チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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朝日廃刊を目指す:<民主主義思想は、魂のない宗教>

2014-09-02 19:00:10 | 民主主義

 今回のテーマは、宗教心についてです。 宗教を否定している、共産主義国家は、別にしても、信教の自由を認める、民主主義国家においても、宗教は、片隅に追いやられ、人々の宗教神は、薄れてゆくばかりです。

 人類史とは、宗教史であったことを、知らなければ、なりません。 その心が、何であったのかを、わからなければ、我々は、物事を、正しく判断することが、出来ないのです。

 宗教心の衰退が、いま我々を、限りなく、物質的な思考に陥らせ、また矮小化させています。

 宗教心が、わからなければ、我々は、人類史から、何ものも、学びとれません。 だからこそ、我々は、宗教心を、呼び醒まさなければ、ならないのです。

 それを、妨げている者が、科学思想に支えられている、民主主義思想です。

 歴史を振り返ってみると、世界3大宗教と呼ばれる、キリスト教、イスラム教、仏教は、厳しい戒律を持った宗教の中で起こった、民主化運動と、理解することが、出来ます。

 シリア文明から生まれた、戒律が、厳しいユダヤ教を中心とした、厳格な、古代宗教の世界で生きる、人々に対して、『赦し』と『情愛』の部分を、大幅に付け加えたのが、キリストであり、マホメットであった。

 また、バラモン教の厳しい身分差別と階層社会の中で、暮らす人々に対して、自由、平等、博愛の精神の必要性を説いたのが、釈迦です。 従って、3大宗教は、その出自からして、民主主義的な思想を、含んでいるのです。

 つまり、それらが、生まれた時代は、厳しい道徳的なものが、社会を、身動きできないほどに、覆っていた。 だからこそ、人間が、何とか、生きるためには、確かに、3大宗教的なものが、必要だった。

 しかし、肝心なところですが、現代の民主主義思想は、その3大宗教の、『赦し』と『情愛』の部分だけを、「思想化。」したものなのです。

 このことは、ミルジア・エリアーデの『世界宗教史』や、マックス・ウェーバーの『宗教社会学』などの、理論を持ち出すまでもなく、宗教を、少し研究すれば、すぐに、分かることです。

 民主主義の、『たち』の悪さは、ここに『起因』しています。 それは、そこにあるのは、『赦し』と『情愛』だけですから。

 神が、命じている、『犠牲』や『献身』は、そこには、ありません。

 そして、それらは、人類が、生み出した偉大なる宗教の中にある、思想だということは、つまり、『真理』だ、とうことなのです。

 20世紀最大の新学者カール・バルトも、また文明論を創始した歴史家、アーノルド・トインビーも、そういっています。

 バルトは、そう感じたからこそ、『原歴史』と、彼が、名付けた、「神の国へ、戻らなければ、ならぬ。」とは、そのような謂いなのです。

 また、トインビーも、「宗教の持つ、本源的価値に戻らぬ限り、文明世界に未来はない。」と言っているのは、そのような意味合いなのです。

 3大宗教は、すべて、自由・平等・博愛という、赦しの宗教です。 つまり、厳しい戒律に、その『赦し』の部分を、付け加えたものが、3大宗教なのです。

 それは、もちろん、人間にとって、必要な精神です。

 だからこそ、民主主義は、「たちが悪い。」のです。 自由。平等・博愛は、宗教真理であり、否定できないからです。

 本当の宗教というのは、その上に、神がいて、きびしい、『戒律』があり、人間に対して、その生活の隅々に至るまで、検診や犠牲を求めていた。

 その厳しい部分を、そぎ落としたのが、民主主義思想なのです。 つまり、「いいとこ、どり。」ですね。

 厳しさを除いて、それでいて、歴史的正当性の則した、宗教的真理に根差したことを、実践している気分になれる。

 エリアーデやロジェ・カイヨワの指摘を待つまでもなく、「聖なるもの。」を権限できるのは、厳しさのある、宗教だけだったはずなのです。

しかし、民主主義が、神の名の下にあった、その厳しさを、科学思想で、除いた上、その「正しさ。」を保証してくれたのです。


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