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ルイジ・タベリ。(番外篇vol.378)

2013年10月31日 09時03分46秒 | Weblog
50年代から60年代にかけて活躍したスイス人ライダー「ルイジ・タベリ」選手ですよ。

WGPデビューは54年からでノートン・チームより500ccクラスに参戦します。

翌年55年からは名門MVアグスタ・チームに移籍し、

125ccクラスのスペインGPで初優勝を飾ることになります。

ここからは、125ccクラスを中心に戦うことになるのですが、

56年、57年と総合2位を獲得するもチャンピオンにはなかなかなれませんでした。

58年にはノートン・チーム、59年はMZモトラッド・チームと移籍を繰り返しながら、

同年とも総合3位と惜しいところまではいくのですが、

なかなかチャンピオンには手が届きません。

61年より好調期にあったホンダ・ワークスと契約。

62年、ついに125ccクラスでワールドチャンピオンに輝きます。

以降、64年、66年と合計3度の125ccチャンピオンになるのですが、

ホンダが小排気量クラスから撤退し、250ccと500ccクラスに集中する体制になったことで、

125ccで戦っていた「ルイジ・タベリ」選手は引退に追いやられてしまいます。

チャンピオン→引退という残念な結果ですね。

またWGPに組み込まれていたマン島TTでも3度優勝しており、

とても優れた選手だったようです。

勝負にこだわる強い選手だったんですね。


ボブ・フォースター。(番外篇vol.377)

2013年10月30日 10時15分27秒 | Weblog
50年代に活躍したイギリス人ライダー「ボブ・フォースター」選手ですよ。

若い頃はイギリズ国内のトラックレースに参加したり、

マン島ジュニアTTに参戦していましたが、

49年よりWGPが開催されるとベロセット・チームよりフル参戦を果たします。

開催初年度は350ccクラスで総合3位。

翌年50年には350ccクラスチャンピオンに輝きます。

しかし51年シーズンは成績がふるわず、そのまま引退してしまいます。

1911年生まれということもあり、既に40歳だった「ボブ・フォースター」選手

だったので引退をしたのかもしれません。

その後は小さなレースにスポット参戦したりしますが、

晩年はイギリスで静かに生活していたようです。

で、82年に71歳で他界。

「ボブ・フォースター」選手の場合、国際レースでのキャリアは非常に短かったのですが、

チャンピオン経験をもった人物ですし、才能があったのは間違いないです。

もう少し速くWGPが始まっていれば、かなり優勝をした可能性が高いです。

微妙な時代のライダーですね!




ウォルター・ヴィラ。(番外編vol.376)

2013年10月29日 09時02分35秒 | Weblog
60年代から70年代まで活躍したイタリア人ライダー「ウォルター・ヴィラ」選手ですよ。

イタリアのモータースポーツの中心地であるマラネッロとモデナの近郊に生まれ、

幼少の頃からオートバイに乗っていた英才型ライダーです。

70年代に入って従来の大排気量V型エンジン以外のジャンルにも手を伸ばしていた

ハーレーダヴィットシン社が単気筒エンジンや2サイクルエンジンに着眼していた時代、

「ウォルター・ヴィラ」選手と契約を結び、WGPへの参戦を果たします。

「ウォルター・ヴィラ」選手自体はモンテッサ・チームより67年からWGPに参戦しており、

Villaチーム、ヤマハ・ワークス、カワサキ・ワークスと移籍し、

74年からハーレーダヴィットシン・チームで戦うことになります。

それまでなかなか思うような成績が残せなかった「ウォルター・ヴィラ」選手でしたが、

ハーレーダヴィットシン・チームとのコンビネーションでこの年、

ついに250ccクラスでワールドチャンピオンに輝きます。

ここから快進撃が始まり、75年には250ccで2年連続チャンピオン、

76年には250cc、350ccクラスでWチャンピオンに輝きます。

また、同時にエントリーしていたイタリア国内レースでも8度のチャンピオンになっており、

イタリアの英雄、ジャコモ・アゴスチーニ選手と共に賞賛されます。

78年、ハーレーダヴィットシン・チームがWGPより撤退した後は、

ヤマハ・ワークスから参戦しますが、残念ながら80年シーズン持って引退してしまいます。

とにかくアメリカのバイクメーカーでこれだけの成績を残したのは、

この「ウォルター・ヴィラ」選手だけです。

すでに日本メーカーが圧倒的強さを見せ始めたこの時代にあって、

快挙とも言える功績ですね!



ロドニー・ゴウルド。(番外編vol.375)

2013年10月28日 08時59分57秒 | Weblog
60年代から70年代にかけて活躍したイギリス人ライダー「ロドニー・ゴウルド」選手ですよ。

61年、10代よりイギリス国内のエリア選手権に出場するようになり、

少しずつ頭角をあらわす中で、

67年にはノートン・チームより始めての世界選手権になるマン島TTに出場、

またこの頃からWGPライダーとしてもスポット参戦を果たし始めます。

68年には正式にヤマハ・ワークスと契約をしWGP250ccクラスからフル参戦。

2度の表彰台を経験して総合4位を獲得します。

翌年、69年は250cc、350ccにWエントリーし、

合計6回の2位を獲得しています。

迎えた70年は250ccクラスで6回の優勝、2回の2位、1回の3位を獲得し、

堂々、ワールドチャンピオンに輝いています。

チャンピオンに輝いた翌年71年で総合2位、

72年には250cc総合3位、500ccでも総合4位を獲得し、

そのまま引退してしまいます。

その後はヤマハ・ワークスに残るかたちで、ヨーロッパチーム・マネージャーとして活躍します。

世界選手権では非常に短期間しか活動していませんが、

常に上位を走ることが出来た選手で、その才能はかなりのものだったようです。

「ロドニー・ゴウルド」選手の場合、

バイクレースが過激化し、性能がかなり向上し始めたこの時代、

比較的、器用に戦った選手だったようですね!


ケル・キャラザース。(番外編vol.374)

2013年10月27日 09時01分46秒 | Weblog
60年代から70年代に活躍したオーストラリア人ライダーの「ケル・キャラザース」選手ですよ。

両親がバイクショップを営んでいた関係で幼少の頃からバイクに乗っており、

10代の若いうちから国内レースに参戦していたようです。

20代前半までには国内レースのすべてに優勝しており、

この才能を感じで家族全員でヨーロッパに移り住みます。

66年、ホンダとノートンチームの2チームと契約を結びWGPにフル参戦を果たし、

67年にはイタリアメーカーのアエルマッキのファクトリー・チームの目にとまり、

3メーカーと契約するカタチで125cc、250cc、350cc、500ccのすべてのカテゴリーに

エントリーし、68年に350ccクラスで総合3位を獲得。

翌年、69年にはついに250ccクラスチャンピオンに輝きます。

また70年には250cc、350cc共に総合2位を獲得。

73年まで現役ライダーだった「ケル・キャラザース」選手でしたが、

ヤマハからアメリカの新人だったケニーロバーツ選手を育成して欲しいとの

オファーに同意し、この年をもって現役を引退、アメリカに渡米します。

以降、ロバーツ選手と二人三脚しながらメカニック&マネージャーとして成功します。

ロバーツ選手の引退後もエディーローソン選手とコンビを組み彼をチャンピオンに導きます。

晩年はヤマハよりAMAモトクロスチームを運営し、

85年にオーストラリア・スポーツ殿堂入り、

99年にはAMAモーターサイクル殿堂入りを果たします。

レーサーでの功績も持ちつつ、メカニック&マネージャーでも成功した、

偉大な人物だったんですよね。




ディーター・ブラウン。(番外編vol.373)

2013年10月25日 11時34分02秒 | Weblog
60年代から70年代にかけて活躍した西ドイツ人ライダー「ディーター・ブラウン」選手ですよ。

68年からドイツメーカーであるMZモトラッド・チームからWGP125ccクラスに参戦。

69年からは125ccはスズキ・ワークスから、250ccはMZモトラッドチームより、

同時に2チームと契約しWGPに参戦、125ccクラスでは総合2位に入ります。

さらに翌年70年にはスズキ・ワークスで125ccクラス・ワールドチャンピオンに輝きます。

スズキ・ワークスからマイコ・チームに移籍し、さらにヤマハ・ワークスに移籍しながら、

その後も常に上位を走る健闘を見せ、

ついに73年、ヤマハより125ccクラス2度目のチャンピオンを獲得します。

またキャリア後半は350ccクラス、500ccクラスと戦いの場を変えていきますが、

このクラスでの優勝は残念ながらありませんでした。

最終的には77年シーズン途中、事故によるケガが原因で引退しています。

「ディーター・ブラウン」選手のことで大きな出来事といえば、

彼が東ドイツGPで優勝した時、「ディーター・ブラウン」選手が西ドイツ出身のため、

表彰台で西ドイツの国歌が流れたことに、

東ドイツ国民が激怒し、東ドイツの国歌を歌い始めるという事件が起こり、

このことにより翌年から東ドイツGPは開催されないくなったという出来事を起しています。

まさに冷戦時代の一コマですね。

2度タイトルを獲得していますが、残念ながらmotoGP殿堂は果たしていません。

しかし、十分に速さを持った選手だったようですね。








ネッロ・パガーニ。(番外編vol.372)

2013年10月24日 08時52分32秒 | Weblog
50年代に活躍したイタリア人ライダーの「ネッロ・パガーニ」選手ですよ。

17歳からレース活動をしており1928年より国内のエリア選手権に出場。

長いキャリアを積み重ねイタリアで頭角を現し始めた頃、

WGPが開催されることになり、49年の第1回大会からFBモンディアルチームより参戦。

125ccクラスで最初のワールドチャンピオンに輝きます。

Wエントリーしていた500ccクラスも接戦の末、総合2位に。

また翌年50年にはF1にも乗っておりマセラティチームより参戦。

スイスGPで7位を獲得しています。

F1に関してはこの1レースのみで、同年並行してバイクレースも戦っており、

総合で4位を獲得しています。

51年以降はバイクレースのみで戦いますが、

思うような結果が残せず55年シーズンをもって引退しています。

WGPでは6年間活躍した「ネッロ・パガーニ」選手ですが、

イタリア国内レースを含めるとトータルで25年間もレースを続けていたんですね。

この時代での40代レーサーは珍しくないのですが、

1911年生まれの「ネッロ・パガーニ」選手の場合、

WGP初年度ですでに38歳だった訳で、

それでも若いライダーを押しのけ優勝を重ねたことは凄いことですね。

晩年はイタリアのブレッソで余生を送り03年にこの世を去っています。



リベロ・リベラーティ。(番外編vol.371)

2013年10月23日 09時01分08秒 | Weblog
50年代に活躍したイタリア人ライダー「リベロ・リベラーティ」選手ですよ。

イタリアの国内レースで優勝を重ね、

51年からモト・グッツィ・チームでWGP500ccクラスに参戦します。

理由は不明ですが初戦を戦った後、モト・グッツィ・チームからジレラ・チームに移籍、

第2戦以降はジレラで戦っています。

すぐに頭角を現した選手ではなく地道に参戦してる中、

キャリア7年目の57年、ついに500ccチャンピオンに輝くことになります。

この年は350ccクラスにも参戦していて、こちらも総合で2位を獲得。

絶頂期を迎えることになったのですが、

残念なことにジレラ・チームがこの年を持ってレース活動を停止することになり、

「リベロ・リベラーティ」選手はチャンピオンにも関わらず、

翌年のシートを失うことになってしまいます。

移籍先が見つからず、

58年シーズンはプライベートでモト・モリーニのマシンを借り250ccクラスに参戦。

しかし、強力なバックアップ失って以降のレースでは思うよな成績は上げていません。

さらに地道なレース活動を続けていた62年、

シーズン前のマシンのテスト中に事故を起こしてしまい他界。

享年36歳でした。

いわゆる天才とは違う選手でしたが、努力を惜しまない性格だったようです。

瞬間的に脚光を浴びたハングリー選手ですね。




キース・キャンベル。(番外編vol.370)

2013年10月22日 08時51分52秒 | Weblog
西ヨーロッパを中心に広まったバイクレースにあって、遠く離れた

オーストラリアからの参戦を果たした「キース・キャンベル」選手ですよ。

彼は幼い頃からオートバイレーサーに憧れており、

小さな国内ダートレースを経てヨーロッパに移住します。

50年よりエリア選手権、WGPスポット参戦をこなし、

57年、ついにモト・グッツィ・ファクトリーチームからWGPに参戦します。

そして見事にデビューイヤーで350ccクラスチャンピオンに輝きます。

これはオーストラリア人として初のタイトルとなります。

翌年、58年は名門ノートンチームに移籍し、

350cc、500ccクラスからW参戦。

序盤、順調に表彰台をゲットしていくのですが、フランスGPの350ccクラス優勝後、

後に行われた500ccクラスのレース中、高速コーナーでクラュシュ。

帰らぬ人となってしまいます。

事故直前、2位を大きく離しコースレコードを樹立する速さで走っていたのですが、

コックス・コーナーと呼ばれる高速カーブを曲がり切れずにコースアウトしたのが原因です。

前年に結婚したばかりで、享年27歳でした。

昨日のルパート・ホラース選手と同様に安全面での配慮があまりなされていなかったこの時代、

こういった不幸な事故が多発していました。

特に優秀な選手に襲っていたようです。

ある意味、バイクレースは今の選手よりかなり度胸がないと出来なかった時代なんですね。

残念です!




ルパート・ホラース。(番外編vol.369)

2013年10月21日 09時03分31秒 | Weblog
50年代に活躍したオーストリア人ライダーの「ルパート・ホラース」選手ですよ。

終戦後からヨーロッパで行われていた各国のエリア選手権に出場しており、

この頃の功績を認められてドイツのオートバイメーカー「NSU」から、

WGP125cc、250ccクラスへのデビューを果たします。

53年はどちらもスポット参戦だったため総合タイトルは10位前後となっていますが、

翌年54年からは完全なフル参戦を果たし、

序盤、5戦中4戦優勝という圧倒的な速さを見せつけましたが、

第7戦イタリアGPの予選中、クラッシュにより死亡。

享年23歳という若さでした。

54年のWGPは全8戦行われており、

本人はもうこの世に存在しておりませんでしたが、

125ccクラスで総合チャンピオン、250ccクラスでも総合2位を獲得。

皮肉にも死んだ後にこのタイトルを獲得することになります。

生きていればその後も間違いなく活躍していた人物だったですね。

50年代、60年代という時代はこういった選手が多く、

「さぁこれから」っていう時に事故で亡くなってるケースは少なくありません。

安全面での配慮があまり良くなかったことや、ほとんどがサーキットでなく、

一般道で開催されていたことにその要因があるようです。

「ルパート・ホラース」選手、とても残念な選手ですね。