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ヘルマン・パウル・ミューラー。(番外編vol.368)

2013年10月19日 08時53分08秒 | Weblog
50年代に活躍したドイツ人ライダー「ヘルマン・パウル・ミューラー」選手ですよ。

1909年生まれということでオートバイレースを始めたのは1929年からと

かなり昔の話しになります。

戦前は国内のエリア選手権でレース活動をしていてて、

マシンはアウディの前身にあたるアウトウニオンのマシンで戦っていたようです。

また、4輪の世界でもフォーミュラーレースに参戦しており、

39年にフランスGPで優勝、

そのままチャンピオンシップにおいてもポイントリードしていたのですが、

F1選手権終了後、2週間足らずで第二次世界大戦が勃発したため、

公式発表が何も行われず、幻のワールドチャンピオンとされてしまいます。

戦後は50年からWGPよりバイクレースに復帰し、

53年に125cc、250ccクラスで総合3位を獲得。

翌年、54年には250ccチャンピオンに輝いています。

ただし、すでに45歳という年齢もあってこの年をもって引退しています。

往年は母国ドイツで静かに暮らし75年に64歳で他界。

世界全体で考えてもモータースポーツの先駆者の1人であり、

大きな功績を残した存在の「ヘルマン・パウル・ミューラー」選手です。

レースがまだイギリス主体の時代にドイツ人として戦ったことも、

賞賛出来ますね!




タルクィニオ・プロヴィーニ。(番外編vol.367)

2013年10月18日 09時02分49秒 | Weblog
50年代から60年代に活躍したイタリア人ライダー「タルクィニオ・プロヴィーニ」選手ですよ。

比較的裕福な家庭で育ったこともあり、幼少の頃からバイクに乗っていたようです。

今で言う英才教育型ライダーですね。

10代前半からイタリアの国内レースに参戦し、

イタリア・ナショナルチャンピオンシップスでは通算13勝を上げる活躍をしています。

これにより母国イタリアでは英雄的な存在として見られるようになるんですよね。

また、唯一の国際レースだった、マン島TTでも合計4回優勝。

54年からイタリアチームのFBモンディアルよりWGP125ccクラスに参戦します。

57年には名門MVアグスタチームに移籍し、

ついに125ccクラスチャンピオンに輝き、250ccクラスでも総合2位を獲得。

翌年58年にも250ccクラスチャンピオンを獲得し2年連続チャンピオンに輝きます。

その後もチャンピオンにはなれなかったものの、優秀な成績を残していきます。

しかし、66年のマン島TTレースで深刻な事故を起こし背中を損傷、

車椅子生活を余儀なくされ引退していまいます。

その後はレース界に関わりながら模型の世界に入り込んでいきます。

イタリアの有名な模型メーカー「プロター」社を設立。

オートバイ模型を中心にスケールモデルを製造していきます。

現在でも「プロター」のバイクシリーズはモデラーに愛されており、

日本が誇る世界のタミヤなどが手がける車種とは多少違い、

50年代、60年代に活躍したバイクを多くライナップされているんですよね。

これも「タルクィニオ・プロヴィーニ」選手が当時プロライダーであったことが、

大きな要因になってるようです。

また、残念ながらmotoGP殿堂入りは果たせていません。

「タルクィニオ・プロヴィーニ」選手自体はは05年に71歳で亡くなっています。

ダリオ・アンブロジーニ。(番外編vol.366)

2013年10月17日 09時14分24秒 | Weblog
50年代に活躍したイタリア人ライダー「ダリオ・アンブロジーニ」選手ですよ。

若い頃は地元イタリアのエリア選手権に出場していたのですが、

49年からWGPが始まったことでイタリアのバイクメーカー「ベネリ」から参戦し、

初年度は250ccクラスで総合2位を獲得します。

さらに翌年50年にはマン島レースを含め3勝を上げて250ccクラスでワールドチャンピオンに。

ただ、51年にはスイスGPで優勝していたにも関わらず、

第6戦フランスGPの予選中に事故を起こし死亡。

享年33歳でした。

WGPでの成績を見ると2位以下の成績をとっていない才能あふれる選手だったようです。

走れば表彰台という快挙は短期間とは言え素晴らしいです。

まだこれからという矢先の事故だっただけに残念ですね。

また、「ダリオ・アンブロジーニ」選手が乗った「ベネリ」は

30年代からDOHCエンジンを開発しスーパーチャージャーなどの過給器を搭載した

ロードマシンをいち早く導入したメーカーで、

圧倒的に先行していたイギリスメーカーを脅かす存在だったようです。

現在は中国のオートバイメーカーである銭江グループの傘下で、

新型モデルを生産してるようですね。

転倒すればかなりの確率で死亡という50年代のバイクレース。

この時代は優秀な選手が次々と命を落としてしまった時代です。

ただ、「ダリオ・アンブロジーニ」選手を含め素晴らしい選手の死を教訓にしながら、

安全に関することが重要視されていくんですよね。




ビル・ロマス。(番外編vol.365)

2013年10月16日 09時06分07秒 | Weblog
50年代に活躍したイギリス人ライダー「ビル・ロマス」選手ですよ。

元々は、ダートトライアルレースに参戦していたのですが、

WGPの開催を期にロードレースに参戦するようになります。

50年に350ccクラスより初参戦を果たし55年にはクラスチャンピオンに輝きます。

同年は250ccとのWエントリーだったのですがこちらも総合2位を獲得。

調子を上げていきます。

56年には2年連続で350ccチャンピオン。

また、マン島TTレースでも2度優勝を果たし絶頂期を迎えます。

しかし、なぜか優勝したこの年を持って突然引退してしまいます。

引退理由についてはよく分かっていません。

とにかく「ビル・ロマス」選手は器用でそつなく、

あらゆるバイクを乗りこなすことが出来るライダーだったこともあり、

現役中、各チームから移籍話しを沢山されたようです。

実際に乗ったレースバイクは30種類近かかったようですしね。

今で言えばマシンの開発ライダー、

もしくはテストライダー的な要素をこなしていたようにも思えます。

順応性が高いライダーだったことも伺えます。

残念ながらmotogp殿堂入りは果たすことはありませんでしたが、

初期のWGPを支えた1人であったことは間違いないですね!


カルロ・ウビアリ。(番外編vol.364)

2013年10月15日 09時21分42秒 | Weblog
50年代に活躍したイタリア人ライダー「カルロ・ウビアリ」選手ですよ。

WGPが始まった49年よりMVアグスタチームより125ccクラスに参戦。

51年にモンディアルチームに移籍と共に125ccクラスチャンピオンを獲得します。

53年にはMVアグスタチームに戻り55年に125ccクラス2度目のチャンピオンに輝きます。

さらに大躍進を果たし56年は125cc、250ccでWチャンピオンに。

58年は125ccクラスチャンピオン、

59年は再び125cc、250ccでWチャンピオンに輝き、

60年も125cc、250ccでWチャンピオンに。

通算9回のワールドチャンピオンを獲得し60年をもって引退します。

また、2001年にはMotoGP殿堂入りを果たし現在84歳。

彼の優勝回数は歴代で3位。

輝かしい成績を残したイタリアの偉大なオートバイレーサーだったようです。

また、WGPで走った12年間で大きな転倒や負傷を負うことが無かったことを考えると、

相当なマシンコントロール技術を持っていたことも分かります。

特に賞賛するのは56年の250ccクラスですべてのレースで優勝を果たし、

ワールドチャンピオンに輝いたことでしょうか。

当時、年間7レースと少ない回数ではありましたが、250ccの出場台数は多く、

その中ですべてトップというのは、とてつもない偉業としか言いようがないです。

天才放出率の高いイタリアにあって「カルロ・ウビアリ」選手も

かなりの逸材だったことは間違いないですね!


ヤーノ・サーリネン。(番外編vol.363)

2013年10月12日 10時41分01秒 | Weblog
70年代に活躍したフィンランド人の「ヤーノ・サーリネン」選手ですよ。

元々はアイスレースで活躍していた選手でしたが、

70年よりヤマハワークス入りを果たしWGPに転向します。

デビューイヤーで250ccクラス総合4位、翌年71年は250ccクラス総合3位、

そして72年には250ccクラスでついにワールドチャンピオンに輝きます。

73年には500cc、250ccクラスにWエントリーし、早々に500ccでも優勝を飾った矢先、

第4戦イタリアGPで多発事故に巻き込まれ他界。

これは先に行われた350ccで第一コーナーにオイルが吹きこぼれたまま、

250ccクラスのレースが行われたことに要因があったとされています。

享年27歳でした。

一説には「ヤーノ・サーリネン」選手はハングオンというライディングを

始めて採用した選手と言われています。

これはケニーロバーツ選手と両方の説があり、真実は現在も定かではありません。

ただ、同時期の選手いわく「彼は始めて膝をスリながら走った選手」と言われているので、

可能性は高いと思われます。

とにかく、世間が分析する前に亡くなってしまってるのでよく分からないんですよね。

また、この事故をきっかけにオープニングラップが行われるようになり、

事前に路面コンディションを確認する安全策がとられるようになります。

あとF1ドライバーのヤルノ・トゥルーリの名「ヤルノ」は、

熱狂的なファンだった両親が「ヤーノ・サーリネン」選手にちなんで付けられたということです。

あまりに短期間ではありましたが、大きな功績を残した人物だったんですね!




ゲイリー・ホッキング。(番外編vol.362)

2013年10月11日 09時04分51秒 | Weblog
南アフリカのとなりの国、ローデシア出身の「ゲイリー・ホッキング」選手ですよ。

10代より地元で開催されていたダートトラックレースで走っており、

その才能を見出され58年からノートン・チームよりWGPに参戦します。

59年には250ccクラスで総合2位を獲得。

翌年60年にはMVアグスタ・チームに移籍し、

125cc、250cc、350ccの3つのカテゴリーのすべてで総合2位に。

さらに61年にはついに350cc、500ccでWチャンピオンに輝きます。

しかし62年シーズン序盤、マン島ジュニアクラスで、

2位を走っていた「ゲイリー・ホッキング」選手を

猛追していたホンダのトム・フィリス選手が大転倒し、そのまま他界してしまいます。

「ゲイリー・ホッキング」選手は、この事故を自分のせいじゃなかと考え込むようになり、

危険な2輪レースに疑問を持ち始め、この62年シーズンの序盤をもって突然引退します。

2輪レースでは最高潮だったにも関わらず引退してしまいますが、

レースをしたい気持ちはあったようで、

比較的、安全性の高い4輪(F1)の世界に飛び込みます。

マシンは自身で購入した中古でしたが、ロータス・チームのオーナーの目にとまり、

同年62年のナタールGPにスポット参戦が決定。

F1では始めてのレースだったのですが、皮肉にも練習走行中、

高速コーナーのバンクに激突する単独事故を起こし帰らぬ人となってしまいます。

享年25歳でした。

最高潮だったにも関わらず危険な2輪レースを引退し、

安全な4輪でのキャリアをスタートさせようとした矢先に

このようなことが起こってしまったことは皮肉としか言いようがないですね。

まだ、先があった選手だったので当時はかなり残念がられたようです。




セシル・サンドフォード。(番外編vol.361)

2013年10月10日 09時07分57秒 | Weblog
50年代に活躍したイギリス人ライダー「セシル・サンドフォード」選手ですよ。

イギリスのスクランブルレース(モトクロス)・エリア選手権で頭角を現し、

50年よりAJSファクトリーチームからロードレース世界選手権350ccクラスに参戦。

52年からにMVアグスタ・チームに移籍し125ccクラスでチャンピオンに輝きます。

この勝利はMVアグスタにとってもWGP初の勝利になっています。

その後、様々なチームに移籍を繰り返しながら、

57年にモンディアル・チームから250ccクラスで2度目のワールドチャンピオンに輝きます。

しかし、翌年モンディアルがグランプリ撤退を表明したことで、

「セシル・サンドフォード」選手も引退してしまいます。

すでに40歳に近い年齢だったので良いタイミングだったのでしょう。

50年代のWGPは年間で約10戦、ヨーロッパ圏のみで開催されてしました。

しかもサーキットより一般公道がほとんどだった時代です。

ライダーやチームもイギリス人かイタリア人で、

日本や他の国のメーカーの参戦はまだありませんでした。

それだけに全体的なスキルが世界レベルであったかどうかは定かではありませんが、

今よりかなり危険な状態でレースをしていたことは間違いないです。

転倒すれべ即、壁という悪条件の中で戦っていたようですからね。

またマシンやタイヤ性能も今に比べ、かなり低く状況にあったのに対し、

スピードに関してはすでに200km以上出てましたから恐ろしい話しです。

昔だからと言って軽視出来ないですね!


谷口尚己。(番外編vol.360)

2013年10月09日 09時01分24秒 | Weblog
日本人として始めてWGPでポイントをゲットした「谷口尚己」選手ですよ。

決して輝かしい成績を残した選手という訳ではありませんが、

ホンダが本格的にレース活動を開始した初期の時代に活躍したライダーでした。

54年にホンダに入社し、運転技量の高さからマシン開発だけでなく

レースまでこなすこと命ぜられます。

55年から開催された第1回浅間火山レースに出場し250ccクラスで堂々2位に。

57年には350ccクラスで3位をおさめています。

58年はついにホンダが世界に挑戦ということでマン島TTレースに出場することが決定。

「谷口尚己」選手もその選抜チームに選ばれます。

125ccクラスで見事に6位入賞を果たし1ポイントをゲット。

これが日本人初のWGPポイントとなります。

調子に乗ってきたホンダは60年にWGPフル参戦を果たし、

「谷口尚己」選手は125ccクラス、250ccクラスにWエントリー。

マン島TTでは6位を獲得しますが、ダッチTTでクラッシュしてしまい負傷。

残念ながらその後のシーズンを走ることは出来ませんでした。

翌年61年には125ccクラスで再帰を計りますが、

この頃からホンダは速い海外ライダーを起用するようになり、

日本人ライダーの「谷口尚己」選手は旧式マシンで戦うことになります。

また、62年には鈴鹿サーキットが完成し初の全日本ロードレース選手権大会が開催され、

ここで日本人ライダーとしては唯一3位表彰台に昇ることになります。

本質的にはホンダ社員だったのでマシン開発にも関わっていたのですが、

特に初入賞を果たしたホンダRC142とは縁が深くホンダのイベントなどで、

デモンストレーションをしたりしてるようです。

レースを始めたばかりの時代、ホンダにとって貴重な人材だったんですね!



伊藤史朗。(番外編vol.359)

2013年10月08日 08時58分55秒 | Weblog
50年代から60年代にかけて活躍した日本人ライダー「伊藤史朗」選手ですよ。

国内のオートバイメーカーが数百社もあった時代、

どのメーカーが速く耐久性が高いのかを競う競技として、

55年から始まった浅間高原(火山)レースで、今は無き、

丸正自動車製造のライラック号というバイクで出場したところから

プロレーサーとしてのキャリアが始まります。

世界大会としては58年に開催されたアメリカ・カタリナGPにヤマハワークスとして参戦。

59年には浅間高原(火山)レースにBMWチームから参戦し500ccクラス優勝を果たします。

60年にはWGPにBMWチームからエントリー。

最高峰500ccクラス初のフル参戦日本人ライダーとなります。

翌年はヤマハワークスから125cc、250ccクラスに戦いの場を移し、

63年にはベルギーGPで優勝したのを始め数度の表彰台をゲットし250ccクラスで総合3位に。

しかし64年、マレーシアGPで転倒し大けがを負っていまい、

そのまま現役を引退してしまいます。

日本人レーサーとしてはかなりの成績を収めた「伊藤史朗」選手でしたが、

私生活は随分荒れていたようで、銃刀法違反(拳銃の密輸や所持)で逮捕。

釈放された後は91年に他界するまでアメリカで生活しています。

とにかく、レーサーとしては素晴らしいのですが、かなり危険な人物だったようですね。

また80年代に公開された「汚れた英雄」という映画のモデルにもなっており、

同期の高梁国光選手などからは天才と呼ばれてたみたいですけどね。