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宮城光。(番外編vol.351)

2013年09月30日 09時12分47秒 | Weblog
80年代から90年代前半まで活躍した「宮城光」選手ですよ。

83年からチームモリワキより全日本選手権GP250ccクラスに参戦し、

いきなりシリーズチャンピオンに輝きます。

88年から全日本選手権GP500ccクラスにステップアップし、総合で3位。

翌年、89年が総合4位、90年が総合3位と、

あと少しでチャンピオンという惜しいシーズンを送ります。

93年より全米選手権にフル参戦し、SS、SB650ccクラスで全米チャンピオンに。

その後もアメリカを中心にレース活動を続けますが、

あまりぱっとした記録を残すことがありませんでした。

98年から国内耐久レースなどを中心に活動拠点を変えますが、

シリーズチャンピオンになることは出来なかったようです。

とにかく全盛期はルックスが良いこともあって女性からの人気が高かったです。

ボクも南海部品のイベントで何度か本人を見たことがありますが、

当時はイケてましたね。(笑)

で、現在は解説者やイベント司会、時にテストライダーなどをしてるようです。

ボクが峠小僧だった頃はまさに人気絶頂たったので「宮城光」選手の話題はよくしてて、

神戸の六甲山でホンダCB750Fに乗りガソリン満タンからカラケツになるまで、

一日中、走り込んでいたっていう噂も聞いたことがありました。

六甲山最強と言われた人物だったですね。

デビューから初期は恵まれた環境でレースをしてましたが、

後半は半分プライベーターとして活動していたため苦労が多かったようです。

才能あふれた選手でしたが世界の壁は厚かったという感じなんでしょうかね。


ジム・レッドマン。(番外編vol.350)

2013年09月28日 10時28分32秒 | Weblog
またまた60年代に活躍したイギリス人ライダー「ジム・レッドマン」選手ですよ。

59年よりノートンチームからWGPにフル参戦を果たし、

61年からまだ出来たてのホヤホヤだったホンダチームに移籍。

マシンとの愛称が良かったのか、すぐに頭角を現し、

62年に250cc、350ccクラスでWシリーズチャンピオンを獲得。

翌年の63年も同じクラスでWチャンピオンに輝きます。

その後も、64年、65年と350cc連続チャンピオンに。

引退の年となった66年にはホンダに始めてWGP最高峰500ccクラスでの初勝利をもたらします。

現役中、6度のワールドチャンピオンに輝き、

一般公道レースのマン島TTレースでもトータル6回の優勝を果たしています。

この時代は今と違い複数の排気量カテゴリーに同時参戦することが出来たので、

速いレーサーはチャンピオン回数も凄いですね。

「ジム・レッドマン」選手の場合もそんな中での1人と言えます。

最高峰の500ccクラスでのシリーズチャンピオンは無かったものの、

特に350ccクラスでの速さは凄まじいものがあったようで、

63年シーズン全12戦中、半分の6レースで優勝、

残りのレースもすべて表彰台という完璧なレースをしています。

またこの時代のマシンはタイヤパフォーマンスやフレーム剛性など、

今と比べ、かなり性能で劣る部分があったため、

ライダーの力量で勝負が決まるケースが多かったのですが、

「ジム・レッドマン」選手が他のライダーたちより確実に速かったことが伺えますね。

特に60年代は安全性での配慮がかなり少なかった時代で、

ライダーの根性も今以上のものがあったと言われいます。


マイク・ヘイルウッド。(番外編vol.349)

2013年09月27日 09時20分59秒 | Weblog
60年代に活躍したイギリス人ライダー「マイク・ヘイルウッド」選手ですよ。

現役期間中、9回もワールドチャンピオンに輝いた偉大な選手です。

58年から125cc、250cc、350cc、500ccクラスに同時フル参戦を果たし、

61年にはホンダから250ccクラスで自身最初のチャンピオンを獲得します。

その後は62年、63年、64年、65年と4年連続500ccチャンピオンに。

66年、67年は250cc、350ccクラスチャンピオン、500ccでも連続2位を獲得。

また当時22歳での500ccチャンピオンはフレディースペンサーの21歳チャンピオンまで、

最年少記録を打ち立てていました。

他にもマン島TTレースに出場し79年までにトータル14回優勝という快挙もなし得ています。

とにかく、天才ライダーとして当時は賞賛されたライダーだったようです。

時代的にあまりに古いため、ボク個人としては、かなり後で知った人物ですが、

今より過酷な条件でこれだけの偉業をなし得たことは凄いとしか言いようがありません。

70年代に入り、十分速いライダーだったのですが4輪のF1に転向します。

ジョン・サーティースチームやマクラーレンに所属し、

72年のイタリアGPの2位が最高成績となっています。

74年に起こしたレース中の事故で負傷したのを期にF1を引退しましすが、

その後はバイクレースに返り咲き、

マン島TTレースに出場、さらに優勝回数を増やしていったようです。

しかし悲しいことに81年、一般公道で事故に遭い、8歳だった娘と共に他界。

享年40歳でした。

とにかく昔にはこういった素晴らしい選手がいたんですね!




オリビエ・ジャック。(番外編vol.348)

2013年09月26日 08時58分17秒 | Weblog
フランス人ライダーの「オリビエ・ジャック」選手ですよ。

95年にホンダからWGP250ccクラスに参戦。

96年から頭角を現し始め、この年、総合3位を獲得します。

翌年も常に上位を走るのですが、

並み居る強豪に苦戦しタイトルを逃すシーズンが続きます。

99年からヤマハテック3に移籍し、00年ついに念願の250ccクラスチャンピオンに。

加藤大治郎選手や中野真矢選手など日本人選手と激しいバトルが見られたシーズンでした。

翌年01年から500ccクラスにステップアップしますが、

思うような成績を上げることが出来ず04年にチームを解雇。

05年には負傷したアレックス・ホフマン選手の代役として、

カワサキよりモトGPクラスに参戦し、上海GPでは同クラス自身初の表彰台をゲット。

チームカワサキとしても参戦から最高位となる2位を獲得。

しかしその後は転倒続きで07年をもって引退してしまいます。

「オリビエ・ジャック」選手はとにかく接近戦に強く、

バトルの後に優勝というパターンが多かったのですが、

キャリアの後半は一発の速さこそ持っていたのですが、

ミスや転倒が多く安定に欠けていたように思います。

移り変わる時代の狭間で微妙に速かった選手でしたね!



マルコ・ルッキネリ。(番外編vol.347)

2013年09月25日 09時16分44秒 | Weblog
70年代から80年代初頭まで活躍したイタリア人ライダーの

「マルコ・ルッキネリ」選手ですよ。

WGPデビューは75年からでまずは350ccクラスで戦います。

翌年、76年からは最高峰の500ccにスズキワークスより参戦し総合4位。

翌年はヤマハに移籍しますが転倒が多くランキング11位。

78年から再度スズキに戻り79年の西ドイツGPでついに初勝利をあげます。

このシーズンは総合的にも調子を上げて、

ケニー・ロバーツ選手、ランディ・マモラ選手に次ぐ年間ランキング3位を獲得。

そのままの勢いを保ち、

81年はついに500ccワールドチャンピオンに輝きます。

チャンピオンとなった翌年よりホンダに移籍し、

82年、83年と3気筒のNS500で戦いますが、

スペンサー選手や片山選手と比べ思うような成績を残すことが出来ませんでした。

この結果、ホンダから放出されてしまいカジバへ移籍しますが、

2年間シーズンを戦った後、85年をもって引退してしまいます。

「マルコ・ルッキネリ」選手の走りはとにかくアグレッジブルで、

「クレイジーホース」とあだ名がつくほどでした。

初期はこの激しさから転倒が多かったのですが、

チャンピオンを獲得したシーズンは速さに安定がかね備わり

最高のパフォーマンスを見せてくれました。

残念ながら、その後は徐々にその速さを失っていき上位を走ることが少なくなります。

引退後はヨーロッパを中心に解説者として活躍。

短期間ではありましたが、一発の速さを持った選手でしたね!



ロリス・カピロッシ。(番外編vol.346)

2013年09月24日 09時13分22秒 | Weblog
現役期間が、かなり長かったイタリア人ライダーの「ロリス・カピロッシ」選手ですよ。

90年にホンダワークス入りを果たしWGP125ccクラスにてデビュー。

いきなりクラスチャンピオンに輝きます。

翌年91年も同チームより125ccクラスに参戦し2年連続でチャンピオンに。

92年からは250ccクラスにステップアップし、

93年が総合2位、94年が総合3位と、いいところまでいくのですが、

チャンピオンは逃してしまいます。

95年から低迷期に入り96年にヤマハ、97年にアプリリアと立て続けに移籍。

しかし98年シーズンで7年ぶりのワールドチャンピオンに返り咲き、

00年よりホンダから最高峰500ccに昇格。

モトGPに変わってからも常に王者バレンティーノロッシ選手を脅かす走りを見せますが、

01年の総合3位と、06年の総合3位が最高記録となります。

その後もドゥカティ、スズキと移籍し現役を続行。

成績こそふるいませんでしたが、

最終的には11年までモトGPを戦い22年間という長い現役に幕を閉じます。

これだけ長い期間最高峰で戦った選手は少なく、

しかもどの時代でも速かったというのは「ロリス・カピロッシ」選手がいかに

才能が高かったかを物語っていますよね。

個人的には250ccで戦っていた時代が一番印象的です。

常に表彰台の常連でしたし、アプリリアで速かったのが記憶に強く残っています。

引退後は、モトGPを運営するドルナスポーツのアドバイザーに就任。

レースの安全面での監修に関わっているみたいです。

やっぱ、イタリア人は凄いですね!



若井伸之。(番外編vol.345)

2013年09月23日 10時36分31秒 | Weblog
88年よりプロレーサーとして活動を開始した「若井伸之」選手ですよ。

90年に全日本ロードレース選手権で総合2位を獲得したのを皮切りに、

WGP125クラスへの参戦を果たします。

この時代は日本人ライダーが多く世界にはばたき始めた時代で、

同期に坂田和人選手や上田昇選手などがいました。

「若井伸之」選手の場合、レース結果は大したことはありませんでしたが、

長身からなる長い手足を使ったライディングからWGP界で、

「フラミンゴ」と呼ばれることで有名だったりします。

とにかく仲間想いで面倒見が良かったことから、

同じ日本人ライダーにかなり慕われており人として素晴らしかったようです。

92年途中から250ccクラスへステップアップし、スズキワークスで戦いますが、

第4戦スペインGPの予選中、ピットロードから飛び出してきた一般人と接触し、

コントロールを失って強くコンクリートウォールに激突。

そのまま帰らぬ人となってしまいます。

享年25歳でした。

近年のメジャーレースで日本人の死亡事故は始めてであり、

舎弟関係にあった原田哲也選手を始め、

坂田和人選手や上田昇選手など、かなりの動揺があったようです。

一時は日本人ライダーすべてがレースを棄権する方向にあったようですが、

結果的には追悼を込めてレースに参戦するかたちとなり、

原田哲也選手は250ccクラスで優勝、坂田和人選手も125ccクラスで優勝するなど、

「若井伸之」選手の意志が乗り移ったかのような好成績を上げます。

また、関係者や仲間などで集められた募金でスペインのヘレス・サーキットに

「若井伸之」選手を偲ぶ「フラミンゴのモニュメント」が建ています。

レースファンより同じレーサー達に愛された人物だったようですね!





バレンティーノ・ロッシ。(番外編vol.344)

2013年09月21日 09時01分11秒 | Weblog
史上最速の男と呼ばれてるイタリア人ライダー「バレンティーノ・ロッシ」選手ですよ。

バイクファンならず、誰もが知る天才ライダーですよね。

96年にアプリリアからWGP125ccクラスにフル参戦を果たし、

翌年97年に125ccクラスチャンピオンに輝きます。

98年には250ccクラスにステップアップし、総合2位を獲得。

99年は年間9勝を上げ堂々、シリーズチャンピオンに。

00年からホンダワークスに移籍し500ccクラスに挑戦。

01年から快進撃を続け5年連続ワールドチャンピオンに輝きます。

途中、ホンダから不調続きのヤマハに移籍しますが、

「バレンティーノ・ロッシ」選手の活躍でヤマハも久々の勝利を得ることとなります。

06年、07年はチャンピオンを逃しますが08年、09年と2年連続でチャンピオンに。

11年からはヤマハからドゥカティチームに移籍。

11年、12年と2シーズン乗りますが、何かがかみ合わず不振の年に終わっています。

今年はヤマハに戻り現在のところ総合4位につけいてる状態です。

「バレンティーノ・ロッシ」選手はバイクレース界では、特別な存在であり、

誰もが尊敬する完全な天才児だったりします。

で、その強さの秘訣は前後左右に加重を変化させる荷重コントロールにあります。

それにより前後両方に起こるタイヤスライドを見事に対処しており、

自在にマシンを操つれているんですよね。

性格はとても明るく陽気なことでも知られています。

キャラクターも好きなようで、いろんなパロディーをデザインに用いています。

現在34歳となった「バレンティーノ・ロッシ」選手ですが、

デビューから15年間で9度のワールドチャンピオンになった今、

今後どこまで続けていくのか?

注目ですね!


ケニー・ロバーツ・ジュニア。(番外編vol.343)

2013年09月20日 09時01分12秒 | Weblog
言わずと知れたケニー・ロバーツ選手の長男「ケニー・ロバーツ・ジュニア」選手ですよ。

92年に本国アメリカのアメリカンスーパーバイク選手権(AMA)250ccクラス参戦を皮切りに、

93年から父親のチームケニーロバーツよりWGPフル参戦を果たします。

96年より最高峰の500ccクラスで戦いますが大した成績は上げれず、

99年に満を持してのチーム移籍を計りスズキワークスへ。

ここで才能を一気に開花させ総合ランキング2位に。

そして翌年、00年には念願のワールドチャンピオンに輝きます。

また親子でのGPチャンピオンは史上初の出来事です。

なかなか偉大な親を持つ子供というのは注目こそ浴びますが、

親を超えるような偉業をなし得る人は少ないですよね。

それを考えると「ケニー・ロバーツ・ジュニア」選手場合は素晴らしいです。

彼のライディングの特徴は何と言ってもフロント加重な乗り方。

ヤマハのバイクで戦っていた時代はこの乗り方が逆効果となり、

序盤こそ上位を走っていてもフロントタイヤの摩耗が始まってしまうと、

どんどん後方に追いやられてしまうというパターンが続いていました。

スズキのRGVガンマ500はそれに上手く適したバイクだったようで、

そのまま良い成績につながったようです。

モトGPに変わり4ストバイクになってからは、

スズキワークスもホンダやヤマハのように開発が上手くいかず苦戦を強いられます。

このことで「ケニー・ロバーツ・ジュニア」選手も思うような成績が得られず、

06年には古巣のロバーツチームに移籍しますが、

時遅しといった感じでかつての速さは見ることが出来ませんでした。

偉大な父親を持ちながら自分自身も素晴らしい結果を残した良い選手でしたね!


青木拓磨。(番外編vol.342)

2013年09月19日 09時03分06秒 | Weblog
バイクレース界では有名な青木三兄弟の次男「青木拓磨」選手ですよ。

兄は宣篤選手、弟はWGP125クラスチャンピオンに2度もなった治親選手です。

90年代初頭、この3兄弟はこぞってバイクレースで速く、

今のボクシング界でいう亀田兄弟のような存在でした。

才能にあふれた英才型ラーダーで、幼少の頃からバイクに乗っており、

エリア選手権などで多くの優勝を飾っています。

特に今回注目する「青木拓磨」選手は個人的にも好きだったライダーで、

3兄弟の中でも一番才能がある選手と思っていました。

8歳でポケバイに乗り、その後ミニバイクと乗り継ぎ、90年にロードレースデビュー。

すでに兄の宣篤選手は頭角を現しており、その弟ということで、

デビュー早々から注目を浴びていました。

93年、94年と全日本ロードレース選手権GP250でランキング2位。

95年、96年と全日本ロードレース選手権スーパーバイクチャンピオンに輝きます。

97年からWGP500ccクラスにフル参戦を果たしデビューイヤーにして総合5位を獲得。

さあこれからという98年シーズンの開幕前テスト中、

事故で脊髄損傷してしまい、下半身不随となったためそのまま引退に追い込まれていまいます。

その後はホンダレーシングの助監督を努めたり、

カートや4輪レース、ラリーなどにドライバーとして参戦しています。

これはボク個人の想像ですが、

「青木拓磨」選手がもし事故に合わずそのまま現役を続けていたなら、

WGPでチャンピオン、もしくはそれに近い成績を残していたのではと考えてしまいます。

それぐらい、高い期待を持たせてくれたライダーだったと思うんですよね。