Good FrIend!

気軽に集まれるみんなのブログサイト。

モト・グッツィ。(番外篇vol.403)

2013年11月30日 10時03分14秒 | Weblog
イタリアでもっとも古いバイクメーカー「モト・グッツィ」ですよ。

1921年に設立し現在に至っています。

国産と違いエンジンバリエーションを多く持たず横置き型Vツインに特化したところが特長で、

動力に関してもシャフトドライブのみとなっています。

戦前の著名なレーシングライダーであったジョヴァンニ・ラヴェッリさんと、

エンジニアで社名の元となったカルロ・グッツィさん、

富豪のジョルジョ・パローディの3人がイタリア空軍に徴兵されて出会ったことがきっかけで創業。

基本、高級志向で庶民にはなかなか手が届かない高価なバイクを製造していますが、

これが逆にブランド力となって安定した経営を継続しているようです。

レースにおいても60年代までは勢力的に活動しており、

マン島TTなどで何度も優勝を果たしています。

現在はマニアの中でサンデーレースに参戦している状況です。

日本でも購入可能でピアッジオグループジャパンが総代理店として

「モト・グッツィ」の製品を取り扱っています。

イタリアのバイクメーカーは大手で言うとドゥカティが有名ですが、

この「モト・グッツィ」も多くのファン持つメーカーなんですよね!


トライアンフ。(番外篇vol.402)

2013年11月29日 09時32分32秒 | Weblog
1885年にユダヤ系ドイツ人であったシーグフリード・ベットマン氏の手により、

イギリスのロンドンで設立した輸入貿易会社「ジークフリード・ベットマン貿易会社」が

トライアンフの起源と言われています。

1887年には貿易部門から「トライアンフ・サイクル」を設立し自転車製造に乗り出します。

イギリスの産業革命の中、動力付き自転車が開発され始めると、

「トライアンフ・サイクル」もその分野に手を伸ばしていきます。

1902年に初号機が完成、1906年に社名を「トライアンフ・エンジニアリング」に改名します。

また、1907年から始まったマン島TTに参戦し、

その性能を見せつけ世界的にも大手バイクメーカーへ成長していくんですよね。

しかし1929年に起こった世界恐慌により分社化されてしまい、

1934年にはオートバイ部門として「トライアンフ」と改名されます。

その後、50年代まではそれなりの業績を上げていたのですが、

51年には自立経営が困難になり「BSA」社の傘下に入ることになります。

60年代から70年代まで並み居る強豪と戦っていたのですが、

日本車やハーレー社の影響を強く受け83年に事実上の倒産に追い込まれてします。

しかし90年に新たな体制を整え再建に乗り出し、

日本のカワサキの協力を得ながら新生「トライアンフ」が登場します。

現在は名車「ボンネビル」を中心にスーパースポーツ系にも着手。

新たなユーザーを獲得しているんですよね。

イギリスのバイクと言えば「トライアンフ」と言うぐらい、知名度の高いメーカーですが、

浮き沈みがあったんですよね。

性能では圧倒的に日本車に負けてしまいますが、

現在のオートバイのスタイルを確立させたメーカーとしては、

素晴らしい功績を残してると言えそうです。




バーミンガム・スモール・アームズ。(番外篇vol.401)

2013年11月28日 08時59分01秒 | Weblog
「バーミンガム・スモール・アームズ」別名「BSA」ですよ。

親会社である「バーミンガム社」の組合からなる自転車部門としてスタートします。

「バーミンガム社」自体は1861年から銃器の製造を開始し、

1880年頃から「BSA」部門を設立し自転車の開発に乗り出します。

イギリス国内に動力を備えた自転車が続々と販売されだすと、

「BSA」も1903年頃からこの部門の開発に乗り出します。

1910年には3.5馬力のエンジンを搭載した動力付き自転車を発表。

その後も性欲的に開発を進め、当時、流行始めたバイクレースにも

参戦するようになります。

車種の分別には★マークを用いていて、「ブルースター」「シルバースター」、

「エンパイアスター」「ゴールドスター」「ロイヤルスター」と車種名に与えられいます。

30年代から50年代が全盛期で国内のみならず、ヨーロッパ全土で販売されるように

なっていったんですよね。

「BSA」の特長は同じイギリス製のバイクの中でも非常に壊れにくく、

最高速での安定感に優れていたことにあるようです。

50年代にはカフェレーサー達の間でも人気を博しカスタムされるようにも

なっていくんですよね。

しかし、そう言った繁栄にも陰りを見せ始めると、

「バーミンガム社」のお荷物部門に成り下がっていくようになり、

57年には「ラレー社」に廃却されてしまいます。

売却後も「BSA」ブランドとして開発、販売は続けられていくのですが、

70年代前半には完全に日本メーカーに押されてしまい、事実上の倒産に追い込まれてしまいます。

現在ではノートン同様に旧車好き愛顧家に愛されていて、

新車のようにレストアされた車両や、カフェレーサー風にカスタムされたものが

貴重品として見られるようになっています。

まさに古き良き時代のバイクって感じなんですよね!




ノートン。(番外篇vol.400)

2013年11月27日 09時03分08秒 | Weblog
19世紀にあったイギリスの産業革命の中、オートバイ開発も開始されます。

今回紹介する「ノートン」はその中でも老舗のメーカーで、

元々は自転車を製造するメーカーでした。

バイクの開発に着手したのが1898年からで初期モデルは自転車に1.5馬力のエンジンを

搭載したタイプで、あくまで動力の補助として作られたものでした。

時を重ね1930年代には世界に先駆けて本格的なバイクの生産に乗り出し、

世界で始めて開催された国際レースマン島TTに出場するようになります。

さらに1950年代に入ると有名な「マンクス・ノートン」が登場し、

数々の優勝を飾っていくようになります。

これと同時期に出現したカフェレーサー達もこのレースマシンにより近づくため、

市販のノートンを改造するようになります。

また当時のライバルとしてはトライアンフ、BSAなどが上げられます。

60年代に入るとレースでの戦績とは裏腹に「ノートン」は経営難に陥り、

バイクの大手メーカーであったAMC社の傘下に入るようになります。

しかし60年代後半になると日本メーカーの参入により親会社のAMC社が倒産。

バーミンガム・スモール・アームズに買収されるカタチでなんとか倒産は逃れるのですが、

70年代に入るとこのバーミンガム・スモール・アームズも経営難に陥り、

同じく経営難にあったトライアンフと合併し、ノートン・ビリヤーズ・トライアンフを設立します。

しかし既に国際レースでの主流は日本の4大メーカー(ホンダ、ヤマハ、カワサキ、スズキ)

に取って代わっていたため、肝腎のレースでの戦績も思わしくなく、

再構築されることなく、ひたすら衰退していきます。

現在「ノートン」はパーツ類を製造する小規模な会社として存続していますが、

かつての最盛期を考えるととても悲しい結果となっていますね。

これはイギリスのバイクメーカー全てに言えるのですが、

敗因はなんと言っても伝統へのこだわりからなる新開発の遅れや、

時代背景の移り変わりに順応出来なかったことに要因があると見られています。

しかし逆にレアなバイクとしてコアなファンが多く存在していて、

未だに古いノートンバイクをレストアしたりカスタムして楽しんでいるんですよね。

特に50年代から60年代に発表されたモデルは人気でマニアに愛されています。

貴重品として高値が付き流通もごくわずかというプレミアムもあり、

一般人が普通に乗るにはあまりに高価なバイクになってしまってますね!



ホルヘ・マルチネス。(番外篇vol.399)

2013年11月26日 08時57分18秒 | Weblog
80年代から90年代にかけて活躍したスペイン人ライダー「ホルヘ・マルチネス」選手ですよ。

10代の頃から国内レースに参戦して数々の優勝を獲得し、

82年よりスペインのオートバイメーカーのデルビより50ccクラスから参戦。

80ccクラスに変更された84年に初優勝を飾るとこから頭角を現し始め、

85年は総合で2位、86年には最初のワールドチャンピオンに輝きます。

その勢いのまま87年には2年連続80ccチャンピオンに。

88年は125ccクラスにも参戦を果たし80ccクラスと125ccクラスで

ダブルタイトルを獲得します。

この時代はボクも峠で走っていた頃で、

「ホルヘ・マルチネス」選手の活躍はリアルタイムで見てました。

で、ここを頂点とし地道なレース活動の末、97年で引退します。

GP通算37勝(80cc 22勝、125cc 15勝)でスペイン人ライダーとしては、

好成績を残すこととなるんですよね。

引退後は「ホルヘ・マルチネス」選手がオーナーの「チーム・アスパー」を立ち上げ、

2006年にアルバロ・バウティスタ選手、

2007年にはガボール・タルマクシ選手、

2009年にはフリアン・シモンがそれぞれ125ccクラスのチャンピオンを獲得。

チームとしても調子を上げていきます。

現在はmotoGPクラスにチャンジ中で、ドゥカティ・デスモセディチを使用しています。

自身も速い選手でしたが、監督としても優秀で、

今もなお活躍中なんですよね。


スーパーカブの驚異!(番外篇vol.398)

2013年11月25日 09時06分02秒 | Weblog
カブそのものは52年に「F型」という名称で発表されているのですが、

これは自転車に補助としてエンジンを搭載したもので、

世間で言う「スーパーカブ」が登場したのは58年からとなっています。

ホンダが経営不振に喘いでいる中、再帰を賭けて販売されたものでした。

特にアメリカを中心に海外輸出を目的して作られていて、

それまでに無かった小型レジャーバイクとして販売されたものです。

これと同時期に国内でも同じコンセプトで販売を開始し、

あっと言う間に社会に浸透していったんですよね。

ただし、レジャーバイクとしてではなく、主に社用車として使われるケースが多く、

一般的なものとは別のバイクと認識されていくようになります。

また70年代に入るともっとオシャレな50ccバイクが続々と登場し、

「スーパーカブ」は完全に車用目的のものとなっていきます。

しかし近年、この「スーパーカブ」が別の見られ方をしはじめます。

オシャレなスクーターに飽きた人たちや、モンキーやダックスなどのカスタムを

好む人たちに注目を集めるようになったんですよね。

この現象は90年代から始まっていて、

50cc~110ccカスタムの仲間入りを果たします。

ダサイというイメージがカッコ良いに変貌した瞬間ですね!(笑)

実際、ホンダブランドであるため、モンキーやダックスとパーツ流用が出来て、

リターン式クラッチを5速MTにすることも可能です。

また、ホンダからも若干形状を変えたものやカラフルなカラーリングを施したものも、

新車で販売されるようになっていきます。

登場から半世紀経てもなお人気を誇る他に類を見ないバイクだったりするんですよね!

恐るべし「スーパーカブ」!(笑)





ケント・アンダーソン。(番外篇vol.397)

2013年11月23日 11時14分21秒 | Weblog
60年代から70年代にかけて活躍したスウェーデン人ライダーの

「ケント・アンダーソン」選手ですよ。

10代の頃は母国スウェーデンやデンマークのエリア選手権で活躍し、

66年からスウェーデンのオートバイメーカーであるハスクバーナよりWGPに参戦します。

68年にはヤマハに移籍し350ccクラスで初の表彰台をゲット。

翌年69年には250ccに乗り換え総合2位を獲得します。

70年には常に上位を走る選手として安定を見せ始め総合で3位。

71年からはヤマハのニューマシンの実戦開発ライダーとして125ccクラスに参戦。

72年には良いところまでいくのですが、結果は総合2位。

努力が開花し73年にはついに125ccクラスでワールドチャンピオンに輝きます。

翌年74年も絶好調で2度目のチャンピオンを獲得。

しかし75年シーズンを総合3位で終わるとそのまま引退をしてしまいます。

76年からはヤマハの開発チームに参加し、

あの片山敬済選手が77年にチャンピオンに輝いた350ccマシンを手がけることになります。

ヤマハとの契約が終了すると地元スウェーデンに移住し、

時よりアマチュアレースに出場していたようです。

ただしその走りは当然アマチュアレースの領域を超えた走りだったので、

53歳でスーパーモノ・ナショナルチャンピオンを獲得したり、

エキシビジョンのクラシックレースに出場して優勝したりしていたようです。

晩年はユーロスポーツの解説者をしてたようですが、

06年に64歳で他界します。

ヤマハとのつながりが深い選手だったので、

同世代の日本のレースファンの方には有名だったようですね。


アルフォンソ・ポンス。(番外篇vol.396)

2013年11月22日 09時05分04秒 | Weblog
80年代に活躍したスペイン人ライダー「アルフォンソ・ポンス」選手ですよ。

正式には「シト・ポンス」とも呼ばれています。

オートバイの盛んなスペインでレース活動を開始し、

81年よりWGP250ccクラスへ活躍の場を移します。

デビュー当時はオーストリアのエンジンメーカーだったBRPロータックス・チームより参戦。

この時点では大した成績を残すことは出来ませんでした。

しかし84年よりチーム・JJコバスに移籍し頭角を現し始めます。

スペインGPで初の優勝をとげ総合でも4位と上昇気流に乗ります。

85年はチーム・JJコバスのWGP撤退によりHBスズキに移籍。

残念ながらスズキのマシンと相性が悪かったのか、ここで成績は伸び病んでしまいます。

翌年86年にはカンプサ・ホンダに移籍、ワークス・ホンダからのバックアップも受け、

勝てる体制を整えることに成功します。

86年は総合2位、87年で総合3位、

そして88年には250ccクラスで見事にワールドチャンピオンに輝きます。

翌年89年も他を寄せつけない速さを見せつけ圧勝で2度目のチャンピオンを獲得。

最盛期を迎えることになります。

90年からは500ccクラスにステップアップを計りますが、250ccのライディング癖が直らず、

思うような成績を残すことが出来ませんでした。

そのまま91年シーズンをもって現役を引退、その後は自身のチームオーナー&監督を務め、

ロリス・カピロッシ選手、アレックス・バロス選手、マックス・ビアッジ選手、

トロイ・ベイリス選手を排出しますが、

06年に資金難からmotoGPを一時撤退してしまいます。

現在は09年から息子のアクセル・ポンス選手を従えてmoto2に再度チャンンジを開始しています。


暴走族、ロッカーズ、オートバイクラブ。(番外篇vol.395)

2013年11月21日 09時06分58秒 | Weblog
世界各国にはオートバイを愛する、ならず者たちが存在します。

アメリカではヘルズエンジェルスなどの大規模な「オートバイクラブ」。

イギリスではカフェレーサーならぬ「ロッカーズ」または「モッズ」。

そして日本では「暴走族」。

これらは類似して、全て凶暴性を持っています。

特にヘルズエンジェルスはバイクに乗った完全ギャング集団で、

各州をまたいで殺人、強盗、恐喝、レイプなどありとあらゆる悪事を働き、

かなり危険な存在でもあったりします。

いわゆる西部時代の無法者ですね。

また、ロッカーズは一般道での違法レース、事故、暴力など。

モッズに関しては仲間意識の強さからくる外部に対しての暴力、飲酒などが上げられます。

暴走族に関しては…、書かなくても分かりますよね。(笑)

また、彼らには大きな違いもあって、そこにはお国柄がかいま見れたりもします。

アメリカの「オートバイクラブ」の場合、第二次世界大戦の帰還兵の子供にあたる世代が、

これに該当し、60年代から70年代に繁栄期がありました。

彼らは徴兵された親の敵討ちからなる自由を主張し遊牧民的な行動をとっていました。

この働いていない状況から悪事を働くようになった訳です。

イギリスの「ロッカーズ」や「モッズ」に関しては、ヨーロッパに昔から定着している

階級制度に問題をはっしています。

いわゆる下級労働者の子供たちが社会への反抗から行った行為と見られています。

ある意味、アメリカ、イギリスに関してはそう言った理由がハッキリあった訳です。

で、悲しいのは日本の暴走族…。

ただカッコ良いからとか、目立ちたいとかが理由だったりします。

甘えん坊の好奇心や悪ふざけの次元だったりするんですよねぇ、かなり残念です。

また暴力も好む為、気合いだけはあるのですが、理由や動機が低次元です。

70年代から80年代にかけて社会現象にまで発展した経緯が不思議だったりしますね。

まぁ、彼らのお陰で日本だけオートバイに対する印象が、

他の国と違い、ただただ、悪くとらえられていることは間違いないです。

今日のボク、実はここが一番言いたかったんですよね。(笑)





アウトロー・バイカー。(番外篇vol.394)

2013年11月20日 09時09分04秒 | Weblog
「アウトロー・バイカー」…これボクの基本コンセプトです。(笑)

今日はあらためて自分のバイクに対する思いを書きます。

まず正直、正統派ライダースタイルはあまり好きではありません。

新車のバイクをノーマルのまま、きれいに乗るより、

アウトローな仕上がりのバイクが基本好きなんですよねぇ。

例えば大排気量系ならハーレーのカスタム車両。

特にソフテイル系の古いエンジンを搭載したモデルが好きで、

それをベースにオールドスタイルにカスタムしたものが1番好きです。

中排気量から小排気量なら単気筒が好きです。

外車ならトライアンフ、ノートン、BSAなど。

国産ならヤマハSRをカフェレーサー風にカスタムした車両に憧れます。

また今乗ってるヤマハTWも好きです。

仲間うちには何だかんだ言ってますが250cc以下の小排気量系も好きで、

逆に排気量が大きいから凄いとかカッコ良いとは思っていません。

また最新のツアラー系やスーパースポーツ系などはあまり好みではありません。

「アウトロー・バイカー」というボクのコンセプトから大きくかけ離れてるからです。

バイクが仕上がり過ぎてるのも理由の1つですね。

カスタムは大好物です。(笑)

基本、ボクの中でノーマルで乗るのは考えられないです。

また、マフラーやハンドルを交換するレベルはノーマルの範囲と考えています。

フレームからカスタムするレベルがカスタムなんですよねぇ。

それだけにバイクビルダーには憧れます。

特に亡くなってしまいましたが、アメリカ人のインデアン・ラリーさんが好きです。

彼のカスタムしたバイクに乗れるなら一生乗り続ける自信がありますね。

とにかくバイクのすべてが大好きなボクですが、

実は行き着くとこはここに集約されています。

そんな感じです。(笑)