
(でも何度も読み返しているうちにやっぱり彼と私は表現は違えど似たようなことを言いたいと思っている気がしてきました。)
彼が最初に主張しているように、個人の意思を超えた環境条件に制約されていることの結果なのだ。

本質的には、やる必要を感じなければやらないし、やらなければならないと思えばやる。
環境に適用しようとした結果なのだ。
ただ、それだけの話だ。


この話は単純そうに見えて、実はあらゆる問題について共通する本質的なことなのです。
問題の本質を、イデオロギーや個々人の資質的なものに求めると必ず誤まった道を歩むことになります。
これについては後日まとめます。

交通革命構想の必要性について

2009-09-15 22:52:37 | 社会
Commute in Tokyo (ttosi's English Journal)
http://ttosi.blog.so-net.ne.jp/2009-09-15

ありがたいことに当Blogのコメンテーターとしてご活躍のttosiさんがBlogを始められたということで、早速トラックバックを打ってみたいと思います。
自分の書いたものに反応があるということは非常に嬉しいことです。
(是非、これをご覧の皆様も気軽にコメントしてくださると嬉しいです)
私は英語が得意ではないのですが、私もがんばって彼のBlogにコメントしていきたいと思います。

さて、本文についてですが、私はttosiさんの問題提起に非常に共感しています。
それでも一昔前に比べるとマシになったといわれますが、通勤ラッシュの解決策を示さぬ鉄道会社に腹が立って仕方がありません。
首都圏以外でお仕事されている方にはご理解いただけないかもしれませんが、通勤ラッシュの現状は本当に酷いのです。
通勤ラッシュがなければ痴漢問題や暴力事件も大きく減少させることができると思いますが、日本人が物言わぬ消費者であるためか、鉄道会社は有効な手立てを何もとってくれません。
(株主は何をやってるんだ!物言う株主はどこへ逝った?!)

痴漢は、今年1月から7月の間に870件も検挙されているんですよ!
ハインリッヒの法則がこれにも適用できるのかは謎ですが、1件の裏には30倍の潜在的問題があるとすると、870*30=25,100件!ですよ!
え~そんなに~?と思ったあなた。
ちょい読みしたオペレーションズ・リサーチ学会の資料によると、首都圏で毎朝通勤通学に利用する人は約 800 万人いるそうです。
つまり想定痴漢被害者が2万5千件でも、25,100/8,000,000 = 0.3%、1000人に3人です。
これを年換算し、適当に女性比率を2/5、その内に占める若い女性が1/3程度だとすると、若い女性の痴漢遭遇率は約200人に1人になります。
体験談なんかを考慮すると、感覚的にはもっと多そうですが、電車通勤の若い女性全員に占める割合として考えればまぁまぁ妥当かと思います。
(本当は路線や時間帯なんかも考慮しなきゃいけないので、ターゲットを絞れば遭遇確立は飛躍的に上がると思います。多分遭遇率50%はかたい)
まだまだ犯人が捕まっていない痴漢犯罪は多いのです!
あなたの愛する娘が痴漢被害に合っていることを考えてみてください!

あんな環境を放置しておきながら痴漢撲滅といわれても説得力がないんですよ。
昨日の記事とも関連するのですが、電車乗る人全員に高い倫理感を求める方が無理というもので、どうしても目先の欲求のためにリスク無視して手のばす(より正確にいえば手を置いておけばよい)奴がいるんですよ。
通勤ラッシュの惨状とはまさに人間に過度な忍耐を求める修行の場なのです。
考えてもみてください。
若い女性が電車に乗る際は、常に痴漢リスクを恐れなければならないのです。
こんな世の中でいいのですか。
(それ言うなら地方の生きるか死ぬかの人達の叫びも聞け!みたいな声も聞こえてきそうですが、その話題はまた今度します)
この問題は痴漢する人を罰するだけでは解決しません。
制度的な問題をクリアにするべきなのです。

(そもそも痴漢がなぜ犯罪かという哲学的問題についてはいつか語ります)

通勤ラッシュが嫌なら、電車乗らなくてもよい地方か、もしくは都心部に住めばよいのではないかというごもっともな意見があることも存じておりますが、そこは便益と費用のトレードオフでして、私のような費用負担に耐えられない一小市民には、どうしても通勤ラッシュ環境に身を置く以外に現実的な方法はありません。
長距離チャリ通勤すればとか、転職すれば、とか「そもそも論」を持ち出されると私には有効な反論を述べることはできないのですが、あえてここでは「劣悪な環境を少し改善することで社会全体を明るくすることができる。さすれば社会全体が活性化され、生産性が向上し、社会全体に寄与することができる。」という無茶を申し上げておきます。
また、裕福でない学生が一生懸命勉強して遠くても希望した通りの学校に通うことの意味も考えてあげてください。
彼・彼女らの希望を摘むことは社会全体のためにはならないことご理解いただきたい。

そこでなのですが、一筋の希望をご紹介します。

今となっては「こんなこともあったよね」的なネタになってしまいましたが、先の衆院選でボロ負けした幸福実現党のマニフェストは大変素晴らしく、その中でも「交通革命を起こす」というところには激しく共感したものです。
(といっても票は入れませんでしたが。)
リニアモーターカー構想などもありますが、部分的に抜粋するとだいたい次のような説明がなされていました。
都市部の交通網を整備し交通渋滞をなくし、電車は2階建て車両を導入してラッシュの緩和を図る。」と。
非常に魅力的です。
なにせ通勤は毎日のことですので、交通革命政策はそのありがたみを直接的かつ深く享受することができます。
首都圏周辺人口3000万人のうち、どれだけの人が通勤ラッシュに悩まされているかわかりませんが、かなりの人のストレスを軽減できます。
(2階建てなどの輸送能力の向上が通勤ラッシュの本質的な解決になるのかという問題はまた別途ありますが)

こんなことを言うと激しい非難にさらされそうではありますが、宮崎に高速道路作るくらいなら都市部の交通整備をしっかりした方がはるかに経済効果は高く、国全体のためになると思います。
(もちろん羽田拡張とか成田-羽田間アクセス高速化とかリニア構想とか、そういった国家的交通戦略を踏まえた上で)

東京というところは素晴らしいところのようです。
(私は神奈川県在住ですが・・)
東京と言う街の魅力(金融日記)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51583681.html

あくまで、全体最適の立場に立てばの話です。
しかし、政治の世界が個別最適の塊であることを私は認識しておりますので、私は安易に全体最適路線に立てとは言いません。
せめて、都市部と地方部とのバランスを少し見直して欲しい、そう思うだけなのです。

このような議論をすると、私はよく地方の人に「地方を重視しない」ことについてお叱りをうけるのですが、私はただ公平な負担とは、最適な分配とは何かについて話し合いたいだけです。
なんとなく、都市部の人間に地方の苦労を理解させることは、通勤ラッシュに悩まされる都市部の人間の悩みを地方の人間に理解してもらうことと似ている、そんな気がいたしました。

このあたりの「国家と都市部、地方部との関係」については後日持論を述べたいと思いますが、とにかく都市部も地方部もお互いに偏見なしで語り合いたいものです。

この件に関して地方の方のコメントを歓迎いたします。


当Blogでは所属、職業、住所、性別、年齢、信条、宗派、学派に関係なく、どなたでもコメントできる環境を目指していきます。
現在、コメントは承認不要になっております。
ただし、荒らし等の行為に関しては禁止させていただいます。