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「政治とカネ」に関する公認会計士の見識

2010-02-18 10:45:28 | 政治
ホリエモンのブログで知ったのだが、公認会計士の細野祐二氏が小沢一郎を巡る「政治とカネ」問題について鋭く突っ込んでいる。
私は会計超素人なのでコメントしない方がいいのかもしれないが、このレポートを信じると、今回の事件は単に「会計知識のない者による勘違い事件」にしか過ぎないと思わされる。
(少なくても元秘書3人の逮捕は異常)

もともと、東京地検特捜部というところは経済関連の知識が乏しく、経済犯罪に関しては空振りが多いと言われている。
「法律家は経済に関して疎い。」ということはよく言われている。
「法」と「経済」は、異なる専門分野であるし、利益を追求する資本主義はしばしば「日本国民の社会正義」に悖ると批判される。
しかし、そんな勘違いな空振りが堂々と許されているのは「国民が求める社会正義」の後押しがあるからだろう。

さて、細野氏によれば、鳩山首相の脱税は「真っ黒」だが、小沢の方は「限りなく白に近い。」ということだ。


一応、中立性のために、細野氏の背景を説明しておこう。
彼は検察と全く利害関係がないわけではない。
彼は粉飾決算に関わったとして特捜に逮捕され有罪判決を受けた。
現在、彼は最高裁に上告中であり、『公認会計士VS特捜検察』という書籍も出している。
『公認会計士VS特捜検察』で細野氏が主張する内容について、他の公認会計士による評価は極めて良く、会計としては全く違法ではないことに皆さん同意しているようです。
しかし、彼は検察をよく思っていないのは間違いない。

彼はまた日興コーディアルグループの粉飾決算を暴いた人であり、非常に実力のある会計士として知られている。
Amazonの著者紹介文にはこうある。


2007年2月、みすず監査法人(旧中央青山監査法人)の解散が発表された。日興コーディアルグループが、粉飾決算に関連して証券取引等監視委員会から史上最大の5億円の課徴金処分を勧告され、特別調査委員会が監査を担当した旧中央青山監査法人が事件に組織的に加担していたと報告書で明らかにしたことがきっかけとなった。

日興コーディアルグループの「粉飾」を最初に暴いたのは誰か。それは、本書の著者、細野祐二氏である。氏は前著『公認会計士vs特捜検察』で詳述したように、キャッツ事件に絡み、粉飾容疑の共犯として逮捕、拘留され、一、二審敗訴後、最高裁に上告中の身である。


では、レポートを見ていこう。

新月島経済レポート2010年3月号 「政治資金収支報告書」(細野祐二)
http://www.comp-c.co.jp/pdf/report20103.pdf

まず冒頭にこうある。(強調は私によるもの)


新聞だけを見ていると、たちの悪いゼネコンからの贈収賄事件かと見紛うばかりであるが、ここでよくよく冷静に起訴事実を見てみれば、容疑は政治資金規正法違反(虚偽記入)となっている。事件では、単に政治資金収支報告書に対する虚偽記載が問題とされているに過ぎないのである。

ところで、政治資金収支報告書とは政治団体の収支に関する会計報告なのであるから、本来であれば、政治団体の収支の事実に基づく会計処理こそがここで問題とされなくてはならない。ところが、これだけ膨大なマスコミ論評の中で、会計処理の是非を論じたものなどただの一つも見たことがない。会計を論じることなく、よってたかってその会計報告書の是非だけを騒ぎ立てているのである。見るに見かねて已む無く、小沢一郎民主党幹事長の政治資金規正法違反疑惑の会計的分析を行なう


つづけて、何が問題なのかについてこう述べる。


政治資金収支報告書の虚偽記載というのであるから、本来であれば、この資金移動の事実をどのように政治資金収支報告書に記載しなければならないかという会計上の正解がなくてはならないが、実はこれがない。信じがたいかもしれないが、検察官も正解を持っていない。なぜなら、現行の政治資金収支報告書では、単式簿記を前提とした部分的な会計報告書の作成が義務付けられているに過ぎないからである。

部分単式簿記においては、その記載範囲は自立的に決定できない。完全複式簿記であればここでの資金移動に対する会計処理は単一となるが、部分単式簿記では複数の会計処理が可能なのである。現行の政治資金規正法は部分単式簿記による複数会計処理の並存を認め、報告書における作成者の裁量余地を大きく残している。基準上裁量権の認められた会計処理に対して虚偽記載を主張するのは、一方の見解を強要することにより裁量権を否定するに等しく、これを無理して立件するのを国策捜査という


細かいところは、レポートを読んでいただくとして、細野氏は個人的見解としてこう述べる。


この報告書を見ると、小沢氏からの借入金4億円は平成16年の資金収支報告書の収入の部に見事に計上され、また、同年の特定資産・借入明細書には「借入金-小沢一郎」として記載されている。一方、世田谷区の宅地は、平成17年の特定資産・借入明細書に342百万円として記載されるとともに、同年の資金収支報告書中の事務所費415百万円の一部を構成している。

ここで不思議なことがある。例の小沢氏からの4億円の仮受金は陸山会の組んだ同額の定期預金で決済されたことになるにもかかわらず、そのあるはずのない定期預金が陸山会の特定資産・借入金明細書に計上されてしまっているのである。陸山会の平成16年の特定資産・借入金明細には、この年度の定期預金残高として4億7150万円が計上されている。

これが複式簿記を知らない(中途半端に)まじめな人の悲しいところで、石川議員は例の小沢氏からの仮受金をせっかく定期預金で返済して簿外化したにもかかわらず、年が代わって平成16年の政治資金収支報告書を作成する段になり、定期預金が陸山会のままで名義変更されていないことにハタと気がつき、これはマズイとばかりに、政治資金収支報告書に定期預金を計上してしまったのである

小沢氏の個人資産を政治団体の資産として計上するというのであるから、当然のことながら政治団体の資産は4億円分だけ過大計上されて貸借が合わない。そこで、たまたま問題の世田谷の宅地の登記が12月末に間に合わなかったことを思い出し、ならばこちらも4億円近いので、定期預金をこの年度に計上する代わりに不動産を翌年回しにしておけばちょうど辻褄が合うと考えたのではないか?見よ。石川議員の経理処理は翌平成17年以降に見事に辻褄が合い、平成17年に4億円の事務所費が計上されるや、平成17年と平成18年にかけて4億円の定期預金は消滅している


会計処理をどうすべきだったのかについてこう述べる。


ここで石川議員に会計上の正解をお教えしておくと、小沢氏からの仮受金4億円が陸山会の定期預金により決済されているのであれば、定期預金の名義にかかわらず、この定期預金は実質的に小沢氏のものなのであり、実質的他人所有の資産は政治資金収支報告書に記載する必要はない。4億円の仮受金が簿外となった以上、この定期預金も簿外にしておけばよかったのである。そうしておけば、定期預金が満期になる都度、銀行が自動的に借入金と相殺してくれるので、石川議員もややこしい事務所費との遣り繰りなどしなくて済んだ。何よりも、こんなどうでもいいことを問い詰められ、その答えに窮するあまりまさか逮捕されることもなかった


と、いうことで、今回の事件についてはこう述べる。


さて、石川議員の政治資金収支報告書作成をめぐる舞台裏が理解できたが、このことから我々は、二つの決定的な事実を知ることができる。石川議員は会計の基礎理解が決定的に欠けており、従って、石川議員に政治資金収支報告書虚偽記載の犯意を認定する事はできない。刑法上、罪を犯す意思がない行為はこれを罰することができない。(刑法第38条第1項)


検察官の主張をこうたしなめる。


平成16年の資金収支報告書には、小沢氏からの4億円が借入金としてしっかり計上されているのだから、検察官は、この4億円とは別の、例の4億円の仮受金を問題としている。
仮受金ではなく借入金だと言うのである。そんなことをすれば、この年の小沢氏からの借入金は8億円になってしまう。あの時は、同じ4億円が陸山会の周りをグルグル回っていたに過ぎないのであり、金が回転したからといって4億円の借入金が8億円に化けることなどあり得ない。既に論証したごとく、10月上旬の小沢氏からの4億円の現金受領は会計上の仮受金であり、仮受金は、現行の政治資金収支報告書上簿外とせざるをえない。これが法律上認められた部分単式簿記の限界なのであり、なく子も黙る東京地検特捜部といえども、ここに完全複式簿記の正義を押し付ける事はできない

そこで検察官は、“4億円の現金があって不動産の購入資金が賄えるのに、なぜ利息を払ってまでわざわざ4億円の銀行借入をするのか”と疑問を呈する。

「それは、この現金が人には言えないいかがわしいものだからに違いなく、きっとそこにはゼネコンからの裏献金が含まれているに違いない。宅地の登記を遅らせたのも、4億円の裏金が表に出せないからで、平成16年の4億円の入金が表に出せない以上、同じ年の3億5千万円の出金も表に出せるはずがない。」

これを邪推に基づく妄想という。検察庁特捜部の妄想は、5千万円の裏献金という供述を水谷建設から引き出したが、裏づけとなる客観証拠がついてこず、これでは公判維持可能な証拠にはならない。仮釈放に足摺りする服役中の水谷建設幹部をシバキ上げてとった苦心の供述なのであろうが、特捜検察も、莫大な国費を使って無意味なことはやめたほうがいい。

もとより、不動産の購入資金があったからといって、それを使ってしまえば運転資金が枯渇するのであれば、どんな人でも借入れをしたいと思う。ここで支払われる利息など運資金枯渇の恐怖に比べればものの数には入らない。運転資金確保のために利息を払って借入をするというのは、きわめてまともな事業の常識なのであり、小沢氏は事業家としの常識をもって政治活動を行なっていたに過ぎない。そんな常識的借入に対して、「利息を損してまで借入をするのはおかしい」などと言いがかりをつけているのは、手厚い身分保障に生きる検察官には運転資金枯渇の恐怖が理解できないからで、ただそれだけのことであろう

この事件の資金移動を会計的に分析する限り、石川議員以下の3名の被告人は証拠構造上圧倒的に有利であり、それどころか、政治資金規正法が部分単式簿記を前提としている以上、ここには犯罪事実そのものが存在しない
検察庁特捜部は、
「この手の事件では捜査はどうしても供述中心にならざるを得ない。」
などと意味不明の訳の分からないことを言っては、現職国会議員を国会会期直前に逮捕した。外部との接触を一切遮断した密室に21日間も監禁して朝から晩まで攻め立てれば、事実にかかわらず人は自白調書に署名する。足利事件で明らかとなったように、日本の捜査機関による取調べ技術をもってすれば、人を殺してなくとも、
「殺したのは実は私です」
などと、立派な自白調書が出来上がるのである。

当然のことのように石川議員以下3名は政治資金収支報告書の虚偽記載を認め、本件は自白事件として処理されることになった。石川議員たちが犯罪事実の存在しない自白調書に署名したのは、そうしなければ何時までたっても保釈が認められないからで、従って、公判が始まれば自白を翻すに決まっている


ただし、彼はこう締めくくる。


ただし、残念ながら、今後の石川議員の裁判において無罪判決が出る可能性は悲しいほど少ないと考えなくてはならない。部分単式簿記による会計数値という客観証拠と矛盾していても、現行司法では検察官面前調書による自白には、なぜかほぼ絶対的な信用力を認められることになっているからである。石川議員はあの密室で取られた自白調書の嘘を自ら公判で立証するという、まさに前人未到とも言うべき難行に挑まなくてはならない。


三権分立の一つ、「司法」。
この「司法」の判断が狂っているのでは、我々は何を信用すればいいのか。

そう、答えはわかっている。
初めから国家権力を信用してはならない。
(アメリカ的発想と批判するなら、理由を述べてください。)

元検察庁検事の高井康行氏があるTV番組でこう主張していた。
(検察が小沢を狙い撃ちしたことについて)
検察が強いものを狙う当り前だ(だったら誰が権力を制止できる?)。権力は必ず腐敗するからだ。

その通り。
検察と言う国家権力も腐敗するだろう。
検察(行政)を制止できる権力が必要だ。
立法府は何をやっているのだ。

では、最後にまとめ

今回の事件の本丸は小沢の贈収賄だったのだろうが、特捜は証拠を上げることはできずに、こんな無実の人を逮捕するに至ってしまった。
疑わしいものを捜査する。
これは間違いではないし、小沢を狙い撃ちしようが、それは構わない。
「一罰百戒」と批判されようが、それが社会正義を乱すのであれば、社会的組織が社会として制裁を加えるのは当り前である。
人間の体がウィルスを除去するのと同じ。
それは人間の体観点からみれば正しいことだろう。(しかし、人間ではない観点から見たときに正しいかはわからない。)
しかし、無実の人を逮捕してしまうこと、マスコミの偏重報道、これはよくなかった。

我々は今一度、「社会」や「社会正義」について議論する必要がある。

[追記]
政治家のみなさんに向けた会計の初歩の初歩(磯崎哲也)
http://www.tez.com/blog/archives/001580.html


そもそも政治家というのは普通の会計に触れた事がある人がほとんどいないんでしょうね。
3日ほど前のジャーナリストの神保氏のツイッター上での発言を見て「えっ」と思ったのですが、政治団体というのは複式簿記じゃないようなんですね。

私も、先日の小沢氏の件でも、なぜあのような記載漏れが起こるのか全く理解不能で、「弥生」とか「勘定奉行」とかで普通に帳簿を付けていれば、あんなことは起こるわけもないと思っていたのですが、複式簿記でないというなら非常に腑に落ちる。

政治団体も、お金の流れや資産の管理が一体で行える複式簿記にすべきです。

ついでに言えば、政府も貸借対照表をちゃんと複式簿記的に作成すべきです。「ご参考:国は「ストック」も考えた総合的なリストラ策を策定するべきだ」
ストックとフローを統合的に考える思考体系(複式簿記)を持たないから、財政支出の話と国債発行の限界の話がごっちゃになってるんではないかと思います。

タムコー問題について

2010-02-09 13:35:53 | 政治
タムコーが民主党に入った。
多分、自民から民主への鞍替えは強く非難されるであろう。
だが、彼自身そんなことわかりきった上でのことだから、選挙で選挙民に判断していただくしかない。

私個人としては、こう思う。
アメリカナイズされた経済通(失礼!)な彼だが自民党にいても活躍の場がなかった。
そういう意味では民主党と経済政策に関する方向性が違ってもたいした問題ではない。
むしろ、民主党に入って経済政策議論に加わった方が日本にとってずっとプラスである。
民主党の弱い部分だからね。

民主党入党について(田村耕太郎)
http://kotarotamura.net/b/blog/?itemid=5397


日本の経済成長や財政再建のためのポイント・オブ・ノーリターン(復活可能な残存限界時間)は二年くらいとみます。二年以内に成長戦略や財政再建を急速に強力に取りまとめないと、日本は衰退の一途をたどることになります。衆議院を3年以上も支配する大政党の経済政策を軌道修正できる可能性は、中に入って頑張るしかないと思います。幸いこのたび「田村君の経済財政分野特に成長戦略について、政府や党での取り組みを高く評価する。大きくわれわれと政策が違うのを前提に、中でしっかり議論してよりよい方向に導いてくれ」と与党幹事長に言ってもらっています。政治家同士ですから、いろんな意図やリスクは想定し承知の上での判断です。
「私は経済政策について考えが違いますよ」と小沢幹事長にもお伝えした。「違うからいいんじゃないか?違うなんて当たり前だろ。だったら中に入って議論していい方向へ変えてくれよ」と言われた。


おそらく、この小沢発言について方々から「参院の椅子欲しさからの建前」と言われるだろうが、私はこれが小沢の本音だと思う。
小沢自身、自分のいう政策が正しいなんて確信していない。
いろんな意見があっていい。
その意見が党のものと違っても、有識者が加わって、その主張がある一定の水準に達していれば党にも影響を及ぼすはずだ。
と考えているだろう。
別に何もする必要はない。

当然、心情的な部分からの反感は買うだろう。
特に自民党関係者から。
民主党内部でも、彼だけ厚遇するのはおかしいという意見が出るだろうと思うかもしれないが、上に述べた理由から小沢は何もしない。
だから問題は起きない。

なぜ自民党は変われないのか

2010-02-09 10:28:15 | 政治
よかった。河野太郎が見識のある人で。

谷垣総裁、これは絶対におかしい(河野太郎)
http://www.taro.org/2010/02/post-713.php


予算委員会、なんせ当選以来初めてだから、いろいろと準備したり、なんやかんやと忙しくしていた。

へぇーっと思ったのは、質問は要旨対応です、ということ。

他の委員会は質問を通告し、答弁の準備をきちんとさせる。予算委員会は要旨だけ前日に通告し、数字等が必要なものは別途通告する。
さすが予算委員会、他の委員会とは違うなあ、大臣もこれだけで答弁しているんだと感心していた。

[中略]

で、厚木の県央経営者会で六時半から講演。終わったところで古川元久副大臣から電話が入る。「おーい、明日答弁頼むね」と電話に出ると、「たろうちゃん、助けてよ」。
「どうしたの」とたずねると、「質問が要旨しか来なくて、霞ヶ関が大変だ」「あったりまえだろそんなの」どうも話がかみ合わない。

どうやら予算委員会は要旨対応というのは、自民党国対が勝手に決めたことで、そんなルールにはなっていないらしい!

「他の党はみんな質問通告してくるけれど、自民党だけは箇条書きで三行とか書いてあるだけで、みんな霞ヶ関がそれ見ながら想定問答を考えて...」「えっ、そうなんだ。今厚木だから、小田急ですぐ戻る」

僕は、外務委員長の時に、質問通告が遅い委員は与野党関係なく、部屋にまで文句を言いに行ったり、もう一度やったら本会議の委員長報告に名前出すぞと脅したり、通告を早くして霞ヶ関の残業を減らす努力を国会もしろと旗を振ってた。

[中略]

自民党、他の議員はどうなっているのというと、みんな下向いて苦笑いする。

谷垣総裁、これはぜったいにおかしい。野党になったからといって、こんなくだらないことをしていたら、国民の支持を得ることはできない。
こんなことで霞ヶ関をいじめてどうするの。

相手が民主党ならば民主党に議論を挑もうよ。


要するにさ、自民党は民主党の実力を侮っているわけです。
ここまで見てると鳩山首相のキャラクターもあってか民主党のやることは滅茶苦茶に見えるし。

自分達よりレベルが低い」と思っちゃってるわけよ。

だから、自民党は先の衆院選での敗北にも反省しないわけです。
だって、相手は自分よりレベルが低いと思っているから、攻め続ければ勝てると思えてくるわけ。
勝てると思い込んでいるのに反省する人はなかなかいないね。

想像してみてよ。
戦争でもスポーツでもいいんだけど、戦争だとあれなのでサッカーで考えてみる。
ちょっと論点が変わっているかもしれないけれど、ここでの主眼は「将来への期待が現在に与える影響」という観点でお願いします。

前回の試合で大差で負けました。
選手の能力も、チーム戦術もこちらが一段レベル高かったのに。
でも、環境が悪かったと。
アウェーで食事も水も馴染まなかったし、レフリーは相手ビイキだし会場では敵の応援がすごかった。
自分達の実力は全く出し切れなかった、むしろ最悪であった。
だが、次は自分達も慣れている第3国で試合がある。
いつも通り実力を出せば勝てると。

そんな時、前回の試合の敗北要因を念入りにチェックしますか?
相手が強いから負けたんじゃなくて、自分達が実力出せなかったから負けたと思い込んでる時に、次回勝利するための最も合理的な戦略は「実力を出し切る。」「無駄なミスをしない。」などじゃないですか?
「実力を出せなかった自分達が悪い」とは考えても「実力が足りない」とは考えないものです。
相手より自分達の方がレベルが上だと思っているからね。
自民党から見た民主党というのは、ヨーロッパ諸国から見たアジアみたいなものです。

しかし!

前回の試合で大差で負けた要因が、環境のせいのみだったのかはわからないじゃないですか。
本当は実力は均衡していたのに、環境のせいで大敗したかもしれないのです。
過去に明らかに実力に差がある場合、「こいつらより俺らの方が格上だぜ。」と思い込んでしまうものです。
でも、時代とともに変わるものですよね。
今ではアジアの国がヨーロッパの国々に勝つこともあります。
その場合、二つの可能性があるはずです。
自分達の実力は変わっていないのに、相手が強くなった。
もう一つは、相手の強さはさほど変わっていないのだが、自分達の実力が思った以上に落ちている。

今、たぶん自民党は後者。
自分達の実力が思ったより落ちていることに気づいておらず、普通に戦えば民主党に勝てると思っている
だから、抜本的な改革なんて行われない。
だって、相手が弱いから改革する必要性感じてないんだもの。
「反省するべきは反省し」みたいな言葉で終わっちゃうわけです。

よって、次の参院選で負けて初めて自民党は「あっ、自分達の実力ってこんなものなのだ。」って理解できるわけです。
その時には、ダメージが大きくなって手戻りが大変だと思いますが。
でも「負けることを理解する」というのは困難なのです。
「負けたくない」という心理的バイアスがかかるので冷静には見れない。

さてさて、この間にも小沢一郎は自民党の兵站破壊に執念を燃やして動いていますよ。
自民党は現在地をよく確認して、攻撃の仕方を変えることです。
自分達の実力は、自分達が思っている以上に低い。」この認識が重要です。
そうすると、
自分達の実力を上げなければならない。」という発想が出てきます。
このまま選挙に突入すると、民主党への不支持による消極的支持しか取り込めず、どちらに転ぶかわからないギャンブルのようなものです。


衆院選後に当Blogでは「まだ自民党は負けていない」と主張した。
それは「自民党は自分達が負けたと思っていない。」という意味である。

※一応両論併記しておく。
予算委の質問を終えて(石破茂)
http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-29dc.html

是非、亀井静香氏を郵政社長に

2010-02-04 12:05:44 | 政治
亀井金融相「郵政の非正規社員、希望者すべて正社員に」 (NIKKEI NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20100203ATFL0307903022010.html


亀井静香金融・郵政担当相は3日夕、郵政事業の見直しについて「非正規社員の中で正規社員を希望する人は正社員にする」と述べ、日本郵政グループが抱えるパートやアルバイトなどの非正規の社員のうち希望者はすべて正社員にする意向を明らかにした。


これはきてる・・。
どこまで介入するつもりなのか。
郵政国営化はほんとうだった。

TV番組で竹中氏と討論しているのを何度か見かけたが、亀井氏ってどこか都合のよいところで都合よく思考停止してるんだよね。
(司会者に力がなくて「平行線ですね」なんて言われて巧く対峙してると思っちゃってるかもしれないけど)
それ以上の理由を求めない。
なぜなら、初めから結論が決まっているから。
典型的な「結論に合わせて事実を作る」人間なんだな。
現実に合わせて思考を変えるのではなく、自分の考えに合わせて事実化しちゃう。
こういう人は、理屈じゃないから突破力があって、利権者にとってはありがたいんだけどね。
日本の政治における意思決定って「人間関係」で決まるから。

政治は理屈じゃねぇんだぜ!

そういう言葉がかっこよく決まるくらい、普段の政治が理屈で動いてくれるとありがたいんだけどな。

しかし、↓これはちょっと私とは違うな。

日本郵政、非正規を政府命令で正社員化? 税金を1円も使わないなら亀井大臣ご自由に
(宮島理)
http://miyajima.ne.jp/index.php?no=r290


事実上再国営化された日本郵政に未来はないが、もし実行されればこの亀井プランがとどめをさすだろう。グローバル化による競争と多様な働き方というニーズを踏まえたうえでの解雇規制緩和や均衡待遇、セーフティネット拡充ではなく、“みんな正社員にしてやるぞ! 馬車馬のように働けよ! ガッハッハ”というところが、1970~1980年代の成功体験を引きずっている政治家の典型である。
 税金を1円も使わないなら、勝手にやればいい。それで日本郵政が破綻したとしても、知ったことではない。ただ、事実上再国営化されたということは、経営のミスはすべて税金で穴埋めされるということである。亀井大臣の“小泉憎し”の「改革」につきあわされるのはゴメンだ


亀井氏の本意を知らないのでなんともいえないが、ただ違うんですよ。
亀井氏を郵政の社長にして差し上げればいいんです。
そうすればトレードオフという現実を身を持って体感して目覚めます。
自分に想像力が欠けていることを。

[ここから追記]

ゆうちょ銀の資金、米国債で運用も 亀井大臣が見解
http://www.asahi.com/business/update/0204/TKY201002030498.html


亀井氏は記者団に対し郵政見直しについて「手足を縛られて営業をしているわけだから、現実にあった形にしていく」と発言。昨年12月末で約180兆円のゆうちょ銀行の貯金残高の増加が見込めるとした上で、米国債など日本国債以外の運用が「もう少し増えると思う」と述べた。


べ、米国債の運用を認める??!!

この手のひら返しは・・ほんと?

↓この人は発想が豊かですね・・。このくらい発想力がないと脳科学者はやれんですたい。

ゆうちょ銀の預金、米国債購入へ、時限爆弾に火がついた。(苫米地英人)
http://www.tomabechi.jp/archives/50985467.html


小沢幹事長不起訴のニュースだが、合わせてまるで取引するかのように流れた「ゆうちょ銀行の180兆円の資金運用を米国債でする」という亀井静香金融・郵政改革相の発言は、要ウォッチ対象だ。

鳩山首相の施政方針演説「いのち」と「卵と壁」

2010-02-02 12:44:31 | 政治
平成22年1月29日、鳩山首相が施政方針演説を行った。

第174回国会における鳩山内閣総理大臣施政方針演説(鳩山由起夫)
http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/201001/29siseihousin.html

相変わらず「鳩山ブーメラン」は絶好調だが、細かい部分についての個人的見解はここでは述べない。

社会主義的政策に関する所感は池田信夫氏とほぼ同じである。
そのあたりは私より彼の方がずっと意見として洗練されているのでそのページを見てください。

ガンジーの遺産 (池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/907089.html


ガンジーはインドの独立を指揮した偉大な指導者ですが、彼の後継者であるネルーの指導した国民会議派は「道徳なき商業」を否定して社会主義をとり、インド経済は半世紀にわたって停滞と貧困に苦しみました。最近ようやくインドが新興国として高い成長率をみせるようになったのは、国民会議派に代わって政権をとった人民党などが自由経済を導入してITなどに重点を置いたためです。

首相は、これから日本をガンジーやネルーのような社会主義の道に引きずり込もうとしているのでしょうか。


ただ、メインテーマである「いのちを守りたい。」というスローガンが気になった。
私は、このスローガンが良いか悪いかという評価をしたくはないが、浅いなと思う。
発信者がこの「浅さ」に無自覚であるなら、これは単に古びたコミュニタリアニズムの域を出ない無知さで済む。
それなら、現実主義者に攻撃されて、いや、現実という最強の相手に十字砲火を浴びてあえなく撤退の道を歩むであろう。
だが、もし発信者がこの「浅さ」に自覚的なのだとしたら、これは相当に危ない

この文章は鳩山首相自身も筆を取ったといわれているが、全文の整合性や文章表現についてのブレーンがいるはずだ。
内容と表現は担当者は異なるかもしれないが、これが意図的なのだとしたら、相当の策士、いや、むしろポストモダニズムを認識した上での世論扇動であり、その意図が読めるだけに恐ろしい。


なぜ「いのち」という表現を使わねばならなかったのか。
そもそも「いのち」とはどういう意味なのか。

ここで鳩山首相が述べる「いのち」とは「守りたい」という言葉から推測すれば「弱さ」のことであろう。
そう考えれば、彼が提唱する「新しい公共」も、「「弱者たる個人」を「共同体」という籠で守る」という意味で簡単に読み解ける。(理解に苦しむほど新しい考えでもないが)
「弱さ」を「いのち」という言葉に置き換えて強調するのは、「弱さを正当化するための論法」に他ならない

「弱さ」には様々な意味が含まれ曖昧なものだから、「弱さ」を議論する時には、具体的な「弱さ」に意味を限定する必要がある。
具体化された「弱さ」には反論が容易である。
だが、「いのち」には反論しがたい。
誰にとっても「命」は大切なもので、トレードオフにかけられないものだからだ。

我々は「1人の命」と「100人の命」すら天秤にかけることができない。
時に「100人の命」を犠牲にして「1人の命」を守ることが美化されることすらある。
しかし、「命」は誰にとっても絶対的に具体的なもので、具体的な「弱さ」とは意味が異なるから、結びつけるには無理がある。
ここで一つのテクニック、レトリックが使われている。
具体的な「命」を、抽象的な「いのち」に意図的に呼びかえている
読み手、聞き手が気づかないところで、「命」を「いのち」に呼びかえることで、「命」と「弱さ」を結び付けているのだ。
発信者は「いのち」という言葉を使うことで、「弱さ=命」という意味づけに成功し、反論を封じている

だから批判者はひたすら「理念先行」だとか「財政が危ない」だとか「バラマキ福祉」だとかという批判に終始し、施政方針演説のメインテーマである「いのちを守りたい。」という核心部分について批判してない。
これは完全に鳩山首相側の土俵に乗っているのだ。

「経済がどうだ財政がどうだといったって、いのちが一番大事だろ?」といわれて反論できる人はいない。
「命」に反論する人間は頭がおかしいと思われるだけだ。
「命」をテーマにする限り「私は命なんてほしくない。」という類の反論しか有り得ないからだ。

いつの時代も一部の識者が訴える。
「「いのち」を守ろうとすることが、より多くの「命」を危険にさらすことになる。」と。
しかし、これまでの人類の歴史で見られたのは、「命」よりも「いのち」が優先される様であった。
それは、人間が「命(を連想させるいのち)」について合理的かつ論理的に判断する術を持たないという、致命的欠陥を持つが故である。
たとえ、10年後に日本国民全員が死のうとも、今日、家族や友人が死ぬことの方が重いのである。

「命」に見せかけた「いのち」の議論は大変に危険である。
反論を封殺してしまう可能性があるからだ。

私は鳩山首相の施政方針演説を読み聞きし、まず最初に村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチ「卵と壁」を思い出した。
「卵と壁」についての内田樹の解説がなんと心に染みようか。


壁と卵(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2009/02/18_1832.php(強調は私によるもの)


「それでも私は最終的に熟慮の末、ここに来ることを決意しました。気持ちが固まった理由の一つは、あまりに多くの人が止めたほうがいいと私に忠告したからです。他の多くの小説家たちと同じように、私もまたやりなさいといわれたことのちょうど反対のことがしたくなるのです。私は遠く距離を保っていることよりも、ここに来ることを選びました。自分の眼で見ることを選びました。」

そして、たいへん印象的な「壁と卵」の比喩に続く。

Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be, how wrong the egg, I will be standing with the egg.
「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」

このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。
たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。
こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。
それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である。
そして、村上春樹は間違いなく人間の「本態的な弱さ」を、あらゆる作品で、執拗なまでに書き続けてきた作家である。
『風の歌を聴け』にその最初の印象的なフレーズはすでに書き込まれている。

物語の中で、「僕」は「鼠」にこう告げる。
「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」
あらゆる人間は弱いのだ、と「僕」は“一般論”として言う。
「鼠」はその言葉に深く傷つく。
それは「鼠」は、「一般的な弱さ」とは異質な、酸のように人間を腐らせてゆく、残酷で無慈悲な弱さについて「僕」よりは多少多くを知っていたからである。

「ひとつ質問していいか?」
僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」  
「ああ。」  
鼠はしばらく黙りこんでビールグラスをじっと眺めていた。  
嘘だと言ってくれないか?」  
鼠は真剣にそう言った。
(『風の歌を聴け』)


我々は政治が語るものが「弱さ => いのち => 正しさ」とならぬよう、注意しなければならない

鳩山首相が述べた「いのち」と「安心」は全く別のモノだという認識を持つべきである。


鳩山首相の「新しい公共」とか「共同体」って内田樹のそれと似てるような気がする。
内田樹に比べるとかなり浅いけれど。
本も買ったそうだし影響を受けているのでは。
そういえば、首相側から内田樹に食事の打診があるとかないとか・・。

「みんなの党」は進化できるか

2010-01-29 12:14:45 | 政治
やばい。(←もう古いのかな?)
みんなの党が第2野党になる時代がそこまで来てる。

ヨッシー日記(渡辺喜美)
http://yossie-w-diary.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/


今日の日経新聞は、みんなの党支持率5%(前回2%)で公明・共産を抜いた。次の参院選投票先では8%で民主・自民に次いで第3党。驚くべき数字である。

ラジオNIKKEIのマーケットサーベイでは超サプライズの数字。投資家のみなさんに聞いた。「支持または好意をもつ政党は?」。

民主19%、自民13%、みんなの党49%で堂々の第1位!!投資家は先を読む。


私自身「みんなの党」の掲げる政策が特段素晴らしいと考えているわけではないが、民主党と自民党の評価が低いので「みんなの党」の評価が相対的に上がっているのが実情ではある。
自民党も民主党も外交政策以外のところではあまり大きな違いがなく、どちらもいわゆる「大きな政府」指向であり、いわゆる「小さな政府」指向の政党が「みんなの党」以外存在せぬのである。


民主と自民は内政問題で方針の違いで揉めているが、大きな/小さな政府のスケールで見ると同じ枠組みの中での争いに見える。
一応、予防線を張っておくが、よく「大きな/小さな」というのは問題の本質ではないという批判がある。
例えば、オバマは「大きいか小さいではなく賢い政府」と言ったし、つい先日の自民党の議論では「無駄なことをせぬ政府」という表現が使われた。
だが、これは周回遅れの議論である。
「大きい」「小さい」を主張している人達は、その議論を何十年も前に経ているのだ。
個人の尊厳と自由と幸福を最大化するためには、どういう政府がいいのかという長い間の議論の末に辿り着いたのが「大きい政府」と「小さい政府」の議論なのであり、「大きい」か「小さい」かを問題にしているのではない。
本質的でないのはわかりきっていることで、話の単純化のために用語として使っているだけだ。
「小さい政府」を主張している人が原理主義的に「政府は小さい方がよい。」などと考えているわけではない。
個人の尊厳と自由と幸福を最大化するために、それが最もよい方法と思うがゆえに主張するのである。
理由はこれまで繰返し述べてきたので、ここでは述べない。
(後日まとめる)

よって「小さな政府」指向の国民は「みんなの党」を選択せざるを得ないのだ。
中産階級以上の富裕層は「小さな政府」指向の人が多い。
政府の助けを比較的に必要としてないので全体最適が重視されるからだ。
税は少ない方がいいし、政府による規制がビジネスを妨げることもある、政府は小さいにこしたことはない。
「みんなの党」が投資家に人気があるのは当然である。

しかし、そういう人達は日本国民全体でみるとマイノリティーでもある。
(もちろんマイノリティーでもオピニオンリーダーとしての影響力はあるではあろう)
「みんなの党」が国民政党としてもう一歩飛躍するためには、総合力を上げる必要がある。
民主党のように右も左もということではなく、もう一回り大きな風呂敷を広げないとより多くの支持を得ることができないであろう。
(もう一つ高い視点からの政策提言が必要だという意味)
今は小さい風呂敷を幾つか広げているだけだが、もっと大きな風呂敷が必要だ。
ただ「みんなの党」は層が薄すぎるので今のままでは無理であろう。

そんな中、小野次郎氏が合流するのは朗報だ。
まだまだだが・・。

それもそうだが、そもそも渡辺喜美氏が総理大臣というのがピンとこない。
非常に勝手なことを言わせてもらえば、彼の突破力は担当大臣の方が向いていると思う。
多くの国民が彼に安心感を抱けないのはそれが原因ではなかろうか。
「みんなの党」が野党第1党、政権与党になるためには、たぶんリーダーとして大物を連れてこないとだめだと思う。
これは完全に個人の感想でしかないのだが。

「話せば分かる」は通じない

2010-01-28 19:33:25 | 政治
政治家の進退(河野太郎)
http://www.taro.org/2010/01/post-704.php


1月に党本部が行った愛知県の世論調査で、浅野勝人参議院議員は民主党の現職他を抑えて、トップに立った。それを見て、今年72歳になる浅野さんは立候補しないことを表明した。

「世論調査でトップなのになぜ辞めるのですか」とたずねる新聞記者に「君も71歳になればわかるよ」と答えた。


話の事実関係はわからないけれど、ちょっとカッコいい話に思えた。

でも、↓こんなことをいつまでも言っているようでは物足りない。


こういう人がいるかと思えば、古い自民党の真ん中にずっと座っていながら、まだしがみつこうとする人もいる。


自民党の中堅・若手の改革派には少し想像力が足りない。
まず、老齢の政治家が政治家であることにこだわるのは必ずしも利権が美味しいからではない。
そういう人も中にはいると思うけど、それでも散々批判されてまでやる合理的理由にならない。
そんなに批判が立ってしまったら選挙に負けてしまう可能性が高くなってしまう。
歳をとってまで政治家にこだわる理由は他にあるのではないか。

なぜその人達は政治家という仕事にこだわるのか?
そういうことに想像力を働かせてみよう。
「なぜ、彼らはそう思うのか?」という問いに答えようとすることは、どんな世界においても我々に「より本質的な理解」という素敵な贈り物を与えてくれる。

個人的な回答をここで紹介しよう。

彼らがこだわっているのは「政治家」という仕事ではなく「人間関係」という情緒的なものだ。
「憎いあいつにいい想いをさせたくない」「俺がいなくなるとあいつが困る」「あいつのやり方は目に余る」「これを許せば悪になる」などなど・・
彼らは全く合理的ではなく、情緒的な判断をしている。
だから「合理的でない」と批判しても意味が無い。
彼らは理ではなく情に流されているのだから。

でもこれは、日本的組織において往々にして行われている判断で、決して他人事ではない。
これを読むあなたも常日頃、日本人であればこういう場面に直面しているはずだ。

例えば、太平洋戦争において全く非合理的な戦略が採用され続けたのは、合理的判断を促す意見をことごとく無視した情だ。
日本人は太平洋戦争当時の軍人は無能だったような印象を持っているかもしれないが、内実を覗いてみると意外に合理的な議論も行われていた。
海軍の軍令部にしても陸軍の参謀本部にしても参謀にはそれなりのエリートが揃っており、それなりに合理的な面子がそろっていた。
それが最終的に情緒的判断になってしまうのは、組織的判断を行うにあたって最も優先される事項が「人間関係」だからであって、その議論に参加している人間が非合理的だからということではない。
「あいつがそこまでいうなら・・」「絶対に間違っているけど上がああいうから・・」「あの人の信念だから仕方ない・・」「あいつに死に花を咲かせてやりたい・・」「名誉挽回の機会を与えてやりたい・・」「あいつはわかってくれる・・」「わかってくれると思う・・」などなど、こういう言葉をあなたは聞きはしないだろうか。


なぜ日本的組織においては理よりも情が判断基準となるのか、それは後日。

情に流されてる人間を理で解こうとするのはとても男性的発想だ。
人々が理屈だけで物事を理解してくれるなら誰も苦労しない。
時に人は情を優先することがある。
犬養毅でないが「話せば分かる」は通じないのだ。(失礼)
情を相手にどう対応すべきか。
このあたりについてもっと想像力を働かせてくれまいか。

とても国際性豊かな河野氏なので、このあたりの日本的やり方は好きではないのかもしれないが。

小沢を正しく失脚させる方法は「小沢越え」

2010-01-22 17:14:57 | 政治
Your Partyには期待しているんだけど、物足りないなぁ・・
全く見えていない。
山内氏を批判する気はないんだけど、あまりに多くの政治家が同様のことを言うのを見ていて、残念な気持ちになる。
あまりに視点が狭すぎて。
「木を見て森を見ず」とはこのことか。

中国共産党化する民主党(山内康一)
http://yamauchi-koichi.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-8cdd.html
(全文コピー、太字による強調は私によるもの)


政治評論家の森田実さんが旧知の民主党議員から聞いた話として、
次のようなコメントが紹介されていました

------------------------------------------------------------------
いつも小沢一郎幹事長関係者に監視されているような感じがします。
マスコミとの接触は幹事長室に届けなければなりません。
有志の会合も届け出制です。党内には各所に密告者がいます。
小沢さんを公然と批判したことが知れたら粛清されるおそれがあります。
------------------------------------------------------------------

マスコミとの接触が制限され、幹事長を批判すると密告され粛清されるのでは、
民主党内には、憲法で保障された「言論の自由」がないことになります。
有志の会合も届け出が必要というのでは「集会の自由」もないことになります。

そして「密告者」がいて「粛清」される恐怖に脅えているのでは、
独裁政権下の一般市民のような立場にあるといえるでしょう。
とても先進民主主義国の政党の雰囲気とはいえません。

小沢幹事長(=党書記長)の民主党は、中国共産党的な政党になりました。
小沢さんが143人もの議員団を連れて中国共産党にごあいさつに行くのも、
何となく理解できます。親近感が強いのでしょう。

いまの小沢専制のもとで沈黙している民主党議員には明日はないでしょう。
いま声をあげて、小沢幹事長を批判する勇気ある民主党議員がいて、
その議員が粛清されてしまって、民主党内に居場所がなくなってしまったら、
みんなの党にリクルートしたいくらいです。


いろいろと指摘したいことはあるのですが、要約して2つだけ。

企業統治」という概念をご存知ないと思われる。
昨年の衆院選前に劣勢に立つ幾人かの自民党の議員が次のようなことを主張していた。


マスコミに出演する議員を、プレゼン力と人気と専門知識を兼ねそろえた有力議員に絞ろう。
実力がない議員が出演して民主党に一方的に攻めたてられる姿をお茶の間にさらしてはいけない。


党として外部への情報統制をするのは当たり前である。
(だってあなた閣僚が好き勝手主張する党ですよ?)
今時リスク管理として広報に力を入れていないのは政治の世界ぐらいである。
それに民主党員が烏合の衆ってことを自分達がよく知っているから余計に統制の必要性を感じているだよ。

それと、これが一番いいたのだが「小沢幹事長を批判する勇気ある民主党議員」ってなんと志の低い見方か

小沢に勝る政治理念を持っていれば小沢に対峙できるはずだ。
批判として評価に値する内容だったら執行部は静粛できないだろう。
批判が単なる批判だから静粛されてしまうのだ。
それが無駄な批判だからで、党になんの利益ももたらさないからだよ。
細かい味方の失点を批判することが政治家の仕事なのか。
小沢のやり方が間違っていると思うなら「これが正しいやり方だ!」と主張すればいいだけだ。
そんな理念もない技術屋の集まりに「勇気出せ!」というのは、所詮自分達の都合のいいように民主党政治家を操りたいだけではないのか。

小沢を失脚させたいなら小沢を超える政治理念を述べてみろ!!
当Blogのいつもの主張だが、支配者は被支配者が支配を望むからこそ存在できるのだ。
アマチュアが早くプロになって支配者を過去のものとしてしまえばいいだろう。



小沢さんが143人もの議員団を連れて中国共産党にごあいさつに行くのも、
何となく理解できます。親近感が強いのでしょう。


全然わかっていない。
これは自民党利権を剥がしにいってるだけ。
今後は民主党だよって言いにいっていることがどうしてわからない。

河野太郎がいく

2010-01-21 19:44:48 | 政治
ちょっと本エントリとブログの立ち位置の関係について指摘を受けたので内容を少しだけ修正しました。

河野太郎は彼自身のブログでもよく主張しているように行政チェックに余念がない。
彼には官僚の嘘説明を暴くための「行動力」がある。
いや、より正確にいえば「空気読まない性格」か。
その「空気読まない正確」こそ私が彼を評価する最大の要因だ。
(国際感覚にも優れているし、割切って考える論理的思考能力があるなど他にいいところはあるが)

こういう人は新しい何かを始めるのに強い。
新しいことをはじめるためには、既得権益者を犠牲にすることが度々ある。
そういうことに気を使う人は何もできない。
ある意味で情を無視するような性格が、そして決めたことを責められてもめげない性格が必要なのであるが、彼はそれを持っていると思う。

こういう人って既得権益を守る側にしてみれば絶対上司にしたくないタイプなのである。
菅直人以上に鳩山政権にうってつけの人材である。
オバマじゃないけど、鳩山首相は野党側から大臣指名したらいいんじゃないかなと思う。
河野太郎が引き受けないと思うけれど、ここは超党派でやってほしい。

副大臣がやり残したこと(河野太郎)
http://www.taro.org/2010/01/post-698.php


僕が法務省の副大臣をしていたときにホリエモン事件があった。
そのときにすごく気になったのが、XXXという供述をしているというニュースが毎日のように新聞やテレビで流れたことだ。

なぜ取り調べの供述が外に漏れるのか、取り調べをした検事の責任はどうなっているのかということを秘書官に調べさせた。
秘書官は検察庁にいくわけにはいかないから、法務省の幹部に副大臣がこう言っていると聞きに行ったのだろう。

戻ってきた答えは『接見した弁護士が漏らしているのではないか』

僕はぶち切れた。

[中略]

検察のリークがあったと思われる場合には、法務大臣が検事総長なりに記者会見を開かせ、そうした事実があったかどうかを確認させるべきだ。もしそうした供述はなかったというならば、その後、裁判でそれに反する供述は使えなくなるし、そうした供述があったというならば、取り調べた検事が処罰されなければならない。

[中略]

法務副大臣時代に、裁判所から法務省に来た裁判官が、民事局長などの職に就き、入札ルールをねじ曲げて民事法務協会に業務を発注しているのを見て唖然とした。官製談合をやっている人間が裁判官として裁判所に戻るのだ。
しかも、ほとんどそうした問題を法務省の記者クラブは追及してこなかった。

裁判員制度が始まったことでもあるし、日本の司法制度をもう一度きちんとあるべき姿にしていく必要がある。

小沢は民主主義政治家

2010-01-19 18:28:23 | 政治
トラックバックを貼り付けるために前半部分を追加しました。

民主党の非民主的性格(岡田克敏)
http://agora-web.jp/archives/894605.html


「ものが言えない」ということは小沢幹事長への権力集中が相当進んでいることを示しており、宮本時代の共産党を思わせます。3名の逮捕後は散発的に批判が党内から出ているようですが、多くは匿名を条件とするボヤキのようなものです。これでは自浄能力など期待できそうにありません。


各種メディアで民主党の「ものを言わない」性質が批判されているようですが、私にはこの言説がとても恣意的なものにうつる。
ここでいう「ものを言う」というのは民主党議員が民主党執行部に対して「批判をする。」ということであろうが、この時点で何を言えというのだろう
逮捕されたといっても真相が明らかになったわけでもなく、当人達が「違う」と言っているのだから同じ政党の人間として疑うよりは信じることがより自然であるし、なによりもまだ何かを意見するには早い段階ではなかろうか。
コメントを求められても「事実関係が明らかになるのを信じて待ちます。」程度しか言えないのが実際のところで、言うこともないのに「言え」とつつかれても困るだけなのではなかろうか。

まだ何も言う段階にないことは下記ブログなどでバランスよくわかりやすく書いてある。

小沢問題に関する考察 - 検察の捜査方法への疑問(Nothing Ventured, Nothing Gained.)
http://esquire.air-nifty.com/blog/2010/01/post-a55d.html

検察「魔法の杖」に踊る司法記者クラブ(永田町異聞)
http://ameblo.jp/aratakyo/entry-10436946084.html

そもそも、小沢を頂点とする民主党執行部が独裁体制をしいているかの説明は陰謀説に近い。
小沢が「俺の言うことを聞け」などと言うわけがなく、ただ自分が思うところを述べているだけに過ぎない。
その時、小沢の意見が勝るのは小沢の意見を覆すだけのプレゼンができない民主党議員が劣っているだけだ。
民主党に小沢くらい大局観を持った政治家がいないのだからどうしようもない。
同じ土俵で議論できる政治家がいないのだ。
逆にそれゆえに小沢が独り批判を受け止める側にたって辛いだろう、彼の使命感が彼を突き動かしているなどと考えてしまう。

私個人としては小沢は人の話を聞かないほど頑固でもなければ頭が悪いわけでもない。
ただただ己の戦略を理解できない人がうっとおしいだけである。
(確かに実は人をバカにしているところが勘違いされるところもあるだろう。)
それを周りの人間が気を使いすぎるからといって、小沢の独裁だというのはおかしい。
何をもって独裁と認定するかは様々な定義があろうが、ただ現状はアマチュアの中に独りプロがいて、アマチュア連中がプロの意見を尊重しているだけだ。
「恐くてものが言えない」と「いや、あの人にはもっと深い考えがあるはずだ。」は全く違う。
これを独裁というのか。

鳩山首相は単に彼の性格上、小沢を尊重しているだけで、別に恐がっているわけではない。
度々小沢に意見を聞くのは鳩山首相に確固たる意見がないからで、別に小沢が強いからではない。

と、私なんかは思う。

----------------------------------------------

小沢幹事長の目的は、自民党からの利権を奪うこと、ただそれだけ(大前研一)
http://blog.goo.ne.jp/ohmaelive/e/cceb156171d8440a4e50253c9a343eb6


半分は同意で、それ以降は不同意。
小沢一郎を田中角栄路線の延長で捉えているところが間違いである。
弟子は師匠と同じ枠内で物事を思考するわけではない。
ソクラテスvs.プラトンvs.アリストテレスが好例だ。

まず同意する部分から。


[前略]

小沢幹事長の一連の行動は、これまで自民党が独占してきたあらゆる利権を全て民主党に移してしまうという、ただこの1点にのみ目的がある。

[中略]

自民党の利権を根絶する、それが難しいなら予算の理由で案そのものをつぶしてしまう、という単純なことを徹底的に繰り返しているだけだ。


当Blogで主張してきたように、小沢の目的は自民党の兵站を破壊し、自民党を過去の政党にしてしまうことだ。
そう考えれば彼の言動に合点が行くだろう。

これを聞いて多くの人は「また政局か」と思いがっかりするかもしれない。
大前氏も同様の批判のように思われる。


利権を自民党から民主党に移すことで民主党による長期政権が可能だと小沢幹事長は考えているのだろう。

こうした小沢幹事長の動きを見ていると、つくづく田中角栄元首相の染色体が入っている人なのだと感じる。
小沢幹事長とはこういう行動原理に基づく人なのだと認識するべきだろう。

[中略]

私に言わせれば、民主党の幹事長という立場にあるにも関わらず、小沢幹事長は日本という国の将来像などは全く考えていない人だと思う。

自民党による安定政権が長期間継続できたのは、日本的な利権構造を抑えたからであり、それこそが重要なのだ、これが小沢幹事長の価値観だ。


全く違うと思う。
誤解もいいところだ。

小沢が「民主党の長期政権化」を目指しているなんていうことは"ない"と私は思う。
彼は民主党が中途半端で未熟な政党だということを知っているから、民主党を鍛え上げようとは思うことはあっても、その目的はあくまでも自民党の兵站の破壊である。
旧来の利権を壊すために利権を使っているのだ。
民主党を目的のために利用しているに過ぎない。

そして、自民党の兵站を破壊を目的とするのは、その上に大目的があるからである。
それは「日本の民主化」である。

彼の哲学の一つが「国民のレベル以上の政治家が生まれることはない。」である。

それでは永遠に有能な政治家は生まれぬのであろうか。

それは違う。

国民は変わることはできるからだ。

どうすれば国民は変わることができるのか。

それは国民が様々なことを経験し、様々なことを考えることによってだ。

そのような機会を与えるものが、変化することのできる民主主義というシステムである。

何が変わるべき正しい方向なのかは誰にもわからない
時代によって善悪も変わる。
だから、間違っても変化できることが重要なのだ。
これが何度も繰り返すように「デモクラシーのコスト」である。

民主主義は間違う
しかし、間違うことによって人は学習し成長するのだ。
国民は右に左に揺れながら、そして間違えながら民度をあげていくのだ。

そういう変わることのできる社会を構築すること、それこそ小沢が政治の世界に実現しようとしている「日本の民主化」に他ならない


だから彼は言う。
「政権交代が実現した。日本に民主主義が生まれたのだ(生まれの始まり)。」
また彼は言う。
「国民の政治を実現する。国民の政治とは、国民が政治に責任を持つこと。」

そのために、変化を阻害してきた旧来の自民党政治を終わらせることこそ、彼が彼自身に課した使命なのだ。

私はその気高き意志を応援したいと思っている。

民主党の「第3の道」の考え方 (改訂版) 第三部

2010-01-18 15:49:09 | 政治
第一部第二部に続きまして、第三部です。

第一部では、政府による「産業政策」の有効性が低く、「競争政策」や「規制緩和」の有効性が高いことについて軽く触れました。
経済発展のためには、旧来の発想から抜け出ることの必要性を直感的に理解していただけると助かります。
第二部では、「規制を導入する難しさ」と「規制を緩和する難しさ」について触れました。
旧来の発想を批判する人達による主張は往々にして正しいこともあるのですが、人々にとって受け入れがたさも同時に持つことを直感的に理解していただけると助かります。
第三部では、ようやく本題の「第3の道」の考え方について触れます。


民主党の政策が旧来の産業政策の枠組みから抜け出せないでいること、規制緩和についての無理解でいることの批判内容について説明してきました。
では、民主党の成長戦略には希望はないのでしょうか。
正直いって現実に打ち出されている成長戦略には大きな期待をもてません。
批判者の指摘がほとんどの場合正しいと思います。
しかし、「第3の道」として主張されている「需要サイドの成長戦略」は決して間違っているものではありません。
これについては批判者の皆様が理解されていないことがありますので説明させていただきます。
(理解しないというより方法論が貧弱すぎて納得できないというべきでしょうか)

民主党が主張する「第3の道」は、「需要の喚起」による「内需の拡大」のことであり「消費の拡大」のことです。
GDPの6割を占める個人消費を拡大することで経済成長を促そうとする考え方です。
「需要を喚起する力は供給側が持つ」「所得を増やす効果が需要側にはない」という批判者のロジックはわかるのですが、ここでいう「需要の喚起」というのは、それとは少し意味が違います。
民主党の「第3の道」をよりよく理解するために、少し説明します。

この部分は話を単純化し過ぎと批判覚悟で書いています。

経済というのはサービスと対価の交換によって成り立っていますが、理論上「交換」は無限に行うことができます。
市場に流通する「マネー」の量が一定だとしても、交換自体は無限に行うことができるのです。
だから市場の実態として、流通している貨幣の量よりもマネーの量は多くなります。
もちろん交換するモノやサービスには資源などによって制限がかかるので、実際には無限というわけにはいきません。
また、逆にマネーの量を増やしたとしても市場で交換する必要性がなければ交換数を増やすことはできません。

これだけを踏まえると、国がマネーを一度発行してしまえば無限とまではいかなくてもマネーが市場を回りまわってみんな裕福になるのではないかと考えることができるかもしれません。
しかし、そういうわけにはいかないのです。
ここに登場するのが「需要」です。
先ほど、「マネーの量を増やしたとしても市場で交換する必要性がなければ交換数を増やすことはできません」と書きましたが、この「交換する必要性」というのが「需要」です。

私達人間は、欲しいモノがある(交換する必要性がある)時、自分が持っているマネーとモノを交換しようとしますが、欲しいモノがない時、自分の持っているマネーを将来のために取っておきます。
これが「貯蓄」です。
(欲しいモノがあるけど貯蓄する場合、もっと欲しいモノが他にあるのかもしれません。)
新興国のように開発途上にある国では、みんな欲しいモノばかりなので、みんなガムシャラにお金を使います。
先進国のようにモノで満たされてしまった国では、セレブ気分を味わったり、旅行したり、マネーゲームしたりとサービスにマネーが使われるようになります。

このとき、どのくらいマネーを供給すると、どのくらいマネーが回るかといったものを「乗数効果」と呼びます。
発展途上にある国では乗数効果が高くなるのは説明した通りです。
先進国ではモノで満たされているので、モノに関する乗数効果は必然的に低くなり、それでは経済の成長力が低下してしまうので、サービス分野の乗数効果が高くなければなりません。

しかし、ここで日本がぶち当たっている壁があります。
サービス分野というのは不景気に弱いのです。
人間、将来に向けての見通しが悪いとき、生きていくのにあまり重要ではないサービスなんかにお金を使うのをやめます。
そして、モノは溢れているのでモノを買うためにマネーを交換する必要がありません。
将来欲しくなるもののために「貯蓄」しようと考えます。

そうです。
将来に向けての見通しが悪いとき、つまり「不安」でいっぱいの時、マネーは貯蓄に回ります。
人々はせっかくマネーを持っていても、それを使おうとしないので、乗数効果は低下します。

最近(といってもこの手の議論は昔からありますが)、中央銀行がマネーを大量に発行すれば「貯蓄」する必要がなくなり、「不安」がいっぱいでも人々はマネーを使うのではないかという話題が流行いたしました。
しかしながら、この手法を実現することは非常にテクニカルで非現実的です。
まず、どの程度マネーを供給すればよいのか、誰にもわかりません。
「不安」で乗数効果が低下している状況下で、供給量が小さければ「貯蓄」に回って効果がないですし、供給量が大きければ逆に皆がマネーを使い過ぎてマネーの価値を低下させてしまいます。
マネーが大量供給される状況では誰もがマネーを大量に手に入れられるので、売り手は交換比率を変更します。
マネーの交換価値が低下して、交換されるモノの値段が上がるのです。
これが「インフレ」です。
(国を跨いで為替が暴落するリスクもあります。)

他にも、乗数効果が低下している時に、マネーを供給すると何が起こるかといいますと、交換したいものがありませんので金融商品と交換されるようになります。
乗数効果が低下しているとき、中央銀行は金利を下げてマネーを市中に引き出そうとしますので人々は「貯蓄」していてもまったく儲かりません。
ただ「貯蓄」してマネーを持っていてももったいないので、少しでも利益が得られるように金融商品に投資するのが一般的です。
(一律的に乗数効果が低い時と書いてますが、投資利益が低い時と同義語で考えてください。)
こうすると金融商品に紐づいている資産が高騰します。
「資産バブル」とか「資産インフレ」とよばれるものです。
(ちょうどいいマネー流通量に調整するのが中央銀行の重要な役割だと考えましょう)

話を戻します。
今、日本では「将来不安」に溢れています。
連日のように不正や不平等や不安を煽る情報が駆け巡っています。
こんな「不安」でいっぱいなのに「マネーを使え」という方が無理なのです。
人々は冬を越す動物のように縮こまり、リスクを取らずに状況が好転するのを待っています。

人々のマネー交換活動を活発化するためには、乗数効果を上げるしかありません。
乗数効果を上げるためには「不安」を払拭することです。


さて、まえおきが終わり、ようやく本題の本題です。

ここでようやく民主党の「第3の道」の登場です。

日本経済が落ち込んでいる病理、それは「不安」です。
誰もが「安心」を求め彷徨っています。

これまでの実績からして、政府は供給側の力を伸ばすことが苦手です。
供給側の成長は民間の力を伸ばすことによって実現するしかないのです。
あえてできることは規制改革、高度社会インフラ整備などです。

しかし!
他にも政府が主導してできることもあるのです。
日本社会を覆う「不安」を振りほどき、皆で「安心」を共有することができれば、需要側の意識を喚起できるかもしれません。
そうすれば日本に眠る潜在的マネーを引き出し、乗数効果を上げることができるのです。
供給と需要の両輪を回すことができるのです。



ここでは潜在力を引き出すのに「安心」が重要だと述べているのであって、それだけで経済が発展すると述べるものではありません。


と。
そのために何が必要でしょうか?

(実態よりも)人々に「安心して生活できる」ということが広く認知されることです。
これが民主党の「生活が第一」の理由なのだと考えてみてください。
民主党はバラマキを指向しているわけではなく、「安心」を認知してもらうことを指向していると。

では、安心して生活できるために何が必要でしょうか?

いわゆるセーフティネットの構築でしょう。

では、セーフティネットの構築のためには何が必要でしょうか?

・・・という議論をしていくことが重要です。

以上より、簡単ではありましたが、民主党の「第3の道」についての考え方を説明してきました。
(え?ここで終わり?とがっかりされた方すみません・・)
とてもコンセプチュアル(概念的)なお話ですが、このコンセプトを皆さんが認識することがまず大事です。
コンセプトが誤解されたまま批判されることが多々あるからです。

ここで述べたことを踏まえて、ようやく次の方法論の議論に着手できるのです。

さて、民主党の方法論を見ていくと・・・ん?

民主党の「第3の道」の考え方 (改訂版) 第二部

2010-01-18 12:09:57 | 政治
第一部に引き続き、第二部をお送りします。

第一部では、政府による「産業政策」の有効性が低く、「競争政策」や「規制緩和」の有効性が高いことについて軽く触れました。

では、彼らが主張する「競争政策」や「規制緩和」とはどういったものなのでしょうか。
少々極端なものですが、そのわかりやすい例が下記ブログで述べられています。

需要サイドの成長戦略とは?(藤沢数希)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51642847.html


どうも民主党はこども手当などで家計の所得を増やしてやれば、需要が増えるので経済が成長すると思っているようで、そのことに関しては多数の評論家から批判されています。
僕も、そういう手当は、格差を是正するための政府の再分配の機能であって、成長戦略にはなり得ないと思っています。
というのも家計を増やすといっても、その財源は赤字国債の発行で、将来の税金の先食いですし、その先食いした税金以上に再分配された人が付加価値を創出するかといえば大いに疑問です。

しかし、需要サイドの成長戦略というのは、実は、日本経済には非常に重要だと思っています。

[中略]

本には売春業に対する男性側の需要は非常に高いのですが、このように規制されているし、また、そのような中でいちおう合法的に営業を行っているところも、サービスの質が非常に低い上に国際水準からかけ離れた価格になっているため、あまり利用されていないというのが実情ではないでしょうか。
需要があるところで、それを法律で規制しているのだから、そういったサービスを供給しているのは主に法律を破るのがお仕事の方々ということになります。
しかし、そういったブラック・マーケットの経済活動は、もちろん税収にはつながりませんし、やはり安価で質の高いサービスはどうしても過小供給になりがちです。
そこで、日本で吸収しきれない旺盛な需要は、海外で吸収されることになります
売春業を合法化し、観光政策の一環として積極的に推進している東南アジアの新興国に、日本の潜在的な需要がすべてうばわれてしまっているのです。

こういった状況を改善して、日本のGDPを成長させ、税収を増やし、きたるべき少子高齢化社会にそなえるにはどうすればいいでしょうか?
非常に簡単です。
売春を合法化すればいいのです。

[中略]

合法化することによって、ブラックマーケットの経済活動がすべて表に出てくるので、GDP統計にも反映されますし、もちろん国家の税収にもなります
さらに、就職氷河期で就職先がなくなってしまった女子の有望な雇用先にもなるので、若年層失業率の大幅な改善も期待できるでしょう。
日本の売春業は、一部の既得権益層を守るために、潜在的な需要が抑えつけられ、国民全体の利益が損なわれているいい例ですね。

潜在的に大きな需要があるのに、それがグローバリゼーションやIT革命についていけない規制によって、抑えられていることがたくさんありません。
また、そういった抑えられた需要にサービスを供給するのは、ブラック・マーケットやオフショア業者で、顧客は安心してサービスを受けられないし、国の税収にもならないのです。

[中略]

つまり、需要サイドの成長戦略とは、ひとことでいえば戦略的な規制緩和なのです
規制緩和をして、新たな需要をつくり出すのです。
規制をうまく取り除けば、需要がすぐに生まれる分野に、「医療」、「教育」、「介護」などがあります。
こういった分野は、政府の規制によってがんじがらめに縛られているため、ちょっと規制を緩和するだけで、大きな成長が期待できるでしょう。

ところが、規制によって守られている既得権益層の政治活動はかなり熾烈なものになるので、実際に意味のある規制緩和を実行するのはなかなかむずかしいのです。


「規制をかける」ということは、誰かの活動を抑制するということですから、国家が規制をかけることのできる場合というのは、その活動が国家や社会、または個人に対して損失を与える可能性がある場合に限られます

規制とは、誰かが利益を得ようとする行為を禁止したり抑制したりすることです。
つまり、規制をかけるということは、その人に損失を与える(利益を得ることを禁止する)ことを意味します。
これを国家が正当化するためには、その規制によって得る損失回避という利益が、規制による損失を上回る必要があります
実態がどうかは置いておいて、少なくても名目的に上記の条件を満たしていることが表明されなければなりません。
でなければ、規制が不公平な利益誘導ということになってしまい、国民は規制を認めないでしょう。
古い言葉でいえば「大義名分」なしに国家権力を用いて規制をかけることはできないのです。



古い時代に見られた王や貴族などの一部の集団に利益を誘導することは現代において非常に難しくなっています。
なぜ現代において難しくなったのかといえば、国民の知的水準が上がったこと、情報公開が進んだこと、権威者と強制力が分離されたことなどがあります。
もちろん古い時代にも「大義名分」が重要視された時期はあります。
昔も今も人心の掌握こそが政策遂行効果の極大化における最も重要な要因である点は変わらないのです。
ゆえに賢い支配者は「大義名分」を重んじたのです。


では、なぜ今「規制緩和」が声高に叫ばれるのでしょうか。(今ではなくもうずっと前から)
必要があり、皆が納得したから規制がかけられたのにです。
それは、時代とともに国家や社会がおかれている環境が変化し、規制をかけていた対象の状況も変わるからです。



ここでよく置き忘れられる議論があるので注釈しておきます。
世論は時代とともに左に右にぶれます。
何かが加熱すれば規制強化論が強くなりますし、その逆の状況では規制緩和論が強くなります。
その分野の専門家同士の議論においては各種具体的項目毎に比較的論理的に規制の是非が論じられるのに対し、一般的な世論は情緒的反応を強く示す傾向があります。(マスコミの影響もあるでしょう)
規制緩和論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ますし、逆に規制強化論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ます。
時として、神学論争などといって揶揄される場合もあります。
しかし、これはとても非生産的な議論です。
なぜなら、人間が不完全である限り、いつの時代においても環境に合わせて規制はかけていくべきものですし、環境に合わせて規制を緩和していくものなのです。
議論の軸が「規制緩和派vs規制強化派」であっては永遠に適切な答えには辿り着けないでしょう。


時代が変われば、古くなり環境に合わなくなった規制は緩和する必要が出てきます。
しかし、規制を緩和するのは容易ではない場合がほとんどです。
ここに「規制」の難しさがあります

人間に限らず全てにおいて同様なのですが、我々は環境に適応する生き物です。
熱帯雨林を想像してみてください。
自然に自生していた熱帯雨林の中で観光名所になっていた杉が害虫によって弱っているとします。
そこで当局は害虫を駆除するためのシステムを熱帯雨林の中に建造しました。

何が起きるでしょうか?

当局の期待は害虫だけが駆除されて杉が力を取り戻すことです。
しかし、思惑通りに事が運ぶとは限りません
害虫を駆除すれば、その害虫が存在したことによって成立していた熱帯雨林の生態系が壊される可能性があるからです。
生態系の乱れが小さくおさまり、ほぼ期待通りの結果を得る可能性はありますが、下手をすると生態系を大きく乱し熱帯雨林の形そのものを変えてしまう可能性もあります。
そうすると期待結果であった杉を守ることすらできない可能性すらあります。
本当に杉を守りたいのであれば、害虫の発生要因は、そしてさらにその発生要因は・・・と研究していく必要があります。
そのどこかの時点で、生態系に与える影響を小さく抑えたまま杉を守れると判断できる対策が得られたら、それが目的に照らし合わせて最適な行為(規制)といえるでしょう。
(もちろん、事前的に最適でも事後的に誤りであることは往々にしてあります。)

また、一度対策を行ってしまうと、その対策に依存した生態系ができてしまうことに注意が必要です。
杉に栄養剤を打つと、杉は栄養剤なしには生きていけなくなる可能性があります。
熱帯雨林の中に人造物があれば、その周りをシダ植物がまとわりつき、そこに巣食う動物が出てきます。
動物にとっては安全で暖かくて、とてもよい住まいかもしれません。

ここで杉が元気を取り戻したので人造物を除去することに決めたとします。
その住まいを奪ってしまったらどうなるでしょうか。
(動物に心があるかは関係なく)動物達は可哀相でしょうね。

この熱帯雨林の話の前半部分で「規制を導入する難しさ」を、後半部分で「規制を緩和する難しさ」を表現したつもりです。
話を単純化し過ぎかもしれませんが、わかりやすい説明になったかと思います。


規制を導入する難しさとは、現代社会では利害関係が複雑に入り組んでいるため万人に通用する「大義名分」はほとんどの場合有り得ず(認識を共有することは難しく)、また利権化した政治の力で「大義名分」とは関係なく一部の集団へ利益誘導が行われることにあるのです。

(そのための情報操作も日常茶飯事です)


規制を緩和する難しさとは、規制により利益を受けていた人達が損失を受けるということであり、その損失の正当性が認められない限り緩和できないことにあるのです。




一部の方々はこの「規制緩和の難しさ」を重々承知しておいでなので、多少強引にでも一生懸命に思惑を予算に組込もうとします。
予算に組込まれる前には議論を分かつ問題でも、一度予算に組込まれると政治はその予算を削るのが容易ではなくなります。
その予算に助けられている人々が生まれるからです。
予算を削るということは、弱者を救うという政治の大義名分を著しく毀損してしまいます。
この場合「フレーズ」が必要です。
「改革」「痛みに耐えて~」のようなフレーズです。


「規制緩和」の有意性は万人が認めるところ(総論で賛成)でありますが、各集団や各個人が損失を被るとわかったとき、人々は反対に回る(各論反対する)のです。
絡み合った各要因を一つ一つ解きほぐし、万人が納得する「大義名分」を唱えることは非常に難しいことです。
あるとすれば、オバマ米大統領のように利害対立を止揚した理念を唱えることですが、理念を具体的政策に落とし込む際にはやはりこの問題にぶち当たるのです。

このとき、政治に求められるのは「決断」です。
「決断」とは「諦める」と同意です。
一部の利益をとり、一部の損失を諦める。
これが「決断」であり、人々が今政治に求めているものなのです。
誰に対しても好かれたいと思っているようでは「決断」することはできません。
現代の政治家に必要な能力とは「決断の正当性を説明する能力」です。


小泉内閣でいうところの「痛みに耐える」ということですね。
だが、やりかたを失敗すると小泉改革のように巻き返しに合うのです。

私はこれこれこういう理由でこういう決断をする。
ただし、これによって損失を受ける人達のことにも十分に配慮しなければならない。
みんなのためとはいえ、誰か1人に痛みを背負わせることがあってはいけない。
その痛みは皆で分け合うべきだし、そのために国家は努力しなければならない。
みなで強きを伸ばし、弱気を助ける。そのための国家である。
だから、こういう条件をつけて、こういう対応をします。
しかし、このことによって、我々はこんな明日を~~

という具合に。

民主党の「第3の道」の考え方 (改訂版) 第一部

2010-01-18 10:50:35 | 政治

ちょっとずるいですが、前回(2009/01/15)のエントリを分割して整理しなおします。
少し長すぎたため(gooブログの文字制限にひっかかってしまい)論点がよくわからないものになってしまった感がありました。
私自身がそうなのですが、長すぎるブログは読むのが大変で、そういうエントリが続くと読む気力を喪失してしまいます。
(1万文字というと400字詰め原稿用紙で25枚分ですね・・。タグをカウントに含むので実際にはそこまで長くないでしょうけれど。)
さすがに読む側も辛かろうということで整理し直すものです。


"民主党"の「第3の道」について少し誤解されている方々がいるので個人的見解を説明します。

民主党(というより菅直人氏?)が主張する新たなる「第3の道」について多くの批判がなされています。
民主党の政策が旧来の産業政策の枠組みから抜け出せないでいることや、規制緩和についての無理解さについて批判が集中しています
最近の幾つかのブログ・エントリから代表的な意見をかいつまんでみます。

民主「新成長戦略」のお粗末 産業政策なんかもうやめろ(高橋洋一)
http://www.j-cast.com/2010/01/14057771.html


なぜ民主党も自民党も政治家は成長戦略が好きなのか。簡単な成長戦略があれば、世界で貧困問題はとっくに解決しているだろう。つまり、成長戦略は容易に解が見つけられない難問なので、政治家が夢を与えられるからだ。そこに官僚が産業政策という名目でつけいり、政治家のほうにも選挙対策として個別産業・企業とパイプを持ちたいという心境が垣間見える

成長産業を見いだすという産業政策は、日本独特のモノだ。そんなによければ、とっくに世界中で流行しているはずだ。もちろん、環境、医療などの分野で、国の環境政策、医療政策までを否定するものでないが、国を挙げての産業育成には問題がある。国がある特定産業をターゲットにすると、結果として産業がダメになるというネガティブな話は多い。
日本の戦後成長の歴史を見ても、通産省(現経産省)がターゲットにした産業は、石油産業、航空機、宇宙産業などことごとく失敗している。逆に、通産省の産業政策に従わなかった自動車などは、世界との競争の荒波にもまれながら、日本のリーディング産業に成長してきている。竹内弘高教授(一橋大学)の研究でも、日本の20の成功産業についても政府の役割は皆無だったようだ。要するに、国に産業の将来を見極める眼力があればいいのだが、現実にはそんな魔法はない。必要なのは、国による選別ではなく、競争にもまれることだ。

[中略]

それでは、政府は一切関与できないかというと、そうでもない。例えば、競争政策や規制緩和は大いに結構だ。それに知的所有権などの法整備もいいだろう

[中略]

特定産業に対する産業政策を重ねることは不必要だ。冒頭に掲げた論考を書いた約20年前、産業政策の議論の時に、産業政策の正当性を主張する役人に対して、どうしても産業政策をやりたいなら自らがプレーヤーとなって行えばいい、といったことがある。そのときに彼らの反応から、産業政策は役人の失業対策になるかもしれないが、国民のための政策ではないと思った


社会インフラがよく整備された先進国における伝統的な公共事業が、単なる政府による所得の再分配に終わってしまい、ほとんど経済発展に寄与しないことは、これまでの日本の経験から確かのようです。
(なぜそうなってしまうかは後述します。)

そこで、民主党は「コンクリートから人へ」と掲げて昨年末に「新成長戦略」を打ち出したのですが、内容を見てみると自民党時代からつづく旧来型の産業政策思想に基づくものと批判されています。
(もちろん民主党はその批判について反論をしています。批判者からみて自民党と同じものに見えるのです。)
なぜ旧来型の産業政策政府が批判されるかといえば、政府が行う産業政策がほとんどまともに機能してこなかったという現実があるからです。
そればかりか、政府による産業政策が産業構造を歪めてしまい、労働資本の分配に悪影響を与え、結果として日本経済の力を削いでしまっているといわれています。

元財務官僚にて小泉・竹中改革のインサイダーとして活躍した"(官僚から見て)暗黒卿"こと高橋洋一氏の説明によると「自民党でも民主党でも経済政策を考えるのは結局のところ経産省だから」だそうです。


正月のテレビ番組で、自民党のある政治家は、民主党の成長戦略は自民党のものと内容が同じであると言っていた。そうだろう、元ネタは経産省の役人からであるから、民主党も自民党も内容は似たり寄ったりで、ポイントは、具体的な成長産業をターゲットに掲げ、その産業に各種の助成措置を行う「日本的産業政策」である。


ワイドショーとは違って「官僚の発想だからよくない」ということを皆さん言いたいのではありません
これまでの日本経済史を紐解く限り「 日本の戦後成長の歴史を見ても、通産省(現経産省)がターゲットにした産業は、石油産業、航空機、宇宙産業などことごとく失敗している。逆に、通産省の産業政策に従わなかった自動車などは、世界との競争の荒波にもまれながら、日本のリーディング産業に成長してきている。」といのが現実であり、これについて深く反省する必要があると識者は発信しているのです。
このことは経済の専門家以外にも、地方で活躍しているビジネスパーソンからも「補助金というシステムが地方の自立心を奪い、力を失わせている」といった声を聞くことができます。

では、彼らが主張する「競争政策」や「規制緩和」とはどういったものなのでしょうか。
第2部につづきます。

民主党の「第3の道」の考え方

2010-01-15 17:03:26 | 政治
「第3の道」について少し誤解されている方々がいるので個人的見解を説明しよう。

民主党(というより菅直人氏?)が主張する新たなる「第3の道」について多くの批判がなされています。
民主党の政策が旧来の産業政策の枠組みから抜け出せないでいること、規制緩和についての無理解さについてです。
最近の幾つかのブログ・エントリから代表的な意見をかいつまんでみます。

民主「新成長戦略」のお粗末 産業政策なんかもうやめろ(高橋洋一)
http://www.j-cast.com/2010/01/14057771.html


なぜ民主党も自民党も政治家は成長戦略が好きなのか。簡単な成長戦略があれば、世界で貧困問題はとっくに解決しているだろう。つまり、成長戦略は容易に解が見つけられない難問なので、政治家が夢を与えられるからだ。そこに官僚が産業政策という名目でつけいり、政治家のほうにも選挙対策として個別産業・企業とパイプを持ちたいという心境が垣間見える。
成長産業を見いだすという産業政策は、日本独特のモノだ。そんなによければ、とっくに世界中で流行しているはずだ。もちろん、環境、医療などの分野で、国の環境政策、医療政策までを否定するものでないが、国を挙げての産業育成には問題がある。国がある特定産業をターゲットにすると、結果として産業がダメになるというネガティブな話は多い。
日本の戦後成長の歴史を見ても、通産省(現経産省)がターゲットにした産業は、石油産業、航空機、宇宙産業などことごとく失敗している。逆に、通産省の産業政策に従わなかった自動車などは、世界との競争の荒波にもまれながら、日本のリーディング産業に成長してきている。竹内弘高教授(一橋大学)の研究でも、日本の20の成功産業についても政府の役割は皆無だったようだ。要するに、国に産業の将来を見極める眼力があればいいのだが、現実にはそんな魔法はない。必要なのは、国による選別ではなく、競争にもまれることだ。

[中略]

それでは、政府は一切関与できないかというと、そうでもない。例えば、競争政策や規制緩和は大いに結構だ。それに知的所有権などの法整備もいいだろう。

[中略]

特定産業に対する産業政策を重ねることは不必要だ。冒頭に掲げた論考を書いた約20年前、産業政策の議論の時に、産業政策の正当性を主張する役人に対して、どうしても産業政策をやりたいなら自らがプレーヤーとなって行えばいい、といったことがある。そのときに彼らの反応から、産業政策は役人の失業対策になるかもしれないが、国民のための政策ではないと思った。


経済の専門家(TV芸人的経済評論家は除外)の間では、社会インフラがよく整備された先進国における公共事業が単なる政府による再分配で終わって、ほとんど経済発展に寄与しないということが周知の事実です。
そこで、民主党は「コンクリートから人へ」と掲げて昨年末に「新成長戦略」を打ち出したのですが、内容を見てみると自民党時代からつづく旧来型の産業政策思想に基づくものでした。
これもまた、経済の専門家(TV芸人的経済評論家は除外)の間では、政府が行う産業政策がほとんどまともに機能しないことが周知の事実です。
そればかりか、政府による産業政策によって産業構造を歪めてしまい、労働資本の分配に悪影響を与え、結果として日本経済の力を削いでしまっているのです。

元財務官僚にて小泉・竹中改革のインサイダーとして活躍した"暗黒卿(官僚から見て)"こと高橋洋一氏の説明によると、「自民党でも民主党でも経済政策を考えるのは結局のところ経産省だから」だそうです。


正月のテレビ番組で、自民党のある政治家は、民主党の成長戦略は自民党のものと内容が同じであると言っていた。そうだろう、元ネタは経産省の役人からであるから、民主党も自民党も内容は似たり寄ったりで、ポイントは、具体的な成長産業をターゲットに掲げ、その産業に各種の助成措置を行う「日本的産業政策」である。


「官僚の発想だからよくない」というつもりは皆さんないのですが、これまでの日本経済史を紐解く限り「 日本の戦後成長の歴史を見ても、通産省(現経産省)がターゲットにした産業は、石油産業、航空機、宇宙産業などことごとく失敗している。逆に、通産省の産業政策に従わなかった自動車などは、世界との競争の荒波にもまれながら、日本のリーディング産業に成長してきている。」といのが現実であり、これについて深く反省する必要があると識者は発信しているのです。
このことは経済の専門家以外にも、地方で活躍しているビジネスパーソンからも「補助金というシステムが地方の自立心を奪い、力を失わせている」といった声を聞くことができます。

では、彼らが主張する「競争政策」や「規制緩和」とはどういったものなのでしょうか。
少々極端なものですが、そのわかりやすい例が下記ブログで述べられています。

需要サイドの成長戦略とは?(藤沢数希)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51642847.html


どうも民主党はこども手当などで家計の所得を増やしてやれば、需要が増えるので経済が成長すると思っているようで、そのことに関しては多数の評論家から批判されています。
僕も、そういう手当は、格差を是正するための政府の再分配の機能であって、成長戦略にはなり得ないと思っています。
というのも家計を増やすといっても、その財源は赤字国債の発行で、将来の税金の先食いですし、その先食いした税金以上に再分配された人が付加価値を創出するかといえば大いに疑問です。

しかし、需要サイドの成長戦略というのは、実は、日本経済には非常に重要だと思っています。

[中略]

日本には売春業に対する男性側の需要は非常に高いのですが、このように規制されているし、また、そのような中でいちおう合法的に営業を行っているところも、サービスの質が非常に低い上に国際水準からかけ離れた価格になっているため、あまり利用されていないというのが実情ではないでしょうか。
需要があるところで、それを法律で規制しているのだから、そういったサービスを供給しているのは主に法律を破るのがお仕事の方々ということになります。
しかし、そういったブラック・マーケットの経済活動は、もちろん税収にはつながりませんし、やはり安価で質の高いサービスはどうしても過小供給になりがちです。
そこで、日本で吸収しきれない旺盛な需要は、海外で吸収されることになります。
売春業を合法化し、観光政策の一環として積極的に推進している東南アジアの新興国に、日本の潜在的な需要がすべてうばわれてしまっているのです。

こういった状況を改善して、日本のGDPを成長させ、税収を増やし、きたるべき少子高齢化社会にそなえるにはどうすればいいでしょうか?
非常に簡単です。
売春を合法化すればいいのです。

[中略]

合法化することによって、ブラックマーケットの経済活動がすべて表に出てくるので、GDP統計にも反映されますし、もちろん国家の税収にもなります。
さらに、就職氷河期で就職先がなくなってしまった女子の有望な雇用先にもなるので、若年層失業率の大幅な改善も期待できるでしょう。
日本の売春業は、一部の既得権益層を守るために、潜在的な需要が抑えつけられ、国民全体の利益が損なわれているいい例ですね。

潜在的に大きな需要があるのに、それがグローバリゼーションやIT革命についていけない規制によって、抑えられていることがたくさんありません。
また、そういった抑えられた需要にサービスを供給するのは、ブラック・マーケットやオフショア業者で、顧客は安心してサービスを受けられないし、国の税収にもならないのです。

[中略]

つまり、需要サイドの成長戦略とは、ひとことでいえば戦略的な規制緩和なのです。
規制緩和をして、新たな需要をつくり出すのです。
規制をうまく取り除けば、需要がすぐに生まれる分野に、「医療」、「教育」、「介護」などがあります。
こういった分野は、政府の規制によってがんじがらめに縛られているため、ちょっと規制を緩和するだけで、大きな成長が期待できるでしょう。

ところが、規制によって守られている既得権益層の政治活動はかなり熾烈なものになるので、実際に意味のある規制緩和を実行するのはなかなかむずかしいのです。


規制をかけるということは、誰かの活動を抑制するということですから、国家が規制をかけることのできる場合というのは、その活動が国家や社会、または個人に対して損失を与える可能性がある場合に限られます。

規制とは、誰かが利益を得ようとする行為を禁止したり抑制したりすることです。
つまり、規制をかけるということは、その人に損失を与える(利益を得ることを禁止する)ことを意味します。
これを国家が正当化するためには、その規制によって得る損失回避という利益が、規制による損失を上回る必要があります。
実態がどうかは置いておいて、少なくても名目的に上記の条件を満たしていることが表明されなければなりません。。
でなければ、規制が不公平な利益誘導ということになってしまい、国民は規制を認めないでしょう。
古い言葉でいえば「大義名分」なしに国家権力を用いて規制をかけることはできないのです。


古い時代に見られた王や貴族などの一部の集団に利益を誘導することは現代において非常に難しくなっています。
なぜ現代において難しくなったのかといえば、国民の知的水準が上がったこと、情報公開が進んだこと、権威者と強制力が分離されたことなどがあります。
もちろん古い時代にも「大義名分」が重要視された時期はあります。
昔も今も人心の掌握こそが政策遂行効果の極大化における最も重要な要因である点は変わらないのです。
ゆえに賢い支配者は「大義名分」を重んじたのです。

では、なぜ今「規制緩和」が声高に叫ばれるのでしょうか。(今ではなくもうずっと前から)
必要があり、皆が納得したから規制がかけられたのにです。
それは、時代とともに国家や社会がおかれている環境が変化し、規制をかけていた対象の状況も変わるからです。


ここでよく置き忘れられる議論があるので注釈しておきます。
世論は時代とともに左に右にぶれます。
何かが加熱すれば規制強化論が強くなりますし、その逆の状況では規制緩和論が強くなります。
その分野の専門家同士の議論においては各種具体的項目毎に比較的論理的に規制の是非が論じられるのに対し、一般的な世論は情緒的反応を強く示す傾向があります。(マスコミの影響もあるでしょう)
規制緩和論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ますし、逆に規制強化論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ます。
時として、神学論争などといって揶揄される場合もあります。
しかし、これはとても非生産的な議論です。
なぜなら、人間が不完全である限り、いつの時代においても環境に合わせて規制はかけていくべきものですし、環境に合わせて規制を緩和していくものなのです。
議論の軸が「規制緩和派vs規制強化派」であっては永遠に適切な答えには辿り着けないでしょう。

時代が変われば、古くなり環境に合わなくなった規制は緩和する必要が出てきます。
しかし、規制を緩和するのは容易ではない場合がほとんどです。
ここに「規制」の難しさがあります。

人間に限らず全てにおいて同様なのですが、我々は環境に適応する生き物です。
熱帯雨林を想像してみてください。
自然に自生していた熱帯雨林の中で観光名所になっていた杉が害虫によって弱っているとします。
そこで当局は害虫を駆除するためのシステムを熱帯雨林の中に建造しました。

何が起きるでしょうか?

当局の期待は害虫だけが駆除されて杉が力を取り戻すことです。
しかし、思惑通りに事が運ぶとは限りません。
害虫を駆除すれば、その害虫が存在したことによって成立していた熱帯雨林の生態系が壊される可能性があるからです。
生態系の乱れが小さくおさまり、ほぼ期待通りの結果を得る可能性はありますが、下手をすると生態系を大きく乱し熱帯雨林の形そのものを変えてしまう可能性もあります。
そうすると期待結果であった杉を守ることすらできない可能性すらあります。
本当に杉を守りたいのであれば、害虫の発生要因は、そしてさらにその発生要因は・・・と研究していく必要があります。
そのどこかの時点で、生態系に与える影響を小さく抑えたまま杉を守れると判断できる対策が得られたら、それが目的に照らし合わせて最適な行為(規制)といえるでしょう。
(もちろん、事前的に最適でも事後的に誤りであることは往々にしてあります。)

また、一度対策を行ってしまうと、その対策に依存した生態系ができてしまうことに注意が必要です。
杉に栄養剤を打つと、杉は栄養剤なしには生きていけなくなる可能性があります。
熱帯雨林の中に人造物があれば、その周りをシダ植物がまとわりつき、そこに巣食う動物が出てきます。
動物にとっては安全で暖かくて、とてもよい住まいかもしれません。

ここで杉が元気を取り戻したので人造物を除去することに決めたとします。
その住まいを奪ってしまったらどうなるでしょうか。
(動物に心があるかは関係なく)動物達は可哀相でしょうね。

この熱帯雨林の話の前半部分で「規制を導入する難しさ」を、後半部分で「規制を緩和する難しさ」を表現したつもりです。
話を単純化し過ぎかもしれませんが、わかりやすい説明になったかと思います。

規制を導入する難しさとは、現代社会では利害関係が複雑に入り組んでいるため万人に通用する「大義名分」はほとんどの場合有り得ず(認識を共有することは難しく)、また利権化した政治の力で「大義名分」とは関係なく一部の集団へ利益誘導が行われることにあるのです。
(そのための情報操作も日常茶飯事です)

規制を緩和する難しさとは、規制により利益を受けていた人達が損失を受けるということであり、その損失の正当性が認められない限り緩和できないことにあるのです。

「規制緩和」の有意性は万人が認めるところ(総論で賛成)でありますが、各集団や各個人が損失を被るとわかったとき、人々は反対に回る(各論反対する)のです。
絡み合った各要因を一つ一つ解きほぐし、万人が納得する「大義名分」を唱えることは非常に難しいことです。あるとすれば、オバマ米大統領のように利害対立を止揚した理念を唱えることですが、理念を具体的政策に落とし込む際にはやはりこの問題にぶち当たるのです。

このとき、政治に求められるのは「決断」です。
「決断」とは「諦める」と同意です。
一部の利益をとり、一部の損失を諦める。
これが「決断」であり、人々が今政治に求めているものなのです。
誰に対しても好かれたいと思っているようでは「決断」することはできません。
現代の政治家に必要な能力とは「決断の正当性を説明する能力」です。


小泉内閣でいうところの「痛みに耐える」ということですね。
だが、やりかたを失敗すると小泉改革のように巻き返しに合うのです。

私はこれこれこういう理由でこういう決断をする。
ただし、これによって損失を受ける人達のことにも十分に配慮しなければならない。
みんなのためとはいえ、誰か1人に痛みを背負わせることがあってはいけない。
その痛みは皆で分け合うべきだし、そのために国家は努力しなければならない。
みなで強きを伸ばし、弱気を助ける。そのための国家である。
だから、こういう条件をつけて、こういう対応をします。
しかし、このことによって、我々はこんな明日を~~

という具合に。


話が長くなってしまったが、ようやく本題に入ります。

このエントリでは、民主党の政策が旧来の産業政策の枠組みから抜け出せないでいること、規制緩和についての無理解でいることの批判内容について説明してきました。
では、民主党の成長戦略には希望はないのでしょうか。
正直いって現実に打ち出されている成長戦略には大きな期待をもてません。
批判者の指摘がほとんどの場合正しいと思います。
しかし、「第3の道」として主張されている「需要サイドの成長戦略」は決して間違っているものではありません。
これについては批判者の皆様が理解されていないことがあります。
(理解しないというより方法論が貧弱すぎて納得できないというべきでしょうか)

民主党が主張する「第3の道」は、「需要の喚起」による「内需の拡大」のことであり「消費の拡大」のことです。
GDPの6割を占める個人消費を拡大することで経済成長を促す考え方です。
「需要を喚起する力は供給側が持つ」「所得を増やす効果が需要側にはない」という批判者のロジックはわかるのですが、ここでいう「需要の喚起」というのは、それとは少し意味が違います。
民主党の「第3の道」をよりよく理解するために、少し説明します。

この部分は話を単純化し過ぎと批判覚悟で書いています。

経済というのはサービスと対価の交換によって成り立っていますが、理論上「交換」は無限に行うことができます。
市場に流通するマネーの量が一定だとしても、交換自体は無限に行うことができるのです。
だから市場の実態として、流通している貨幣の量よりもマネーの量は多くなります。
もちろん交換するモノやサービスには資源などによって制限がかかるので、実際には無限というわけにはいきません。
また、逆にマネーの量を増やしたとしても市場で交換する必要性がなければ交換数を増やすことはできません。

これだけを踏まえると、国がマネーを一度発行してしまえば無限とまではいかなくてもマネーが市場を回りまわってみんな裕福になるのではないかと考えることができるかもしれません。
しかし、そういうわけにはいかないのです。
ここに登場するのが「需要」です。
先ほど、「マネーの量を増やしたとしても市場で交換する必要性がなければ交換数を増やすことはできません」と書きましたが、この「交換する必要性」というのが「需要」です。

私達人間は、欲しいモノがある(交換する必要性がある)時、自分が持っているマネーとモノを交換しようとしますが、欲しいモノがない時、自分の持っているマネーを将来のために取っておきます。
これが「貯蓄」です。
(欲しいモノがあるけど貯蓄する場合、もっと欲しいモノが他にあるのかもしれません。)
新興国のように開発途上にある国では、みんな欲しいモノばかりなので、みんなガムシャラにお金を使います。
先進国のようにモノで満たされてしまった国では、セレブ気分を味わったり、旅行したり、マネーゲームしたりとサービスにマネーが使われるようになります。

このとき、どのくらいマネーを供給すると、どのくらいマネーが回るかといったものを「乗数効果」と呼びます。
発展途上にある国では乗数効果が高くなるのは説明した通りです。
先進国ではモノで満たされているので、モノに関する乗数効果は必然的に低くなり、それでは経済の成長力が低下してしまうので、サービス分野の乗数効果が高くなければなりません。

しかし、ここで日本がぶち当たっている壁があります。
サービス分野というのは不景気に弱いのです。
人間、将来に向けての見通しが悪いとき、生きていくのにあまり重要ではないサービスなんかにお金を使うのをやめます。
そして、モノは溢れているのでモノを買うためにマネーを交換する必要がありません。
将来欲しくなるもののために「貯蓄」しようと考えます。

そうです。
将来に向けての見通しが悪いとき、つまり「不安」でいっぱいの時、マネーは貯蓄に回ります。
人々はせっかくマネーを持っていても、それを使おうとしないので、乗数効果は低下します。

今、日本では「将来不安」に溢れています。
連日のように不正や不平等や不安を煽る情報が駆け巡っています。
こんな「不安」でいっぱいなのに「マネーを使え」という方が無理なのです。
人々は冬を越す動物のように縮こまり、リスクを取らずに状況が好転するのを待っています。

さて、まえおきが終わり、ようやく本題の本題です。

ここでようやく民主党の「第3の道」の登場です。

日本経済が落ち込んでいる病理、それは「不安」です。
誰もが「安心」を求め彷徨っています。

これだ!
と思ったのです。

これまでの実績からして、政府は供給側の力を伸ばすことが苦手だ。
供給側の成長は民間の力を伸ばすことによって実現するしかない。
あえてできることは規制改革、高度社会インフラ整備などだ。

しかし!
政府が主導してできることもある!
日本社会を覆う「不安」を振りほどき、皆で「安心」を共有することができれば、需要側の意識を喚起できる!
そうすれば日本に眠る潜在的マネーを引き出し、乗数効果を上げることができる!
供給と需要の両輪を回すことができるのだ!

と。

そのために何が必要だ?

将来不安を解消することが最優先だ!
よし、セーフティネットの構築だ!


と書いてきたのですが、疲れたのでここで一度エントリをリリースします。
長すぎてgooブログの文字数制限にひっかかってしまいました。
後ほど書き直す可能性がありますが、前置きが長すぎて飽きてしまいました(笑)

小沢が正しいかどうかは国民が決めればよい

2010-01-14 17:12:41 | 政治
ちょっと軽率な内容が含まれていたので赤字で追記。

人々が自分達の都合のために国家という存在を認め、国家に力を与え、そして国家に権限を委任する時、国家権力が生まれる。
しかし、人々が国家に権限を委任する時、人々は国家権力の暴走または自分達の意に反する行動を抑止する仕組みを持つ必要がある。
それが憲法であり、法律を作成できる政治家を国会に送り込む意味だ。
国家権力に強い影響力を持つ政治家は必然的に権力を持つ。

人々は自分達で選抜した政治家に対して自分達の意を委任しているので、政治家に裁量が生まれる。
問題が単純であれば政治家の裁量は少なくても済むが、国家的問題はふつう複雑で高度であるため、与えられる裁量は大きくなる。
(問題が簡単であればやるべきことは簡単に見つかり、誰かに任せる必要がない。)
この裁量を一部の利益集団のために行使することが利権である。

政治家は国民によって選ばれるが、政治家の仕事を選ぶ時点で厳密に定めることはできないので、裁量をどのように行使するかの保証はできない。
(一部マニフェスト選挙ということで裁量を縛る趣が近年ある)
政治家に自由な裁量が与えられる限り、利権は必ず発生する。
むしろ国民は政治家が国家権力に強い影響力を持っていることを認めるからこそ、利権を求める。

利権が国家全体に及ぼす影響は自明ではない。
一部の利益集団に益をもたらすことが、全体の利益に資する可能性もある。
逆に、全体の利益を考えた政治家の活動が、一部の利益集団への利益誘導で終わる可能性もある。

しかし、利権は結果の是非に関わらず「公平性」を激しく毀損する。
人々にとって「公平性」は「効率性」よりも重視される。
人は時に、恥じて生きる道よりも誇らしく死ぬことを是とすることすらある。
ゆえに、人々は「公平性」を担保するための権力を国家に認める。
検察機構がその一つだ。

検察は「公平性」を保つために、「公平性」を毀損するあらゆる存在に対して権力を行使できる。
政治家も「公平性」を毀損するのであれば例外ではない。

政治家は、その裁量がある限り利権に絡んでいる。
利権は「公平性」を毀損する。
これは相対的な問題だから、叩けば(価値基準の設定次第で)ボロ(不公平)の一つや二つは必ずが出る。


「公平性が相対的である」という点と「違法かどうか」という点は別次元で語った方がよいかもしれない。
個人的には「違法かどうか」ということは本質的なことではなく、より重要なのは「公平性」だと思っているので上記のような表現になったが、「相対的な問題だから」と切って捨てるのは少々乱暴であった。
世論の支持を得るためには、元長崎地検次席検事の郷原氏が主張するように「問題ないこと」「好ましくないこと」「違法なこと」「処罰すべきこと」に分類して考えるべきだと思う。
不可解な特捜の強制捜査 郷原信郎氏インタビュー (ビデオニュース・ドットコム)


しかし、それが政治家という存在なのだ。
国民が政治家に自由な裁量を与える限り、必ず政治家は公平性を毀損する。
だから、検察には「国民が求めている公平性」と「求めていない公平性」を熟慮することが必要だが、問題を難しくするのは、国民が一様ではないことだ。
検察がいかに慎重であったとしても、行動が常に国民の意と一致するということは有り得ない。

ではどうするべきか。
これは民主政治を自分達の手で打ち立てた人達なら知っている。

政治家も検察も、国民がその権力を認めるからこそ権力を行使できる。
政治家も検察も、最終的に抑止できるのは国民以外に他にない。

(その意味で、裁判に国民が参加することの意味はあるのである。)

自分達の運命は自分達で決めるしかない。
これはいつの時代も変わらぬ真実なのである。


検察はそれがわかっているからマスコミ使って民意の熟成に躍起だ。
彼は民意の後ろ盾なしに自分達の任務を正当化できないことをよく知っている。
小沢もその点をもっと熟考すべきだ。

小沢も国民によって退場させられるのなら、彼の民主主義感からして本望だろう。
国民による国民の政治を実現することが彼の野望なのだから。
しかし、彼はこうも言う。

「国民のレベル以上の政治家は生まれない」

と。


「政治家も検察も、最終的に抑止できるのは国民以外に他にない。」と書いたが、その国民の意思を表明する方法について言及していなかった。
国民の意思を表明するのが選挙であって政治家ではないか!と。
確かに現状のシステムでは、選挙が代表的な手段だが、他にもデモ行進するとか、署名集めるとか、メディアで反論するとか、世論を形成してそれを表明でいることが重要で、考えようによっては様々手段があるだろう。
戦前のように軍が力を持つ状況ではどうするのか、それを言ったら共産圏は崩壊しなかったのではなかろうか。
で、今騒いでいる小沢の件だったらどうすればよいか。
マスコミの意見を無視して声を上げればいい。
電話かけてクレーム入れればいいんだ。
アウシュビッツに収監された経験を持つ精神科医ヴィクトール・フランクルが自分自身の経験を分析して言ったように「人間は人間に対して環境を押し付けることができるが、どう振舞うかといった最終的な決定については介入できない。」のだから、マスコミはお膳立てすることはできても、国民の決定に介入することまではできないのだから。