(半紙)昨日午前中の書道教室で書いた木簡。集字千字文より。でで~んとした感じに書きたいんだけど、原本がおとなしいから・・と、Kさんがおっしゃるので 原本はこれ↑ (追記で添付しました)いえいえ、原本に罪はござんせん。そう書きたいと感じたら、ビビビと響いてくるのでして 原本が全てではなくて、それをヒントに何を表現したいか、それ、きっと大事ある。 人と人の関係もきっと同じ。自分にはわからない自分もいるわけで。相手がいて、気づく自分っていうのもあるわけで。書するというのは、人生のヒントも教えてくれるなり
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>原本が全てではなくて、それをヒントに何を表現したいか、
そうですよ、ソコまで行って表現できれば、どんなにいいだろ~。
>自分にはわからない自分もいるわけで。
相手がいて、気づく自分っていうのもあるわけで
まさに夕べのうさぎです。
短いこの文章に言い尽くしてくれているようで改めてココに導いてくれた何かの偶然に感謝ですよ。
とても大切な事だと思ったものですから、承諾も無いのにすみません。
「夕べのうさぎさん」のどこかに・・響いて頂けて光栄です
あ、拙記事でよろしければ、どうぞどうぞ
古典の臨書ではなく先生の書いた手本を臨書していたので、
教室での臨書の学び方を知りませんでした。
最近web上で少しずつ皆さんの稽古の様子を見ているうちに
疑問に思ったのですが、教室で古典の臨書をする際に
先生がお手本を書かれるのはなぜなのでしょうか?
何だか古典(=お手本)とお手本で目が回っちゃいそうです
トンチンカンな質問ですみません。。。
>古典の臨書をする際に先生がお手本を書かれるのはなぜ・・?
私の師がおっしゃっておられたのは、書は手習いというけれど、目習いも大事、と。
書いている姿勢、呼吸、筆遣い、間合い・・といったものは、実際に書いている姿を見ないとわからないわけで
私は古典の原本を見ながら、先生が書いて下さったお手本からヒントを頂きながら書くという勉強法でした。
臨書は書き手によって解釈も違いますが、まずは先生のお手本から古典を読み取るというのも、ひとつの勉強方法かなって思いますう