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クリスチャン・サロン。(番外編vol.327)

2013年08月31日 08時53分15秒 | Weblog
兄弟レーサーで知られるフランス人ライダーの「クリスチャン・サロン」選手ですよ。

弟はドミノク・サロン選手で、ほぼ同時期に活躍しました。

「クリスチャン・サロン」選手は76年から本格的にWGPに参戦し、

84年に250ccチャンピオンに輝いています。

キャリアのすべてをヤマハワークス(ソノート-ヤマハ)で過ごしたことで、

トリコロールカラーが「クリスチャン・サロン」選手のイメージカラーになっていましたね。

とにかく予選が速くポールポジション回数は優勝回数を考えると相当多いのが印象です。

一発の速さを持っていたのですが、レース全体の構成が上手くなかったのか、

6年間走った500ccクラスでは結果1度しか優勝していません。

速いという印象は残ってる選手でしたが、意外と結果は良くないんですよね。

ただ、耐久レースは得意としていたのか、

ル・マン24時間レースや鈴鹿8時間耐久レースで優勝を経験しています。

個人的にも好きなレーサーで80年代のトップライダーの1人として注目していました。

雨のレースに強かったことを考えるとコントロール技術に優れていたことも伺えます。

「クリスチャン・サロン」選手の場合、ライディングはいたってシンプルで、

特別な走法を持っていたわけではありませんでしたが、

時たま驚くようなスーパーラップをたたき出して、周囲を驚かせていまいしたね。

フランスの選手ですが、日本での国内レースにも多くスポット参戦してて、

平忠彦選手などとバトルしてる光景をよく目にしていました。

86年には鈴鹿8時間耐久レースで平選手とテック21で共にチームを組んでいます。

また、業界では彼のライディングを考えると今のモトGPで走っていれば、

もっと好成績を上げれたのでは?と言われています。

ある意味、時代が彼に追いついていなかったということなのかもしれないですね。



ロン・ハスラム。(番外編vol.326)

2013年08月30日 09時39分18秒 | Weblog
77年にWGP500ccクラスに初出場し、

83年から本格的な参戦を果たした「ロン・ハスラム」選手ですよ。

「ロケット・ロン」という名で有名です。

とにかくスタートが上手く、当時押しがけだったこともあり、

どの位置からもトップに躍り出る技術を持っていました。

また、当時のホンダワークスが取り組んだELFプロジェクトに参加し、

フロント片持ちの変わったバイクにも乗っていましたね。

「ロン・ハスラム」選手の走りは直球ストレート型で、

低い姿勢からガンガン飛ばすアグレッシブルなライディングでした。

速いのは速いのですが、ミスも多く、転倒こそ少ないものの、

途中から失速し4位、5位あたりでフィニッシュするのが定番になっていました。

一発の速さはあったのですが、

若干、持久力か集中力が欠けていたのかもしれません。(笑)

シリーズでは87年の4位が最高で、スズキ、カジバ、ノートンと移籍し、

93年で引退します。

また、WGP意外でもTTマン島レースで優勝しています。

現在は「The Honda Ron Haslam Racing Academy」という会社を経営。

息子のレオン・ハスラム選手もSKB(世界スーパーバイク選手権)で活躍中で、

今年の鈴鹿8時間耐久レースで見事優勝を果たし脚光を浴びていますね。

「ロン・ハスラム」選手も79年の大会で2位を納めています。

とにかく、もみあげが特徴の選手でしたね。(笑)




ランディ・マモラ。(番外編vol.325)

2013年08月29日 10時03分51秒 | Weblog
79年に19歳でWGP500ccクラスに参戦した「ランディ・マモラ」選手ですよ。

ワールドチャンピオンに1度もなれなかったのですが、

常に上位を走るとても速い選手でした。

80年、81年、84年、87年と4回シリーズ2位を獲得し、

83年、85年、86年と3位を獲得しています。

これだけ素晴らしい成績を残しているのですが、

常に彼より速いライダーがいたため「無冠の帝王」とも呼ばれていましたね。

「ランディ・マモラ」選手の特徴は何と言っても外足がステップから離れた走法。

「マモラ乗り」とも言われていましたが、これは走法というより、

カラダが小さかったため、足が届かなかっただけの話しのようです。(笑)

で、実際はホンダワークスの時だけこの走りになってて、

ヤマハやスズキで走っていた時は普通だったようです。

本来、外側の足はしっかりとステップをグリップさせるのがバイクの基本ライディングですが、

「ランディ・マモラ」選手の場合は太ももでグリップさせていたようです。

まぁ、体系に合わないバイクでも速く走らせていたということですね。

最終的には92年で引退。

その後は解説者として今も働いているようです。

家族想いで明るい性格から、パドックでも人気者的存在らしく、

人を笑わせることが得意のようですね。

今さらですが、ボク的には1度はチャンピオンになって欲しかった選手です。




ジョン・コシンスキー。(番外編vol.324)

2013年08月28日 08時50分40秒 | Weblog
幼少の頃からダートトックレースを始め、88年から本格的にロードレースに参戦した、

アメリカの秘蔵っ子と呼ばれた「ジョン・コシンスキー」選手ですよ。

国内選手権で戦っていたのですが、

ケニーロバーツに見出され90年からWGP250ccクラスから参戦。

デビューイヤーにして250ccワールドチャンピオンを獲得し500ccへステップアップします。

91年が総合4位、92年が3位と上位へ頭角を現しますが、

気性が荒く、短気で人間付き合いが苦手な性格からケニーロバーツとも確執が出来てしまい、

ヤマハを解雇されます。

翌年93年は得意の250ccクラスでスズキより参戦しますが、

シーズン途中で同じようなトラブルからまたまた解雇…。

94年にはカジバに移籍し再度500ccクラスに挑戦し総合3位を獲得。

当時のカジバのポテンシャルを考えればかなり優秀な成績を残しましたが、

残念ながらここでもチームとの関係が悪化し解雇…。

本国のAMAアメリカスーパーバイク選手権に移籍し97年にはシリーズチャンピオンを獲得。

98年からワークスチームではなかったのですがホンダから再度WGP500ccに参戦します。

しかしすでにかつての速さは失ってしまい、99年シーズンを持って引退。

悲しいかな、性格が才能をダメにしたことで有名になった「ジョン・コシンスキー」選手ですが、

とびきり速かったことは間違いないです。

チームと上手くやってればもっと大きな成功を収めた可能性があるのですが、

これも運命なんでしょうかねぇ。

「ジョン・コシンスキー」選手はとにかく接近戦に強く、

バトルになると圧倒的な速さを見せつけていました。

これも負けず嫌いの性格がそうさせたのがもしれませんが、

勝ちへのこだわりが人一倍だったこともあったと思います。

良い選手だったのですが、どこか残念な選手でししたね!


バリー・シーン。(番外編vol.323)

2013年08月27日 08時58分12秒 | Weblog
70年からWGP125ccに参戦し、76年、77年と2年連続でシリーズチャンピオンになった

唯一のイギリス人ライダー「バリー・シーン」選手ですよ。

75年にデイトナGPで大転倒し大けがをしますが、

その復帰後から驚くほどの速さを見せつけ一躍スーパースターとなります。

性格は明るくイケメンだったのでプレイボーイとしても有名でしたね。

私生活でスキャンダルが多かったため、いろいろ噂された人物でもありました。

またトレードマークのドナルドダックのキャラクダーヘルメットに、

ゼッケン7の固定番号も有名で、優勝した翌年もこの7で出場しています。

しかしケニーロバーツ選手の出現で事態は一変し「バリー・シーン」選手も、

それまでのようにいかなくなります。

スズキワークスライダーとして活躍していましたが、

80年にケニーロバーツ選手と同じヤマハへ移籍。

しかし初年度はロバーツ選手が乗る新型マシンは与えられず、旧型マシンで戦うことに。

これには本人もかなりプライドが傷つけられたようです。

翌年からは同等のマシンを与えられますが、ロバーツ選手の新しいライディング、

ハングオンは他を圧倒する速さを誇り、「バリー・シーン」選手も、

同じライディングを試みますが完全なもにすることが出来ないまま、

84年をもってGPを引退します。

その後はオーストラリアに移住し4輪レースや解説者の仕事につきますが、

ヘビースモーカーだったためか、03年に肺ガンのため52歳で他界。

しかし大きな功績を残した人物として英国王室より大英帝国勲章を授与したり、

MotoGP殿堂入りを果たしています。

良くも悪くもオートバイク界の70年代ヒーローであり、

今も多くのファンがいるトップライダーだったことは間違いないですね!




阿部典史「ノリック」。(番外編vol.322)

2013年08月26日 09時10分47秒 | Weblog
いわゆる英才教育型ライダーの1人「阿部典史」選手こと「ノリック」ですよ。

少年時代からオートレーサーの父親に連れられ5歳からバイクを始め、

新世代型ライダーとして10代からその才能を開花させた最初の日本人です。

中学を卒業後、アメリカに渡りダートトラックやモトクロスで修業し、

若干18歳で国内最高峰だったGP500ccのチャンピオンになります。

この「ノリック」の出現を皮切りに、

続々と同じ道を歩んだ英才ライダーたちが現れることになります。

とにかく最初に「ノリック」の存在を知ったときは衝撃的でした。

ボクの知る中では世界に通用しそうな日本人ライダーの最初の人だったので、

その劇的な速さは、何かやってくれるという期待感でいっぱいでした。

94年までホンダのサテライトチームに所属してて、

スポットで参戦した鈴鹿日本GPでは素晴らしい走りを見せてくれました。

あのシュワンツ選手やドゥーハン選手と同等の速さでトップ争いをし、

あわや優勝か!?と思わせる激しいバトルを見せてくれました。

結局、残り3周という場面で転倒リタイヤしてしまいますが、

ただならぬ人材というインパクトを残してくれましたね。

結果、ウェイン・レイニーからの強い誘いにより、

シーズン中ながらヤマハ陣営へ異例の移籍を果たしWGPへフル参戦します。

96年の鈴鹿日本GPで初の優勝を果たし3度の優勝を経験します。

04年でWGPから世界スーパーバイク選手権(WSB)に移籍し、

07年から全日本ロードレース選手権JSB1000クラスに参戦。

若き日の驚くような走りは見られなくなっていましたが、相変わらず知名度は高く、

国内でのファンは多かったです。

しかしながら、その07年シーズン途中、不慮の事故に遭い他界。

若干32歳の若さでした。

残念ですが、このことで「ノリック」の功績の大きさを知ることになります。

個人的には、ヘルメットからはみ出す長い髪がとても印象的でしたね。


片山敬済。(番外編vol.321)

2013年08月24日 09時58分38秒 | Weblog
日本人ライダーがWGPで活躍した90年代からさかのぼること10数年前の77年、

日本人初となるワールドチャンピオンを獲得した「片山敬済」選手ですよ。

当時はまだ日本でのバイクレースブームは到来しておらず、

テレビでもその活躍を見ることが出来なかった時代。

そんな時代の中、74年からWGPに参戦していたのが「片山敬済」選手だったんですよね。

国内レース時代から圧倒的な速さをもっていて、

当時のヤマハワークスと契約を結び、中半強引に参戦したと言われています。

本人はかなり気性の荒い性格で、身勝手と思われた部分もあったようですが、

それだけレースに駆けるモチベーションが高く、

その結果、素晴らしい成績を収めたと言えそうです。

77年に350ccクラスでタイトルを取り、78年から500ccにも参戦します。

79年にはヤマハからホンダに移籍し、当時でも珍しかった4ストのNR500で参戦。

ただしこのマシンは実験段階にあったため、従来の2ストほどの性能は無く、

低迷時期を迎える結果となっていまいます。

しかし82年、ホンダワークスのNS500に乗り換えてからは、

めざましい活躍を見せ、第10戦スウェーデンGPで日本人初の500cc優勝を果たします。

この時代はケニーロバーツ選手やバリーシーン選手などの超天才ライダーがいた時代。

80年代で海外選手と同等に走れるライダーは彼以外いなかったので、

このことは後世まで語り続けられていますよね。

83年には何度となく表彰台をゲットしてて、

優勝フレディースペンサー選手、2位「片山敬済」選手、3位ケニーロバーツ選手といった、

光景も見られるほどでした。

84年は前年のケガでほとんど参戦出来ず、

85年からはワークスを離れプライベーターとして参戦します。

86年に事実上の引退をしますが、その後Racing team KATAYAMAを作り監督に就任。

90年代からはパリダカなどに参戦します。

とにかく世界に通用する日本人ライダーがいなかった時代に、

唯一、素晴らしい成績を残した人としてボクの中でもその存在は大きかったですね!




マイケル・ドゥーハン。(番外編vol.320)

2013年08月23日 09時07分51秒 | Weblog
89年からロスマンズ・ホンダチーム入りしWGP500ccクラスで多くの優勝を飾った、

オーストラリア出身の「マイケル・ドゥーハン」選手ですよ。

92年から「ミック」というネームで登録されてるので、

「ミック・ドゥーハン」とも呼ばれています。

参戦初期は当時4強と言われたローソン、ガードナー、レイニー、シュワンツ選手に

なかなか届かず厳しい時期を過ごしますが、

90年代に入って、ガードナー選手のケガなどによりその一角を崩すことになります。

92年からは徐々に頭角を現し、ホンダのエースライダーとして活躍を始めて、

94年から98年までの5年間、他を圧倒する速さでシリーズチャンピオンを獲得します。

しかし、94年に起こしたレース中の事故により右足の負傷も長く抱えていました。

その為、リアブレーキを操作できなくなっていたので、

特別に左ハンドルに親指で操作するレバー式のブレーキが付けられていたのは

有名な話しですよね。

「マイケル・ドゥーハン」選手が連続優勝を飾った背景には、

94年のレイニー選手引退、95年のシュワンツ選手引退が大きく関係してて、

それまでの強力なライバルを失ったことが上げられます。

他で「マイケル・ドゥーハン」選手と同等レベルの速い選手がいなかったんですよね。

これにより独占状態が続く結果となるのですが、

「マイケル・ドゥーハン」選手がとにかく圧倒的に速かったことは間違いないです。

ライディングの特徴としては、スロットル・コントロルの上手さからくる、

コーナリングの速さです。

また、右コーナーと左コーナーで異なる姿勢だったことも印象的でした。

この時代はホンダが圧倒的に速かった時代で、

不等間隔位相同爆方式エンジンの性能でかなり有利な時代でもありました。

ボクの中では優れた能力と運の強い選手という印象ですね!


ウェイン・レイニー。(番外編vol.319)

2013年08月22日 09時04分46秒 | Weblog
84年、87年とアメリカスーパーバイク選手権(AMA)のシリーズチャンピオンとなり、

88年からチーム・ロバーツ・ヤマハでWGP500ccクラスに参戦した、

これまたアメリカ出身の「ウェイン・レイニー」選手ですよ。

デビューイヤーから頭角を現しその年でランキング3位、

翌年の89年も一時はチャンピオンという状況の中、一度の転倒がひびき、

ランキング2位に。

その後、90年~92年まで3年連続でワールドチャンピオンに輝いています。

見た目は地味に見えるライディングですが、常に圧倒的な速さを持ってて、

PPからブッチギリの優勝というパターンが多かった選手です。

昨日のローソン選手同様、堅実にポイントを稼ぐタイプで、

勝てなくても表彰台にはいるといった感じでした。

ただ接近戦に弱く当時最大のライバルだったシュワンツ選手とのバトルでは、

負けてしまうことが多かったですね。

93年の12戦イタリアGPで転倒した時、頭部からグラベルに落下してしまい、

第六頚椎損傷の重症を負い下半身不随になってしまいます。

カンバックを期待されていましたが、結局完治することなく引退を余儀なくされます。

しかし、翌年の94年からマールボロ・ヤマハ・チーム・レイニーを立ち上げ、

チーム監督として復帰。

日本人選手も多く起用しており、原田哲也や阿部典史などが上げられます。

振り返れば、

80年代後半から90年代前半まで大成功を収めた「ウェイン・レイニー」選手で、

他を圧倒していました。

当時のバイク仲間で「ウェイン・レイニー」選手が好きだから、

ヤマハのバイクに乗ってるって人は多かったですね。


エディ・ローソン。(番外編vol.318)

2013年08月21日 10時29分03秒 | Weblog
カリフォルニア州ロサンゼルス出身の「エディ・ローソン」選手ですよ。

80年からカワサキよりアメリカンスーパーバイク選手権(AMA)に参戦し、

81年にシリーズチャンピオンを獲得します。

この歳、優勝を記念してカワサキよりローソンレプリカ「Z1000R」が販売されます。

このことで同じアメリカ人のケニー・ロバーツ選手に目を付けられ、

83年からマールボロ・ヤマハ・チームと契約しWGP500に参戦することになります。

デビューイヤーはケニー・ロバーツ選手のチームメイトとしてロバーツの優勝のため、

サポートする役割を命じられますが、なかなかそのポジションで走れなかったため、

瞑想する時期を送ることとなります。

しかし、84年にロバーツが引退したことにより、ローソンの運気は上がり、

チームのエースとして参戦、その実力を発揮し始めます。

当時の最大のライバルは天才フィレディー・スペンサー選手。

しかし、この年のホンダNSR500は設計ミスもあり、シリーズチャンピオンは、

「エディ・ローソン」選手が獲得。

その後も86年、88年、89年と合計4度のチャンピオンに輝きその速さを

実証することになります。

「エディ・ローソン」選手の走りは教科書通りの確実なライディングにあります。

常に冷静に走り、感情やフィーリングに流されないのが強みでした。

当時、新たな走法としてスライド走法が始まりますが、

「エディ・ローソン」選手に関しては昔ながらのグリップ走法です。

それでもこれだけの実績を上げた背景にはステディ(安定性)があったからこそ。

常にトップグループで走り、勝てないレースでも確実にポイントを取り、

最後は勝つと言った具合ですね。

見た目は地味でしたがより多くの結果を残した秀才ライダーでしたね!